月の押印はおされず

紫鳥コウ

月の押印はおされず

「ねえ、起きてる?」


 杏湖きょうこの声は、窓を叩く飄風ひょうふうのせいで、かすれていた。そして、暗が澄んだ寝室の障子は、かすかにあかるくなっている。ひんやりとした静けさが、この部屋にはあった。


「今日の朝は雪かきをしないとな」

「だから、寝たいの?」

「うん、ぼくは半分寝かかってる」


 こよみの言葉は沈んでいた。音をたてずにあくびをするほどに。


「あなたはいいわよ。ここで育ったんだから」


 深い静けさのまゆを、凍てついた息吹が揺する。それは、杏湖をすっかり寂しくさせるのには充分だった。


「退屈なことを考えればいいよ。杏湖がいままで読んできたなかで、一番つまらなかった本のこととか」


 あと一息で、暦は眠ってしまうのだろうと、杏湖は察した。


 もちろん、朝早くから雪かきをする暦のことを考えると、寝かせてあげたかった。しかし杏湖は、一睡もできないであろうことを予感していたから、まだ起きていてほしいというのも本音だった。


「杏湖は、遅くまで寝てていいよ。母さんたちに言っておくし、そんなことで怒るような性格でもないからさ」

「そんなことできないわよ。わたしの身にもなって」

「と、言われてもなあ」


 暦はあくびをかみころそうともしなかった。


   ――――――


 すでに寝てしまったこよみの隣で、杏湖は、うなり続ける吹雪に、あえて耳をかたむけていた。


 眠気が失してしまうと、心身の空虚に不安が流れこんでくる。これから自分は、彼のさとで生活を続けることができるのだろうか。そうした戸惑いが、杏湖きょうこのこころを軸に、惑星の軌道のように周り続けていた。


 ――しかし、考えることに疲れてしまうと、杏湖は寝息をたてはじめた。


 眠りは浅かった。次に目を覚ましたときにも、杏湖の双眸そうぼうには、先ほどと変わらない暗が、ありのままにうつっていた。


 変わっていたことといえば、あのこころをかき乱す吹雪が、止んでしまっていたことくらいである。


 杏湖はふと、外の景色が気になった。それは、どれくらい雪が積もったのかを見たかったというより、横になり続けていることの息苦しさのせいだった。


 かすかに光った障子をあけると、あおじろい月が、まっさらな星のそらに浮かんでいた。


判子はんこをおしたような月ではないのね」


 杏湖はそう呟くと、今日はもう眠れないと覚悟をきめた。


 そして、椅子を窓ぎわまで持っていき、もう一枚上着を羽織り、じっと月を眺めはじめた。

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