第2話

 図書室で勉強をしていて帰りが遅くなってしまった放課後、下駄箱のところで偶然佐野明と会った。もちろん今度はぶつかったりはしなかったのだが、遅い時間だったのでお互い下駄箱で誰かに会うとは思っておらず驚いた。

「怪我、大丈夫?」

「うん。大丈夫だよ」

 顔の傷なので最初の頃は真由美さんが騒いでいたが、今はもう痛くも無いし違和感も無い。眼鏡だってあれからすぐに直した。自分自身、怪我のことなんて忘れかけていたくらいだった。あ、でもちょっと傷残ってるなと佐野明が私の瞼の上を見て言うので、安心するかなと思い、ちょっとくらいの傷ならレーザー治療ですぐに治るよと言ってみたのだが、レーザー治療? と佐野明は不思議そうな顔をした。あまりピンと来ていないようだった。本当ごめんなと佐野明はまた謝る。いいよ、あなたの方こそ大丈夫なの? 俺は別に大丈夫だよ。今日の佐野明はしっかりと右目を開けていて、本当にもう大丈夫そうだった。なんか、お詫びにジュースでも奢るよと彼が言う。それで私は少し驚いた。

「お詫びって、だってあれはお互い様でしょう。出会い頭だったし、あなただって怪我したのよ」

「いや、まぁそれはそうかもしれないけど女の子の顔に傷作っちゃったのは事実だし」

 だからそれはレーザー治療で、と言おうとしたのだが、時間ない? と聞かれて、時間はあると私は反射的に事実を答えた。別に時間がないわけではない。

 それで二人で学校を出て、歩いて十分くらいのところにあるスーパーに行った。店舗の端に自動販売機と飲食スペースがある。佐野明が自動販売機にお金を入れて、先にボタンを押した。選んだのは赤い缶のコーラだった。何でも好きなの飲んでいいよと言われたので、じゃあ水でと答えた。水? 何で水? と佐野明は驚いた。私からすれば、コーラを選ぶことの方が驚きだ。佐野明はそのコーラの中にどれだけの砂糖が入っているのかを知っていて選んでいるのだろうか。あのサイズだとおそらく角砂糖十個分は入っているはずだ。糖分を取りすぎるのは良くない。糖分はカロリーが高いので、摂取しすぎると余分なエネルギーが体に蓄積してしまうのだ。糖尿病や高血圧などの生活習慣病のリスクも高まる。毎日三食しっかりと食事をとっていれば、わざわざ甘いものを飲んだり食べたりしなくても身体にとって必要な糖分が不足することはまずない。そう考えたらここは水の一択ではないか。なんか変わってるなぁ、と言って佐野明はペットボトルの水のボタンを押した。ガタッと何かが壊れたような音がして落ちてきた水を私にくれた。私はそれを受け取ってお礼を言う。

 飲食スペースには私達しかいなかった。スーパーを行き来する人達は皆、夕方の忙しい時間だからなのか妙に足早に見えた。私達は座って買ったばかりの冷たい飲み物を飲んだ。

「えっと、大木さんだよな?」

「大木です」

「友達からは何て呼ばれてんの?」

 友達、と言われても私にとって友達だと言えるのは花田薫くらいだった。それだって厳密に言えば怪しいものだ。私は基本的に中学校時代に友達を作ってもあまり意味がないと思っていた。この先、高校、大学、社会人となっていく中で、中学を卒業してもずっと変わらぬ強固な友人関係を維持するのはなかなか困難なことだと思う。確率から言ってもかなり低いだろう。だいたいの友人関係は卒業後風化して、ほとんど顔を合わせることも連絡を取ることもなく消えていく。思い出になってたまに思い返すくらいが関の山だ。それならば今はいずれ消えていく友人関係などに貴重な時間を費やすのではなく、今後必要となる知識や技能を学ぶことに時間を費やす方が有効的ではないか。友達なんてものはもっと歳を取ってから作ればいい。花田薫とも卒業したら会うことは無いだろうなと思っていた。

「あんまり友達いないけど、基本的にはクラスでは大木さんかな」

 と私は水をぐびっと飲んで言った。すげぇ普通じゃんと佐野明は笑う。そりゃ私は大木なのだから普通は普通だ。じゃあ、普通に大木でいい? と聞かれて、それで構わないと答えた。

