Clamor!

泥飛行機

くらもあ

 長い間、歌っていた。

 敗れた兵士たち。歓声とコスモスの咲く街。讃美歌に包まれた教会の庭。眠りゆく老いた人々。日に焼けて浅黒い痩せた子供たち。欲や怒号の染み付いた路地裏。人身事故で止まる駅。オブジェに集う人混み。

 越えてきたいくつもの国々は、今は国境線を変え、旗を変え、そうでなくても土の匂いを変えた。そして私も、短くはない時間をかけて、変わったはずだった。

 遠くで救急車のサイレンが聞こえる。電飾の街を後にして、どれくらい経っただろうか。錆び付いたこの場所の砂は、冷たくもなく、柔らかくもない。

 これが、私の最後のステージになるのだろうか。楽器も、音響器具も、観客も、昨日と変わらず、何も無い。

 夜の空を白い雪が覆い出すから、視界がかすんだ。私の黒い手のひらに、それはふわりと触れた。落ちてきた、雪じゃなく、白い羽根。

 空から降ってきたのかと、未だにあの場所に理由を探そうとしている自分に笑えた。覚えているような、本当は無かったような、小さなその羽根の温度は、浮かんでは消える、この地上に降り立ってからの記憶に似ていた。



 かつて私は天使だった。雲の彼方の天国にいた。そこでは街も人も仲間の天使も、私も、みんな真っ白だった。私は歌うことが得意だった。私がリラを爪弾きながら歌いはじめれば、みんな一緒になってラッパや鍵盤を鳴らしたり、コーラスを始めたり、立ち止まって耳を傾けたりして、綺麗な声だと褒めてくれた。細やかな砂が零れていくみたいな、それでいて一筋の雨を含んだみたいだって。だから私は、毎日のように歌って遊んだ。

 そんな天国の記憶は、物心がつく前の出来事のように、今は思い描けなくなった。ある日から、私は地上を歩かなければならなくなったからだ。

 天国の長が、私の二つの翼をもいだ。罪があると、私が落ちていく最中に長は言った。そして、人間を救いなさい、と言った。それが何の罪だったのか、今でも私にはわからない。どこにでもいる天使が一人いなくなったところで、あの永遠の庭は何も変わらないはずだった。だから、ただの高尚な気まぐれだったのかもしれないと、今では思う。



 私はどこかの岩石の砂漠で目を覚ました。地上を踏んだのは、その時が初めてだったし、その時、私はまだ真っ白な体だった。そしてリラを持っていた。天国で弾いていたのと同じもので、やはり白く、弦は十本あった。私は地面にうつ伏せになっていた。ひりひりと痛む背中を撫でてみたら、あったはずの翼がなく、私は飛べなくなっていた。もう天国には帰れないのか、と思った。だが、そんな重罰を課される理由などわからなかったし、長の言ったこと、人間を救え、と言われたことを思い出して、その時私は前向きに考えた。人間を救えば、もう一度翼をくれて、天国に帰してくれるんじゃないのかと。考えたというより、そう信じ込んだのだった。

 だから私はまず、人間に会いに行くことにした。しかし貧しい砂漠であるせいか、一つとして彼らの影は見えなかった。私は立ち上がってみた。一度飛び跳ねてみたが、やはり浮かび上がることはなかった。足の裏が石ころにぶつかって痛くなった。私は裸足だった。一歩ずつ、順番に足を踏み出してみた。礫や砂が食い込む。鋭くて冷たい。これは考えていたよりも苦しいかもしれないと思ったが、天国に帰るためならそうは言っていられない。私は空を見上げて、立ち止まった。そのときの空の色は今でもはっきりと覚えている。鈍色だった。夜明けの色。今では当たり前になってしまったが、その時、空がなんて大きくて、高いところなんだと思った。あの場所に天国があるはずなのに、どこにも見つからない。私は心細くなった。リラをぎゅっと抱きしめて歩き出した。

 地平線はどこまでも変わりなく続いた。見ているとふと、口から天国の言葉が、旋律になって零れ出した。天国でよく歌って、聞いた旋律だった。白いリラをそっと撫でてみた。太陽が高くなって、空は真っ白に眩しくなって。少し懐かしくなったのかもしれない。歩きながら、声を上げながら、リラを弾いていた。だけど全ての音は、虫たちをよぎって、遠くの乾いた岩壁に吸い込まれていった。

 それが私が初めて地上で歌った歌だ。詞が思い出せないし、あの頃のような声も出なくなったから、今はもう歌えない。歌いたくもならなくなった。



 地上に立つまで、人間のことを気にしたことなどなかった。だから、救う、と言ったところで、どうすれば正解なのか全然思いつかなかった。とりあえずそのことは、人間を一目見てから考えれば良いだろうと思った。

 だが、歩いても歩いても、砂漠を朝から夜まで踏みしめ続けても、獣の足跡が岩盤の地に影になっているのを見かけるきり、人間も砂漠の終わりも、見つかる手掛かりは少しもなかった。

 何度目かの黄昏になって、私は喉の渇きを感じた。空腹感はなかったし、肌も服も全く汚れていなかったが、水だけは少し必要なようだった。とは言っても、砂漠に水やそれらしい泉は見つかりそうにもなかった。我慢するしかなかった。ただでさえ足は痛くなる一方で、全身が苦しい。背中の焼けるような痛みも治まらない。私はすでに諦めそうになっていた。今になってみれば、これくらいのことは、実際何でもないことだったけれど。

