第4話

 人間の頭はいずれ嫌なことも忘れる。頭では分かっていながらも、佐野明に遮断されたという事実は私の心にべったりと貼り付き簡単に忘れられそうになかった。

 あれからは話すこともないまま、一週間にわたる数学の講習は終わった。英語の講習は夏休みの後半なので、林間学校までの一時、私はまた学校へ行くことのない純粋な夏休みに戻った。当然、佐野明と顔を合わす機会もない。

 私の生活は相変わらずだった。朝は五時に起きランニング、昼間はPythonの勉強、もしくは市民プール、夜は週三でジムに通っていた。栄養価を気にしつつ三食ちゃんとご飯を食べ、夏休みだからといってハメを外して髪を染めたりなんてもちろんしない。変わらず真っ直ぐに正解を選び毎日をこなしていた。しかし何故だか心は晴れない。それが佐野明のせいだということは自分でも分かっていた。

 Pythonの勉強の合間、ネットで「靭帯損傷」を検索してみた。調べてみると、一口に靭帯損傷と言ってもいろいろなものがあった。まず最初に出てきたのが前十字靭帯損傷。人間の膝は内側側副靭帯・外側側副靭帯・前十字靭帯・後十字靭帯の合計四つの靭帯によって支えられているようで、このうち前十字靭帯は脛の骨が前にずれることを防いだり、膝の捻れを制御したりするなど、膝の安定性を保つうえで重要な役割を担う靱帯らしい。この前十字靭帯が緩んだり、断裂したりすることを前十字靭帯損傷というとのこと。しかし、膝? 私の記憶で佐野明の怪我は膝ではなくもっと足首のあたりだった気がする。

 それで「靭帯損傷 足首」で再検索をすると、足関節内外側靭帯損傷という名前が出てきた。専門的なことはよく分からなかったが、バレーボールやバスケットボールなど、ジャンプの着地時に足首を捻って受傷する事が多いとある。佐野明の怪我はこれのような気がした。ウェブページには足の骨の図が載っていて、それぞれの靭帯の名称が記載されている。普段は靭帯の存在など意識して生きることは無いが、これが損傷するとなると痛そうだなと思い、私は無意識のうちに足首に神経を集中させていた。

 もちろん損傷具合にもよるのだろうが、どう考えても山登りをすることは正しい選択ではないと思った。やはり私は佐野明を止めるべきなのではないか。正しくないことを行う意味なんて何一つない。それを見過ごすことも同様だ。

 私はパソコンの横に置いていたスマホを手に取り、佐野明に連絡をしようと思った。しかし私はそもそも彼の連絡先を知らなかった。連絡の取りようがない。溜息をつき、さらに自分は今佐野明に遮断されているのだという事実を思い出す。もし仮に連絡先を知っていたとしても、佐野明はおそらく私の電話には出ないだろう。メッセージを送っても返信してこないだろう。



「久美ちゃんも天ぷら食べる?」

 サービスエリアを物色する真由美さんは楽しそうだった。いえ、けっこうです。お茶だけ飲んでますと私はさっき自動販売機で買ったペットボトルのお茶を少し持ち上げて見せた。天ぷら、美味しいよ、私一本買うから一口食べてみたら? と真由美さん。それでも私は大丈夫です、とその誘いを断った。そっか、こういうのはあんまりか、と真由美さんは少し残念そうではあったが笑っていた。私があんまりなのはその食べ物ではなく間食という行為自体だったのだが、そこは説明しなかった。チーズ棒を一本くださいと注文して、出てきたそれはおでんに入っていそうな練り物を串に刺したものだった。えっ、これが天ぷらなんですか? と、私の知っている天ぷらは黄色い衣に纏われた海老や茄子や南瓜だったので不思議に思った。

 地域によるんだけどね、この辺りではこれを天ぷらって呼ぶんだよと真由美さんは教えてくれた。そうなんですか、と言いながら、真由美さんもこの辺りの人ではないはずなのに何故そんなことを知っているのだろうかと思う。考えてみれば私は真由美さんのことをほとんど知らない。知ろうともしてこなかった。

 喫煙所で煙草を吸っていたお父さんを呼びに行き、パーキングエリアを出る。車は今朝借りたレンタカーだった。日産の、ファミリーサイズの五人乗り。お父さんが運転をして、真由美さんが助手席、私は後部座席の運転席の後ろに座っていた。うちにはずっと車が無かったので、私はお父さんが運転をしているところを初めて見た。運転大丈夫なの? と聞くと、これでも毎日営業車を運転してるんだぜ、とお父さんは得意げに言った。確かにあまり揺れることもなく丁寧な運転だった。

 休憩を挟み、出発してからちょうど三時間が経つ頃に目的地の温泉宿に着いた。真由美さんがフロントで手続きをしている間、私はその少し後ろで荷物を持って待っていた。手続きが終わるといわゆる仲居さん? が出てきて、お荷物持ちますよと笑顔で私に言った。荷物は大した量ではなかったので大丈夫ですと断ったのだが、隣にいたお父さんにいいよ、持ってもらえよと言われ、別にそこまで強い気持ちで断ったわけでもなかったので、私は仲居さんに荷物をわたした。

