第一章 銀色の暴れ馬
ある厩務員の一日
オクムラ・ミドリの朝は早い。まだ夜も明けない時分から彼女の仕事は始まる。
競走馬たちのいる厩舎に入り、担当している馬の馬房まで進んだ。ミドリが顔を覗かせると、馬房の中の栗毛の馬がゆっくりと近寄ってきて顔を出した。
「ふふっ、おはよう」
ミドリが馬の鼻筋の辺りをかいてやると、馬がミドリの手をペロペロと舐めた。
馬房に入り、スキンシップをしながら馬の状態を確認して、体温を計る。馬の健康管理はとても重要だ。寝わらに付着した排泄物も健康指標の一つである。
馬体に異常がないことを確認できた後は、毛並みを整え、馬具を装着していく。ホルターに鞍、そしてハミ。競走馬はペットではない。レースに出走して勝たせることを目的に育てられる。スポーツ選手のように、勝負の世界で生きる動物だ。そこには時に虚しさも付きまとう。言葉を話せない馬たちが何を望んでいるのか、それを人が真に理解することはできない。
準備ができたら、調教に向かう。手綱を引き、馬を連れて厩舎から出る。ようやく日が昇り始めた頃合いだ。
ミドリも乗馬は可能だが、競走馬の調教を行ったことはない。担当の調教師と騎手に馬を預け、ミドリは馬房の清掃に向かう。
馬房に敷かれた寝わらを汚れたものとそうでないものに分けていく。馬の排泄物にまみれた寝わらもすぐ廃棄されるわけではなく、肥料として専門の業者に引き取られる。
馬房の清掃を終え寝わらでふかふかの馬のベッドが完成したら、馬の調教の様子を見に行く。厩舎に併設されているトレーニング場だ。
朝早くからたくさんの馬と騎手たち、調教師やマスコミ関係の人間までいる。
ミドリが担当している馬の調教を見守っていると、ある一角から大きな声が響いた。
そちらに目を向けると、白と黒が混ざったような
「やれやれ」
「またあいつか」
周りから呆れと落胆の声が聞こえる。
その葦毛の馬、「シルバーライト」は二歳で、デビュー戦を控えている競走馬だった。しかし調教を繰り返すにつれ人に反抗するようになり、折り合いがつかずレースに出られるような状態ではない。人を乗せて走ることが競馬のルールなのだから。馬主や調教師も頭を悩ませている一頭だった。
数人で取り囲んでシルバーライトをなだめようとするが、それがかえって馬を興奮させているように思える。体の大きさは違うが、人が何頭もの馬に囲まれて圧をかけられたら、それは怖いだろう。だからといって他の馬との接触で事故に繋がりかねないので、野放しにもできない。
自分なんかが出ていって何かできるわけではないと思うが、ミドリはシルバーライトが心配だった。なんとかしてあげたい。しかし結局ただ状況を見守っていることしかできない自分がいた。
調教師が落馬した騎手から話を聞いている。騎手の体はひとまず大丈夫そうだ。その近くではシルバーライトがまだ暴れている。
その時、ミドリはスタンドから真剣な眼差しでシルバーライトの様子を眺めている人物に気づいた。
見覚えのある顔。というより、この世界ではかなりの有名人だ。名馬とともに数々のレースを勝利してきた、サノ・カズマ騎手だった。
ミドリは調教を終えた担当馬の体を洗っていた。ぬるま湯をかけながら自分の体を洗う時よりも丹念に馬の体を洗っていく。馬はたてがみもあるし、かなりの汗をかくので、体は清潔にしてあげないといけない。ミドリに洗われることがよほど気持ち良いのか、馬は恍惚の表情だ。
しっかり水滴を拭き取り、馬房に帰した後は、ようやく食事の時間だ。もちろん、馬の食事である。ハンバーガーのセットではなく、その馬の体調や好みに合わせた配合飼料を与える。
これでようやく、未明から続いていた厩務員の仕事は一段落だ。
ミドリは競走馬のトレーニング場の外周に設置されているベンチに座り、絵を描いていた。
彼女は昔から絵を描くのが好きで、空いた時間にこうやって穏やかな気候の中筆を走らせるのが至福の時だ。
今描いているのは、馬の絵。しかし普通の馬ではない。背中に翼の生えた、天馬の絵だった。
幼いころに見た流星群の夜の光景が、ミドリを馬と関わる仕事に向かわせた。あの日の出来事は今も強く心に焼きついている。
ミドリが絵を描きながらゆったりと過ごしていると、近くをランニングしている人物が目に入った。
サノ・カズマ騎手だった。
彼の姿を認めて、ミドリは複雑な心境になる。ミドリは直接カズマと言葉を交わしたことはないが、彼の身に起きた出来事を知っている人間ならみな同じ気持ちになるに違いない。
