十話 夕声ぎつね

 栗林夕声と僕が出会ってから、およそ三ヶ月になる。長いようで短い、だけどべらぼうに濃密な三ヶ月だった。


 出会ったその夜から、彼女はとりもなおさず『自分はキツネだ』と主張し続けた。正体を少しも隠そうとせずに、むしろ積極的に彼女はそれをアピールした。

 だけど、夕声がその証左を僕に披露したことは、これまでに一度も無かった。たとえばタヌキたちのようになにかに変身して見せてくれたりとか、あるいは本性であるキツネの姿を見せてくれたりとか、そういうことは。折に触れ僕が『狐の姿を見せてくれ』と頼んでも、からかうように一言『スケベ』と言ってかわしてしまうのが常だった。


 だから、彼女がそれを切り出したのは、波瀾万丈を極めたその夜にあってさえ最大の衝撃だった。



   ※



 文吉親分からの伝言を携えて階段を上っていると、二階から物音が聞こえてきた。

 急いで部屋に駆けつけた僕と夕声が見たのは、内側から檻に体当たりを繰り返しているアライグマと、そのアライグマを心配そうに見守っているタヌキだった。


「お、おい! やめろよ、怪我しちまうよ!」


 夕声が慌てて檻に近づくと、それまで後ろに控えていたタヌキが前に飛び出して、アライグマを庇うようにして威嚇の声をあげた。


「ふ、二人とも落ち着いて! 文吉親分が君たちのことを認めてくれたんだ! だからもうそんなに荒ぶらなくていいんだよ!」


 僕が夕声の肩越しにそう呼びかけても、タヌキの……小次郎君の剣幕は少しも緩みはしなかった。前肢を突き出した前傾姿勢に身構えて、牙を――意外なほどに鋭いその牙を剥き出しにしながら、くぐもった唸り声をあげ続ける。

 顔見知りであるはずの夕声を全身全霊で敵視する小次郎くんの姿は、完全に野生動物としか見えなかった。


「……ダメだな。煙に巻かれすぎたんだ」


 完全に理性を失ってやがる。そう言って夕声は首を振った。


「こうなったらもう、変化へんげの力を取り戻すまで人の言葉は通じないよ」

「どうしよう……下からタヌキのひとに来てもらう?」


 僕の提案に、夕声は再び首を横に振った。


「それもダメだ。文吉親分がわざわざあたしたちに伝言役を頼んだ意味、わかってないだろ。いまのこいつらの前にタヌキなんか連れてきたらパニック起こしちまうよ」


 よっぽど怖い思いしたんだろうな、と夕声は嘆息した。

 檻の中の小次郎くんと桔梗ちゃんを僕は見る。手負いの獣同然に追い詰められた二人を、早く許されて認められた少年と少女に戻してやりたかった。

 だけど、今この場面で僕に出来ることは、どうやら本当になにもないようだった。


「……わかっちゃいたけど、やっぱり僕は、悲しいほどに普通レギュラーなんだな」


 自分の無力を嘆いて、やれやれと僕が言った、そのときだった。


「……あのさ、ハチ」


 夕声が僕に言った。ひどく不安そうな声で。

 そしてその不安の向こうに、なにかを決意したような声で。


「悪いけど、しばらく部屋を出ててくれるか?」

「理由は?」


 もちろん僕はそう問い返す。だってそんなに決然とした調子で切り出されて、どうして理由 それを確認せずにハイハイと聞き入れられるだろう?


