fire

@hitsuji

第1話

 午前五時。スマホのアラームで目を覚ますと、二段ベッドの上、真っ白い天井が一メートルほど先にぼやけて見える。身体を起こしてベッドボードに置いていた眼鏡をかけると一気に視界がクリアになり、今日もまた私が私になった気がした。

 眼鏡の横に置いていたスマホを手に二段ベッドの梯子を降りる。スマホのアラームにはスヌーズ機能と言って、寝過ごし防止のためにアラームをいったん止めてもその後一定時間ごとに鳴らす機能がある。しかし一回目のアラームでいつも目を覚ます私は一度もそれを使ったことがなかった。

 二段ベッドの下は勉強机になっている。私は一人っ子なので兄弟はいなかった。片付けられた机の上には丁寧にたたまれたスポーツウェアがある。これは、私が昨晩寝る前に用意しておいたものだ。部屋の中心で深呼吸をして身体を縦に伸ばす。確かな血の流れを感じる。

 スポーツウェアに着替えてリビングに行く。カーテンが閉まった部屋は薄暗くて、お父さんも真由美さんも今日はまだ起きていないようだった。首にタオルを巻き、ランニング用のシューズを履いてマンションの外に出ると、夏の朝は煙のように霞んでいて気持ちが良かった。

 駐輪場の前でゆっくりと一人でラジオ体操第一を行う。ラジオ体操は骨、関節、筋肉を満遍なく動かすことができる。 全身への刺激は体の機能を高め、体力を増進させる効果もある。

 ラジオ体操を終え、私は住宅街を走り出す。このランニングは毎日の日課で、ボクシングを始めた小六の頃から続けている。私は今中学二年なので、もう二年続けていることになる。よっぽどの荒天でない限り毎朝十キロは走っていた。

 ランニングを日課としているのはボクシングのためである。

 が、私は別にボクシングで強くなって大会で優勝したいだとか、いつかプロテストに合格したいだとか、そんな考えはまったく持っていなかった。

 私にとってのボクシングは、女なので護身術を身につけたいという思いは多少あったものの、基本的には健康で健全な身体を維持するための運動に過ぎない。

 つまりはまず①私は健康で健全な身体を維持したい(そして多少の護身術も身につけたい)。という目的があり、その①を成し得るために、②ボクシングをする。が、ある。そして更にその②を成し得るために、③基礎体力を作るためにランニングをする。が、あるということである。③を成し得るために④毎朝早起きをする。というのもあるかもしれない。

 決まったコースを走り家に戻ると、真由美さんが起きていて、キッチンで朝食の用意をしていた。細っそりとした腕がトントンと野菜を切る音、エプロンの背中。私は同学年の中では背が高い方だが、真由美さんはそんな私よりもまだ頭一つ分背が高かった。

「おかえりなさい。毎朝早くから頑張るわねぇ」

「慣れたら何でもないです」

 私は未だ額から吹き出る汗を肩からかけたタオルで拭いながら言った。シャワー浴びるでしょう、上がる頃には朝ごはんもできてるわ、と真由美さんの声は今朝も品がある。私はすみません、ありがとうございますと、頭を下げてお風呂場へ行く。汗でびっしょりと濡れたスポーツウェアを脱いで洗濯機へ入れる時、いつも頭の中で「脱皮」という言葉が浮かぶ。眼鏡を外すとまたも視界がぼやけたが、手探りでシャワーを出して暖かいお湯を頭から浴びた。身体からどろりとした汗が流れ落ちていく感覚が心地よかった。

 お父さんが再婚して真由美さんと三人で暮らすようになってからもう三年が経つのだが、未だに私は真由美さんに対して敬語で接している。真由美さんは多分、そのことをあまり良く思っていない。何度か、ねぇそろそろ敬語やめようよ、と言われたこともある。でも私はすみませんと謝って誤魔化すだけだった。正直言って敬語を止める気はなかった。私はそれはそれで仕方がないことだと勝手に割り切っていた。なぜなら私は真由美さんに対して何も求めていないから。冷たい言い方ではあるが、これは一つの事実である。

 真由美さんとの距離を縮めて、本当の親子のように暮らしていくことによるメリットは極めて低いと思っている。反面、別に大きなデメリットがあるわけでも無いが、今後本当の親子ではないことから生じる様々な問題や課題をクリアしなければならない労力を考えると、真由美さんとは適度な距離を取って接していく方がいいと判断したのだ。私は別に真由美さんのことが嫌いなわけではない。良い人だと思う。でも私にとっての真由美さんはあくまでお父さんの再婚相手で、それ以上でも以下でもなかった。