 幸いなことに、たった数日後に砂漠には雨が降った。透明な雨だった。土砂降りは、辺り一帯を灰色に沈めてしまいそうだった。あっという間にびしょ濡れになった私は地面に突き刺さったような岩を見つけるとその上に座った。そうだ、水だ。気がついて両手を宙に差し出し、雨水を溜めてそれを飲み込んだ。何回それを繰り返して飲んでも満足できなかった。ついには礫がごろごろする地面に突っ伏して流れる水を口に入れた。何もかも冷たかった。あの頃の雨は苦かった。

 雨が止んだ。黒雲が消え、傾いた太陽の陽射しが降り注ぎ始めると、あっという間に水は引いていった。乱反射する光がきらきらしていた。私は起き上がって、自己嫌悪に駆られた。自分が無性に惨めだと。私はリラを抱えた。その時音が聞こえた。ひづめが近づいてくる音だった。

 それが最初の人間だった。彼らは、二人と一頭だった。手綱のついた獣は、四本足で、背中には二つの瘤があり、その上には鞍があり、さらにその上には布で覆った大きい何かが乗っている。一人はその手綱を持っている。もう一人は小さい。獣の膝くらいまでしかない背たけいっぱいに、同じように布で覆った網籠を背負っている。彼らは頭から長いローブを被り、顔を隠し、爪先まで分厚い衣と靴で覆った姿だった。

 彼らは私の前をゆっくりと、ひづめを鳴らして通り過ぎた。心の準備ができていなかった私は、目で追うことしかできなかった。二人と一頭の影は、湿った土の上に柔らかく伸びた。人間だ、と思って、だけどすぐには動けなかった。親子と思しき彼らの並んで歩く背中を眺めながら、はっと気がついて私は慌てて追いかけた。彼らの足は遅かったから、すぐに追いつくことができた。私は待てと叫んだ。天国の言葉だったから、声が届いたとしても、人間には意味がわからなかったはずだ。

 子供は振り向いてこちらを見上げた。やっと見えた顔。日に焼けた肌。大きくて真っ黒な目だった。腫れぼったい口を少し開けていた。

「おかあさん」

 子供は大きな人のローブの裾を握りしめて言った。おかあさん、と言うのはこの人間のことらしい。やはり二人は親子のようだった。子供が口に出した言葉の意味はなぜかすぐに理解できた。聞いたことのない人間の言葉のはずなのに。

「どうしたの」

 母親は返した。

「しろいひとがいるの」

 母親は子供が指を指す方、つまり私の方を、目を細めて見遣った。一度も視線は合わなかった。母親は屈みこんで、子供の頭を布の上から撫でた。

「お腹が空いたんだね。今日はそろそろ休むかい」

 宥めるような母親の声に、子供は不満そうに眉を少し歪めた。母親はため息をついて立ち上がった。

「困ったねぇ」

 どうやら子供には私の姿が見えても、母親の方は見えていないようだった。

「あと一里くらいにしよう。自分で歩けるね」

 子供は私を見つめたまま頷いて、くるりと背を向けた。背負った籠が揺れた。親子は再び途方もない砂漠を歩き出した。私は黙ったままどうすることも出来なかった。その時子供が首を動かしてこちらを一瞥した。そして左腕を横に伸ばして手を振った。私は慌てて親子の後をつけていった。乾きはじめた白い服を引き摺って。

 程無くして休むことにしたのか、母親は獣に乗った荷物を下ろした。二人は手際よく布で小さな家を組み立てた。私はそれを見ているだけだった。見ているうちに、灰色の礫と砂のあいだに溜まった滴は、黄昏の橙色になる。地平線が、昼間よりも、太陽のある空よりも眩しくなる。日暮れ前に、作業は全て終わった。やがて日が落ち切った。

 人間たちのいる家の中から、規則正しい寝息が聞こえてきた。家の傍に、先程の獣が一頭きりで眠っていた。大人しい獣だと思った。私はその真向かいの岩に背を預けて、どうすればいいのか考えていた。私が持っているものは何もない。なんの力もない。

 夜の世界ははっきりとしていた。黒の中にたくさんの青い星や赤い星が瞬いていた。どうしても月だけが見つからない。

 子供はすぐに一人で家の中から出てきた。ローブを脱いでいたから、刈り上げた黒い髪がよく見えた。

「だれなの」

 歩いてきた子供は私の真横に立って一番に尋ねた。消えそうな声だった。私はとりあえず笑いかけてみた。

「おばけだ」

 ぼそりと子供はつぶやく。私は真っ先に首を振って否定した。

「しろいのに」

 まだ真っ白だったその時の私は、暗闇でも光って見えるようだった。私は思い切って、その子供と同じ言葉で尋ねてみた。

「私が見えるの」

 子供は息をのんだ。私が口を開いたことに驚いたのか、私の目の前で両手を振る。私は怖気づいた。

「おかあさんは、いないっていう。まぼろしなんだって」

 子供はそう言った。言いながら抑揚はなかった。そしてその顔には何の感情も浮かべていないように見えた。

「私、天使なんだ」

 私は言った。

「てんし」

 子供は首を傾げた。意味がわからないようだった。私は傍に置いておいたリラを手にとった。真っ白なリラだった。私はその十本の弦を、右手側から一本ずつ弾いた。高さの違う音が順番によく響いた。子供は後ろを振り返って息をひそめた。