 部屋は建物の中の一室を想像していたのだが、案内されたのは客室自体が一つの建物になっている離れタイプのものだった。中はそこまで広くはなかったが、部屋に露天風呂が付いていて少し驚いた。仲居さんが簡単に旅館設備の説明をして部屋を出て行くと、疲れたから俺はちょっと休むぞぉとお父さんは畳の上に寝転がった。私もちょっと休むわ、と真由美さんも座布団の上に腰を下ろし、テーブルの中心に置いてあった茶菓子に手を伸ばしていた。私も慣れない車移動で疲れてはいたが、せっかくだからと思い、周辺を探索してきますと言って部屋を出た。

 旅館の敷地の中には私達が泊まる部屋と同じ離れタイプの建物が五棟あった。それとは別に本館の中にも客室はあるようで、全体的に見るとそれなりに大きな宿泊施設のようだった。ロビーに出るとフロントにはチェックインのために多くの人が並んでいた。もう少し着くのが遅かったら私達もこの混雑に巻き込まれていたなと思いながら、それを横目に通り過ぎた。

 フロントの横には小ぢんまりとしたお土産コーナーがあり、中に入って様子を見てみた。一応はこの辺りの特産品が中心に陳列されていたが、周辺の地域の特産品も多く置いてあり、何でも有りなんだなと少し笑ってしまった。多少のお金は持ち合わせていたのだが、特別買って帰りたい物も、旅行に行って来たことを伝えたい人も私には無く、何も買わずにただぶらぶらと店内を見て歩いた。

 お土産コーナーの端にはプリクラの機械が置いてあった。見た感じかなり古い機種のようで、側面にある女の人の写真もどこか時代を感じさせるものだった。こんなもの誰が撮るのだうか? もはや電力の無駄遣いではないかと思ったのだが、今日の真由美さんなら撮りたいと言ってもおかしくないなと思った。

 初めての家族旅行、真由美さんが頑張っていることは私にだって分かった。私達は役所の登録上は家族という括りであるが、実際はたまたま絡み合った縁による単なる集合体に過ぎない。少なくとも私はそう思っていた。本物の家族とは違う。でも真由美さんは本物の家族になりたいと思っている。その感じはもうずっと前から伝わってきていた。家族旅行を計画したのも多分そういった心からなのだろう。

「何かお探しですか?」

 不意に後ろから店員さんに声をかけられた。いえ、別にそういうわけじゃないですと言うと、店員さんはごゆっくりと笑顔でレジの方に戻っていった。わざわざ声をかけられるほど私はお土産コーナーの中をぐるぐると歩いていたようだった。


 料理が部屋に運ばれてきて、さっきまで何もなかったテーブルの上が一気に華やかになった。こういう料理は、懐石料理というのだろうか。私はこんなに綺麗に盛り付けられた料理を見るのは初めてだった。いつもは食べ物に対して、栄養バランスにばかり目が行くのだが、これは単純に美しいと思った。

 お父さんと真由美さんはビールを飲んだ(真由美さんは普段はお酒を飲まない。だから飲んでいるところを見るのは久しぶりだった)。私は何から食べればいいのか分からなくて戸惑っていたのだが、どれも美味しく箸が進んだ。旅館の料理なんて久しぶりだなとお父さんが言った。ね、たまには旅行もいいでしょうと真由美さんはお酒で少し顔を赤らめていた。思えばこうして三人で食卓を囲むのも随分久しぶりなことだった。お父さんはだいたい毎日帰りが遅いし、真由美さんの仕事はシフト制なので土日もいないことが多かった。私も週三でジムがある。こうして三人で食事をしていると、お父さんと真由美さんが結婚するより前の頃を思い出す。今思い返すとあれは不思議な時間だった。でも決して嫌な思い出ではなかった。

 夕食が終わった後、お父さんは煙草を吸ってくると言って外に出て行った。多分どこかに喫煙所があるのだろう。

 久美ちゃん、先に露天風呂入る? すっかり暗くなった窓の外に見入っていたら真由美さんに声を掛けられた。部屋の露天風呂ももちろん魅力的だったのだが、私は温泉宿らしい大浴場に入ってみたいという気持ちの方が強かった。それで、私は大浴場に行ってみたいので真由美さんどうぞ、と言ったのだが、じゃあ私も一緒に大浴場に行ってみようかな、と意外な返事が返ってきた。

 真由美さんはさっさとお風呂の用意をして、さぁ行こっか、と私に言う。私は少し戸惑いながらも着替えを手持ちのエコバッグに入れ、二人で部屋を出た。暗がりの中、本館までの道を真由美さんの背中を追って歩いた。