 朝食はご飯、焼き鮭、小松菜とタマネギのみそ汁、ひじき入り卵焼き、青汁だった。朝食は基本的には真由美さんが作ってくれる。再婚当初に朝食はパンがいいかご飯がいいかと聞かれたので、タンパク質、炭水化物、ビタミン、ミネラルのバランスが取れたものにしてほしいとお願いした。普通の人だったら厳しいお願いだったのかもしれないが、真由美さんは現役の看護師で、多少なりとも栄養バランスに対する心得を持っていたので引き受けてくれた。

 私は食卓に座り、いただきますと手を合わせて朝食を食べ出す。食べ物への感謝は基本。そして朝食は良い。咀嚼によって脳が刺激される。食べ物を飲み込むと胃腸が働き始め、体内が消化のために動き出す。朝食はいわば、体を起動するためのスイッチのようなものだ。時間が無くて食べない人も多いと聞くが、何故ちゃんと食べないのか、私には理解ができない。だいたい時間が無いとは何なのだろう。時間は間違いなくそこに有るはずなのだ。あとはそれを使うか使わないかだけの問題である。

 食べることに集中をしていると、もうすぐ期末試験よね? と真由美さんに声をかけられた。いつの間にか真由美さんは私の正面に座ってコーヒーを飲んでいた。

「もうすぐと言ってもまだあと一月ありますけどね」

「じゃあ、まだ少し先か。頑張ってね。終わったら夏休みだからね」

 と、真由美さんは笑顔を見せた。私はそうですねとだけ言って卵焼きを口に運ぶ。勉強をしているかどうかを聞かないのは、私の成績がいつも学年の中でもかなり上位の方なので、ある程度安心しているからなのだろう。だが、終わったら夏休みだとわざわざ言う心はいったい何なのだろうか? と思った。別に夏休みだから何かがあるというわけでもないのに。



 七時に家を出るとだいたい七時半には学校に着く。登校時間は早い方ではあるが、私より先に来ている生徒も何人かいる。私は席につき、Pythonの本を開いてプログラミングの勉強を始めた。これも毎朝の日課だった。

 これからの時代はプログラミングの能力が必須だと私は考えていた。現在人間が行っている多くの仕事が、今後AIの仕事になっていくことは目に見えている。良くも悪くも、これから単純作業の仕事は人間の手からどんどん離れていくだろう。何かの本に「AIに取って代わられることを恐れるのは間違いだ。人々はAIを一つのツールとして利用し、AIと共存していく中で新たなビジネスを生み出すべきだ」と書いてあった。この言葉の全てが間違っているとは言わないが、どうしても綺麗事に聞こえてしまう。何をどう言おうとAIの影響で職を失う人は間違いなくいるのだ。新たなビジネスの波に乗れなかった人は溺れ死ぬしかないのではないだろうか。私はそんなのはごめんだ。それで考えた。AIとは言っても所詮は人間が作ったものだ。今後もその域は絶対に超えない。人間が作るものである限り、それを作る人間が必ず必要となる。プログラミング、職業でいうとシステムエンジニア。これは将来確実にニーズが高まる職種だと思う(現に今でもすでに人手不足になっていると私が読んだ本には書いてあった)。そこを目指すのはごく当たり前なことだと思う。つまりは①私はAIが人間と取り代わる時代でも生きていける人間になりたい。その①を成し得るために②プログラミング能力を習得してAIを作る側の人間になる。その②を成し得るために③早くからプログラミングを勉強する。その③を短期的かつ具体的に、④中学生の間にまずはPythonを習得する。という道筋を描いている。Pythonを選んだのはAIの分野で使われることが多い言語で、且つ初心者向けだとの評価を目にしたからだ。朝、本を読んで学んだ内容を帰ってから家のパソコンで実際に試してみることにしていた。そうやって学び→実践のループを繰り返し、技能を習得していく。今後、また新たな目標を立てて扱える言語をどんどん増やしていきたい。私はそのように正しい道を正しく歩く。

