英雄、色を好む

 早朝、未明。ミドリは恐る恐るといった感じで、厩舎の通路を進んでいた。

 遠くのほうから、カッ、カッ、とひづめが床を打つ音が響いている。姿を見る前から既にプレッシャーを与えられている。

 見えた。馬房の入り口から顔を出し、前掻きをしてエサの催促をする葦毛の馬の姿が。

 調教師のミズタニからの指示で、ミドリは今日からこのシルバーライトの世話を担当することになった。決して良い噂は聞かない馬である。しかし担当するからにはしっかり面倒を見てあげたい。ただその思いに反して、通路を進むミドリの足取りは重い。

 ミドリはゆっくりと慎重に、シルバーライトに近づいていった。彼女の存在に気づいたシルバーライトが微かに首を向けた。足元ではまだ前脚で音を立て続けている。

「おはよう。今日からあなたを担当させてもらう、オクムラ・ミドリです」

 馬相手に丁寧にそう言って笑顔を作ろうとしたミドリだが、気持ちに無理があるその顔は引きつってしまっていた。そんな彼女をシルバーライトがじろじろと睨んでいる。

 馬は基本的に大人しい利口な生き物だ。そうでなければ人間はその背中に跨って走ることなど考えなかっただろう。レースで競う品種の競走馬たちは、通常より闘争心が必要となるが、それでも大人しい生き物であることに変わりはない。一部の気性の激しい馬を除けば。

 ミドリはシルバーライトにさらに近づいていく。ニンジンみたいな細長い顔。尖がった耳は人とは違い顔の横ではなく上についている。顔の先端に二つの大きな鼻の穴。雪のように白い毛並みだが、鼻の部分はピンクがかっている。意外にもクリッとして可愛いまあるい目だ。

「今からあなたのお家に入りたいと思うんだけど、どうかな?」

 馬が人語を理解するわけではないが、ミドリはこういった馬とのコミュニケーションを大切にしていた。人間だって、初対面の相手が許可なくいきなり自分の家に入り込んできたら拒絶するだろう。

 シルバーライトは前脚を床に打ちつけるのをやめて、興味津々といった様子でミドリを観察している。人間の二倍ぐらいの大きさの顔に間近でじろじろ見られると、少し怖い。

「じゃあ、今から中に入るよ。お願いだから、いきなり蹴り飛ばしたりしないでね」

 そう言ってミドリは慎重に馬房の中に入っていく。

 ミドリが馬房の中に足を踏み入れると、シルバーライトが激しく反応した。後ろに下がっていき、前脚と後ろ脚を交互に上げて跳ねるような動作を繰り返す。

「えっ、ちょっ」

 ミドリが戸惑う間も、シルバーライトは馬房の中を動き回って飛び跳ねている。驚いたり怖がったりしているというより、興奮しているように見える。

「ごめん、ごめん、一回出るね」

 ミドリは馬房から出て、距離を取った位置に移動した。

 しばらくするとシルバーライトは落ち着いて、馬房の柵からちょこんと顔を出してきた。ペロペロと舌を出し入れしている。

「どうしたの? 大丈夫?」

 そう訊かれたシルバーライトは、もちろん答えない。じっとして、何かを待っているように見える。

「いいのかな、入って」

 ミドリはもう一度馬房の中に入った。

 するとそれを見たシルバーライトがまたもや飛び跳ね始めた。

「えっ、なに?」

 日の明けない早朝から、騒がしい音が厩舎中に響く。シルバーライトが動き回るせいでわらの粉が大量に宙に舞っている。

 よくわからないが、怖がらせているわけではないと判断して、ミドリは馬が落ち着くのを待った。

 やがてシルバーライトが飛び回るのをやめた。ミドリのことは無視して体をぶらぶらと動かしている。

「あの、じゃあ、失礼します」

 ミドリは馬房の入り口からゆっくり奥へ進んでいった。

 ミドリが近づいていくと、シルバーライトが斜に構えるように顔を向けてきた。お尻を向けられなかったので少し安心。馬の必殺技は、背後から近づく者への強烈な後ろ蹴りだ。人間がまともに喰らえば、場合によっては命に関わる。

「私はミドリ。これからよろしく」

 ミドリは右手を伸ばして、シルバーライトの首に優しく触れた。馬は嫌がったりはしなかったが、少しくすぐったかったのか、首をぶるぶると震わせた。

 近くで見ると、シルバーライトは大きかった。昨日まで担当していた馬より一回り大きい。500kgは超えていそうだ。大きく、筋骨隆々で、速そうというより強そうという印象。まだ黒の混じった葦毛だが、年齢を重ねるともっと純白になるはずだ。あるべき場所にあるべきものを確認できたので、正真正銘の男の子である。

 これまでこの馬に関していろいろな噂を聞いてきたが、そこまで悪癖のある馬ではないように思えた。ミドリが検温したり馬体を確認している間も、首をガクンガクンと上下させたり妙なステップを踏んだりはしたが、拒絶したり暴れたりするようなことはなかった。ただ元気のあり余っているやんちゃな男の子だ。

 それから調教を始めるために、馬体に馬具を取りつける段になった。これがやや苦戦した。

 背中に鞍をつける時も動き回ってなかなか言うことを聞かないし、一番大変だったのはハミだ。

 ハミは馬の口に咥えさせる棒状の金属。このハミは手綱と繋がっていて、人間は手綱でこのハミに力を加えることにより、馬の動きをコントロールする。

 馬の口には、前歯と奥歯の間に歯のない隙間がある。ハミはその隙間に咥えさせるのだが、シルバーライトはなかなかハミを咥えてくれない。一度咥えかけても、首を振り動かして逃れようとする。断固拒否の姿勢だ。

「そうだよね。本当はこんなもの咥えたくないよね。私だって嫌だもん」

 ミドリはシルバーライトの首を擦りながら、馬の気持ちに共感を示す。

「だけどね、男にはやらなきゃいけない時があると思うの。そういうことで、どうかな?」

 そんな言葉が馬に通じるはずもなく、その後五分ほど悪戦苦闘を繰り返してようやくハミをはめることができた。

「よし、それじゃあ行こうか。朝の訓練だよ」

 シルバーライトは外に出られることが嬉しいのか、ミドリが手綱を引くまでもなく自ら進んで馬房から出た。

 そのまま厩舎から出たいところだったが、シルバーライトは入口とは反対の方向へ進んでいこうとする。

「ちょっと、ちょっと。どこ行く気?」

 ミドリは半ば引き摺られるようにして馬に引っ張られた。子犬の散歩とはわけが違う。相手は0.5トンにもなる体と馬力の持ち主だ。

 シルバーライトがやってきたのは、ある牝馬の馬房だった。のっそりと顔を出したシルバーライトを目撃して、中で馬の世話をしていた厩務員が驚いて飛び上がった。

 シルバーライトは馬房の柵越しに牝馬を眺め、唸るような声を出している。彼の唐突な訪問を受けて、牝馬のほうはやや引き気味だ。

 なるほど。このシルバーライトはただやんちゃなだけじゃない。やんちゃで女好きな男の子なのであった。

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