「みんなおきるよ」

「大丈夫」

 根拠もなく、私はそう答えた。子供は黙り込む。止める様子はない。これから何が起きるのかと気になるのか、子供は私の斜め向かいに膝を折って座った。

 リラを弾き続けていると、細い音色の連なりは、星空に吸い込まれて行く感じがした。私は歌おうと思った。理由は何だったのだろうか。子供に歌を聴かせて、自分が行うべき何かを確かめようとしたかったのか。それともただ、化け物ではないと、証明したかったのか。そんな気持ちに気付くことはなく、そのときの私は歌い始めた。天国の言葉で何を歌ったのかは覚えていない。たぶん、天国の事だと思う。楽しかったはずの時間。爪先でリラを撫で続けた。子供はずっと見ていた。二つの目の中に、星たちが反射していた。目が合ってしまうと、さっきまでの不安な気持ちがよみがえってきた。これからどうしようか。私はあまり意味のある言葉を紡ぐことはできなかった。

「ね、おなかすいてるの」

 私が歌い終わって一番に、子供はそう尋ねた。私が目を見開くと、子供は目を伏せて続けた。

「ごめんなさい」

 それは謝る言葉だった。どうして謝られなければいけないのか、その時の私には意味がわからなかった。今でこそ、同情されていたんだと気が付くけれど。

「それより、あなたこそ……」

 母親も子供も、あまり体格は良くなかったのを思い出し、私は聞き返した。

「ちがうよっ、ちがう」

 子供は初めて動揺したように、強く首を振り回した。私はようやく、人間を救うことを思い出した。だけど当然、どうすれば正解かなどわからないのだった。

「私こそ、ごめんね」

 私は言った。よくわからなかったのかもしれない。子供はまた表情のない顔をした。そして沈黙の後に、両腕をばらばらに伸ばして指さしをした。

「みずはむこう。あっちはまち」

 二つの指先は方向を指していた。その意味に気付くのには少しかかった。その間に、子供はそそくさと家の前に戻ってしまった。私が慌てていると、子供はぴたっと立ち止まって、こちらを見て口を動かした。またね。それだけを残して中に入った。呆然とする間に、家の中から寝息が一つ増えた。あの時、子供はほんの少しだけ、笑っていたように見えた。

 取り残された私は、獣が眠っていた目を半分開けているのに気がついた。近づいてみる。腹が動く以外、全く素振りは変わらない。獣にも、私の姿は見えていないようだった。どうして私は見えないのだろう。いや、どうして子供には私が見えたのだろう。その理由が推測できるようになったのは大分時が経ってからのことだ。

 背中の痛みがすっかり消えているのに気がついた。それが良いことなのかはわからなかった。やはり翼など全く生えていなかった。

 これで、良かったのだろうか。

 その時、私は最大限都合よく解釈した。またね。子供の笑ったような口元を思い出す。人間を救う。私が歌うことで、人間を救うことができるかもしれない。そう思った。私は自分の声に自信があったし、事実リラを弾くことも歌うことも上手だったから。

 星の見えるうちに、私は家を後にして、子供が指を指した方角へ向かった。今から思えば、この時にはもう、私のリラには黒い染みが一つできていたのだろう。ついにそれに気がつくことは無かった。

 やがて私は砂漠を抜けて、一つの街に辿り着いた。私の旅は、そこから始まった。



 ほとんどの人間の目に私は映らなかった。だが、見える人間もいた。それらの人間には、豊かな者も、貧しい者もいた。共通点といえば、彼らが白い人間だったことだ。清く正しく、純粋に信じる、救いなど必要なさそうな、白。天国に居た人々の無垢さには及ばないまでも、私を侵食していく黒には少しも似ない色を、彼らはそれぞれに放っていた。それでも私は彼らを救おうとした。私のことが見えるのだから。私に気付かない人間を、私がどうやって救えというのか。

 私はその者たちの傍に腰を下ろし、笑いかけ、リラを携え、天国の言葉で、優しい声でとびきり優しい歌を歌い続けた。子守唄のように。そうして何年も、海を越え国境線を越え、いろいろな人間を探し歩いたが、許されるには足りないようだった。意味があるのかと疑うことはないではなかった。喉は以前より渇きやすくなった。以前は必要のなかった睡眠が必要になった。それでも何気なく歩いていくことができた。気にすることは無かった。私が歌えば、彼らは皆、微笑んで、何かを呟いたからだ。

 本当は、間違っていたのだとは思うし、わかっていたはずだ。歌うたびに黒く染まっていくリラと、私自身が証拠だった。黒い小さな染みが、一つずつリラの弦から持ち手へ広がっていく。気にせざるを得なくなったときには、真っ白だったリラの半分は既に真っ黒になっていた。そして、服の裾へ、頭から爪先へ、瞳の奥へ、黒い染みが滲み、私を染めていった。 