「久美ちゃんおはよう」

 八時二十分にクラスメイトの花田薫が来た。彼女は学校に来ると、自席に鞄を置いたあと必ず私の席に来る。これも毎朝のことだった。

「おはよう。花田さん」

 花田薫は私が唯一話をするクラスメイトだった。彼女は今日も襟足までの髪を頭の両サイドで二つ括りにしていた。背が低く小太りな外見でただでさえ幼く見えるのに、その髪型のせいでなおいっそう幼く見えた。そのことが原因で一部の女子生徒からは「小学生」と馬鹿にされて、いじめ(私から見るとそれをいじめだと思う行為)を受けているというのになぜか彼女はこの二つ括りを一向に止めない。しかし別に本人がそれでもいいと思ってこの髪型を止めないのであれば私が何を言う必要もないと思っている。

「プログラミングの本は進んでる?」

「ちょっとずつだけど進んでるよ」

 そんなことを聞いてどうするつもりなのだろうと思ったが、とりあえずありのままの事実を伝えた。そうして先生が来るまでの数分間、私達は当たり障りのない話をする。その間、私はずっとPythonの本を開いたまま席に座っており、花田薫はその横に立っている。

 ガラリとドアが開き担任の土屋隆夫先生が教室に入ってきた。席を立っていたクラスメイト達がまるで水面を打たれた鯉のように散り、それぞれの席へ戻っていく。花田薫もその一人だった。またね、と言って自席へ戻っていく。私はPythonの本を閉じ、深く息を吸い込んだ。学校での一日が始まる。



 お母さんは私の視力が悪いことを極端に嫌った。

「私の子なのに目が悪いだなんて信じられない」

 と、何かにつけて言われた。お母さんは自分が理解できないことを頭ごなしに否定するところがあった。

 私の視力は小一の夏を境に今も下降の一途を辿っている。お父さんは視力が悪かったので遺伝を疑うのならばそちらの家系だった。しかし、視力について親から遺伝するのは、私が調べた限り幼児の頃から症状が出るものだけらしく、悪くなり出した時期から考えて、私の視力低下の原因はおそらく遺伝ではないと思われる。私はゲームもしないし、テレビもあまり見ない。特別目に負担をかけるようなことをしてきた覚えもなく、何が原因なのかは未だにはっきりとは分からない。

 確かにお母さんは視力が良かった。裸眼で両眼とも2・0だと言っていた。私では到底読めない遠くの看板の文字を見事に読み当てるその様は、まるで優秀なガンマンのようだった。

 あんた、本当は他所の子なんじゃないの? なんてことまで言われた。冗談っぽい言い方ではあったが、それでも幼い私は傷付いた。今思えばあの頃から自分の娘に対する気持ちはもうどこか違うところに向いていたのかもしれない。

 お母さんは働いてはいなかったのだが、私が小学校に入る頃には家にいるのは週のうち三日ほどだった。当時、私は他の家を知らなかったので、どこの家でもお母さんとはそういうものなのだと勝手に思い込んでいた。でもそれは普通じゃなかった。それに気付いたのはお母さんとお父さんが離婚した時、私が小三の時だった。

 ある日、学校から帰るとお父さんと近所に住んでいたお婆ちゃんがいて、何やら深刻そうにリビングで話をしていた。聞いてはならないことなのだろうと子供心に思い、私は自分の部屋に一人戻って宿題をした。しばらくするとドアがノックされ、お父さんが部屋に入ってきた。お父さんは、いきなりで申し訳ないのだけど、と前置きをした後、お母さんはもうこの家には帰って来ないから、と私に告げた。急にそんなことを言われて、私は頷くしかなかった。離婚したんだと言われ、もう一度頷いた。それがもうどうしようもない決定的な事実だということはお父さんの声のトーンから分かった。

 部屋の入り口で私達を見ていたお婆ちゃんは、怒りを隠すこともなくお母さんの名前を汚い言葉のように吐き捨て、罵った。お婆ちゃんは昨年癌で亡くなったのだが、こんなに怒っているのを見たのは後にも先にもこの時だけだった。

 それからしばらくはお父さんとお婆ちゃんと三人で暮らした。寂しくないことはなかったが、私はお母さんがもうこの家には戻らないという事実を早い段階で受け入れられていた。

 暮らしの中、二人の言葉の端々から、お母さんは私の知らない男の人と出て行ったのだということが分かった。でも私はそれほど傷付かなかった。むしろそれならば良かったのではないかと思った。ちゃんと離婚して家を出て、私の知らない男の人と一緒になる。それがお母さんにとっての正解で、幸せになれる道だったのであれば、仕方がないことではないか。

