言葉
「嗚呼、本当に来たんだね。僕を牽制するための嘘か何かかと思っていたよ」
明くる日の昼過ぎ。分厚い曇天が空を覆う蒸すような湿気の中、私は襟元をばたつかせながら森の中へ入っていきました。冷凍庫で一晩冷した氷水のペットボトルを二つレジ袋に提げて、既に見慣れた木々の合間を抜け、先日腰を掛けていた大岩の元へ訪れると、何処か辛辣に思えるような語調で、白石さんが私を迎えました。
「一度関わってしまったんですから、死なれては寝覚めが良くありません。罪悪感とまでは言いませんが、居心地の悪さのようなものを感じますので」
「嗚呼、結局は自己満足ということだね」
「そう思っていただいて構いません」
私は強情を装った大仰な身振りで岩の隅──彼から最も遠い端の方に腰掛けました。
「嗚呼そういえば、これをどうぞ。なにぶん暑いですから、水分補給は忘れずに。脱水状態にならないようお気をつけて」
ふと思い至ったように彼を見上げると、私はその宙に投げられた足の側に歩み寄って、腰の傍らにペットボトルを一本置きました。汗をかいてずぶ濡れになったそれは、既に熱気に当てられて、半分ほど溶けてしまっていました。彼はそれを手に取ると、おかしなものでも見るようにまじまじと観察しています。
「瀬戸くん、君は変だね」
「急ですね、何かおかしなところでもありましたか?変なことをしたつもりはないのですが」
「曲がりなりにも、僕は自殺志願者だ。脱水症状も熱中症も気にしなくて良い。例えそれで息絶えようとも本望なのだから、むしろ水分を取らないのは推奨されることだろう」
目を瞬かせて見る彼に、私は思わず深く嘆息してしまいました。
「熱中症とかって、頭とかが意外と痛いんですよ。身体も怠くて動かないですし、それで死ぬとしても何時間もかかるでしょう。人間というものは、意外と長時間水分をとらなくても死なないと聞きますし」
「確かに、死ぬならせめて苦しくないままにというのは一理ある」
納得の言ったように頷く彼を見て、私は頭痛を覚えて眉間を押さえました。私が言いたかったのは、死ぬというのは苦しいことだから辞めるべきだということであって、手段を変えろと言いたいわけでは無かったのですから。
「昨日、僕は君に言っただろう?出会ったばかりの人に内情を話す人間は、自己顕示欲の塊だって。その言葉、取り消させてほしい。きっと精神的に参ってしまった人間も、藁にもすがる思いで誰かに救いを求めるものだ。つまり、赤の他人だからこそ話せることもあるだろう。特に深い意味はないから、聞き流してくれて構わないが」
長々と語った彼に、私は数度大きく頷きました。自殺を止めると宣言した手前、人生相談のようなそれを無視するわけにもいきません。私は大岩の隅に逃げていたのを、彼の側へにじり寄ると、彼を見上げるようにして話を聞きました。
「瀬戸くん。好きな名言は何かあるかい?」
「名言ですか。あまり著名な方の言葉というのは知らないのですが、マリー・アントワネットが死ぬ間際に処刑人の靴を踏んでしまった時、わざとじゃないんですよと謝ったという話は好きです。その時代のお嬢様特有の雰囲気というか、これから処刑されるというのに余裕がある様が素敵だなと」
「瀬戸くんは、マリー・アントワネットの名言というよりは、その生き様が好きなのかい?」
「そうなのかもしれませんね。その話が事実かはわかりませんが、死が近くなっているというのに、恐ろしいという気風を見せないところが好きになった訳ですし」
なるほど、といいながら彼は大袈裟に頷いて見せました。彼の容貌の奥から木漏れ日が差し、どこか後光のようにも思えるそれに眩みながら、光輪に浮かぶ彼の容貌を見つめます。一口に言って彼は、とても顔立ちが良い人でした。優しい声音も魅力的で、会話を交わしていると眠くなるような、心地の良い喋り方をする人でした。
長話が退屈というわけではありませんが、窓際の席で五限目の数学を受けたときのような、眠気を誘われる安心感があるように思えます。
「難しい話をしようか。死というものが恐ろしいと思われるようになったのは、何時からだろうね。アーネスト・ヘミングウェイは『この世は素晴らしい。戦う価値がある』『人生について書きたいなら、まず生きなくてはならない』『人間の価値は、絶望的な敗北に直面して、いかにふるまうかにかかっている』という言葉を、瀬戸くんはどう思う?僕は、生きていなければ人間に価値がないとでも言いたげだなと思ったよ」
彼の問いに、私は頭を悩ませました。どちらかといえば私は、生きとし生ける存在の姿を賞賛する言葉を多く残しているなとは思いました。思い悩む人を鼓舞するような、人生の素晴らしさを説くようなものではありそうです。
「頑張れ、と言いたいのではないでしょうか」
「確かにそうだね。しかしこの人は他にも『あちこち旅をして回っても、自分から逃げることはできない』という言葉も残しているんだ。馬鹿らしいとは思わないかい?散々頑張れ生きろと言っておいて、結局は如何にもならないのだと現実を突きつけているのだから」
私は彼の言葉に、思わず口を噤みました。介入する隙がないほどに、のべつ幕なしに吐かれる一言一句が、重苦しく思えて仕方がありませんでした。そう思ったのが何故かはわかりません。
ですが私はどうしても、彼がその名言に対して思うところを言う度に、その奥で見え隠れする息苦しい本心のようなものに同情するような感覚を覚えてしまうのです。彼の内情は知りません。ですが、過去の偉人に毒を吐くほどに何か辛い感情を抱いているのだなと、何かを察してしまうのでした。
「逃げて死ねば価値が無い敗北者。しかし生きている限り、大嫌いな自分自身から逃げることはできない。であれば僕は、一体如何すれば良いのだろうか」
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