十三話 来つ寝

 もうこれ以上は走れないというほど、がむしゃらに走った。

 まっすぐに伸びる信号の少ないバイパス沿いを、ほとんど一秒も休まずに。


 そうして到着した目的地でスマホをみると、時刻は午後五時三分。

 運動不足の自分が約五キロを三十分で走破したという事実に驚きつつ、僕はあたりを見渡した。


 女化神社は、いましも夕暮れを迎えつつあった。

 鎮守の森の空に初夏の陽は傾いて、境内の一切を朱色の残照 ざんしょうに染めていく。

 本殿も手水舎 ちょうずやも無数の鳥居も、それにあの特徴的にして象徴的な狛狐も。

 日没に向けて、色彩は刻一刻と鮮やかさを増す。


 僕は夕暮れ時が好きだ。一日の中で、この時間帯が一番好きだ。

 いつの間にか好きになっていた。


 きっと、たぶん、『夕』の字を名前に持つ女の子と出会ったことがきっかけで。


「……夕声」


 想いに貫かれて呼んだ名前は、境内の静けさに吸い込まれるようにして消えた。

 なんとなく、彼女がそこにいるような気がした。


「……夕声!」


 もう一度呼んだ。

 呼べば呼ぶほど切なくなって、その切なさが彼女への恋しさを加速させた。

 鼻の奥がつんとした。なにかが目頭を熱くした。


 いったい、どんなことを話せばいいのだろう?

 いったい、どんな言葉なら彼女の胸に響くだろう?


 僕はしばし悩んで、考えて、それから。


「ねぇ夕声、覚えてるかな? 僕がタヌキ屋敷で文吉親分にした『むじな』の話」


 そう切り出した。


「いや、ほんとあのときは無茶苦茶怖かったよ。あんなにビビりまくったのは僕史上はじめてだし、今後更新されることもまずないだろうって気がする。文吉親分のことは好きだけど、僕にとってあの人はやっぱり恐怖の対象だよ」


 僕は話す。話し続ける。

 あたかもそこに夕声がいるかのように。


「それで、むじなのことだ。僕はあの夜こう解説したんだ。神話の太古において、むじなという言葉はあらゆる獣の総称だったと。サルもタヌキもイタチも、それにもちろん、キツネだってむじなだった。でも文献を紐解いてみると、どうやらキツネはかなり早い段階でキツネとして固有に呼ばれるようになっているらしいんだ」


 それはなにがきっかけだったと思う? と問いかける。

 もちろん返事はない。

 返事を得られぬまま僕は続ける。


「キツネをむじなから切り離して『キツネ』たらしめたのは、実は物語……しかも、異類婚姻譚なんだ。平安初期に著された日本霊異記に収録されている『狐を妻として子を生ましめし はなし』。タイトルからもわかる通り、ストレートに狐女房の話だ」


 そこに夕声がいると信じて、そこにいる彼女に語りかけるつもりで、僕は話す。


「これは、世の狐女房の原型みたいなお話だ。妻を探していた男が荒野で出会った美しい女を妻に迎える。女はやがて子供を産むが、男の飼っていた犬がしきりにこの女に敵意を見せ続け、ある日ついに噛みついてしまう。もちろんこの女はキツネで、噛みつかれて本性を暴かれた彼女は泣く泣く男と子供の元から去って行く。どうだろう、ここまでは実にオーソドックスな狐女房だろ?」


 だけど、と僕は言って、続ける。


「だけど、ここからがひと味違う。この男は妻を諦めなかったんだ。去って行く妻に追いすがり、次のように訴えかけた。『キツネだろうとなんだろうと、俺とお前は子供まで作った仲じゃないか! だから、帰って来て今まで通り一緒に寝よう!』と。来て寝よ、転じて、『来つ寝』。それが君たちの、キツネの由来だ」


 そこまで話して、それが限界だった。

 もうそれ以上は気持ちを抑えられなかった。


 昂ぶる感情にまかせて、僕は叫んだ。


「僕には君が必要だ! だから、夕声、帰ってこい! 夕声、『来つ寝』!」




「……スケベ」

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