 私は焦っていた。歌うのを止めてみたこともある。だがその時には既に、歌おうが歌うまいが、染みは広がる一方になっていた。リラも私も、決して漂白されることはなかった。翼が生えてくることも。

 私の黒い部分が増えていくにつれ、今まで私を見ていたはずの人間に、私の姿が映らなくなっていっているようだった。そして私を映さなかったはずの人間の一部が、私を見るようになったのだった。それは、貧しい者であったり、敬虔な者であったり、気の荒い若者であったり、罪人であったり、白いとも黒いとも言えないような、共通点の見いだせない人間たちだった。

 私はそんな彼らに向けて歌うしかなかった。



 私がある戦場に行ったときのことだ。

 そのころは、悲鳴が世界中を焼いていた。たった数年だ。人間は彼らの知恵と欲望で、動かぬものを、生けるものを、あらゆるものを壊し、棄てる。彼ら自身さえも。人間たちに、救う価値など本当にあるのか。悲鳴でざわめく国境線を幾つも越える中で、人間の足跡の無い場所は、若い風の香りがした。世界も人間たちも、終わるには程遠かった。

 私は人間の言葉で歌うようになっていた。天国の言葉が彼らには理解できないからいけないのではないかと考えたからだ。それに、以前ほど美しい歌ではなくなっていることに気づいたからだ。既に半分くらいが黒く侵食されてしまった姿形だけではない。私の声は、喉が潰れたかのようにひどく黒く歪んでしまった。だから私には別の何かが必要だった。

 瓦礫に蹲る兵士たちは、疲労に包まれていた。飢えや傷で今にも死にそうな者もいた。その場所での戦は終わったらしい。灰色の空の下には、ただ息継ぎが響く。鳥の声も、銃声もない。私は両手を広げて瓦礫を踏みしめる。見渡すと幾人か、私と目が合う者がいる。私は立ち止まって、微笑み、リラを構えた。真っ黒なリラだ。彼は隈の濃い目で、怯えた顔をした。悪魔とでも思っているような。私は可笑しかった。なぜか。きっと優越感と呼ぶものだろうか。最初のころ私が助けようとした人間たちから、いつしか、私の姿が消えたのも。幸せそうな彼らのことが、きっと羨ましくなっていたからだ。今、私を見つめる者たちは、不幸せそうだった。傷ついていて、飢えていて、だけど善良な、いかにも救われなければならないような人間たち。

 私は歌った。優しい歌を歌った。眠れ。眠れ。彼らは項垂れる。しゃれこうべのように、からからと、風のようにきいきいとリラが鳴る。眠れ。これもお前を救うためだ。彼らの虚ろな目が、ちっぽけな私の姿を映していた。

 その時だった。光が、兵士と私の間を貫いた。眩しさに瞬きをすると、目の前で真っ白な光の柱が、一人の兵士を囲い包んでいた。ラッパの音色がそこに降り注いだ。空から落ちてきたのは、左右の白い翼を揃えた、幼い姿をした二人の天使だった。見る間に二人の天使はその兵士の青年を抱えて、持ち上げた。目を閉じた彼は、安らかに見えた。天使たちは彼を空へ運んでいった。天国へ。私は待てと、言おうとして言えず、手を宙に伸ばした。天使の一人が、私を一瞥した。向けた目に色はなく、私は軽蔑されたような気がした。天使たちは空だけを見ていた。光の柱は、その空まで貫いていた。柱が散るように消えた後には、兵士の抜け殻があった。既に心はそこになかった。私の手から真っ黒のリラが落ちた。それは瓦礫に当たり、折れ、砕けて、黒い煙になって消えた。

 私は立ち尽くした。どうして人間を救えないのか、天国に帰れないのか、本当はわかっていた。心にもない優しい歌の、宙に舞って散った数々。それらは紛れもなく自分につき続けた嘘だった。きっととっくの昔から、天使として壊れていた。



 人間には暴力的で悲しい歌で喜ぶ者がいた。私は今でもそれを心から理解してはいない。私が地上に落ちることがなかったなら、聴きたがる理由を考えることもなかっただろう。だが、優しい歌を歌うことをやめたその時の私には、実に都合が良かった。理由をつけたところで、どうやら私も同類らしい。私も暴力的な歌を歌うようになった。リラが無くなって、しばらくは楽器もなかったから、人間にも大半は聴くに堪えないものだっただろう。悲しく激しい歌でもその時の私は歌いたかった。人間の言葉のそういう歌は、干からびた私の声によく馴染んだ。優しい歌にはうんざりしていた。嘘をつかずに歌えるのなら、それが正解だと思った。

 私が街中でそうやって喚けば、一部の人間は引き寄せられるように勝手にやってきた。私は彼らに囲まれて呪い、叫び続けた。彼らは私と一緒になって各々に叫び、祈りを捧げ、彼らの本来行くべき場所へと彷徨い、胸を裂き、歩き出し散ってゆき、最後には必ず私だけが残された。悲しい歌を繰り返すごとに、彼らは心に黒を溶け込ませていった。ほとんど闇に同化してしまう者がいれば、逃げ出そうとする者がいた。それでも、私の歌に聞き入る者がいるのなら、救えているのではないかと思った。