「そういえばこの前花田といたけど、花田と仲良いの? 俺、あいつと同じ小学校だったんだ」

「花田さんもそう言ってた」

「そうか。知ってたんだ。まぁ、特別仲が良かったってわけじゃないけどな。てか何でこんな時間まで学校いたの?」

 何だかいろいろなことを聞かれるなと思ったが、別に答え辛いことを聞かれているわけでもないので、正直に図書室で勉強をしていたのだと答えた。あぁ、もうすぐ期末試験だもんなと佐野明は言ったが、私は首を横に振って鞄からPythonの本を見せた。何、これ? 数ページをめくった佐野明は目が点だった。プログラミングの勉強、と短く言うと、何でこんなんやってんの? と聞かれた。逆に何でやらないの? と聞きたかったが、そこから話が発展していくのも面倒だったので、好きだからだと適当に答えた。

「すげぇ難しそう。頭良いんだな」

「別にこんなの勉強したら誰でも理解できるよ。やるかやらないかの問題だよ」

 私がそう言うと佐野明は、そういう返しがすでに頭良いんだよと言った。そうなのだろうか? 自分の頭が良いかどうかなんて考えたこともなかった。

 聞かれてばかりもどうかと思い、あなたは何であんな時間までいたの? と聞いてみると「補習」と佐野明は苦笑いで言った。

「正確に言うと補習のさらに補習」

「補習のさらに補習ってどういうこと?」

「補習で残されたんだけど課題が終わらなくて、他のみんなが帰ったあとも残ってやってた」

「何の補習?」

「数学」

「あぁ」

 数学は大事だからしっかり勉強するといい。

「俺、数学苦手なんだよ。でも成績悪いとメンバーから外されるって噂もあるからさぁ。あ、俺サッカー部なんだけど。夏休みが明けたら本格的に新チームで秋の新人戦に向かうんだけど、二年だし、そこでは流石にレギュラーに入りたいからさ」

「よく知らないんだけど、サッカー部って強いの?」

「公立校の割にはまぁまぁ強いよ。この前の大会では県でベスト16だった。次はベスト4はいきたいなぁ」

「そうなんだ」

 県でベスト16と聞いて、正直言って中途半端だなと思った。今から頑張って全国大会を目指すと言うのであればまだ理解はできるが、ベスト4が目標と言うのであれば今後の発展にも期待できそうにない。プロを目指すわけでもなく、言い方は悪いがけっきょくは仲良しクラブのレベルではないか。

「レギュラーに入ってどうしたいの?」

 私は本当に疑問だったので聞いたのだが、変な質問だったのか、佐野明はえっ、と言って驚いた。

「おかしなこと聞くなぁ。あ、そもそもレギュラーって意味分かってる?」

「それは分かるよ」

 レギュラー、通例・正規のものであること、いつも出場・出演する顔ぶれ。

「そりゃあレギュラーなら基本的にはいつも試合に出られるからな。控えだといつ声がかかるか分からないし、最悪かからないことだってある。俺はもっと試合に出たいよ」

「なるほどね」

 仲良しクラブなのであればみんなで楽しくサッカーをして、それで良いではないかと思った。レギュラーになったとしても何か資格や報酬を得られるわけでもないのに何故頑張ってレギュラーを目指す必要があるのかが疑問だった。しかしまぁ、対外試合に出たいのであれば確かにレギュラーを目指すべきではある。

「大木は部活はしてないの?」

「してないよ」

「何かすればいいのに。文化系の部活だっていろいろあるんだし」

 文化系一択のような言い方をされ、私はそんなに文化系の人間に見えるのだろうかと思った。

「部活をやって何かメリットがある?」

「メリット?」

 佐野明は驚いた声で言った。

「メリットってどういうこと?」

「メリットって、利点とか価値とか」

「いや、まぁ何となく言いたいことは分かるけど。部活にメリットを求めるやつなんて初めてだったからさ。部活なんて楽しいからやるものじゃないの?」

 楽しいからやる。冷静に考えるとそれは確かにそうかもしれない。部活に入ることを学校から強制されているわけではないし、部活に入っていてもいなくてもちゃんと学校を卒業することはできる。では何故わざわざ部活になど入るのかと考えると、やはりそれは「楽しい」からなのであろう。メリットという言い方をするのであれば、その「楽しい」という気持ちがメリットなのだ。それ以外に無理矢理利点や価値を見出すのは間違ったことなのかもしれない。もちろん中には本気で何かを極めたくて部活に入るという人もいるだろうけど、そういう人も紐解いていくとけっきょくはそれが「楽しい」からやっているのだ。そして私にはその「楽しい」を感じられそうなものが無いから何の部活にも入らないのだろう。やはり私にとって部活に入るメリットは何も無い。

