悪者とお姫様-2

 夕飯の寿司をたらふく腹に入れ、昔のようにバラエティ番組を見て、眠くなった頃にぽつぽつと寝室に散っていく。何てことはない、「いつも通り」の夜だ。


(私が帰って来る必要、なかったじゃん)


 都会から三時間を掛けて帰省したというのに、特別なイベントも何もない。この無駄な時間が嫌いで、有意義に時間を使いたくて、この家を出たのだ。


「……寝る」


「ちゃんとお腹隠して寝なさいよー」


「分かってる」


 汗を垂らすコップをシンクに置く。父は未だにテレビの前にいるし、母は濡れた衣類をハンガーラックに掛けている。


 室内干しは生臭い、とよく言うが、うちのは洗剤がよいのか気になったことがない。既に馬鹿になっていたかもしれない鼻を擦ってスポンジを取り上げる。水道を開けてスポンジを潜らせて、くしゃくしゃと握れば、しぼんでいた泡たちが復活する。


 母は泡をスポンジについた泡を完全に流さないタイプの人間だ。その遺伝子は私にも受け継がれており、以前彼氏を家に招いた時にひどく驚かれた覚えがある。


「あー、放っておいていいよ、食器。眠いんでしょ」


「んー」


 濡れた洋服を振ってシワを伸ばしながら母が言う。


 父がやらない家事の手伝いをしてやろうと思ったが、母はお気に召さないらしい。しかし途中で投げ出すのも気に障るため、たった三つの湯呑と醤油皿、それから寿司桶を洗い上げる。寿司桶は寿司屋のタキおじさんに返却するから、より丁寧に。


「ありがとね、助かるよ。でもせっかく帰って来たんだし、ゆっくりしてていいのよ?」


「それはこっちの台詞。――お父さんもたまには家事、手伝ったら?」


 テレビを眺める広い背に呼び掛ければ、声の代わりに大きなおならが返ってくる。「汚い」と顔を歪める母。数年前と全く変わらないやり取りに安堵するどころか、気色悪さすら覚える。


 まるで時間が止まっているかのようだ。


 田舎の時間の流れは遅い。バスや電車の本数、道端で駄弁を交わす住人たち。どれもが時計に追われず、己の時間を歩み続ける。都会の喧騒に飲まれ、不可視の電波で繋がる不確かな友とともに一日一日を過ごす己とは正反対だ。


(もうここは、私の家じゃないんだ)


 生家ではある。しかし住処ではない。この場所にいても、永遠に心が休まることはないのだ。


(知りたくなかった)


 この家は両親のものだ。私のものではない。いつか介護のために戻るかもしれないけれど、きっとその時を迎えても、この家が私のものになることはないのだろう。


 皿の水を切り、布巾で拭う。バラエティ番組のわざとらしい笑声を視界に収めれば、SNSで話題の芸能人たちが子供のようにはしゃぎまわっている。


 己の魅せ方を知り尽くし、計算された表情。およそ自然とは言い難い顔が、なぜだか懐かしく感じた。


「お皿、洗い終わったけどしまっていい? 場所、変わっていない?」


「ああ、そのままでいいわよ。お母さん、自分でやらないとどこにしまったか分からなくなっちゃうから」


 年かねぇと笑う母に、上手く笑みを返すことができただろうか。炊飯器の上に置いていたスマホを引き取って、溜まっていた通知を開く。


 彼氏からだ。大学入学当初に出会った、都会生まれ都会育ちの培養種。私からの返事が途絶えたことに不満を表しているらしく、「大丈夫?」やら「何かあった?」やら舌先の言葉が五分単位に送ってくる。


 力のこもる眉間を隠すように居間を後にして、暗い廊下を歩く。自室への道のりは、目を瞑ってでも分かる。液晶の光も月明りも届かない、湿った闇。


「……毎日毎日連絡するのメンドいな」


 おまけに、すぐに返信をしなければ安否を尋ねるほどの心配性だ。一時は、彼から送られてくるクエスチョンマークすらかわいく見えたものだが、今では見る影もない。潮時なのであろう。


 潰れた枕に頭を放ると、再びスマホが震えた。通知をチェックするのも億劫になって、スマホをカバンへと投げ付けた。


(これから先のこと、意識しないわけでもない。でも、バツはつきたくない。……サヤちゃんは怖くなかったのかな)


 サヤちゃんが結婚した。


 けれど、そんな連絡は一つもなかった。


 当然である。私はサヤちゃんとの連絡手段を持っていない。実家の住所は分かるけれど、SNSや電子メールが発達したこの世の中で手紙を出すのも変な話だし、そもそもこの土地に住んでいないかもしれない。結婚したのなら、新たに家を持っても何ら不思議はないのだ。


 サヤちゃんとは中学校まで同じ学校に通っていた。サヤちゃんはとある大学付属高校、私は近所の普通科高校に進学した。


 高校では電車通学が確定していたサヤちゃんは、中学校卒業時にはすでにスマホを持っていて、私に連絡手段の交換を求めたが、私は応えられなかった。スマホを持っていなかったのである。そう明かすのも気恥ずかしく、「LINE、やってないんだよね」と口にすれば、サヤちゃんは少し寂しそうに笑った。


 そこからである、サヤちゃんと顔を合わせなくなったのは。


 片や電車通学、片や自転車通学。家を出る時間帯が合わず、お互いに部活やらバイトもしていただろうから休みも合わず。だらだらと月日を過ごすうちに一年、二年と、気づけば相手の顔はあどけない中学生で止まっていた。


「髪、茶色くなってたら発狂するかも」


 くせっ毛を弄りながら、案外サヤちゃんの黒髪を気に入っていたことに気づく。それを自覚すれば自ずと件の少女――いや、今やすっかり変貌を遂げたであろう未知の出で立ちも脳裏にちらつくわけで、微睡まどろんでいた目は次第に覚醒していく。


 自覚すればなおのこと目は冴え、もうすっかり眠れなくなってしまった。

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