夜の海の誘惑
特に目的地はなかった。だからここに来たことも、本当にただの偶然だ。あてもなく走らせた車が行きついた先は、真冬の冷たい海だった。
昼間に来れば、きっと綺麗な青い色をしていたのだろう。しかし、日もすっかり沈んでしまった今、この海は真っ黒に染まっている。まるで闇が、僕を呼ぶかのようだ。
何があった訳ではない。たぶん人と比べれば順調な人生を送っている方なんだと思う。優秀というわけではないが、可もなく不可もなく、平凡な毎日。会社には軽口を叩くことの出来る頼れる先輩と、ちょっと抜けているところがあるが何事にも一生懸命な後輩に囲まれて、身の丈に合った責任感の中で働いている。小さなミスがたまにはあるものの、取返しのつかない失敗をしたこともない。会社での評判も問題ないだろう。私生活だって確かに恋人はいないが、気軽に飲みに誘うことの出来る友人がいる。どうしても恋人がいないと生きていけないという性分でもないから、たまにバカ騒ぎできる仲間がいれば心は満たされている。両親も健在。今まで育ててもらった中で、十分に愛情をもらったことを実感している。つまり僕の人生は、恵まれている方なのだ。それは分かってる。
分かっているのに、なぜか唐突に焦燥感にかられることがある。
僕は何のために生きているんだろう。僕は何が出来ているんだろう。何をするべきなんだろう。
そんなことを考えて、思考の渦に巻き込まれてしまうことがある。そういう時、僕はただただ何も考えずに都心の夜の街に車を走らせるのだ。
誰もいない砂浜を歩き、波打ち際にしゃがみ込む。波が履き潰したスニーカーを容赦なく濡らすが、気にする暇はない。目の前の闇に吸い込まれていくような感覚に身を任せて手を伸ばす。
指先が水面に触れる。それは痛いくらい冷え切っていた。だというのになぜか危機感は現れない。むしろ安心を覚えるくらいだ。このまま何も考えずに沈んでいけたら。
ひと際大きい波がやってくる。砕けて水しぶきをあげ、服のいたるところに跡をつけた。
ふと、波がやってくる方へ視線を向ける。すると闇だと思っていた世界に、点々と小さな光が浮いていることに気が付いた。先ほどと変わらない景色のはずなのに、やけに輝いて見える。
波の音がする。どれくらい眺めていたんだろうか。立ち上がった頃には足はずいぶんと痺れていたし、スニーカーはびしょびしょになっていた。それでも。
もう一度、頑張ってみようか。
自然と前を向くことが出来た。夜の海には、昼間に感じるパワーや無邪気さはないけれど、月や星に照らされて静かに煌めき、寄り添ってくれるような優しさが漂っていた。
きっと、この景色を見ることが出来る内は大丈夫。もう少し、頑張ってみよう。
ワードパレットの短編集 しあ @shia_atwon
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