 私は別に自分が不幸だとは思わなかった。お母さんがいなくなってもお父さんは荒れるわけでもなく普通に仕事に行っていたし(二人の夫婦関係はもう随分前に破綻していたのだと思う)、お婆ちゃんも内心では怒っていたのかもしれないが、私にとっては今まで通りの優しいお婆ちゃんだった。私だって何も変わらず学校に通っていた。そこにお母さんがいないというだけで日々は淡々と続いていた。であれば、家を出たお母さんが今どこかで幸せなのであれば、それで全ては良いところに収まったということなのではないか。そう思っていた。

 真由美さんが来たのはそれから二年後だった。こちら、真由美さんとお父さんの紹介は手短かで、どう考えても初めて会う人を紹介するには言葉足らずだった。真由美さんも真由美さんで、初めて会う私に対して緊張しているのか終始オドオドしていて、初めて会った日は何だかよく分からないうちに終わった。それから何度か三人で食事をした。それはレストランだったり私の家だったり。そのうち何回かはお婆ちゃんもいた。真由美さんは真面目で品のある人だったので、最初は警戒していたお婆ちゃんも、いつしか真由美さんを気に入ったようだった。何度か顔を合わせるうちに、真由美さんがお父さんにとって特別な人であることは私にも分かった。

 ある日のレストランでのディナーの後(その時は三人で、確か私は小さなバニラアイスを食べていた。二人はホットコーヒーを飲んでいた)、お父さんな、真由美さんと結婚することにしたんだ、とまたも唐突に告げられた。私はお母さんが帰ってこないと言われた時と同じように頷いた。その時、真由美さんはお父さんの横で照れ臭そうに笑っていた。人によってはそれを受け入れられなかったかもしれないし、ひどく腹を立てたかもしれない。でも私はそんなことは思わなかったし、腹も立たなかった。何度か会う中で、もしかしたらという気持ちもあった。だから特別な驚きもなく自然とそれを受け入れられた。もちろんそれはあくまでお父さんの再婚相手として、という話である。私はこの時から一貫して真由美さんを自分のお母さんの代わりにする思いはなかった。

 やがてお父さんは真由美さんと再婚して三人で暮らすようになった(真由美さんが来たタイミングでお婆ちゃんは元々住んでいた家に帰った)。お母さんも幸せになって、お父さんも幸せになって、それで全ては良かった。そのはずだった。それが崩れたのは真由美さんがうちに来てから一年後、私が小六の時だった。

 ある日、学校から帰ってきたら玄関の前に知らない男の人が二人いた。私は一瞬足を止めたが、彼等は私の家へ帰る誰かを待っていたようで、私の一瞬の躊躇を逃さなかった。

「ここの家の子?」

「そうですけど」

 私は答えた。本当のことだ。急に知らない男の人達に声をかけられて怖くはあったが、ここは間違いなく私の家なのだし、極力堂々とした。一人の男の人がもう一人の男の人の耳元で何かを話し、言われた方の男の人が私に、君はもしかしてこの人の娘さん? と、一枚の写真を私に見せた。写真に写っているのは間違いなくお母さんで、私は数年ぶりにその顔を見た。反射的に頷くと、驚かせてごめんね、おじさん達警察の人間なんだけど、と男の人はいつか刑事ドラマで見たのと同じように黒い手帳を懐から取り出して私に見せた。身体が固まり血の気が引いた。息がしづらくなった。その時ちょうど買い物に出ていた真由美さんが帰ってきた。男の人二人に取り囲まれている私を見て、いったい何なんですか、と怪訝そうな顔をしたが、警察だと分かると真由美さんは目に見えて怯み、二人を家の中に入れた。

「部屋に入っていなさい」

 二人をリビングに通した後、真由美さんは私の耳元でそっと言った。一緒に話を聞きたいと言っても多分真由美さんは許してくれなかっただろう。だから私は素直に部屋に入った。二段ベッドに寝転がって閉じたドアを見つめる。壁の薄いマンションなので、集中すると途切れ途切れではあるが真由美さんと警察の人の話し声が聞こえた。会話の中、お母さんの名前、そして「詐欺」という言葉が何回か聞こえた。「逮捕」という言葉も二回出た。それらの言葉は重く、私の身体にかかる重力が増えていくのを感じた。お母さんは何か悪いことをして警察に捕まったのだ。一時間後にお父さんが帰ってきた。聞こえてくる声は、怒っているようでもあったし困っているようでもあった。