「てか逆に部活入ってない人って放課後とか休みの日とか何してるの?」

「何って、勉強したり運動したり。当たり前のことを当たり前にしてるよ」

「当たり前のことって何だよ。よく分からない」

「簡単に言うと生きていくために必要なことかな」

 はぁ、と佐野明はコーラを飲み干し缶を潰した。糖分の取りすぎだなぁと見ているこっちが気になった。それで私は耐えきれず、あんまりコーラなんて飲まない方がいいよと言ってしまう。確かに身体には良くなさそうだよなぁ、この色は、と佐野明は笑った。外に出るともう陽が暮れだしていて街全体が朱かった。スマホを見ると気付かないうちに真由美さんから三件も着信が入っていた。毎日学校を出る時に真由美さんに連絡を入れているのだが、今日はそれを忘れていたうえにもう時間もだいぶ遅くなってしまっていた。私は遅くなってすみません今から帰りますと真由美さんにメッセージを入れる。その文面が見えたのか、ごめん遅くなっちゃったなと佐野明が言う。大丈夫、気にしないでと私。佐野明は意外と気遣いのできる人だなと思った。夕方になって街の気温も少し下がっていた。空に雲は無く、ここのところ毎日のように降っていた夕立ちも今日は降らなさそうだった。

 しばらく歩いていると、住宅街の間にある小さな公園にうちの中学の制服を着た女子生徒がたまっているのが見えた。佐野明もそれにすぐ気付いた。あれ、C組の谷崎達じゃんと言われ、初めて彼女達がこの前トイレで会った三人組だと気付いた。三人とも下着が見えそうなくらい短いスカートを履いており、遊具の上で立膝をついて話していた。原田陽子と谷崎真緒は煙草を吸っており、くしゃくしゃになったマクドナルドの袋が遊具の下に捨てられていた。陽の当たり方かもしれないが、谷崎真緒はこの前トイレで会った時よりもだいぶ髪が明るく見えた。あまり品が良い色だとは思えなかった。

「まったく、何で煙草なんて吸うんだろうなぁ」

「私もそう思う」

「見つかったら停学になるかもだし、何も良いことなんてないのに」

 私もそう思う。俺、絡みたくないわ、と言って佐野明は無理に進む方向を変えた。気付いているのに挨拶をしないのはいかがなものかと思ったが、佐野明が嫌ならば別にわざわざ彼女達の近くを通る必要もない。それに変な勘違いをされるのも嫌だなと思った。

 あー、期末やだなぁと佐野明が唐突に言った。独り言だったのか私に言ったのかよく分からなかったので私は何も言わなかった。並んで歩くとやはり私の方が少しだけ背が高かった。

 でも終わったらいよいよ夏休みだな、林間もあるしなと、これは私の方を見て言っていたので確実に私に向けて言った言葉だった。私はそうだねと前を見たまま短く答える。佐野明の言う林間とは林間学校のことで、夏休みの真ん中あたりに中二全体で山間部の宿泊施設に二泊三日する学校行事のことである。そういえばこの前しおりを配布された。確かメインは登山、そして夜のキャンプファイヤーだった。二日目の夜はテントに泊まると書いてあった気がする。林間、楽しみだよなと佐野明は私の顔を覗き込んで言った。そうだね。さっきからそうだねばっかじゃんと佐野明は笑う。言われてみれば確かにそうだなと思った。

