最終章 来つ寝

一話 椎葉先生

「それじゃあ、『桔梗』っていう名前は小次郎くんがつけてあげたんだね」


 僕が聞くと、小次郎くんは「はい」と言って肯いた。

 短い受け答えにもハキハキとした性格が表れている。なるほど、僕がクラスメイトでもこの子をリーダーに選ぶ。


「龍ケ崎の市の花からもらったんです。誰かに名前をあげることなんてはじめてだったんで、とにかく堅実にって思って……安直だったでしょうか」

「とんでもない。これ以上無いほど素敵な名前だと思うよ」


 本心からそう言った僕に、小次郎くんがはにかんだ笑顔で応える。

 夕声が羊羹 ようかんを乗せた皿を持ってきてテーブルの上に置いた。文吉親分が小次郎君に持たせた手土産だった。

 夕声はそのまま腰を下ろして、羊羹を一切れ口に運んだ。


 空梅雨の年の晴れた午後だった。網戸の向こうからは庭で遊んでいる子ダヌキたちのはしゃぐ声が聞こえる。テーブルの上では麦茶のコップが汗をかいていた。

 そろそろエアコンが必要な時期だなぁ。


「椎葉先生」


 ぼんやりとした男でおなじみの僕がぼんやりとそんなことを考えていると、小次郎くんがまっすぐな視線で僕を見据えていた。


「し、椎葉先生?」


 鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔で(きっとそんな顔をしていたに違いない)復唱した僕に、横から夕声が「先生だよ」と言った。


「あんたはあの文吉親分に認められたんだ。人間の癖して、あの小貝川の文吉に一目置かせたんだ」


 だから椎葉先生なんだよ、あんたは。そう言って、夕声はもう一切れ羊羹を食べた。


「椎葉先生」


 唖然としている僕を、もう一度小次郎くんがそう呼んだ。

 それから、小次郎くんは正座に姿勢を改めて、両手を拳に固めてフローリングに手をついた。


「このたびのこと、本当にありがとうございました。僕と桔梗の為に、先生がどれほどご尽力くださったのか、叔父からよくよく言い聞かせられました。叔父が申しておりました。『わしはお前らを認めたのではなく椎葉くんを認めたのだ』と。このご恩は、生涯かけて必ずお返しいたします」


 そう言って小次郎くんが、床につきそうになるくらい深々と頭をさげた。


「や、やめてよ。そんなこと、子供がやるもんじゃない」


 僕は慌てて言った。


「あのね、君はものすごくしっかりしてるけど、でもまだ子供なんだ。というか、子供でいていいんだ。無理して大人になることなんかないんだよ。大人になにかしてもらっても、ありがとうって言ってそれでおしまいでいいじゃないか。一生恩に着るなんて、そんなのはいらないんだよ」

「椎葉先生……」

「いや、いろいろ考え方はあるから君の周りの大人がどうかはわかんないけど……。でも、少なくとも僕は、子供を子供でいさせてあげるのが大人の役割だと思ってる」


 だから、とりあえず僕に対してはそれでいいんだよ、と僕は言った。


「こういう奴なんだよ」


 きょとんとしている小次郎くんに夕声が言った。なんだかえらく得意そうに。


「……夕声姉さんや叔父が惚れ込むわけだ」


 ややあってから小次郎くんが言った。


「先生は、たいそうな化生 ひとたらしですね」


 そう言った小次郎くんは、さっきよりも子供らしい笑顔を浮かべていた。

 それから、しばらくいろいろと話をしてから小次郎くんは我が家を辞する。


「あ、そうだ。小次郎くん」


 玄関をあけた小次郎君を、上がり框の上から呼び止めた。


「まいんバザールでの平将門、すごくよかったよ」


 僕がそう褒めると、小次郎君は照れながら「ありがとうございます」と言った。


「でも、将門公のこと全然知らないまま演じちゃったから、それはちょっと反省です」


 今度学校の図書館で伝記とか借りて読みます、と小次郎君。うん、是非そうしてみるといいよ、と僕は言った。

 そうして少年は玄関を出た。最後にまた丁寧に挨拶をして。


「……? おい、なにニヤニヤしてんだよ?」


 僕のにやけ顔に気付いた夕声がそう追求してくる。


「別に。ただ、桔梗っていう名前はほんと、これ以上ないほど素敵だなって思ってさ」


 律儀な子だから、小次郎君は近いうちにきっと言った通りにするだろう。

 そうして将門公の伝記を読んだ彼は、運命的な偶然を知ることになるだろう。


 将門公の幼名が『相馬小次郎』で、その愛した人の名が『桔梗姫』であったことを。

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