「もう関係の無い人ですから」

 途切れ途切れの会話の中、その言葉だけははっきりと聞こえた。お父さんの声だった。踏み切りが降りるような、灯りが落とされて部屋が真っ暗になるような、何かをはっきりと遮断するような一言だった。やがて警察の人達は帰っていった。

 何の会話も聞こえなくなった部屋の中、私は眼鏡を外してベッドボードに置いた。いつものように視界がぼやける。やはり私は目が悪い。それでも私はお母さんの子供だ。

 私はお母さんの人生を心から惨めだと思った。幸せになっていたのではなかったのか? いったいどこで何を間違えてそんなふうになってしまったのか。犯罪に手を染めた時か、お父さんと離婚した時か、いや、それよりもずっと前かもしれない。お母さんは自分でも気づかないうちに失敗をして、ゆっくりと破滅に向かっていたのだと思う。そして最後は遮断された。

 私はそんな惨めな人間になるのは絶対に嫌だと思った。怖いと思った。私は間違いのないことだけをして間違いのない人間になりたい。心からそう思った。

 ボクシングを始めたのはそれからだった。最初は真由美さんに反対されたが、本格的なものではなく、あくまでエクササイズレベルだと説明して何とか理解を得た。プログラミングの勉強を始めたのも同じ頃だ。今後続いていく人生に対して、何が必要で何が正しいかを考えてそれを実行する。迷う必要なんてない。正しさとはけっきょくのところは合理性で、少し頭を使えばこれは実にシンプルなものなのだ。本を読んだりネットで調べたりしたら、だいたいのことは分かる。私は絶対に間違えない。



 佐野明との出会いは言葉の通り唐突だった。

 お互い不注意ではあった。プールの授業終わりに私は更衣室から出たところで、クラスの違う佐野明はこれからプールの授業へ向かうところだった。それで更衣室へ続く曲がり角を曲がる時にジャストのタイミングでぶつかった。最初は何が何だか分からなかった。急に鼻と左の瞼の上に激痛が走って、反射的に顔を手で覆った。殴られたのかと思った。ごめん、大丈夫? と知らない男子の声が聞こえて初めて誰かとぶつかったのだと分かった。大丈夫、と言いたいところだったがすぐに大丈夫という言葉が出て来なかった。痛い。顔を覆っていた手を外すとべっとり血が付いていた。眼鏡が曲がってしまっているようで視界が歪んだ。ぶつかった男子は顔に見覚えがあったが名前は知らなかった。とりあえず持っていたハンカチで瞼の上の血が出ている部分を押さえた。おそらく眼鏡のレンズで切ったのだろう。鼻もまだズキズキと痛いが鼻血は出ていないようだった。ごめん、保健室行こう、とその男子生徒は私に言う。彼の方も痛そうに右目を閉じていた。彼は私より少し背が低く、おそらく右目の辺りを私の鼻にぶつけたのだろう。そこに花田薫が通りかかった。久美ちゃん、血が出てる! とやたらと大きな声で騒ぐ。大丈夫だから、と私は少し落ち着いてきた。え、でも血出てるって、と何故怪我をした私よりも通りすがりの花田薫の方が狼狽えているのか、理解できず少し腹が立った。

「ちょっと見せて」

 そう言って男子生徒は自分の瞼の上を指で差した。私は押さえていたハンカチを外して瞼の上を彼に見せる。

「けっこう切れてるよ。消毒しておいた方がいい」

「大丈夫。血もそのうち止まるから」

 私はそう言って歩き出そうとしたのだが、そこに次の授業に向かう体育の先生が通りかかった。何だ、怪我したのか? と、先生も声が大きい。しかしこの先生の声が大きいのはいつものことだった。曲がり角でぶつかって、と男子生徒が状況を説明する。そうか、分かった。悪いけど彼女を保健室まで連れて行ってくれるか、と先生は花田薫に言った。花田薫は何か重大なことを仰せつかったかのように緊張した声ではい、と答える。溜息が出そうになった。ここまではっきりと先生に言われてしまったのでは保健室へ行かざるを得ない。

 君、組と名前は? 二年B組の大木です。私はこの先生の名前を知っていたが、この先生は私の名前を知らないようだった。お前も怪我したのか? 先生が男子生徒に聞く。いや、僕は大丈夫です、と彼は答えた。目の上が少し腫れているように見えた。あなたも保健室へ行った方がいいんじゃないの? と言おうと思ったが、それより先に先生がじゃあお前はそのまま授業に出ろ、と言ってしまった。彼はもう一度私にごめんな、と謝り更衣室の方へ歩いて行った。