「大木はさ、何を生き甲斐にして生きてんの?」

 不意にそんなことを聞かれて驚いた。生き甲斐? と聞き返す。

「いや、だって部活もやらないし林間学校だっていまいち楽しみにしてるわけでもなさそうだし。何か難しそうな勉強してるし、生き甲斐って一体何なのかなって思って」

 生き甲斐。考えたこともなかった。スマホを取り出し改めてその言葉の意味を確認してみる。生き甲斐、生きることの喜び・張り合い。

 いや、別に悪い意味で言ったんじゃないよと、私がなかなか答えないからか佐野明は言った。難しいこと聞くのね、と私。えっ、そうかなぁ、難しいかなぁ、と佐野明は不思議そうな顔をした。何となく佐野明とは話が噛み合わない。

「じゃあ逆に聞くけど、あなたの生き甲斐って何?」

「俺? 俺はまぁ、今は部活かなぁ。一番楽しいもん」

 そう言われて私は生き甲斐の「甲斐」の意味だけをもう一度調べた。甲斐、努力した効果や、期待できるだけの値うち。何だかよく分からなくなってきた。ねぇ、そもそも生き甲斐ってどういう意味だと思ってる? と聞いてみる。んー、とにかく楽しくてさ、生きてる実感を得られるもの? いや、てかそんな真剣に考えられても困るんだけど、と佐野明は苦笑いをした。なるほど、生きている実感か。何だろう? そう言えばジョギング中に心臓がばくばく言っている時に自分は今生きているのだと実感することがたまにある。でもそれは生き甲斐とはまた違うことくらいはさすがに分かる。

「そんなマジに考えるなよー。じゃあさ、質問変えるけど、大木は何やってる時が一番楽しいの?」

「別に楽しいとか無いよ。だって、やらないといけないからやってることばかりだもの」

 楽しいなんて無い。それは自分から出た言葉だったが、ものすごく納得ができた。さっきまでモヤモヤと引っかかっていたものが頭の中でストンと落ちた気がした。私にはそもそも生き甲斐なんてものはない。正しいことをただただ続けていく命に喜びも張り合いも無いのだ。なぜなら起こりえることの全ては当たり前のことなのだから。楽しいも何もそれが当たり前。当たり前のことを当たり前にやる。甲斐なんて言葉が入る余地など無い。そんなものは仲良しクラブの考え方だ。

「何か、大丈夫かよお前」

 そう言って佐野明は私の顔を覗き込む。私は佐野明の目を見てしっかりと頷いた。私は大丈夫だ。大丈夫過ぎるくらいに大丈夫だと思う。

 マンションの手前の曲がり角で別れる。佐野明は意外と家が近いことが分かった。少し歩き、振り返ると空は完全に陽が暮れるかどうかの美しい瀬戸際だった。帰ろう。真由美さんが心配しているはずだ。静かなマンションのロビーを抜け、私はエレベーターを呼ぶボタンを押した。



 期末試験が近づき、図書室の人口密度は明らかに高まっていた。自習コーナーの机は普段はほとんど誰もいないというのに今日は全て埋まっていた。私は溜息をついて図書室を後にする。

 帰り道、少し腹が立っている自分に気付いた。それは図書室の自習コーナーが使えなかったからではない。私は今の教育システム自体に腹を立てていた。

 内申点のことがあるので生徒達は嫌でも試験勉強を頑張らなければならない。自習コーナーを満杯にして勉強する。ただ、そうして得た知識のほとんどは正直言って将来役に立つものではない。そこに腹が立つのだ。

 ポイントがズレている。例えば国語。教科書に載っている小説を読んで、この時の登場人物の考えを五十字以内で答えろ、なんて問題を解かされる。違うのだ。実社会ではそれでは終われない。もちろん読解力は必要なのだが、最終的に求められるのは課題解決なのだ。つまりは人物の考えを五十字以内で推察するだけではまだ入り口で、重要なのはそこから課題を「抽出」すること、抽出した課題を建設的に考え、組み立て「構成」すること、そこから導き出した答えを明確且つ正確な言葉、文章に落とし込み相手に「伝達」することなのだ。ここまでやって初めて意味が生まれる。社会で必要なスキルとなる。でもそんなことまでは試験では問われない。生徒達は試験のために物語の概要を覚え、誰の考えを問われても答えられるように備えたり、問題として抜かれそうな難しい漢字を文中から予想したりする。挙げ句の果てには作者の名前を間違いなく漢字で書けるよう練習する。そんなことにいったい何の意味があるというのだ。そもそもそれを「勉強」と呼んでしまっていいのだろうか。私は特に感銘を受けたわけでもない小説の作者の名前など無理に覚えたくない(感銘を受けた小説の作者であれば自然と覚えられる)。