あの日以来、彼は一度もレースに出ていない。彼が大きな怪我を負ったという話は聞かない。だとすれば、傷ついたのは体ではなく心のほうなのだろう。
ミドリの存在に気づいたカズマが、走りながらちらっと彼女のほうに視線を向けた。一度はそのまま行き過ぎようとしたが、考え直し息を整えながら歩いてミドリのほうに向かってきた。
ミドリにさっと緊張が走る。元々内気で他人との対話が得意なほうではない。それに相手は、誰もが知るスター騎手だ。ミドリはスケッチブックを上げて半ば顔が隠れるようにしたが、明らかに不自然な挙動だろう。
「絵を描いているんですか?」
男性としては少し高めの声。レース時のきりっと引き締まった表情と違い、人懐っこい笑みを浮かべてカズマが話しかけてきた。
ミドリは、スケッチブックを抱くように抱えながら小刻みに首を上下させて肯定の意味を示すことしかできない。
「見てもいい?」
まさか初対面の相手、それもスター騎手に絵を見せるなんて考えたこともない。といっても、ここで断るのも変だ。興味を持ってわざわざ話しかけてくれたのだから。
ミドリは自分の顔が熱くなるのを感じながら、スケッチブックの絵の描かれた面をカズマに向けた。
「あっ。これは」
カズマは意外なものを見つけたような表情になった。この場所で働いている以上馬の絵を描くことはなんら不思議ではないが、ミドリが描いた馬には翼が生えている。
「あ、あ、あの。一度、見たことがあるんです。ち、小さい時に」
声は震えているし、説明も不足しているように思える。しかしカズマはミドリを馬鹿にするような態度は微塵も見せなかった。
「へえ」
カズマは真剣な眼差しで絵を眺めながら、何かを考えている。そんなにまじまじと見られたら、恥ずかしい。
「ありがとう」
一通り絵を見終わったカズマが優しく微笑んだ。ミドリはおどおどしながらも彼の微笑みをしっかり目のシャッターに収める。これで今日はちょっと特別な日になった。あのカズマ騎手と言葉を交わせたのだ。
お礼を言ったカズマがランニングに戻ろうと背中を向けた。ミドリは思わずその背中に向かって声をかけていた。
「あの、カズマさんは、もうレースに出ないんですか? 馬には乗らないんですか?」
背中を向けているカズマの足が、ピタッと止まった。
言ってしまってから、ミドリは自分の発言を後悔した。思慮に欠けた言葉だった。
カズマは向こうを向いたまま、立ち尽くしている。
騎手として馬に乗るためには、かなり厳しい体重制限を強いられる。この業界での常識だ。カズマは成人男性の平均身長ほどあるが、騎手としては高い部類だろう。カズマがランニングを行っていたので、もしかすると再び騎乗するために体を絞っているのではと考えてのミドリの発言だった。
「あ、あの、すみません! 出しゃばったこと言ってしまって」
ミドリはカズマの背中に向かって謝罪の言葉をかけた。
カズマはミドリのほうは振り向かず、数秒後何も言わずに走り出した。
その彼の背中は、とても寂しげに見えた。
ミドリが絵を描くのを終えて厩舎のほうに戻ってくると、調教師のミズタニ・コーヘイに呼び止められた。どうやら個人的な話があるようだ。
ミズタニは確か五十歳前後で、海が似合いそうなやや色黒の肌。若干強面ではあるが、長く接しているとそこまで怖い人間ではないとわかる。几帳面で少し口煩いところはあるが。
「ミドリに頼みがあるんだ」
ミズタニは言い辛そうな表情で言った。一体何の話だろう? なんだか嫌な予感がする。
「実は、あの葦毛の馬、シルバーライトを担当している厩務員が怪我をしてしまってね。大きな怪我ではないが、大事をとってしばらく休ませたい。いや、というより……」
ミズタニはなにやら言い淀んでいる。
シルバーライトといえば、近ごろ連日のように暴れている利かん坊だ。今日の調教時もその姿を目撃していた。
「正直に言おう。担当者が、シルバーライトの世話を辞退したいと言ってきたんだ。知っての通り、あの馬はなかなか言うことを聞かない奴でね」
そこまで聞いて、ミドリの予感は確信に変わりつつあった。
「きみの担当している馬は、明日から違う者が面倒を見る。手が回らなければ俺も手伝うつもりだ。それでミドリには――」
ミドリは眩暈がして、後ろに倒れていきそうな気分だった。
「明日からシルバーライトを担当してもらいたい」
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