 そろそろ気づいていた。私のことが見える彼らは、私に似ているということに。

 長い間私はそうして、あてもなく何かを呪いながら歌っていた。黒い感情で、あの空を埋め尽くすように。



 あちこちの戦争と呼ばれるものが終結してからも、彼らの破滅は続く。飢えて死ぬ人間。血を流して死ぬ人間。自分を殺す人間。病に苦しむ人間。生き場を求める獣。樹々の声。しらけた森。鉛のような水。善意も悪意も、等しく地上を汚す。私も何もしない。歩き、水を飲み、歌う。

 ある時、私はあの砂漠に行き着いた。地上に降り立ったときから、その場所は変わらなかった。数日して街へ移るまで、誰の姿を見ることもなかった。多くの街のかつての戦の影は、溢れかえるような人間たちによってすっかり隠された。もう何年経つだろうか。私がリラを聴かせた、日に焼けた黒い目のあの子供は、まだどこかで生きているだろうか。何となくこの砂漠には、もういない気がした。ただ、あの子供と同じような、射貫くような目をした子供たちを、あらゆる場所で、時間で、私は何度も見かけたのだった。

 顔を上げると、飛行機という双翼の鉄塊が、青い空を飛んでいる。人間が作り出したもの。夢と、呼ぶらしい。私はそれが再び地上に帰ることを知っている。



 私はどこかの国で、路上のゴミ置き場にもたれていた。

 そこはそれなりに人間の多い、四つの季節のある国だった。私は長くその国に留まっていた。昔のように東西南北に歩き回れるほどには、足も思うように動かなくなっていたし、疲れていたからだ。そのころは、体の白いところの方が少なくなって、だいたい黒と言ってもいいほどだった。だから、私に気がつく人間も、もうほとんど居なくなっていた。少しで足りた睡眠も、人が見るらしい夢を見ないだけで、今は人と変わらないくらいに長くなった。夜が深くなると、私も眠り、一層黒く、世界から隠れた。

 私はようやく別の楽器を見つけた。旧式のギターというものだった。拾ったものだからか、木製の土台も長く張り詰めた六本しかない弦も、既にぼろぼろになっていた。音もリラよりずっと低かった。それでも壊れる寸前のころのリラに比べれば大分まともな音だった。まともなのがかえって居心地が悪く、馴染むのにはそれなりの時間が必要だった。

 私は人間の言葉で、相変わらず暴力的な歌ばかり歌っていた。誰も聞いていないのだから、人間の言葉を使わなくても良いはずなのに、使い続けたのは、その時はまだ人間を救って天国に帰るという希望を心から捨てられなかったからなのだろう。私の歌には、ギターという楽器は少しばかり重かった。私の歌にはもう、碌な意味はなかった。かき鳴らす夜を越えるたびに、やはり一つずつ染みは増えていく。私は歌うのを止められなかった。歌うことだけが空虚な快楽だった。

 胡坐をかいて歌う。ギターを揺らして踊る。蛇口をひねって水を飲む。ゴミに囲まれて寝る。収集車が来て目が覚める。空へ飛んでいくような気持ちになり、そして乾く。単調な日々だった。

 ララに出会ったのは、そんな朝だった。

 虫の鳴き声が雨のようにざあざあと降っている。目覚めたとき、ゴミ置き場には一体の人形が捨てられていた。同じ形のものを、見たことがある。「ララちゃん人形」だった。ララちゃん人形は、当時この国で流行った、少女型のおもちゃの人形だ。本当に人間の感性はわからない。手に取ってみると、三十センチくらいのそれは、電気回路と、金色のナイロンの二つ結びの髪と、ガラスの青い目と、プラスチックの白い肌と、不自然な頬紅と、ふくらんだフリルの袖のないドレスでできている。頭の少し後ろの方には、小指大のスピーカーのような穴がある。胸部の真ん中には、曲がった先端に赤くて丸いビーズの付いた銀色の発条(ぜんまい)が刺さっている。左腕がまるごと取れていたが、街のショーウィンドウに飾られていたり、子供が抱えていたりするものとほぼ同じだった。

 いつもなら、こんなものは歯牙にもかけない。本当にたまたまだったのだ。こいつが人間だったなら、なんて想像したのは。

 私は人形を目の前に置き、ギターを一弦ずつ鳴らして、戦争が終わったばかりのころ、この国で昔流行ったという歌を唱えた。歌いながら、目を瞑った。この短い歌の途中で、聴きなれない甲高い声が、歌詞に重なってきた。目を開けたとき、そこに倒れていたのは、三十センチの人形ではなかった。それは右手をついて上体を起こし、口を動かしながら、顔をこちらに向ける。思わず声が出なかった。

「ねっ、つづきは?」

 起き上がった少女が首を傾げて言う。そう、少女だった。さっきまで私が思い描いていた、ララちゃん人形がそのまま大きく、人間になったような姿の。そこには、あったはずの人形はなく、少女だけが目の前にいる。突き刺す陽射しに揺れる金色の二つ結びの髪も、朝の光に透ける青い目も、白い肌も、赤い頬も、フリルの袖のないドレスも、左腕がとれているのも、胸に刺さった銀色の発条も、全部そっくりで、百三十センチくらいの子供らしい背たけと、生身のような実在感だけが違っていた。