 他の科目にしてもそうだ。英語。「This is a pen」(これはペンです)、「You are not a teacher」(あなたは先生ではありません)なんて、実際に使うことはまずないだろう。そしてそれぞれの文法に「be動詞過去形」「過去進行形」だなんて難しい名前を付けてその名称自体も覚えさせる。意味があるのか? と思う。実用性を考えると本当に大事なのは英会話の方だ。書けるようになるのは別に話せるようになってからでも構わない。旅行で海外に行った時、書くよりも話す機会の方がずっと多いのだから。いっそ、英語と英会話の授業数を逆にしてしまえばいいのに、と私は中一の頃から思っていた。

 または化学で習う質量保存の法則。化学反応の前と後で物質の総質量は変化しない、という法則なのだが、そんなことは一つの現象として頭の片隅に置いておけばいい。よほど特殊な職業にでも就かない限り、今後思い出すこともないだろう。それなのに先生はこの法則名はテストに出すぞと私達に教科書をマークさせる。

 何故今後の役に立つ見込みもないことを私達に必死で勉強させるのだろう。どうせならばもっと将来役に立つことを重点的に教えてほしい。その上での期末試験、その上での内申点ならば私だって納得ができる。これではまるでくだらないスマホのゲームアプリで現実では使えないマネーを集めているようなものじゃないかと思う。

 唯一許せるのは数学だった。数学はほとんど全てのことの基礎言語だと言える。技術、工学、芸術、そして情報科学、どれもその基盤には数学がある。今後どのような道に進むにせよ、今しっかりと基礎を学んでおく必要がある。週の中の数学の授業数をもっと増やせばよいのにと思う。体育でやるハンドボールなど、私は今後一切やる気も機会も無いと断言できる。で、あればその時間を数学に当ててほしかった。

 その日はけっきょく家に帰って勉強した。


 翌朝、変わらず二つ括りをした花田薫が、久美ちゃん、期末の勉強してる? と、私の席の横に立って聞いてくる。期末試験まで残り一週間を切った今、花田薫だけではなく教室内の話題は期末試験一色になっていた。私は内申点に踊らされ無駄な勉強を強いられている彼等(自分も含めて)を可哀想だと思った。他のみんなとは違う理由で私はこの試験前の時期が大嫌いだ。若い時間は限られている。誰だって無駄なことをするのは嫌なはずだ。

「多少はやってるよ」

 私はドライに事実を伝える。

「久美ちゃんは頭良いからなぁ。私、内申やばいから今回頑張ってるけど全然自信ないや。そんなこと言ってる間に高校受験のこと考えないとなんだけどね」

 そう言って花田薫は頭を掻く。花田薫の成績は中の下というところだ。特にレベルが高いわけでもない公立中学の中の下ということはおそらく高校もあまり良いところは望めないだろう。

「久美ちゃんはもうどこの高校行きたいとか考えてるの?」

「まぁ、まったく考えてないわけでもないよ」

 曖昧な言い方をしたが、自分の中で高校は校区内でトップの公立高校か、少し離れるがなんとか通える場所にある有名私立高校の二択に既に絞っていた。

「そっかぁ。私は正直入れればどこでもいいやって思ってるんだけどね」

 そう言って花田薫か笑うので、そのへらへらとした態度が少し癇に障り、でも谷崎真緒達とは違う学校にした方がいいよと言ってしまった。

 花田薫は唐突に出た谷崎真緒という名前に顔を曇らせた。事実とはいえはっきり言い過ぎてしまったと私は少し後悔した。でも花田薫はすぐに立ち直り、確かにそうだよねと笑顔を見せた。何故花田薫はいつもそんなに笑っていられるのか、私には理解ができない。成績といい人間関係といいとても笑っていられる状況ではないではないか。笑うより前にやることがたくさんあるのではないか。