 大浴場は思っていたよりも空いていた。当たり前なのだが、真由美さんは当たり前のように着ていた服を脱ぎだす。私は恥ずかしくて服を脱ぐのを躊躇ったが、ここまで来て脱がない方がおかしいと思い、なるべく自然を装って服を脱いだ。二人が再婚した頃には私はもうそれなりに大きくなっていたので、真由美さんと一緒にお風呂に入るのはこれが初めてだった。真由美さんの裸を見ることもこれが初めてだった。もちろん見られるのも。

 眼鏡を外したら何も見えなくなってしまうと思い、掛けたまま大浴場に入ったのだが、入った瞬間眼鏡は湯気でさっと白く曇った。少し考えれば当たり前のことである。真由美さんは、それは曇るわよと笑った。恥ずかしくなって眼鏡を外し、持っていたハンドタオルで曇りを拭いて掛け直す。それでも視界はやや曇る。でも外しているよりは付けている方が良かった。お互い裸という状況が気まず過ぎて、私はわざと離れた場所で身体を洗った。初めての大浴場よりも裸の真由美さんがそこにいるということに意識を取られて仕方なかった。

 避けるように露天風呂に浸かっていたら身体を洗い終えた真由美さんが来た。

「初めての温泉はどう?」

「気持ちいいですね」

 私は下を向いたまま言った。

「良かった。これからは定期的に旅行に行けたらいいなぁ」

 そう言って真由美さんは私の隣に浸かった。私がそうですね、と言うと真由美さんは笑って、そんな深く考えなくていいのよ。ただの気分転換の旅行なんだからと笑う。真由美さんは私の心の躊躇いを見透かしているかのようだった。

「久美ちゃん、何か悩みとかないの? 中二なんて、悩み盛りでしょう?」

「悩みですか」

「私が中二の時なんてね、お父さんに三回告白して三回振られたのよ」

 と真由美さんは笑う。

「えっ。それ本当ですか?」

「本当よ」

「というか、お父さんと真由美さんって同じ中学だったんですか?」

「そうよ。私はお父さんの一個下の学年で、後輩だったの」

 そんなこと初めて聞いた。

「よく三回もチャレンジしましたね」

「いや、まぁ簡単に言うと好きだったのよね」

 真由美さんはそう言って照れ臭そうに笑った。お酒の酔いも多少はあるのかもしれない。

 しかし三回も告白とはすごい。普通はそこまで頑張れないのではないか。でも過程はいろいろあったのかもしれないが今真由美さんはお父さんと結婚しているのだ。結果的に真由美さんの行動は正解だった。そんな正解いったい誰が予想できるだろうか。

 そう考えると夏休み前に佐野明に振られた女の子にもまだチャンスがあるのではないかと思った。あの子が本当に佐野明のことが好きで、一度振られただけでは諦めきれないのであればまだまだどうなるかは分からない。それが正解になり得ることもあるのだ。そう考えると、遮断は自分の中にもあるのだなと思った。諦めるということは、つまりは自分で自分の可能性を遮断することだ。

「で、久美ちゃんは何か悩んでることはないの?」

 真由美さんは話を戻した。

「悩み、やりたいけどできないことはまだまだたくさんありますけど」

「そんな漠然としたことじゃなくてさ、もっとこう、今目の前にあることで」

 私は少し考えた。その「考えた」というのはつまり、自分の悩みが何なのかということを考えたのではなく、それを真由美さんに言うべきかどうかを考えたという意味だった。

「夏休みの始めに友達に嫌いだと言われました」

 そう言って、いつの間にか佐野明は私の友達になっていたのだと自分で気付いた。

「それは、久美ちゃんが何か悪いことをしたから?」

「私は……悪かったのかどうか正直よく分かりません。ただ、私が言ったことのせいで相手が怒ってしまったのは事実です。自分としては間違えたことを言ったつもりはないのですが、怒って、嫌いだと言われました」

「そっかぁ。でも自分が正しいと思って言ったことに相手が怒るってことは、多分相手はまた違うことを正しいと思っていたからなんだろうね」

「違うことを、ですか」

「そう。だから別にその人は久美ちゃんのことを嫌いになったんじゃなくて、久美ちゃんが正しいと思ってることを受け入れられなかっただけなんじゃないの? 『嫌い』ってのはついつい考えなしに口にしてしまう否定の言葉よ」

 私は真由美さんの言ったことを心の中で受け止めた。もし本当にそうだとしたら、佐野明は私と違う正解を持っていたことになる。つまり私が思う正解以外に別の正解があるということだ。それが何なのか私には分からなかったが、その存在を否定することもできなかった。なぜなら私はあの時、佐野明の思考を理解しきれなかったから。その中に何があるのかなんて正確なところは分からない。

