第2話 忘れる?

 武藤さんより睫毛が長かったんだな、この人。

「長崎さん、聞いてる?」

「え? 聞いてますよ?」

「どうせ女の子のこと考えてたんだぁ」

「そんなことないっすよ。やだなぁ」

 部署内で打ち合わせをしながら、そんな軽口を叩き合う。確かに、「女の子」を「セフレ」と言う意味で言っているならその通りだ。自分は武藤と「そう言うこと」をしようとしたのだから。そうなっても良いと思った。そうなりたかった。

「どうしたの?」

「や、何でもないですよ」

「フられたの?」

 まだ始まってもいない関係でフったもフられたもない。

「いや……」

 時計を見る。

「お腹空いたなって……」


 お腹が空いた。なんか物足りない。そんな気分にずっと囚われている。性行為が半端に終わってしまって不完全燃焼なのかと思って、女の子の一人に連絡を入れて落ち合った。2人で冗談を言い合いながらホテルに入り、行為を済ませる。満足はしたけどやっぱり何か物足りなかった。

「どうしたの?」

「や、何でもないよ?」

「好きな人でもできたの?」

 好きな人。そう問われて、ふっと武藤の顔が浮かんでしまったのはどうしてだろうか。

「まあ、付き合うことになったらちゃんと言うんだよ。身体だけで本命はそっちって言われたって、やっぱり裏切りだからさぁ」

「うん」

 長崎は、彼にしては曖昧に笑った。

「そうだね」

 彼女に口付ける。目を閉じて、ふれあいを楽しんだ。

 これを武藤さんともしたい。


(俺、武藤さんの事好きですよ)

 酔っ払って口を突いた、けれど偽らざる本音。友達になりたい。

 でも、本当はそうじゃないのかもしれない。




「ん……」

 卓上扇風機の風が耳をそよいでいく。武藤の口から小さく呻き声が出た。あの晩、ベッドで長崎が熱い吐息で囁いたことを思い出してしまう。言葉よりも、耳を撫でたその息遣い。

 一夜の過ち。そう片付けてしまうのは簡単だった。相手は男だけど……いや、女と寝ることも最近視野から外れてしまっているので、男も女もないかもしれない。自慰の道具はいつも新品がベッドサイドの棚に入っている。そんなに頻繁にするわけでもないが、たまにどうしようもないくらい衝動に襲われるのでそう言うときに使う。

 その衛生用品を他人に使ったのはいつぶりだろうか。ゴムないんですか。そう長崎に問われて、すぐに引き出しを指した。ないから止めてくれと言わなかったのは、やはり酔って判断力が落ちていたからなのか、はたまた「ない」と言った日にはそのまま犯されると思ったからなのか。

 結局、互いに触り合うような形で行為は終わった。更に深いところまでを求められなかったのは幸いだった。男同士でどこに何をどうするかくらいは知っている。具体的な手段までは知らないけど。

「忘れさせてください。忘れてください」

 翌朝、武藤は長崎にそれだけ言うのがやっとだった。長崎は了承すると丁寧に礼を述べて帰って行った。その後、駅までの道がわかるか心配で送りに行ってしまったあたり、自分はそこまで長崎を忌避してはいなかったらしい。どうしてかは知らない。多分、挿入されていたら警察を呼んで……どうだろう。泣き寝入りしたかもしれない。


 長崎にはセフレが多くいるという噂は聞いていた。いずれも女性だと。だから、まさか自分にそう言うことを迫るとはまったく考えていなくて。ただ、少なくとも相手の女性は満足するのだろう、と言う事は、一晩中優しく自分を撫でた手つきから想像できた。

 もし、きちんと準備をして、長崎に抱かれたら……自分はどうなるんだろうと。長らく埃を被っていた性的なものへの好奇心が首をもたげる。錆び付いてて上手く動かない。

 溜息を吐く。それから回って来た書類を確認して、ミスに気付き、担当者に声を掛けた。




「長崎さん、あの日武藤さんと飲み直したらしいよ」

 喫煙室で、2人の男性社員がそんな話をしている。1人は長崎の、もう1人は武藤の部署に所属している社員だ。長崎の同僚はメンソール系を、武藤の同僚は軽めのものを吸っている。

「へぇ……あの2人って何喋るんだろうな」

「さぁ……性格悪い者同士で気が合うんじゃなの。かたや女食い、かたや感じ悪い”仕事の鬼”」

「本人通ったらどうすんだよ」

「自分がどう思われてるかくらい知ってるだろ」

 メンソールの煙を吐き出しながらその人は笑った。

「でも、だからって社内で一緒にいるところは見ないよな」

「結局話が合わなかったんじゃないの。雑談だったら良いけど、いざじっくり話すとそうでもなかった、みたいな」

「結婚みたいだな」

「抜かせ」

 2人は意地の悪いくすくす笑いを漏らしながら、煙草を揉み消した。

「だったらさぁ」

 武藤の同僚は口元を歪める。

「他部署の奴だったら気にしないかもしれないから、酔わせてなんかプライベート聞き出してきてよ」

「お、良いねぇ。何て言って釣る?」

 彼も厭な笑みを浮かべてそれに応じたのだった。



「──あ」

 ぼんやりして仕事が進まなかった長崎は、少し残業をしてから帰り支度をして廊下を歩いた。課長には帰って医者に掛かれと言われたが、別に体調が悪い訳ではない。明日からまた頑張ろう、と思って何気なく隣の部署を覗くと、顔を覆った武藤がパソコンに向かっているのが見える。

(俺のせい)

 一瞬だけそんな言葉が脳裏に浮かぶ。声を掛けるべきか、掛けざるべきか迷って……良心よりも欲望に起因する気遣いが勝った。

「武藤さん?」

 長崎の声に、武藤ははっとして顔を上げた。

「ああ、長崎さん。お疲れ様です」

「具合、悪いんですか?」

「いや、その……」

 武藤は目を逸らす

「大丈夫です。ちょっと、同僚のミスの尻ぬぐいしてて」

「隣、座っても良いですか?」

「……どうぞ」

 武藤の隣の席は雑然としていた。こいつがミスったのだろうか、と思いつつ、キャスター付きの事務椅子を引いて座る。膝の上に鞄を乗せた。

「もしかして、あのことがショックでメンタルにキてたりします?」

 長崎は声を低くしながら尋ねた。

「いや、そう言うんじゃないです」

 武藤はまた目を逸らす。耳をしきりにさすっていた。

「自分でも思ったよりショックじゃなくて……驚きはしましたけど。あの、だから、もうお互い忘れましょう?」

「そうでしたね……お仕事の邪魔してすみません」

「いえ、大丈夫です。お疲れ様でした」

 もっと手ひどくあしらわれるかと思った。やっぱり優しい人だなぁ。そんな実感を噛みしめながら、長崎は帰路についた。

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