「できれば久美ちゃんと同じ高校行きたいなぁ」

 花田薫の言葉に私はえっ、と驚きの声を漏らしてしまった。高校に行っても仲良くしたいからねと花田薫は屈託の無い笑顔で言う。私は戸惑い、何とかありがとうと言ったところで土屋隆夫先生が教室に入ってきた。じゃあねと花田薫はいつものように自席へ戻っていく。

 花田薫がそんなことを考えていたなんて知らなかった。同じ高校に行きたいということは、花田薫は私との友人関係を卒業してからも続けたいということなのだろう。いったい何のために? 私が花田薫から得られるものは正直言って今後も特別無いと思っている。同時に花田薫が私から得られるものも無いと思っていた。しかし花田薫としては何か得られるものがあると思っているのであろう。そうでないとわざわざ私と同じ高校に行って友人関係を継続していきたいなどと考えるはずはない。私が彼女に与えられるもの。何なのだろう? まったく想像がつかないまま一限目の授業が始まった。

 帰りの下駄箱で佐野明に会った。今日はこの前のような遅い時間ではなく終礼後すぐの時間だったので、下駄箱はたくさんの生徒で溢れ返っていた。佐野明は私を見つけて手を振った。私は花田薫と下校するところだった。期末の勉強してる? と、やはり佐野明も同じことを聞いてきた。多少はやってるよと私は花田薫に言ったのと同じことを言う。

 おーい、明行くぞぉ、と男子生徒数人が向こうの方から佐野明を呼んだ。おそらく友達なのだろう。佐野明は彼等におう、すぐ行くと手を挙げて返した。何となくだが、佐野明は友達が多そうだと思った。

「普段は部活直行してるからこの時間下駄箱来ないんだけど、すげぇ人だな」

「普段よりずっと多いよ。テスト期間中で部活がなくなってるからみんなこの時間に固まってる」

「あぁ、なるほど」

「部活なくて辛い?」

「いきなりなんだよ」

 そう言って佐野明は笑う。

「だって生き甲斐って言ってたから。やりたくもない試験勉強を強要されるのは不快なんじゃないかなと思って」

「不快って、そりゃ勉強は嫌いだよ。部活やりたいけど、でも試験期間だしなぁ。仕方ないって割り切ってる」

「ふぅん」

 けっきょくそんなものかと心の中でつぶやいた。でもほとんど全員の生徒がそうして試験勉強という無駄な時間を受け入れ、何となく許してしまっているのも事実だ。

 友達がもう一度、おい、明! とさっきよりも大きな声で佐野明を呼んだ。それで佐野明はじゃあなと言って帰って行った。私はその後ろ姿に小さく手を振る。

「久美ちゃん、あれから佐野君と仲良くなったんだ」

「別に仲良いとかではないよ」

 花田薫の言葉に、私は溜息混じりに答えた。

 その日はジムへ行く日だった。私は学校からまっすぐ家に帰り、すぐに制服からスポーツウェアに着替えた。洗面台の前に立ち、眼鏡を外してコンタクトレンズを入れる。私はジムに行く時だけコンタクトレンズを使う。さすがに眼鏡でボクシングをするのは危ない。しかしコンタクトレンズはコストパフォーマンスが悪いので普段使いをしようとは思わなかった。ジムに行く用意は今朝のうちにまとめてリュックの中に入れてあった。私は膨らんだ四角のリュックを背負い家を出る。ジムまでは自転車で十五分くらいだった。

 ジムに入るともうすでに何人かのジム生は練習を始めていて、バシバシとミットを打つ音が室内に響いていた。私はその音に負けないようにおはようございます、と大きな声で挨拶をする。おはようございます、と何人かの人は挨拶を返してくれた。このジムには私を含めて五十人ほどのジム生が所属している。選手コース、一般コース、中高生コース、キッズコースがあり、年齢層もボクシングをする動機もバラバラだった。私は中高生コースに入っており、これは基本的には若年層の体力作りを目的にしたコースなのだが、望めばそれ以上のことも指導してくれた。私はここでボクシングを基礎から学んだ。

 ジムの端に座りストレッチを始める。運動前のストレッチは大事だ。筋肉をほぐすことで血流が良くなり、筋肉や健の温度が上がって柔軟性が高まる。それで関節の可動域が広がって、運動のパフォーマンスも上がる。