 私は花田薫に連れられて保健室へ行った。保健室の先生に消毒をしてもらう頃にはもう血は止まっていた。切れたところに白いテープでガーゼを貼ってもらった。保健室の先生は、大丈夫だと思うけど頭の怪我だから念のため少し横になって休んでいきなさいと言った。私は別にいいですと断ったが、花田薫も休んでいきなよといつになくはっきりとした声で言って、二対一になり私は仕方なくベッドに横になった。

 保健室のベッドは四方を白いカーテンで仕切られていた。ベッドサイドに丸椅子が一つ置いてあり、それに花田薫が腰掛ける。まるで入院したかのような気持ちになった。曲がってしまった眼鏡はかけ心地が悪く、気持ち悪かった。

「出会い頭にぶつかったの?」

「うん。お互い走ってたわけじゃないからそんなに強くはぶつかってないんだけど、当たりどころが悪かったみたい」

「でも血が止まって良かった。私ほんとにびっくりしちゃって」

 しちゃって、で急に言葉を切るからその先に何か続くのかと思ったが花田薫はそれ以上は何も言わなかった。保健室の中は静かだった。音楽室や視聴覚教室のように何か特別な防音をしているのか? と思えるくらいだった。

 ぶつかった彼は大丈夫だったろうか。そんなに大きな怪我ではないとは思うが、向こうだって頭の怪我であることは変わりないので、私同様に保健室で休むべきだったのではないかと思う。そういえば私は彼の名前を聞いていなかった。あの時間にプールに向かっていたところをみるとおそらく同学年なのだとは思うが。

「花田さん、私がぶつかったあの男子の名前分かる?」

「あぁ、佐野明君でしょう」

 花田薫は足を伸ばして前屈のような体勢を取りながら言った。緊張はもう解けて、いつもの花田薫に戻っていた。佐野明という名前にはまったく聞き覚えがなかった。

「私、小学校も同じだったから。確かD組で、サッカー部に入ってると思うよ」

 そっか、と私は言った。

 あ、ちょっと寝る? 私はそろそろ授業に戻ろうかなぁ、と花田薫は私の顔色を伺うように言った。確かに花田薫までいつまでもここにいる必要はない。

「ごめん、気が付かなくて。私ならもう大丈夫だから、花田さんは先に教室に戻ってて」

「うん、分かった。じゃあ無理しないでね」

 と花田薫は立ち上がり、小さく私に手を振って、やがてカーテンの隙間に消えた。私はカーテンに囲まれた部屋とも呼べない小さな区間の中で一人になる。静かだ。保健室の先生もいつの間にか席を外しているのであろうか、部屋の中は物音一つしない。この学校の中では今、たくさんの教室でいくつもの授業が行われているはずなのに、この静けさはいったい何なのだろうか。佐野明。彼は今、おそらくプールで泳いでいるのであろう。横になったままカーテンの端をめくってみると、窓枠の四角形とカーテンの直線によって三角形に切り取られた青い空が少しだけだが見えた。



 ある日の休み時間、久美ちゃん、一緒にトイレ来てくれない? と花田薫に声を掛けられて一瞬きょとんとした。

「別にいいけど、何で?」

「うーん。ちょっと一人では入りづらくて」

 何故トイレに入りづらいのか私にはよく分からなかったが、特別断る理由も無かったのでお願いされた通り一緒にトイレに行った。それで花田薫が一人でトイレに行くのを躊躇していた理由が分かった。

 女子生徒が三人、トイレの鏡の前に集まって談笑していた。彼女達は昨年から花田薫をいじめている女子グループだった。花田薫はトイレの入り口で彼女達を見つけて一瞬強張った様子を見せたが、何も言わずに後ろを通り抜けて足早に個室に入って行った。彼女達は彼女達で花田薫に気付き、にやにやと印象の悪い笑みを浮かべていた。三人のうち二人は隠すことなく煙草を吸っていた。煙たくて、私は無意識のうちに眉間に皺を寄せる。別にトイレに行きたかったわけではないのだが、せっかく来たのだからと個室に入った。パンツを下ろして用を足していると、そういえば花田薫はいつもこの二年生用のトイレには行かず、教室移動がある時なんかに別の階のトイレに寄っていたな、と思った。あまり意識していなかったが、あれはおそらく彼女達がたむろするこのトイレに来たくなかったからなのだろう。私はここが彼女達のたまり場になっていることすら知らなかった。