「私、どうしたらいいんでしょう」

「話をするしかないんじゃない? ただひたすらに」

「でも、私……」

 遮断されたのに、と言いかけて言葉を切った。真由美さんの言葉を信じるのであれば、遮断されたのは私ではなく私の選んだ正解なのだ。

「納得がいかないなら、諦められるまで話してみなさいよ。それでもダメだったら私が話たくさん聞くから」

 そう言った真由美さんの目は優しかった。「お母さん」という言葉が頭に過ぎって、信じられないくらいに恥ずかしい気持ちになった。声になって出ていなかったか不安だった。でも真由美さんは何の反応も示さなかったのでおそらく声にはなっていなかったのだろう。それで安心した。すると今度は涙が溢れてきた。まったく、私はいったいどうしてしまったというのだ。真由美さんにバレないように眼鏡を外して露天風呂のお湯で顔を洗う。真由美さんはもう一度、また旅行行きたいねと言った。私はびしょびしょの顔のまま頷いた。



 登山は確かに大したことがなかった。でもそれは私が定期的にランニングやボクシングをしているからなのかもしれない。花田薫なんかは普段は全然運動をしていないからか、頂上に着いた頃にはぜえぜえ言って肩で息をしていた。

「これ、今から下るの? 本気?」

 花田薫は苦笑いで言った。首から下げたハンドタオルで顔を拭っていたが、おそらく拭っても拭っても汗が止まらないのだろう。一時間くらいここでお昼食べて休憩するらしいよ、と教えてあげる。そっかぁ、正直私、全然食欲ない、と花田薫は弱々しく岩の上に座り込んだ。こんな日も花田薫の髪は二つ括りだった。よっぽどこの髪型が気に入っているのだろう。

 昼食は麓であらかじめ配られたお弁当だった。お弁当と言ってもおにぎりが二つと少しの惣菜が入っているだけの簡素なもので、山頂のいたるところから男子達のお弁当に対する不満が聞こえた。確かに食べ盛りの男子にこの量は少ない。

 登山はA組、B組、C組、D組の順番で登った。先に登り始めたA組はもうほとんどの人達がお弁当を食べ終えており、この後C組の生徒が頂上に着いたら下山を始めることになっていた。佐野明はD組だ。D組が頂上に到着したら今度はB組が下山することになっており、私と佐野明はすれ違いになる。そもそも彼は本当にこの山を登って来ているのだろうか。いくら部活で鍛えているとは言え、松葉杖ではやはりキツいだろう。けっきょく私は佐野明と何の話もできないまま今日の日を迎えてしまった。

 食欲がないと言っていたくせに、花田薫はお弁当を綺麗に食べ切っていた。逆に私は食べ出すと意外と食べ物が胃に入らなくて、何とか無理して食べ切ったという感じだった。

 やがてC組の生徒達が山を登ってくる。疲れている人、元気な人、頂上に着いた時のリアクションはうちのクラスとだいたい同じだった。C組の生徒の中に谷崎真緒を見つけた。さすがにいつもより薄化粧ではあったが、相変わらず髪の色は明るかった。隣にいるのは足立美香だった。相変わらず仲が良い。遠目でも二人が疲れているのがよく分かった。まったく、煙草なんて吸うからそんなことになるのだ。

 一時間という休憩時間は意外と長かった。お弁当も早々に食べ終えてしまい、休憩と言われても特別やることもなかった。皆、友達と写真を撮ったり(私も花田薫に言われて一枚だけ撮った)無駄にトイレに行ったりして暇を潰していた。花田薫も少し回復したようで、頂上に着いた頃のような絶望感はなくなっていたが、無駄に体力を消耗したくないと思っているのか岩の上に座ったまま動こうとしなかった。私も彼女に合わせてその隣に座っていたのだが、こうしてただ座っているだけの方がかえって体力を使うのではないかと思い、向こうの展望台の方に行ってみようよと花田薫を誘った。

 展望台には同じように何人かの生徒がいたが、そこから見える景色に特別な感動はなかった。いたって平凡で、それに天気も曇っていたので、遠くの方まで見渡せるでもなく何だかすっきりしなかった。花田薫も同じような印象を受けていたようで、何か中途半端よね、と言って、それでもスマホで写真を撮っていた。見せてもらったが、全然綺麗な写真じゃなかった。

 その時、展望台に谷崎真緒と足立美香もいることに気付いた。向こうもハッとして、ほぼ同時に私達に気付いたようだった。無意識のうちにか、花田薫が私の着ている体操服の裾を掴んでいた。その手から確かな緊張が伝わる。しかし私は緊張などない。こんにちはと頭を下げた。谷崎真緒と足立美香は二人同じように眉間に皺を寄せた。谷崎真緒が行こう、と小さく呟いて、二人はさっさと岩場の方に戻って行ってしまった。いつもは執拗に絡んでくる彼女達が今日は何も言わずに消えてしまい、花田薫は何が起きたのか分からない様子だった。それで私の体操服の裾を掴んでいたことに気付きごめんと謝る。

