第3話 やきもち

 件の飲み会から2週間後の金曜日。

「武藤さん?」

 廊下で呼び止められて、武藤は振り返った。見たような、見たことないような……。

「隣の課の──ですけど」

「ああ……」

 長崎の同僚か。「お疲れ様です」

「お疲れ様ですー。こないだは飲み会来てくれてありがとうございました」

「いえ、こちらこそ。呼んでいただいてありがとうございます」

「楽しめました?」

「ええ」

 武藤は肯いた。楽しんだ。そうとも。酒の席で交わした長崎との会話は楽しかった。その後の事について……実はまだ感情を決めかねているのだけれども。

「飲みの席って嫌いじゃなかったりしますか?」

「まあ、そうですね」

「だったら、俺で嫌じゃなかったら、なんですけど、今日夕飯とかどうです?」

 人懐っこい──媚びると言い換えることもできる──笑みを浮かべて相手はそんな誘いを掛けた。ぎくりとする。もしかして、長崎が話したのだろうか。何が起きたかを。でも、それを知ったからと言って食事に誘うのはどう言う了見なのか。なんとなく、相手の笑顔の中に嫌な物を感じて、武藤は断ろうかどうか迷う。

「それとも、長崎くんと約束していたりしますか?」

「いいえ」

 やや喰い気味とも言える勢いで否定する。

「長崎さんとは何もありません」

「そ、そうですか……」

 その断り方が不自然に見えたのか、相手はやや怪訝そうにしている。その反応を見てはっとすると、取り繕うように、

「自分で良ければお相伴しますよ。今日は定時で上がれる予定ですが……」

「おっと、さすがは『仕事の鬼』」

「からかわないでください」

 武藤は苦笑した。駅の改札で待ち合わせることにして、2人は別れた。




(おやおやぁ?)

 長崎と約束があるのか、と問うて、武藤からやや強めに否定された。その勢いが何だか不自然で、彼は内心で首を傾げる。

(何かあったのかなあの2人)

 そう言えば、あれ以来社内でも親しそうにしているところを見たことがない。

(一夜の過ちとか……)

 とは言え、あの女食いが男と過ちを起こすとはとても思えなかった。と言う事は、お互いに酔って殴り合いか、罵り合いか。他部署とは言え、社員と酒で何らかのもめ事を起こした……と言うのは、あの口元を歪めた彼が知りたい情報だろうか?

(何が聞けるかな)

 彼はほくそ笑みながら、改札での約束を取り付けて廊下を歩き去った。




 そして、終業後。駅の改札にて。

「お待たせしました」

 武藤が背筋を伸ばして立っていると、あの彼が小走りにやって来た。何だか貼り付けた様な笑みで、長崎のあの柔らかい春の日差しみたいな笑みが恋しくなる。

 武藤の下の名前は「朝陽」だが、これほど自分に似合わない名前もないとずっと思って生きている。では夕陽なのかというと、そんなに温かい人間だとも思えない。精々、「落日」あるいは「新月」と言ったところだろう。冷たい人だとよく言われる。

「ちょっとお洒落なバーがあって」

「そうなんですか」

 相手の先導に、武藤は大人しくついて行った。そのバーが、先日長崎2人で二次会をした店だと言うことにはすぐ気付いたが、ついぞ言わずに扉を潜った。




 長崎はそのバーに先に来ていた。待ち伏せではない。偶然だ。

(武藤さんのことが頭から離れない)

 この、胸にわだかまる彼への興味──あるいは執着とでも呼ぼうか──がなかなか燃え尽きてくれなくて、煩悶しながらこの店に来た。あの日、飲み会の後に2人で飲んだ店。せめて武藤の記憶を鮮やかにしたくて来た。元々、あの飲み会まで全然話さなかった。話す機会がなかった。仕事上では話す理由がない。だから、終業後に一度隣に座って喋って以来、長崎は武藤と話せずにいた。

 あの時注文した酒を頼む。今日は店に頼んで、あの時と同じテーブル席に通してもらった。1人だけど、あのテーブル座らせてもらえませんか。そう尋ねると、店員は笑顔で快諾してくれた。

 からん、とドアベルが鳴る。何気なく顔を上げると、

「ここです」

 同じ部署の同僚の顔が見えた。思わず顔を隠す。こんな情けない顔で酒を飲んでいるところを見られたくない。

「綺麗な店ですね」

 けれど、その次に聞こえた声で心臓が止まるような衝撃を味わった。

(武藤さん……)

 そろり、と顔を上げると、同僚と武藤が別のテーブル席に通されたところだった。

(な、なんで……?)

 武藤はこちらに背を向けて座っている。同僚は正面に座り、何だか馴れ馴れしく話しかけていた。会話までは聞こえない。耳をそばだてる。元々話がうまいとは言えない同僚と、大人しい武藤の間で話が弾むわけもない。

(俺ならもっと楽しませるのに)

 何てことを思いながら盗み聞きを続行した。2人は下手な会話をしながら、注文した酒を少しずつ飲んでいる。

「おかわりします?」

「いえ、あんまり飲み過ぎると良くないので」

「金曜日ですよ?」

 同僚が武藤に酒を飲ませたがっている、ように思えた。

(酔わせる気? 酔わせてどうすんだ?)

 それでも武藤が自分のペースをキープしながらグラスを重ねている。同僚の方が先に酔っているようにも見えた。いや、何を焦ってるんだ、あいつ。まさか……武藤を狙っている……?

 部署で恐れられているから誘わなかったけど、長崎と飲んだから自分でも行けると思っている?

 我ながらトンデモな仮説だと思ったが、酔った頭で冷静な判断ができる筈もない。次に飛び込んできた会話も、長崎から落ち着きという物を奪った。

「そう言えば、下のお名前なんて言うんですか?」

「あさひ、です。朝昼晩の朝に太陽の陽です」

「朝陽さんって呼んでも良いですか?」

 それを聞いた時、長崎の中で強い感情が渦を巻いた。彼はグラスを置いて、立ち上がった。




「そう言えば、下のお名前なんて言うんですか?」

 目の前で早くも酔い始めた男はそんなことを尋ねる。何でこんなことを聞くのか。いや、まあ苗字しか知らない社員の名前を知りたくても不自然ではないか……と思いつつ、

「あさひ、です。朝昼晩の朝に太陽の陽です」

「朝陽さんって呼んでも良いですか?」

 どうして? 反射的に出かかった言葉を飲み込んだ。他の客が、足音高く店内を歩いている。ああ、この人相当酔ってるな……そんなことを頭の片隅で考えながら、どう断ろうかと頭を捻っていると、相手の顔色が変わった。

「長崎さん……」

 その言葉に、武藤はぱっと振り返った。その視界に入ったのは、彼が見たこともない表情をしている長崎の姿。

「なんで?」

 長崎は同僚に向かって強い口調で尋ねる。

「何でお前が武藤さんと飲んでんだよ」

「──っ!」

 その怒気に当てられて、相手の男はたじろいだ。腰を浮かし掛けて、今にも逃げ出しそうだったが、武藤を置いて行くことを思い出したのかこちらを見る。

「良いですよ。払っておきます。まだそんなに飲んでませんしね」

 武藤は苦笑して見せた。

「お前が払えよ」

「長崎さん、良いんですよ」

 いきり立つ長崎を制しながら、目で入り口を示すと、相手はあたふたと鞄を持って退散した。

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