 私が個室から出てもまだ花田薫は出てきていなかった。鏡の前にはまだ彼女達がいる。先程と変わらず談笑していた。それはそれで別に構わないのだが、私としては手洗い場で手を洗いたかった。用を足した後にちゃんと手を洗わないと糞口感染で良くない病気をもらってしまう可能性がある。ちょっとごめんなさい、と私は彼女達の間に身体を入れて水道の蛇口を捻った。より感染リスクを下げるためにセンサー式の水道に変えてほしいといつも思うのだが、私立ならまだしもお金の無い公立中学ではなかなか難しいだろうなと諦めていた。ポンプを二、三度プッシュして緑のハンドソープを出し、手の中でしっかりと泡立たせた。手首までちゃんと洗うことが大事なのだ。そうしてゆっくりと手を洗っていると横から視線を感じた。見ると、三人のうちの一人、煙草を吸った女子生徒が嫌悪感を隠すこともなく私のことを睨んでいた。彼女は確か、谷崎真緒だ。中一の時に同じクラスだった。今は確かC組だったか。肩までの髪は茶色で、少しパーマを当てているように見えた。完全に校則違反だ。近くで見ると化粧も濃い。去年からそういった印象はあったが、どんどん進化しているように思えた。ついに煙草まで吸うようになったのか、と思いながら手洗い場から退いてハンカチで手を拭く。花田薫はまだ出て来なかった。遅いなと思った。しかし一応友達としてこの状況は彼女が出てくるまで待っていてあげるべきなのだろうなと思い、私は谷崎真緒達がたむろしている後ろに立ち花田薫を待った。

 ふと、花田薫は生理になったのではないかと思った。それで嫌だったが仕方なく急遽このトイレに来たのではないかと思った(わざわざ違う階のトイレにまで行かなかったのは彼女の最低限のプライドではないか)。

 初経が来るのはだいたい十~十四歳の間と言われている。私はまだ来ていない。スポーツをしている等、いくつかのことが原因で初経が遅れることはあるらしいのだが、一般的な初経時期から考えると少し遅い。真由美さんは中三になっても来ないようであれば一度婦人科へ行きましょうと言って心配していたが、私としてはそこまで重くは考えていなかった。楽観視をしているわけではなかったが、本気で心配するにはまだ早いような気がした。

 水が流れる音がして、ゆっくりと花田薫が個室から出てくる。話し声が聞こえていたのか谷崎真緒達がまだいることは分かっていたようで、顔は強張ったままだった。彼女は俯き加減でトイレを横切り、三人の身体に当たらないように微妙な体勢になって手洗い場で手を洗った。三人のうち一人(同じクラスの原田陽子だ)が、花田薫の顔を覗き込み、でっかいうんこ出た? と言ってからかう。それで他の二人も笑った。花田薫は怯えたような顔をして何も言わず、足早に外へ出て行こうとしたのだが、無視かよ小学生と谷崎真緒に二つ括りの片方を掴まれて止まった。痛い、止めて、と花田薫が泣きそうな声を出すと三人は声を出して笑った。何が面白くて笑っているのか、私には一切分からなかった。何なら不愉快な気持ちになった。多分、その感じが伝わったのだろうが、別の一人(確かC組の足立美香だ)が今度は私に対して、何だよ、とやたらと低い声で凄んできた。やめて! と花田薫が叫ぶ。彼女はやはり少しヒステリックなところがある。叫んだのは花田薫なのに、何故か三人とも私を見ていた。花田薫に対してそれほど興味が無いのであれば、初めから絡んだりしなければいいのにと思った。おい、お前も無視かよ、と今度は谷崎真緒が私に言う。お前だなんて、去年同じクラスだったのに私の名前を覚えていないのだろうか。

「煙草は身体に良くないですよ」

 雰囲気的に私が何か言わないといけないのかと思ったので言ってみたのだが、見事にその場の空気が凍りついた。本当は「いじめは良くないよ」と言いたかったのだが、花田薫がこれをいじめと認識しているのかどうかも分からなかったし、「いじめ」は少し強い言葉かと思い気を遣って言わなかった。しかし結果的にはあまり皆がしっくりこない一言を言ってしまったようだった。