「わたし、ララちゃんだよぉ!」

 脈絡もなく、少女は口を大きく開けて言った。

「ララちゃん、人形……?」

 目の前で起こっていることを飲み込めなくて、私はうろたえた。

「ララチャンニンギョウじゃなくて、ララちゃんねっ! よろしくね、覚えてねっ」

 少女は私に話しかけていた。この国の言葉だ。少女は右手だけでピースサインを向けた。私のことが見えている。

「それで、あなたはだれ?」

 少女は体を寄せて私を覗き込もうとする。満面の笑顔だ。翼はついていなかったが、私がこんなに黒いのに、少女は鈍い白に光って見えた。眩しくてそれはまるで、

「……天使」

「はい、おぼえましたー。てんしちゃんだねっ!」

「そういう、ことじゃない」

 人の話をまるで聞いていないような忙しい口ぶりだ。私の考えたそのままのこいつの姿を見れば、何が起きたのか、どういうわけなのか想像できないことはない。だが、信じられない。いや、とりあえず落ち着くんだ。

「えーうそつき」

「誰でもない。名前はない。名前はいらない」

 私がぶっきらぼうに言うと、少女は笑顔をやめてむくれた。

「それじゃなまえよべないじゃん。なまえないてんし、ななしえんじぇる、じゃあ、なしえるね!」

 少女は勝手に言った。私は少し嫌な気持ちになった。天国にいたころは、私にも名前があった。今でも覚えている。だが、今それを言う気にはなれなかった。私は黙って立ち去ろうとした。少女は後をるんるんと尾けてきた。私は振り返らずに呟いた。

「どうして私に構う」

「つづきつづき! あるよね、さっきのうたのつづきっ」

 せがむように少女は言った。私は仕方なく立ち止まった。黙ってギターを弾き始めると、少女は勝手に楽しそうに続きを歌った。歌詞を知っていたらしい。続きとは言っても、既にほとんど終わりかけで、すぐに歌い終えた。やたら耳をつんざく声だった。歌い終わっても、少女に離れる様子は無かった。やっぱり、こいつはきっと。

「お前、行くところはないのか?」

 私は少女を見下ろす。蝉の声に負けないくらい、ゴミ集積車の音がうるさくなってきた。

「オマエじゃなくて、ララちゃんね! なしえるどっかいくの? どこ?」

 少女はあまり意味がわかっていないような、張り付けたにやけ顔をした。それは私の予想した答えではなかった。

「……ララ」

 私は名前で呼ぶことにした。ララはぱっと嬉しそうな笑顔になった。

 馬鹿馬鹿しい、どうかしてる。こんな人形相手に遊ぶなんて、また私は壊れてしまったんだ。「ララちゃん人形」は、こいつじゃなくたってみんなララだ。大量に作られて、たまたま捨てられただけの、たったの一体。可哀想な奴。

 電柱の元に固まっているゴミ袋たちを取って、道路で死にかけた蝉を曳いて過ぎ去る、ゴミ集積車の何でもないような顔を、私は見ていた。

「どこかに、行くか……」



 ララは自分のことなら聞けば大体答えた。頭のスピーカーが壊れているということ。捨てられる前は、短い間だが、一人暮らしの女の家にいたらしいこと。その持ち主は何か苛立つことがあったのか、ララで遊んでいた最中に急に暴れ出し、腕を千切って身体の方だけゴミ置き場に置いて行っちゃったんだと、ララは言った。その人間のことは心配らしいが、「やっぱりまたちぎられちゃったらいやだなーとおもって」、気にしないことにしたと言う。他にもある。「ひゃくにじゅーはちセンチ、たいじゅーはりんごふたはこぶん」「りんごのくにのしゅっしん」そういう設定。「すきないろはあか。すきなたべものはりんご」雑だな。「ゆめはアイドル。マイクはりょうてだよ」手ないけど。「うたうことがだいすき」「なんでもまかせてね」全部が全部、人形そのものの空しい答え。こいつがそうなら、私も大して変わらない、人形みたいなものなんだろう。

 結局、どこかに行こうと言ったところであてもなく、公園などに場所を変えるくらいだった。ララは当然のようについてきた。私と違ってララの方は、水も睡眠も要らないようだった。人形だったなら電池で動くのだろうか。こいつは一体何で動いているのだろうか。

 ララがやってきたその日の夕方、私は相変わらずギターを乱暴に引っ掻きながら叫んでいた。ララはその横で言った。

「なしえるって、うたうのすきなんだねっ」

 私はひとまず歌を止めた。そして迷った。歌うのは、気持ちいいからで、そうしてないと時間が長すぎるからで、その時はもう、誰の為でもなく歌っていた。でも、好きかどうかなんて考えた事はなかった。嫌いじゃない。嫌いだったら、歌ってないはずだった。天国に居たとき、あの時だったら、無邪気に好きと言えたのかもしれない。だけどもう、好きだとか言ってはいけない気がした。それを言うには私は、歌を利用し過ぎた。

 それでも私は少し頷いてしまった。ララは待っていたとばかりに笑顔になった。

「ララちゃんもうたうのとくいなんだよぉ! ねっなにうたってほしい?」

 これが言いたかったんだな。ララちゃん人形は、「うたってあそべるかわいいおともだち」という触れ込みで、この国の子供たちに遊ばれていた。実際に歌うのは人形の方で、それも録音された音をスピーカーから流しているだけに過ぎないということだが。だからララも、歌うのが得意で、という話らしい。喋っているのを聞く分には、ララはやたら甲高い声で、歌が得意だとは信じられそうになかった。