 やがてD組の生徒達がばらばらと頂上に到着し始めた。土屋隆夫先生がじゃあB組、順番に出発するぞぉと声を張り指揮を取る。私はリュックサックを背負い、集まり出した自分のクラスの列に花田薫と一緒に加わった。私はその間も到着するD組の生徒達を見ていた。いよいよもう出発するという時になって、数人の男子生徒に支えられて頂上に到着する松葉杖の佐野明を見つけた。笑っていた。汗だくで、満面の笑みだった。周りの男子生徒達も楽しそうだった。やっぱり来ていたのだなと思った。


 その日の夜、就寝前のホテルで急にお腹が痛くなった。苦しくて、同室の花田薫と話をしていたのだが耐えきれずに部屋を出た。とりあえずトイレに行こうと廊下を歩いている時におへその下の辺りをぬるっと温かいものが下りてくる感覚があった。まさかと思ったが、そのまさかで、トイレで恐る恐るパンツの中を見てみるとそこは血で染まっていた。初経が来たのだ。

 初経時はそんなに血が出ないものだと聞いていたのだが、見た感じけっこうな量の血が出ていた。個人差があるのは人間の身体なので分かるのだが、油断をしていた。しばらくトイレに座ってうずくまっていたのだが、パンツは血でベタベタになっていたし、こんなことになると思っていなかったのでナプキンも持っていなかった。

 とりあえずトイレットペーパーを股に挟んで、何か問題があった時に来なさいと言われていた先生達のいる部屋に向かった。先生達は机を囲んで会議をしていた。明日の動きを確認しているのか。明日は登山に続く第二の目玉イベント、キャンプファイヤーとテント泊がある。どうしたんだ? とまずは私を見て土屋隆夫先生が声をかけてきたのだが、事が事だけにストレートに言い難かった。すると部屋の一番奥に座っていた永野幸子先生が立ち上がり、おいでと言って私を別の部屋に連れて行ってくれた。生理なんでしょ? と永野幸子先生はいきなり核心を突く。恥ずかしかったが誤魔化すわけにもいかないので私は正直に頷いた。

「あの、私初めてで、ナプキンとか持ってなくて」

「あちゃー、こんな時に初めてか。めちゃくちゃタイミング悪いなぁ」

 と、永野幸子先生は笑う。お腹は変わらず痛かったが、この人に笑われても不思議と怒りは込み上げてこなかった。

「ナプキンは多分あるわ。着替えもあるかちょっと確認してくる」

 そう言って永野幸子先生は部屋を出て行った。部屋の中には大きめのボストンバッグがベッドの上に置かれているだけで、それ以外はチェックインした時のままだった。おそらくここは永野幸子先生の部屋なのだろう。座ったら血で汚してしまうのではないかと思い、私は部屋の中心に立ったままでいた。どれくらい待っただろうか、やがて紙袋を手にした永野幸子先生が戻ってきた。なに? どっか座ってればいいのに、と立ち尽くす私を見て目を丸くする。でも汚しちゃうといけないんでと言うと、別に私の家じゃないし構わないよと永野幸子先生はあっさり言った。

「はい、ナプキン。あと着替えの体操服のズボン。パンツは? さすがにパンツの替えまではなかったんだけど、余分に持ってる?」

「すみません。無いんです」

 心の底から失敗したと思った。いつもジムに行く時は余分に着替えを持っていくのに、今回に限って宿泊数分の着替えしか持ってきていなかった。かなり気が進まないが、今日履いていたものをもう一度履くしかないと思った。手洗いをして乾くまで干しておくことも一瞬考えたが、そんな場所も無いし、さすがにそれは恥ずかしい。すると永野幸子先生は少し考えて、今から買いに行こうかと言った。そんなのいいんですか? と驚いて言うと、だってそれしかないし、後から来た引率の先生が乗ってきた車が使えるし、とごく当たり前のことのように言った。

 乗り込んだ車は偶然にもこの前の家族旅行の時に借りたレンタカーと同じ車種だった。今日は助手席に乗り込む。シートベルトをしてねと言われ、別に忘れていたわけでもないのだが慌ててシートベルトを締めた。宿泊施設は山の中にあり、街までの道は街灯一つ無かった。車のヘッドライトは行く道を確かに照らすが、この光が無ければおそらく何も見えないレベルで真っ暗だ。それでも永野幸子先生はそれなりのスピードで車を飛ばした。私は怖くて、頭上のアシストグリップをぎゅっと握った。永野幸子先生はそんな最中でも、ポケットから煙草を取り出して火をつけた。動作があまりに自然で何も言えなかったのだが、さすがに先生も気づいて、あ、煙草はダメだよね、と苦笑いして窓から吸いかけの煙草を捨てた。それもダメだと思いますよと言ったら永野幸子先生は笑って、ごめん、そうだよねと謝った。

「そういえばあなた、前にトイレでちょっと揉めてた子よね?」

「別に揉めてたわけじゃないですよ」

「悪い奴等に絡まれてた感じ?」

「まぁ……そんなところですね。というか気付いてたんですか」

「そりゃそうよ。確かにトイレから言い合うような声がしたのにおかしいなと思ってた。それに何か煙草臭かったし」

「なんで気付いてたのに注意しなかったんですか?」

「別にぃ。だって中学生なんだから多少の背伸びやゴタゴタはあるでしょう。そんな小さな失敗いちいち咎めて何になるのよ。一応、怪我はないかは聞いたでしょ? 怪我したりしてしたらさすがにまずいからさ」

