依存
私は彼と、幾度も──何日にも渡って対話を続けました。対話と言っても、彼が一方的に私に問いを投げかけ、私が自分の意見を伝えるというだけのものであって、結局のところは彼の内情も何も聞けていないのですが。
ですが彼は何処か、このやり取りを楽しんでいるように思えました。私も同じく、樹林の奥へ通っては他愛のない難しい話をするという一連が、面白いもののように思えていました。
終わりも間近な夏休みの半分以上。課題も何もかもを放って、数本の氷水を手提げにし、昼の厚さしのぎから夕涼みまで、彼と大岩の上で談笑をする習慣。夏休みが終わってしまえばこの日課もできなくなるのだという事実は、私の心に物足りなさのようなものを植え付けました。
それと同時に私は一つ、忘れていたことを思い出しました。彼が自殺志願者であることです。思えば彼はいつも、その様相に不似合いなよれた服を着て、白い新品の麻縄を持っていました。
それは、彼が未だ死にたいと思っていることの証明でした。
夏休み最終日。溜まった宿題を片すため、私は朝から机と向き合って居ました。普段であれば、昼食を食べた後はすぐさま着替えて森の奥へ向かうのですが、長期休暇も終わるということで、さすがに課題に手を付けないわけにはいかなかったのです。
宿題というものが、ワークを数ページだったりプリントを数十枚だったりと、私が思うよりもかなり量が多かったもので、その日私が樹林へ向かうことができたのは、空も茜色に染まり始めた夕頃でした。
緑陽も日染めになり、ひぐらしが物悲しげな声で鳴いています。かき分ける草花の足元からする鈴虫の声は、秋が訪れようとしていることを暗に示していました。この数日間踏みしめ続けた、林冠の開いた広場の雑草は、頭を下げて土を露出させています。私は茂る森の合間を早足で抜けると、木陰に隠れた大岩の元へ向かいました。
「おや、遅かったね。でもそんなに急いでくるほどの場所じゃあないだろうに」
彼の隣へ乗り上げ、肩で息をしながら天を仰ぐ私へ、彼は呆れたように苦笑してみせました。早く会いたくて走ったと思われてるのではと恥ずかしくて、私の頬はきっと赤くなっていることでしょう。夕焼けの色と混じって、きっと彼にはわからないと思いますが。
彼はいつもと違って、その傍らに麻縄を置いておらず、代わりに何処かで詰んできたと思われる猫じゃらしを一本持っていました。彼の元へ向かうのが遅れるほど、彼が既に死んでしまっているのではという可能性に苛まれていた訳ですから、今日は彼は自殺するつもりはなかったのだという明らかな事実は、私にとっては安堵感をもたらす最上の要素です。
彼は珍しく、即座に問答を始めることはしませんでした。いつもであれば、私が大岩に腰掛けたのを見計らって、哲学的な問題を投げかけてくるのですが。
暇を持て余した私は、自分から話しかけるでもなく、ぼうっと景色を眺めていました。そこでふと手持ち無沙汰なことに気が付き、そういえば氷水を持ってくるのを忘れていたことを思い出しました。とはいっても今日は、夕刻というのもあってかとても涼しく、蒸すような湿気もないように思えるので、大して辛くはないかもしれません。
これほど涼しいと、もう少し田舎で家明かりの無い地域ならば、日が暮れた頃合いに川沿いに向かうと、蛍が数匹見られそうです。東京の郊外のちょっとした山間の小川ですと、周囲に建物の明かりが多いのもあって、蛍が寄り付かないのですが。
「僕はここに何度も来たことがあって、でも怖がりで死ねないでいた。自殺者たちにもちょっとしたコミュニティみたいなものがあってね。ここで会った人と会話をすることが多々あるんだ。会話をした日は、お互い死なずに帰ったりする。でも話せなかった日に自分が遅れてここへ来たら、その人が死んでることがあった。それが、君が見つけた死体だよ。そうやって相互干渉して、共依存みたいに縋り合って、生きながらえてるようなものだ」
脈絡もなく白石さんがそう言ったのを聞いて、私は驚いて思わず彼の様子をうかがってしまいました。しかし思い詰めたような素振りはなく、寧ろあっけらかんとしていて、日常会話の一つとでも言いたげな顔で笑っていました。
「他人事のような話だが、きっと僕はいつか死ぬ。今日死のう今日死のうと思って、何度もここへ訪れているのだからね。でもどうか、君が訪れたときに僕が死んでいても、決して挫けないでほしい。思い込みがすぎる話かもしれないが、君はとても心優しい人だから、考え込んでしまうだろう。けれどどうか生きてほしい」
私は、自分の耳を疑いました。彼が発している言葉はすべて聞き間違いで、本当は私に、今日は天気が良いだとか風が涼しいだとか、そのような中身のない話をしているのではと思いました。
発言が信じられないというのもありましたが、同時に、彼がそれほどまでに自分の意見を軽いもののように言ってのけているからこそのものでした。飄々として掴みどころのない人だとは常々思っていたのですが、日々を死の間際で過ごしているにしては、あまりにも淡々としているように思えます。
彼と出会ったばかりの私であればきっと、死ぬのは良くないですよと言って彼を引き止めていたことでしょう。ですが彼と交流を交してしまった私は、そう容易く引き止めることができませんでした。
勿論、死んでほしくなどありません。責任無く引き止めることができないのです。夏休みは直に終わり、私は学校に通い始めるでしょう。そうなると、彼と会うことも容易ではありません。これからも一緒に話そう、たまに会おうと口約束を結ぶのは簡単です。
ですがその言葉を吐いて彼を引き止めるには、私は彼が腹の中に抱える感情を知りすぎてしまいました。
彼は、死を重いものだと思っていないのでしょう。そもそも、死が辛く冷たいものだと思われたのがいつのことからかはわかりません。ですが彼はその傾向から漏れ、死という概念が身近な存在でいる期間が長かったからこそ、いつ訪れてもおかしくはないような軽いものになってしまったのではないでしょうか。
私は何も言うことができず、唇を噛み締めて拳を握りました。そんなことを言うなと声を荒らげることも、同情して頷くこともできず、ただ彼の横顔を見つめていました。
「ごめんね。僕は君の頭を撫でてあげることもできないんだ。今の御時世、それもセクハラになってしまうからね」
彼が困ったように眉を下げるのを見て、私は、もどかしくて仕方がありませんでした。それと同時に、死体を見つけたあの日、私を保護してくださった警官の方が、私を落ち着かせようと背中を擦ってくださったのは、彼女が女性警官だったからなのだなと思いました。
「嗚呼、もう夏休みも終わりか。はやいねぇ」
私達の前を連立って飛んでいった赤とんぼの番を見て、白石さんがぽつりと呟きました。
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