希死念慮
「君、名前は?」
一際大きく葉の広がった木陰の下で、冷たい肌を晒して黙している大きな岩は、炎天下を避けながら涼やかな空気において、最高の避暑地でした。彼は麻縄を持ったままに私を手招くと、樹林の中を数メートル進んだ先にある大岩の元へ、私を誘ったのでした。
彼はその大岩の最高部──とはいっても精々二メートル程度の高さではありますが──へ、岩肌の凹みに足をかけて器用に登ってみせるました。私は其処まで登る気力も、そもそも彼に対する信頼も未だなく、大岩の隣の岩の群の一つに腰を掛け、彼を見上げて言いました。
「瀬戸です。浅瀬のセに、戸口のトで、瀬戸です」
「瀬戸くんか。学生さんかい?」
「はい、高校生です。貴方は?」
「僕は白石。白色の石で白石。このナリを見て貰ってわかると思うのだけれども、言うまでもなく、無職の自殺願望者だよ」
白石と名乗った彼が死のうとしているということを、私は改めて理解することができました。こんな夏木の茂る中に麻縄一つ持って入り込む人間が、何か良くないことを考えていないはずがないのですが、少し冷静になった私の頭は、もしかしたら自分の早とちりか何かだったのではと、期待の気持ちも持っていました。
私は何か自殺願望があったりする訳ではなく、確かに思春期らしく思い悩んで自己否定に陥ることはありますが、死んでしまおうだなどと早まった考えに至ることは、今までに一度も経験したことがありません。そう考えてみると、私は大層幸せな環境に暮らしているのでしょうか。
「この手の人にとっては、ここは絶好のスポットなのだよ。樹海──と呼ぶには名ばかりの森の中だが、ここならば人に見つかりにくいし、死んだところで誰かの迷惑にもならない。といっても先日の彼は、君がすぐさま死体を見つけてしまったし、警察のお世話にもなってしまったのだけれどね」
木漏れ日を見つめて笑う彼の瞳には、憂いのような感情が滲んでいるように思えました。同時に私は、彼が語る言葉全てに対して、理由のわからない悲しさを覚えます。それが何故にかはわかりません。
先日死体を見たばかりなので、ここを好んで自害する人がいるという事実を理解してしまったからなのか、死んでまで人の迷惑を考えなければならないのかだとか、何故死のうだなどと思ってしまうのかだとか、そのような現実に対しての物悲しさでしょうか。
「彼は、田所くんと言うのだけれどもね。最近行方不明者として張り紙がされたり報道がされていた人なんだが、君は知らなかったのかい?」
私が思い悩む間も、彼は言葉を紡いでいました。私を見下ろす彼の問いかけに慌てて首を振ると、私は先日の人──田所さんというらしい男性が死んでいた方向を、ぼうっと見つめて溢します。
「存じ上げませんでした。あまりテレビは見ないので。警察の方が後になって、亡くなった男性が行方不明とされていた方だと教えてくださったので、その時に知りました」
「そうか。まぁ、報道が情報源の最先端だった時代なんて、何年も昔のことだからね。知らなくても仕方がないことだ。スマートフォンを使うと、自分の好きな情報だけを選り好みして入手することができるから、必然的に興味のない情報が排斥されて、知識が偏りがちに──」
「あの。一体如何して貴方は、死のうだなどとおっしゃるのですか」
白石さんの言葉を遮って、私は問いを投げかけ、彼の顔を見上げてみました。するとどうやら彼も私を見下ろしていたようで、私と彼の視線がふと交わります。
私には彼のその目が、酷く恐ろしいもののように思えました。濡鴉の髪から除く、女性的な流し目。濃げ茶混じりの双眸は、私を──いえ、私ではない何処かを見つめていました。何処か思い悩んで上の空のように思えますが、上澄みで濁り固まったものを庇っているような、危うく深層の伺えないものを抱えているようでした。
「うーん、厳しいことを言うかもしれないが、初対面の君に容易く話そうとは思わないな。僕達は先程合ったばかりで、近所に住んでいるだとか、昔からの知り合いという訳ではないだろう。そんな人に自分の事情を話そうだなんて思うのは、自己顕示欲の塊か、自殺願望を服にしただけの目立ちたがりだ」
私は一瞬、息を呑みました。考えてみれば当たり前のことです。こうして座って会話をしているとはいえ、私と白石さんは出会って数分程度の仲なのですから。赤の他人に踏み込んでほしくない領域というのは、あって当たり前のものでした。私にだって当然、そういうものがあるのですから。
「私、帰ります」
「そうか。じゃあね」
居心地が悪くなって、私は服を叩いて立ち上がりました。表情と思惑のわからない彼の声が、頭の上からかけられます。ですが、彼の顔を見る気にはなれませんでした。私は、ムキになったように──いえ。実際は、正論のようなものを言われて恥ずかしくなってしまったのですが──早足で立ち去ろうとしました。
しかしふと、頭の片隅にとある考えが思い浮かびます。もしも私がこのまま立ち去ったとして、彼がその場で首を吊ってしまったとしたら、未来の私はどう思うでしょうか。冒険のような好奇心で見つけたこの場所に規制線を張られ、立ち入りができなくなったとしたら。
死んでしまった人の最後の会話の相手が私になったとしたら、私はとても複雑な気持ちになるのではないでしょうか。それがどのような感情なのかは知りませんが、居心地の悪さを覚えるのに違いありません。
「でも、また来ます。やっぱり死ぬのは良くないことだと思うので」
口ごもりながらそう言うと、一瞬彼が息を呑んだように思えました。
「けれどもそれは、君の意見だろう?」
「ですが私はそれが正しくて、それがやらなくてはいけないことだと思っています。なので、私は貴方が死にたくないって思えるように頑張ります。そのためには、何度だって止めてみせますので。それでは!」
言い切ると、彼の呆れた笑い声を背にしながら、私は帰路につくことになりました。
そうして、私が自殺者と相対する夏休みが始まったのでした。
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