「イジメだってマズいですよ」

「そりゃ、イジメはダメだ。何? 誰かイジメられてんの?」

「いや、イジメって定義付けていいのかは分からないんですけど。あんまり気持ちの良くない意地悪っていうか」

「まぁ、イジメの定義って難しいよね。けっきょくは受け側の捉え方だしね。だからさ、私達教師が何でもかんでも介入していけばいいわけでもないとも思うのよ。例えば、周りから見たらちょっとアレでも、本人は全然イジメられてる感覚が無い子に私があんたのイジメを解決するよって介入していったら、その子は私ってイジメられてるんだってなるじゃない? それだったら何も言わない方が良かったでしょ。何とも思ってなかったんだから」

「それは確かにそうですけど」

「けどって何よ、あなたね、誰か友達がイジメられてるって思うんならはっきり言いなさいよ。教師にこんなぶっちゃけて話せる機会なんて滅多にないんだから。私みたいなオバサンは別にして、あなたくらいの歳の子はね、思うがままに行動したらいいのよ。それを受けて私達大人はちゃんと考えるんだから」

 私はちょっと迷ったが、B組の花田薫とC組の谷崎真緒を注意して見ていてくださいと言った。永野幸子先生は谷崎かぁと頭をかいた。あいつはどっかで注意しなきゃって思ってたのよね。こっちが何も言わないでいたらどんどんつけあがるんだから、と言って永野幸子先生はまた煙草に火をつけた。多分もう煙草を吸うこと自体がクセになってしまっているのだろう。

 花田薫のことについて、何だかチクったみたいであまり良い気はしなかったが、彼女の学校生活が少しでも良くなるのであればこれで良かったのだろうとも思った。私の服の裾を掴む花田薫の手の感じが、今も身体に残っている。花田薫があんな思いをする必要はまったく無いと思った。

 十五分ほど走ったところにドンキホーテがあり、そこで下着を買った。私はお金を持っていなかったので、永野幸子先生が支払ってくれた。帰ったら必ず返しますと言ったのだが、経費で落とすから別にいいよと言われた。

 帰りの車では二人とも何も話さなかった。窓の外を見て、そういえば佐野明は無事に下山できたのだろうかと、そんなことを少し考えた。



 翌日は近隣の美術館へ行ったり自然公園へ行ったりと実に林間学校らしい一日だったのだが、私はずっとお腹に鈍い痛みがあって体調が優れなかった。これから何十年もこの痛みと月一で付き合っていかなければならないのかと思うと気持ちが重くなる。一応、真由美さんには初経が来たことをメールで報告した。予想はしていたが、真由美さんはとても喜んた。お赤飯を炊いておくからねと言われて、確かにそういう風習があったなと思った。

 やがて暗くなり、気付いたらもうキャンプファイヤーに火が灯っていた。火はパチパチと音を立てて何かを弾き出しているようで、全クラスの生徒がそれを囲んで座った。私は、これはいったい何のための行事なのだろうと思った。組み上げられた丸太の間で赤く燃える火は力強く、確かに綺麗だが、こんなことをする意味が特別あるとは思えなかった。それでスマホで調べてみると、キャンプファイヤーの起源は「火の神への崇拝」とのことだった。火の神とはいったい何なのだろう? 何となく手塚治虫の火の鳥を頭の中でイメージした。花田薫が私の耳元で、やっぱ迫力あるねと呟く。まぁ、確かに迫力はあるような気がする。私はこれ、この後何するの? と花田薫に聞いた。

「有志で何組か出し物をするって言ってたけど」

「出し物?」

「うん。何やるかはそれぞれの自由だけど、六月の頭くらいに参加者を募ってたよ」

 そう言われると確かにそんな話があったような気がする。すっかり忘れていた。やがて学年主任の田畑美智恵先生が出てきて、皆さんくれぐれも怪我の無いように楽しんでくださいね、とマイクを通して挨拶をした。田畑美智恵先生は英語の先生で、普段は授業中に寝ている生徒を鋭い声で叱る厳しい先生なのだが、さすがに今日は笑顔だった。お調子者の男子生徒がどこからともなくイェーイと声を上げる。ピーピーと指笛を鳴らしている人もいた。

 一組目は女子ダンス部の五人組だった。ユーロビートの音楽をバックに大きな振り付けで踊る。どこからともなく自然と手拍子が起こった。私も気付いたら手拍子をしていた。火にあてられると誰もが興奮してしまうのか。その時、身体の中を蛇のようなものが駆け下りる感覚を覚えた。また血が出てきたのだ。私はごめん、ちょっとトイレに行ってくるねと立ち上がる。盛り上がりが最骨頂に達したダンスに背を向けてトイレへ急いだ。永野幸子先生からたくさんナプキンをもらっておいて良かった。血が出る度に気になり、私は頻繁にナプキンを交換していた。