「好きにすれば」

「おまかせくださいっ!」

 ララは飛び跳ねて、胸の発条を三回くらい回した。そして歌い始めたのは、季節外れのこの国のわらべ歌だった。甲高い声は変わらない。伸びもない。威勢がいいのに遠慮気味。とてもじゃないが上手くない。

「歌うことが大好き、か」

 私が呟くと、歌い終わったララは乗ってきた。

「うんっ、ララちゃんうたうのだいすき!」

「なんで?」

 言ってみろよ。言えるものなら。

「……りゆう? なぜなら、みんなをえがおにしたいからっ!」

 一瞬言葉を詰まらせた後、ララは自信満々にピースサインをした。ピースサインはお決まりらしかった。その答えは、私の感情か。それとも、ただの初めから決まっていた設定か。

「できないよ」

「へ」

「歌うことなんかじゃ、誰も救えない」

 黒い心が冷える。私はそれまでのことを思い出していた。きっと誰も、私の歌で救えた奴なんか居なかった。もっと別の何かが、本当は必要だったのだと思った。私はそれを探す努力をしなかった。自分の黒い身体を見つめた。もう絶対に後戻りはできないはずだった。

「実際、誰も聞いちゃいない」

 ララは少し悲しそうな顔をした。

「なしえるはきいてくれないの?」

「私のことなんかいいから」

「きいてくれるんだっ」

 ララはまたすぐに笑った。ばつが悪かった。

「でも私は笑ってない」

「ララちゃんがえがおになるからいいのっ」

 ララはむきになって発条を回した。

「でも、なしえるもいっぱいわらっていいからね!」

 そして今度は街の流行歌を歌い始めた。

 ララの歌は、みんな明るかった。しばらく暗い歌ばかり歌っていたからか、私にはあまり馴染めない歌だった。ララの歌が下手だから、余計に胸が痛い。でも、思い出す。悲しい歌はどんなに心地よくても、歌うほど、もっと深い場所に落ちていくだけだった。悲しい歌を歌っていたとき、ララの様に笑った人間はいなかった。

 そのときやっと、空に帰ることはできないと、私は理解した。リラが消えたときから、もっと前から、その事には本当は気づいていたし、わかっていたつもりだった。でも、奥底では認めてなんかいなかった。自分のやっていることに何の意味も無いのか、誰も自分を見つけてくれないのか、そんな風に考えるのが嫌だった。きっと私はそのとき、諦めがついたのだ。帰れなくても、もういい。そう思ってしまった。この地上に留まるしかないことを、いい加減理解するために。

「弾いてやる」

 私はギターを掲げた。ララの歌を、もう少し聞いてもいいと思った。するとララは妙にじたばたした。首をぶんぶんと横に振る。

「いらないよー!」

 叫んだララの顔が頬紅以上に赤くなっていた。

「いらないのか」

 金切り声が耳をつんざいた。私は柄にもなく少し落ち込んだ。

「ララちゃんうたってるだけだから! あとにしてっ」

 こいつは怒っているのか。そしてララは息を切らしながら続きを歌った。

 ララは音痴で、片腕もない、壊れた人形だった。

 私も愚かで、翼もない、壊れた天使だった。

「最初から、壊れてたんだよ」

 翼をもがれたときのことを思い出す。あのとき、天国のあいつは、人間を救いなさいだなんだと説教しながら、笑っていたんだ。

「壊れたものを、直そうとするやつなんか、いない。いなかったんだ……」

 そう言いながら、私もなぜか笑っていた。

 顔を上げると、厚い雲が空を覆っていき、雨が来そうな色に変えた。天国はどこにも見えない。優しい仲間たちもいない。どこの世界でも、傘もなしに、酸の水が落ちるだけだ。でも、そんな世界を歩き続ける。私は歌う。自分のために歌う。幸せじゃないから、これからも歌っていられる。

 それからは、ララがいつも隣にいた。だが、ララが人間に見えていたのは、私だけだった。



 私は呪いの歌をやめた。車の行き交う交差点の、歩道の隅に水の入ったペットボトルを置いて、ガードレールにもたれて座っていた。ララを適当に傍で自由にさせて、一本、弦の切れたギターを抱える。ギターをゆっくりと撫ぜながら歌うものは、愛しさとも呼べるものかもしれなかった。空を見上げて、日が暮れて眠りに落ちるまで、私は歌った。ララは私に元気がないとか文句を言っては、たまに私の歌っているのを一緒に口ずさんだり、一人で歌ったり、ギターをせがんだりする。見ず知らずの人間は、いつも私の前を通り過ぎていく。相変わらず私は真っ黒で、私の姿が見える人間も、声が聞こえる人間もいない。ララの方は、人形の姿で人間に見えるらしく、掴んで持って行かれそうになることは、何度かあった。とは言えララが暴れるから、たいてい気味悪がって諦めてしまうようだった。