「は? 何お前?」

 足立美香がそう言って私の制服の襟を掴む。確かにちょっと場違いな発言だったかもしれないが、そこまで怒らなくてもいいのにと思った。何がそこまで彼女の気に触ったのか。

 一方の私はいたって冷静だった。足立美香の顎が空いている。決めようと思えば簡単に右フックを決められるなと思った。しかしグローブを付けていないので、拳で殴るとなると最悪私の指が折れてしまう可能性もあった。人間の骨は硬いのだ。やはりここは掌底だろうか。それでも良い場所に当てれば軽い脳震盪くらいは起こすことができると思う。一撃で足立美香をやったとして、その勢いで後ろにいる谷崎真緒にも同じように掌底を入れる。次は左で。そうすると多分、残る一人原田陽子は友達が一瞬で二人もやられて急に一人になってしまったショックからもう向かっては来ないのではないかと思った。さすがにナイフ等の凶器を隠し持っているということはないだろう。さて、そうなると残る問題は私自身だ。今描いたシナリオを実行したとして、それは立派な暴力行為である。この状況、正当防衛と言うにはまだ少し弱い気がする。花田薫が証言をしてくれたとしても何らかの処罰を受ける可能性はある。つまらない暴力行為で処罰を受けるのは、もちろん私にとって正解ではない。それに処罰を受けて変に目立つのも嫌だった。花田薫も含め、私がボクシングをしていることをクラスメイトは誰も知らない。

「こいつ、焼く?」

 谷崎真緒がそう言って煙草を私に向けた。残りの二人はいいね、やっちゃえやっちゃえと笑った。焼くというのはつまり、あの煙草を私の身体のどこかに押し当てるという意味だろう。私は、まぁ、そこまでされたらさすがに正当防衛として認められるかと思った。花田薫が、本当に止めて! と叫ぶ。私は右手を掌底の形に握った。その時、何? 今止めてって叫び声しなかった? とトイレの外から女の人の声がした。C組の担任の永野幸子先生の声だ。それで谷崎真緒達は慌てて個室の方へ逃げ込み、トイレを流した。おそらく吸っていた煙草を流したのだろう。

「何かあった?」

 と言って永野幸子先生がトイレの入り口から中を覗き込んだ。

「いえ、大丈夫です。何でもないです」

 花田薫は迷わず言った。何故今起きたことを正直に話さないのだろうと私は思ったのだが、今花田薫が谷崎真緒達のことを正直に先生に話したら、彼女達はおそらく学校から何かしらの処罰を受けることになるだろう。そうなるとまたそれに対する報復を自分が受けることになると、花田薫は瞬時に予想したのではないか。なるほど、その展開は確かに有り得る。なので私も花田薫に合わせて何もなかったですと言った。谷崎真緒達は今こうしている間もトイレの個室内に隠れているのだ。そう考えると馬鹿らしくて笑ってしまいそうだった。何故そんなリスクを負ってまで休み時間に学校で煙草を吸わなければならないのか、全くもって理解に苦しむ。永野幸子先生はふぅんと言ってぼさぼさの頭を掻いた。もう一方の手で教科書を抱えていて、トラブルだったら嫌だなという感じが見て取れた。まだ二十代であろう若い先生なのだが、この人はいつもどこかめんどくさそうだった。

「特にどこも、怪我とかはない感じ?」

「はい」

 花田薫の返事は少し上ずっていた。しかし言っていることは嘘ではない。誰もどこにも怪我は無い。永野幸子先生はまぁ、それなら、と呟いてトイレの中を見渡した。私は永野幸子先生はトイレが煙草臭いことに気付かないのだろうかと思った。先生自身も喫煙者なので、自分も煙草臭いから気付いていないのか。確かに今も先生のポロシャツのポケットには煙草の箱が入っているのが見える。そろそろ授業始まるから教室戻れよと言って永野幸子先生は立ち去って行った。

 花田薫は私の手を握ってすぐにトイレを出た。冷たい手だった。それは冷水で手を洗ったせいか、それともまた違う理由か。久美ちゃん、ごめんね、本当にごめん、と花田薫が謝った。私は全然大丈夫だよと言った。私、急に生理になっちゃって、と花田薫は少し照れ臭そうに言った。あぁ、やっぱりそうだったのかと私は思う。やがて授業が始まるチャイムが鳴り、私達は足早に教室へ戻っていった。

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