 トイレの前にはたくさんの生徒がいた。変な仮装のようなことをした人もいて、何なのだろうと思ったのだが、どうもここが出し物をする人の控え室になっているようだった。トイレはよく工事現場なんかにある仮設トイレが四つ並べられていた。あまり綺麗ではなかったので使うことに気が進まなかったのだが、それよりも血が出ているという違和感の方が強かった。仮設トイレのドアノブに手をかけた時、隣のトイレの中でがたっと音がして、出てきたのは松葉杖をついた佐野明だった。あっ、と声が漏れた。あぁ、と佐野明も驚いていた。うん。どうも。とお互い言葉が途切れ途切れになる。それで、じゃ、と言って佐野明は行ってしまった。ずっと話したいと思っていたのにいざ佐野明を目の前にすると上手く言葉が出てこなかった。遮断されている可能性もある、という事実は思っていたよりも私を鈍らせていた。

 花田薫のところに戻ると、クラスメイト達は皆手を叩いて笑っていた。何? と聞くと、漫才と花田薫が言う。見ると別のクラスの男子がキャンプファイヤーの前で漫才をしていた。年末にテレビでやっていた漫才グランプリで優勝したコンビのネタをコピーしているようだった。他の人のネタのコピーなんかして意味があるのか? とも思ったが、普通に面白かった。


 宿泊するテントはしっかりとしたものだった。組み立て式ではなく、その場にしっかりと設営されたもので、意外と中も広がった。事前にグループ分けされた五人で一つのテントに宿泊するのだが、花田薫以外はあまり話したことのないクラスメイトだった。夜更かしをしておしゃべりをするなんてことにはまずならないだろう。私は早々に支給された寝袋に入った。テントで寝るなんて初めて、と隣で同じく寝袋に入った花田薫が言った。私も初めてだよ、と言うと、楽しいね、と花田薫は笑う。別に楽しくはなかったが、そうだねと返した。電気を消すとテントの中は真っ暗になった。最初はぽつりぽつりと話声が聞こえたが、しばらくするとみんな寝てしまったのか静かになった。

「ねぇ、久美ちゃん。私、夏休み明けから塾に行くことにしたんだ」

 暗闇の中から不意に花田薫の声がした。

「そうなんだ。どうしてまた急に?」

「期末が悪かったからね」

「あぁ」

「それに、言ってる間に高校受験だし」

「そうだね」

「しかし久美ちゃんの学年3位には驚いたよ」

「別に、たまたまだよ」

「私も久美ちゃんみたいになりたい」

「えっ」

「いつも真っ直ぐで、堂々としてて、羨ましいよ」

「そんな、私は別に……」

 正解を選んで進んでいるだけで特別なことは何もしていない、と言おうとしたが言わなかった。それ以降花田薫も何も言わなかった。眼鏡をかけて見てみると、彼女はもう寝息を立てて眠っていた。会話の最中によくいきなり眠れるなと思い笑ってしまった。

 おそらくまた血が出ている。眠る前にもう一度ナプキンを替えておこうと思い、私は一人テントを出た。もう消灯時間を過ぎているので、本当はテントの外に出てはいけないのだが、生理という理由ならば怒られることはないだろうと思い夜道をトイレまで歩いた。どのテントも電気が消えていたが、皆大人しく寝ているかというとそうでもないだろうなと思った。電気を消したままこっそりと遊んでいる人も多いのではないか。

 ナプキンを替えてトイレを出る。来る時は気付かなかったが、虫の鳴き声がよく聞こえた。夏がだんだんと終わっていく感じ。草の匂いがする。自分は今森の中にいるのだということを強く感じた。暗がりの中から佐野明が歩いてくる。一瞬幻覚かと思った。でも本物だった。

「トイレの前で合うの多くない?」

 佐野明はそう言って呆れるように笑った。

「生理現象のペースが似ているのかもね」

 と、言っても私はナプキンの交換だったのだが。佐野明はちょっと待っててよ、と言ってトイレに入って行き、ものの一分足らずで出てきた。なぁ、耳澄ましてみ? 川の音が聞こえるだろ? そう言われて耳を澄ますと確かに虫の鳴き声の間にかすかだが川の流れる音が聞こえた。こっちの方からだね、と私は音が聞こえた方向を指差す。

「だろ? ちょっと見に行ってみようぜ」

「大丈夫? 暗いし、その足じゃ危ないんじゃないの?」

「気をつけて歩けば大丈夫だろ。それに……」

「それに?」

「もし怪我しても仲良しクラブのサッカーならいつでもできるからな」

 と言って佐野明は嫌味っぽい目で私を見た。

「本当にごめんなさい」

「冗談だよ。別にもう気にしてないから」

 佐野明はさぁ、行こうかと言って山道を歩き出す。前に食堂で話した時よりは松葉杖に慣れたように見えたが、それでも夜の山道では危なっかしかった。ゆっくり行こうよ、と言って私は佐野明の背中を追いかけた。足場の悪い夜の山道を下っていく。当然真っ暗で、私達は闇に慣れつつある自分の目だけを信じた。川の音は確かに聞こえるのだが、なかなか山道を抜け出せなかった。おっ、と言って佐野明が木の根っこにつまづいて転びそうになる。私はちょっと、と言って反射的にその腕を掴んだ。