 リングの上ではスパーリングが行われていた。片方は知らない人だったが、もう片方は井岡昇さんだった。彼は選手コースのジム生で、直接話したことはないがその実力の高さからジム内では有名な人だった。プロボクサー志願らしく大学生くらいの小柄な男性なのだが、間違いなくこのジムでトップクラスのボクサーだった。動きを見ていたら分かる。確かに井岡昇さんは強い。スパーリングは終始井岡昇さんが相手を圧倒していた。蝶のように舞い、蜂のように刺すとはよく言ったもので、井岡昇さんのボクシングからはまさにそのような印象を受けた。やがてゴングが鳴りスパーリングが終わる。二人は拳を合わせて頭を下げた。

 リングを降りた井岡昇さんはゆっくりとストレッチをする私の方に歩いてきた。じろじろと見ていたから注意されるのかと一瞬身構えたが、井岡昇さんのドリンクとタオルが私の横に置いてあっただけで、彼はそれを拾い上げてヘッドギアを外した。お疲れ様ですと声をかけると、彼は軽く頭を下げ、タオルでごしごしと顔を拭いた。近くで見ると井岡昇さんは本当にすごい身体をしていた。細身だが筋肉は絞りあげたワイヤーのように引き締まっていて、どんな鍛え方をすればこんな身体になれるのだろうと不思議に思った。プロボクサー志願、本気とはつまりこういうことなのだなと思った。おそらく井岡昇さんはコーラなど飲まない。県でベスト4などという小さな目標では満足しない。

 ストレッチを終えた私はバンテージを巻きシャドーボクシングに入る。鏡の前に立ちフォームを確認しながらパンチを打った。

 先程の井岡昇さんのスパーリングが頭によぎる。だが、あの人のボクシングと自分のボクシングを一緒にして考えてはいけない。私の身体は彼のレベルでは動けない。だから彼のようなパンチを打つことは実質不可能なのだ。で、あれば井岡昇さんのパンチのイメージは忘れるべきだ。私はとにかく正しいフォームでパンチを打つことだけを心がけた。

 しばらくすると顔見知りのトレーナーに大木、ミット打ちするか? とリング上から声をかけられた。私はやりますと返事をしてすぐにリングに上がった。グローブを付け、さっそくミット打ちを始める。ワンツー、ワンツーと心の中で呟きながら拳を繰り出す。私の拳は的確にミットを捉え、スパン、スパンと気持ちの良い音を鳴らした。

 ボクシングを始めた最初の頃はミット打ちが上手くできなかった。シャドーボクシングは早い段階で感覚を掴めたのだが、ミット打ちになるとどうしても上手くパンチが当たらず音も鈍かった。半年ほど経った頃、強いパンチを当てたいという気持ちが先行して、無意識のうちにミットに近づき過ぎてしまっている自分に気付いた。それから、ミットから少し距離を取ってパンチを打つことを意識するようにした。するとだんだんパンチがミットに上手く当たるようになってきた。やはり大事なのは意識付けだなと思った。あとはそれを感覚レベルに落とし込むまで反復練習する。今ではほぼ思った通りミットにパンチを当てられた。

 うん、良いねとトレーナーがミットを付けたまま拍手をする。

「大木、だいぶ形になってきたし、前から言ってるけどそろそろ一度大会出てみたら?」

 トレーナーはミットを外しながら言った。

「いや、まだ大会は早いと思っています」

「そうかぁ? 十分やれると思うけどな。下手したらいいとこまでいけるかもだぜ」

 トレーナーの言う「いいとこ」がどのあたりのことなのかはよく分からなかったが、私はすみません、まだ自信がなくてと再度断った。トレーナーは残念そうではあったがそれ以上は何も言わなかった。

 私自身、確かにもう大会に出てもいいくらいの実力は備わっているとは思っていた。

 少し前だが、二つ歳上の高校生とスパーリングをした。トレーナー以外とスパーリングするのはこの時が初めてだった。相手のジム生は歳も近く、お互い何も言わないが試合に臨むような意識を持ってリングで向かい合った。