 逡巡の間があった。夕声は答えるのを躊躇って、気まずそうに視線を床に落とす。

 やがて、そうしていても埒があかないことを夕声は理解したようだった。僕が彼女をじっと見つめて、片時も目をそらさなかったからだ。


「今のこいつらには、人間もタヌキも言葉を届けられない。人の姿をしているあたしも」


 さらに少しだけ言い淀んだあとで、夕声は、だから、と続けた。


「だから、あたしがやる。あたしがこいつらを救う。あたしが……元の姿に戻って」


 元の姿。それは、つまり。


「キツネの姿に戻るってこと?」


 夕声が、小さく、だけどはっきりと肯く。


「……あたしはこれから、人ではない姿をさらす。だから、あんたにはそのあいだ、部屋を出ていて欲しいんだ」


 部屋を出て、ふすまを閉じて、ついでに目もしっかりつぶっててくれ。

 夕声はそう言った。ほとんど懇願するように。


「……もしも中を覗いたらどうなるの?」


 僕がそう言うと、夕声は悲しそうに笑って、わかってるくせに、と言った。


「そしたら、あたしはあんたの前からいなくなる。永久に」


 答えたと同時に、夕声が泣き出しそうな顔になる。自分で口にした仮定に、自分で傷ついたみたいに。


 その瞬間、僕の内側に様々な理解が生まれた。

 夕声が頑なに狐の姿を見せようとしなかったこと。にもかかわらず、彼女が『自分はキツネだ』と主張し続けたこと。

 矛盾していると思われた事柄すべてに合点がいった。

 つまり夕声は、彼女は僕にキツネである自分を受け入れて欲しくて、同時にそれによって拒絶されることも恐れていたのだ。


 正体を知られた狐嫁のように、僕の前から去らなければいけなくなることを。


「もしも狐の姿を見られたら、君は僕の前から消えてしまう」


 あらためて確認した僕に、夕声が痛切な表情で肯く。

 そんな彼女の顔が、あまりにもけなげで、愛おしくて。

 だから、僕は言った。


「そっか、それじゃあ――絶対にお断りだね」


 夕声が、びっくりした顔で僕を見た。


「部屋は出てかない、目も瞑らない。ああ、全部お断りだね」

「え……だっ……なんで…・…」

「僕は断固としてここにいる。ここにいて、君の狐の姿をとっくりと拝ませてもらう」


 宣言するようにそう言って、続けた。


「君が狐だろうが人間だろうが、僕はもうとっくに君を受け入れてるんだ。だったら、いまさら瞑れと言われて目を瞑るのは、それこそ君との友情に悖ることになる」


 だから出てかないし、目も瞑らない。


「それにさ、最初から目を瞑らないでおけば、いつか魔が差して目を開いた時に君を失うって危険もなくなる」


 だったら瞑らない方が絶対得じゃん。そう冗談めかして僕は言った。

 夕声はなにも言わなかった。なにも言わずに、しばらく両手で顔を覆っていた。


 ややあってから、夕声は意を決したように、ただ一度だけ力強く肯いた。

 そして。


「……『とっぴんぱらりのぷぅ』」


 夕声がそう唱えた瞬間、彼女の輪郭がぐんにゃりと歪んだ気がした。

 それから、目眩に似た感覚がやってきた。僕はたまらず目頭を押さえて瞑目する。


 そうして目を開けたとき。

 夕声の姿は消えて、その空白に滑り込むようにして一匹の狐が現れていた。


「……!」


 その狐の美しさに、思わず息を呑んだ。

 真っ白な、雪よりも真っ白な毛並みの白狐だった。アルビノではない。瞳はうばたまという言葉を想起させる艶めいた黒で、そこにははっきりと知性の輝きが宿っている。


 狐は檻に近づくと、鉄柵の外側から中の二匹に小さく鳴きかけた。

 すると、檻の中の二匹はさっきまでの猛り狂いが嘘のようにおとなしくなって、狐に応じるようにこちらもまた小さく鳴く。それから、少しでも狐に近づこうとして鉄柵に顔を近づける。

 三匹の獣たちは、鼻面を至近に接して、かすかな声でしばし鳴き交わしていた。


 その様子を、僕は言葉もなく見守っている。

 言葉なんてどこかに忘れ去って。


 やがて、檻の中の二匹は丸くなって眠り始める。お互いに身を寄せ合って、お互いの体温でお互いを温めるようにして。

 それを確認したあとで、狐はゆっくりと、静かに檻から離れた。


「ぐ……」


 僕が再びの目眩に襲われたのはそのときだった。

 そうして目を開けた時、美しい狐の姿はもうどこにもなかった。

 僕の目の前には、いつもの姿の、いつもの夕声がいた。


「……お、おっす」


 いつもの彼女が、いつもの挨拶をした。なんだかひどくバツが悪そうに。


「えっと……こいつらのことはこれで大丈夫だよ。もうなんにも心配いらないんだって、ようく言って聞かせたからさ」

「う、うん」


 ぎこちない空気が僕と夕声の間を流れていく。


「そ、その、あの」


 ややあってから、夕声がおずおずと声を発した。


「……あの、どうだった?」


 ひどく不安そうな顔で彼女はそう聞いてきた。


「あ、うん、ええと……」


 僕はどうにか言葉を探して、ようやく答える。


「すごく綺麗だった……」

「……は?」

「だって、見るからに触り心地のよさそうな、完璧を越えて完璧な毛並みで……あの、今度一度モフらせて欲しいって言ったら、これってセクハラとかに当たるかな?」


 コンプライアンスを気にしつつも最大限に素直な感想を口にした僕を、夕声が呆れきった顔で見つめている。なんだその反応は?