「本当に気をつけてよね」

「ごめん」

「別に謝ることはないけどさ」

 俺さぁ、と言って佐野明は何か覚悟を決めたように話し出す。

「ずっと大木に謝りたいと思ってたんだ」

「何で? だって別にあなたは何も悪くないでしょう」

「いや、そんなことない。この前さぁ、俺が怒ったのはお前の言ったことが正しかったからだよ。ほら、自分で分かってる弱いとこ突かれるのって腹立つだろ。仲良しクラブなんだよ。けっきょく俺のやってることは」

「別に否定する気はなかったのよ」

「分かってるよ」

「あなたにはあなたの意見があるから怒ったんだって言われたよ」

「ん? 誰に?」

「まぁ、お母さん……みたいな人」

 自分で言って顔が赤くなるのを感じた。

「俺の意見なぁ、まぁ、そりゃ確かにあるよ。楽しいことはやっぱり楽しいし、それをやる自分を肯定したいし。正論では測れないものもあるだろって話」

「私は、正論しか信じられないから。正解じゃないものを選ぶ理由が分からない」

「でもその正解が本当に正解なのかどうかはけっきょく自分次第だろ。例えば、大木にとってはサッカー部に入ることなんて全然正解じゃないだろうけど、俺にとっては正解で、逆に俺は今プログラムの勉強をすることが正解だとは思わない。そんなの大人になって必要に差し迫ってからやればいいじゃんって思うから」

「うん」

 多分それが真由美さんの言っていたことなんだろう。正解は人それぞれにある。私の正解が佐野明の正解と同じだとは限らない。正論と正解は似て非なるものだ。

「なぁ、俺等の世代の半数は百歳まで生きるらしいぞ」

「へぇ。すごいね」

「医療がさ、めちゃくちゃ進歩するかららしい。すごいよな」

 百歳。今から九十年くらい先の未来だ。さすがに頭が追いつかない。どんな世界なのだろう? 私は何をしているのだろう? ただ、その頃にも変わらずPythonの知識が役に立つとは思えなかった。であればそこに向けた正解とは何なのだ? 分からない。でもそれが分からないのであれば今私が思い描く正解とはいったいどこへ向けた正解なのだろう。

「百年って、長いよなぁ。多分いろいろなことがあるよ」

「そうね。考えただけで頭が痛くなる。そう考えたら、今何をすればいいのかなんて全然想像が付かないよ」

「けっきょく、その時々でいいんじゃないの。今思う正解へ向かって進むのが人間なんだよな。だから、例え失敗したとしても俺は人間でいたいよ」

 やがて川に出た。遠くまで音が聞こえていたわりにそれは小さな小川だった。こんな小さな川でもちゃんと海まで繋がってんのかなぁ? と佐野明が言った。すると暗がりから、何やってんの? と声がして私達は飛び上がった。見るとそれは谷崎真緒だった。

「お前、マジ驚かすなよ。お前こそ何やってんだよ」

「何って、煙草よ。見つかったらヤバいし、キャンプ場から離れてたらここまで出てきたの」

 谷崎真緒はそう言って煙草に火をつけた。足元に一本吸い殻が落ちていて、これが二本目のようだった。この人はもう永野幸子先生同様に煙草がクセになっているのだろう。

「つか、何? あんたら付き合ってたの?」

「いや、そんなんじゃねぇよ」

 佐野明は早々に否定する。まぁ、それが事実だ。谷崎真緒が、佐野、こいつめっちゃ強いから気をつけなよと私を指差す。はぁ? と佐野明はあまり信じていない様子だった。あの、ちょっといいですか、と私。何よ、と谷崎真緒が身構える。

「煙草はやっぱり止めた方がいいですよ」

「うわ、しつこいなぁ」

 と、谷崎真緒は顔をしかめ、佐野明はそれを見て笑った。でも嫌な顔をされたって仕方がない。それが私の正解なのだから。私はそれを谷崎真緒に話すし、谷崎真緒に違う正解があるのならそれを是非聞いてみたい。今は純粋にそう思った。

 そして今、こうやって消灯時間も過ぎているのに森に入り三人で川を見ている現状は、常識的な誰かが決めた大きな括りの中で見ると絶対的に正解ではない。でも今は不思議と悪い気持ちはしなかった。何故だろう。先生に見つかったら確実に面倒なことになるのに。

「なぁ、こんな小さな川でも海まで繋がってんのかな?」

 佐野明はまだ言っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

fire @hitsuji

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