幸せへの夕暮れ

 もうすぐ日が暮れる。確かに時間はかかると思っていたが、やはり夕方になってしまった。

 今日は半休をもらっていた。一緒に住んでいる彼女には伝えていない。定時で帰ると言って出てきたが、きっと残業で遅くなると思っているだろう。僕が一週間残業続きだったのは、今日この休みを勝ち取るためだった。そうをしてまでも行かなければならないところがあったのだ。

 昼休みの始まりを告げるチャイムがなると同時に、端末をシャットダウンし鞄を取ってフロアを出る。事務の子が不思議そうな表情をしながらこちらを見ていたことは気づいていたが、それを気にしている場合ではない。この一か月の間、調べ続けてやっと決めた店舗に向かう。目的地は銀座。他の人がどうかは知らないが、僕にとっては背伸びが必要な場所だ。

 店の扉を開けると、皺のないスーツを着こなし白い手袋をした店員が、爽やかな笑顔で僕のことを出迎えた。とてもじゃないけど場違いだなと思う。世の中の先輩方に頭が上がらない。こんな緊張感の中、彼女に一番似合うたったひとつを選ぶなんて、どんなプレッシャーだ。

 店員は慣れたように様々なものを提案してくれるから、僕も彼女の性格や人柄をぽつぽつと伝える。あまり普段から装飾品をつける方ではない、派手なものよりシンプルなものが好き。素朴で、柔らかな日差しに包まれながら読書する姿がとても美しい彼女のことを。

 僕がまだ大学院生だった頃に結婚して、二人での生活は今日十年を迎えた。自分の生活くらいは維持することができても、結婚するには貯金も収入も足りない。そんな僕なのに、これからも一緒に過ごしていきたいと彼女は願ってくれた。「出世払いでお願いね」だなんて冗談めかして僕を支えてくれる頼もしい彼女の思いに応えようと思ったら、結婚することを決めるのは簡単だった。そして博士号をとり就職している今、僕は彼女に出世払いをすることができる。あの時できなかったことを、この十年目という節目にしてあげたいと思うのだ。

 彼女と違って僕は伝えるのが上手ではないけれど、一流である目の前の店員はそんな僕の話をかみ砕いて理解してくれた。そして僕から聞いた彼女のイメージに合うものを、いくつかショーケースから出してくれる。どれも確かに彼女にぴったりだった。けれど、その中のひとつが僕の視線を独り占めする。華やかではあるが主張しすぎずでも確かにそこに存在している、まるで僕の中の彼女のようで、思わず見惚れてしまった。

 綺麗なお辞儀をして見送ってくれる店員にお礼を告げ、店舗を後にする。選ぶまでに時間をかけてしまったが、満足いくものを手に入れることができた。あとは何を用意しよう?彼女が今日は少し豪華な料理を作ると言っていたから、たまには高めのワインでも買ってみようか。葡萄の種類や産地などは僕には全然わからないのだけど。

 特別なことは二人とも得意ではないから今までしたことはなかった。でも今日ぐらいはちょっと張り切ってみても許されるだろう。夕暮れの日差しに包まれながら、いつもより早足で帰路についた。

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