「え、どうだったって、そういうことじゃないの?」と僕。「ああ、狐の姿を見てなにか君に対する意識が変わったかってこと? 最初に言ったけど、そんなの変わらないよ。その程度で見る目を変えるには、この三ヶ月で僕は君に鍛えられすぎてる」


 そんなの当然とばかりに僕がそう答えると、夕声はしばし言葉を失って。

 それから、二つの瞳からぽろぽろと涙をこぼしはじめた。


「え、ちょ、え……」


 女の子の涙に慣れていない僕は、今夜の無様を更新するほどに取り乱してしまう。

 そんな僕をよそ事に、夕声は泣いた。声をあげて、子供みたいに泣きじゃくった。

 そうしてしばし泣いて、泣いて、泣き続けたそのあとで。

 彼女は泣きはらした顔の上に、とびきりの笑顔を浮かべて僕に言った。


「スケベ」





 親分たちに挨拶をして屋敷を辞した時には、すでに日付が変わっていた。

 雨はやんでいた。さっきまでの土砂降りが嘘のように、あるいはそうしてざんざんに降りしきったおかげで空が水切れを起こしたものか、薄い雲の向こうには月さえ眺めることができた。


 いい夜だな、と僕は思う。

 夕声とはじめて並んで歩いた、あの初午の夜のように。


 あの夜と同じように、僕の隣には夕声がいる。僕らの会話は途切れていて、だけど少しも気まずさを感じたりしない。重くもなければ気まずくもない、安らかな無言の間。

 これが本来の沈黙だ。僕が彼女と共有する沈黙は、こうでなければいけない。


「なぁ、ハチ」


 不意に夕声が僕に話しかける。いつものように、いつもの呼びかけで。


「これで、残りの半分も信じたか?」


 夕声がなにを言っているのか、一拍遅れて理解した。

 初午の夜の宴会、その帰り道でのやりとり。自分が狐であることを信じさせるために狐火を披露した夕声に、僕は半分だけ信じると言った。


「うん、信じたよ。これで九割は信じた」


 九割? と夕声が首をかしげる。


「あたしの恥ずかしい姿をしかとその目で見ておいて、まだ全部信じてないのかよ」

「は、恥ずかしい姿とか言わないでよ」


 変な意味じゃないのはわかってるのに、それでも僕は赤くなる。


「いいんだよ、九割で。だって、僕と君の付き合いはこれからも続いていくんだ。なら、簡単に一〇〇パーセントにしちゃったらもったいないじゃないか」


 お楽しみはこれからだ、と僕は言う。いつかの彼女のモノマネで。


「……ばーか」


 夕声が、照れを隠すようにぶっきらぼうに言った。それからこれも照れ隠しだろう、体重全部をかけて肩からぶつかってきて、僕の姿勢を崩す。

 それから、彼女は笑う。上目遣いに僕の目を見ながら、にゃはは、と。


 すべてが一〇〇倍返しで報われた気がした。思えば僕はこの笑顔の為に頑張ったのだ。




 タヌキ屋敷から女化神社まではほとんど距離がない。

 普通に歩けば五分とかからないその道のりを、僕たちは必要以上に時間をかけて歩いた。

 真夜中過ぎに未成年を連れ歩くのは問題なのはわかっていたけど、それでも名残惜しさが勝ってしまったのだ。たぶん、お互いに。

 仕方ないだろう、そういう夜もある。


「……えっと、それじゃ……おやすみ」

「……うん、あんがと。……おやすみ」


 神社に夕声を送り届けて、おやすみといって別れる。

 そうして僕は家路についた。

 背中の闇に夕声を残して。


 なんだか心が乱されていた。名残惜しさが切なさに変わっていた。

 後ろ髪を引かれるとはこういう思いかと実感しながら、僕は神社の境内を出た。


「……ハチ!」


 そんな僕の背中を、別れたばかりの夕声が追いかけてきた。

 僕が振り向くのと彼女が僕に抱きついたのは、ほとんど同時だった。


「ゆ、夕声?」


 夕声は僕の顔を見ない。僕の胸に額を当てたまま、腕を回して抱きついてくる。

 僕のワイシャツに顔を埋めたままで、彼女は言った。


「……あんた、あたしを嫁にしろ」


 波瀾万丈を極めたその夜にあってさえ最大の衝撃発言を彼女は口にしたのだった。



第二章・了

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