甲斐ある仕事
ミドリは厩舎に戻り、どうにか捕まえてきたシルバーライトの体を洗っていた。
昨日までの担当馬はシャワーをかけると気持ち良さそうにじっとしていたが、こちらの葦毛さんはシャワー中も落ち着きがない。首をグオングオンと大きく上下に動かしたり、ブルルと体を震わせて何度もミドリの顔に水滴をぶっかけてきた。
体を洗い終わり、タオルで顔を拭いてあげようとすると、そのタオルを咥えてまるで玩具のように振り回し始めた。まるで大きな子供だ。まあまだ二歳なので子供であることに間違いはないが。
寝床の馬房に帰そうとした時も、そのまま通路を進んで例の牝馬に会いにいこうとした。
「コラ! 私だって女の子なんだぞ!」
ミドリが珍しく怒気を放つと、シルバーライトがちらっと彼女のほうに視線を向けた。ミドリはここぞとばかりに馬を引っ張っていく。
馬を馬房に帰してから、ご飯を用意した。数種類の配合飼料を混ぜ合わせたもの。
シルバーライトが食事をしている間、ミドリは馬のたてがみを撫でつけながら話しかけた。
「ねえ、あなたはどうして人を乗せるのをあんなに嫌がるの?」
シルバーライトは黙って餌を食べ続けている。
「前に怖い思いをしたことでもあるの? それとも……」
ミドリは白く美しい毛並みをそっと撫でていく。
白い馬、葦毛と呼ばれる毛色を持つ馬は、全体から見ると数が少ない。白はとても目立ち、戦時中は標的となりやすかったために、良い血のみを残して数が減ってしまったと言われている。
この馬の名前はシルバーライトだ。陽光を浴び銀色の光を放って走るこの馬の姿は、きっととても美しいものだろう。
どうにかこの馬をレースに出させてあげたい。勝てなくたっていい。とにかく力を出して走り、多くの人にこの馬の走る姿を見てもらいたいと思った。
この日、ミドリはシルバーライトの絵を描いた。勤務終了後もシルバーライトの馬房の前に陣取り、筆を走らせる。
ミドリは、馬の絵を描きそれをSNSに載せて馬を紹介するということを行っている。誰かの指示ではなく、自分の意思でだ。世の人にもっと馬の良さを知ってもらいたい。絵も馬も好きな自分が、できること。そう思って始めた行為だ。
「今日から新しく担当になった葦毛のお馬さん。暴れん坊で、女好き」
ミドリは絵に一言添えるコメントを考えて口に出してみた。
当の本人、いや本馬であるシルバーライトは、退屈そうに欠伸をした。
「いつかこの子がレースに出る日を夢見て」
シルバーライトは寝わらの上にごろんと転がった。
「よし、できた」
ミドリは絵の描かれたスケッチブックを持って馬房の柵に近づいた。
「どう? あなたの絵だよ」
ミドリは描いた絵を見せてみた。するとシルバーライトが立ち上がり、彼女のほうに近づいてきた。
シルバーライトは興味深そうに絵を眺めた。馬の視覚は人とは異なり、赤い色が見えづらいと言われる。目が顔の側面に位置するため、視界は三百六十度近くある。彼の目にこの絵はどう映っているのだろう? まさかそこに自分の姿が描かれているとは理解できないだろうが。
突然シルバーライトがスケッチブックにかじりついた。
「あっ!」
シルバーライトはスケッチブックを咥えて馬房の中に持っていってしまった。
「ちょっと、返して!」
彼女は再び悪戦苦闘を繰り返すはめになった。
この日SNSにアップしたシルバーライトの絵には、普段より多くのコメントが届いた。その大部分は、ミドリとシルバーライトへの励ましの声だ。
夜、ミドリは自室のベッドの上でそれらのコメントを眺めながら、長かった一日を振り返った。
体はすごく疲れてしまった。普通の馬を担当する時より何倍も疲れたような気がする。けれど、そこにはどこか充実感のようなものも感じられた。なんだか世話を焼きたくなる馬なのだ。実は今もちょっと心配で、様子を見に行きたいぐらいである。まるで自分に子供ができたかのように。
翌日、ミドリはいつもの出勤時間よりさらに早く厩舎に入った。シルバーライトに会うことが待ち遠しかったのだ。
しかし、シルバーライトのいる馬房の前に、一人の先客がいた。
サノ・カズマ騎手だった。
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