 普段、シャドーボクシングやミット打ちをしている時は何も意識しなかったが、私は背が高い分リーチが長い。ミット打ちで対象から距離を取ってパンチを打つことを意識していたことが上手くアウトサイドボクシングに繋がり、私は序盤から主導権を握れた。相手の高校生はおそらく私より経験年数も長く技術もあるのだが、背は私よりも頭一つ分低かった。けっきょくテクニックでは劣るもリーチの差が最後まで活き、結果的には私優勢の一方的なスパーリングになった。私はその時初めて自分が強くなっていることを実感した。

 それでも大会に出たいとは少しも思わなかった。なぜならそれは私の目的とは違うから。繰り返しになるが、私は多少の護身術を身につけることと、健康で健全な身体を維持することのためにボクシングをしているのだ。大会に出て勲章を得たいなどという気持ちは一切無かった。それに大会に出るとなるとそれは一つの目標になり、そこに向けてコンディションを調整する等、私がまったく望まないことに神経を使わなくてはならなくなる。それが嫌で、私はずっと大会へのエントリーを断っていた。真由美さんにはあくまでエクササイズレベルのボクシングだと説明しているので、大会に出るとなるとそこに対する説明も面倒だったというのもあった。

 二時間ほどジムで汗を流し家に帰った。玄関のドアを開けると夕飯の心地良い匂いがした。靴紐を解いていると真由美さんがリビングから顔を出し、おかえりなさい今夜はクリームシチューよと教えてくれた。私はありがとうございます、さっとシャワーを浴びてきますと言ってお風呂場へ行った。私はクリームシチューが好きだった。美味しいし、栄養バランスも良い。真由美さんもそれを知っていたので、うちの夕飯のメニューには二週に一回はクリームシチューが出てきた。

 シャワーを浴びてリビングへ行くと、食卓にはもう私の分のクリームシチューがよそわれていた。部屋の中は冷房がよく効いていて、夏の夜に制汗スプレーをかけたような匂いがした。テレビでは淡々とニュース番組が流れていた。真由美さんはいつもテレビの画面は見ず、ラジオのようにその音声だけを聞いていた。私はいただきますと手を合わせてクリームシチューを食べ始める。今日は試しにレンコンを入れてみたんだけど、どうかな? と真由美さんに聞かれ、美味しいですと答える。正直、レンコンがあってもなくてもそもそもクリームシチュー自体が美味しいから美味しい。良かったと言って真由美さんも自分の分をお皿によそい私の前でシチューを食べ始める。うん、どうかと思ってたんだけどレンコンもなかなかいけるじゃない、と真由美さんは言った。

「期末試験の勉強は捗ってる?」

「それなりに捗ってます」

 家でも期末試験かと私はうんざりした。

「頑張ってね。夏休みはもうすぐよ」

「そうですね」

 いったい夏休みに何の幻想を抱いているのだろうかと思いながらシチューを口に運んでいると、夏休みにね、家族旅行に行こうかなって思ってるのと真由美さんは意外なことを口にした。

「家族旅行?」

「一泊二日だけどね。たまにはどうかなぁと思って」

 真由美さんとお父さんが再婚して以来、旅行に行ったことは一度もなかった。お父さんはいつも仕事で忙しかったし、昔から旅行が好きな人ではなかった。真由美さんにしても週に何度かは仕事に出ているし、うちの家で「家族旅行」なんて言葉が出ること自体おそらく初めてだった。

「急にどうしたんですか?」

「まぁ、なんとなくずっと行けてなかったしね。とは言ってもそんな遠くまで行くつもりじゃないわよ。近場でどっか、温泉なんてどうかなぁって思ってるんだけど。久美ちゃんは温泉好き?」

「嫌いではないですよ」

 そう答えたものの、私は温泉に入った記憶がなかった。思い出せなかった。お母さんがいた頃から考えても旅行になど行った覚えがないので、もしかしたら私は一度も温泉に入ったことが無いのかもしれない。

「林間学校はいつなんだっけ?」

「八月の六日から八日です」

「そっか。他に何か予定が入ってる日はある?」

「七月の四週目と八月のお盆明けの週に夏期講習がありますけど、一日くらいなら休んでも大丈夫だと思います。他は特別な予定はありません」

「じゃあもう七月中に行きましょうか。お父さんにも言っておくわ。もし何か都合が悪い日ができたら教えてね」

 私は分かりましたと短く返事をした。家族旅行。考えたこともなかった。ただ、温泉は少し楽しみでもあった。

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