 遥か彼方の白い街の思い出は、今はほとんど無くて、歌って、水を飲んで、眠って、それでも私は人間になることはない。今度は心から自分のために歌っていたつもりだったけれど、少しくらいはまだ願っていた。こんな歌でも、いつかたった一人にでも、近くの人でも、ずっと遠くの人にでも、届いてくれたら。

 ヘッドフォンをかけた人間。液晶の中に目を凝らす人間。隣の人間と喋る人間。ポケットに両手を隠して歩く人間。一生懸命に走る人間。行き交うたくさんの心は、何を見て、聴いているのか、私にはちっとも理解できない。誰もが、何かを探しているのだろうか。この街の外で、山を越えて、海を越えて、それぞれの国境線で、人間たちはどこかで笑って、泣いているのだろうか。少し汚くて、今は少しだけ、抱きしめたいような人間たち。だから私は人間の言葉で、誰にも聞かれずに歌っている。

 ある日の枯葉降る街角で、人の通りが少なくなってきたころ、一人の若い男が立ち止まっていた。ララが私の足を叩いた。弦を弾く手を止めて顔を上げると、男は気まずそうに近づいてきた。ジーンズにベージュ色のパーカーを着た、茶髪の男だった。

「あ……さえぎっちゃって、すません。あの、何語なんすか?」

 男はそう私に問いかけていた。気づかないうちに、天国の言葉で歌っていたらしい。

「私が見えるんですか」

「え、はい」

 私が人の言葉で聞き返すと、男はさらに気まずい顔になった。私のことが見える人間に会うのは久々すぎて訊いたのだが、頭がおかしいとでも思ったのだろうか。

「……天国語かな」

 私はそう言って目を伏せた。逃げるかと思ったが、男は困ったように私やララちゃん人形を見下ろしながら、ずっとそこに立っていた。

「ミュージシャン目指してんすか」

 男の言葉の意味を理解すると、なんとなく情けなくなって私は首を横に振った。

「あ、あのっ、俺、よくわかんねーけど、良い歌だと思ったんで……頑張って、ください」

 男はそう言って両手でいそいそとげんこつを作って、私に向けた。私が戸惑っている間に、男は背中を向けて行こうとした。なぜか懐かしい感じがした。待って、と私は呼び止めた。

「あなたは、幸せなんですか」

 そう尋ねた。男は、すぐに苦笑いして、何も言わずに今度こそ行った。勝手な話だが、なんだか寂しそうに見えた。

 いくつか考えることがあって、私はしばらく歌えずに空を見ていた。夕焼けが綺麗だなと思った。

「なしえーるー、つかれちゃったの?」

 人がいなくなると、ララが飛びついてきた。いや、と私はギターを持ち直した。

「灰色なんだ」

「はいいろ? なにがっ?」

 心を映す空。全てに染まる地上。良い人間。悪い人間。男の猫背の背中を思い出す。私の事が見える人間が私に似ているなら、あいつも、私に似ているのか。

「天使は白かった」

 天使の持つ白い翼。白い街。白い人々。あれはなんの汚れも悲しみもない永遠の場所。

 ララは首をかしげた。金の髪の毛も白い肌も、知らぬ間にすり傷が増えていた。ララがぺちぺちと私の頬を叩いた。

「えんじぇる? なしえるはまっくろじゃーん」

「ああ、私は、真っ黒だ」

 ボトルを取って水を一口飲んでから、手の甲を見つめて私は呟いた。

「でも、人間は、灰色なんだ」

 ララはげんなりしたように、小さな歯を噛みあわせた。

「ララちゃんいみわかんないしっ」

「人間は白くないし、黒くもないってことだ。いや、白くもあり、黒くもあり、か、いや、違うな、やっぱり灰色だ」

 白かった頃の私と、今の私を思い返す。そういうことだろう、たぶん。

「なしえる、ぜったいつかれてる」

「お前はどうだか知らないけど。分かったよ。私が、優しさも、悲しみも、怒りも、喜びも、快楽も、暴力も、人間を救えるほどの歌を、歌おうとして、無理だった理由が。あいつらがどんなに明るい歌に、暗い歌に近づいても、白に、黒に染まっても、あいつらの、本当のところは、もっと動かしようのない、歌なんかじゃ動かしようがないからさ」

「もー、はなし、ながいって」

 ララが言う。明らかに、途中から聞いていなかったのは分かっていた。確かに、こいつに言うことでもなかったか。見下ろすと、やっぱり分かっていない様子で、頬を膨らませている。だけどな、と思う。

「ララ、お前は――」

 どっちになるんだ。そう言おうとしてやめた。そして結局、言うことは無かった。ララちゃんうたっちゃうもんねー、とララは胸元の発条を一ひねりした。調子はずれに歌い出す。私はギターを弾く手を止めたまま、口笛を吹いた。



 長い間、歌っていた。

 だけど、決して歌うことのできなかったものが、いくつかある。生きるための歌。それだけじゃない。全ての、人間のための歌。それらは私が声を上げても、なんの形にもならなかった。結局誰一人として人間を救えなかったように。もし、歌でどんな些細な事でも大きな事でも人間を救うことができるとするなら、それはきっと人間だけのものだ。

 初めての夢を、私は見ていた。それらは、地上に降りてからの、いくつかの断片的な記憶だった。

 公園の砂場の、十二月だった。その白い羽根は、まだ私の真っ黒な手で握られている。私の体中に白い部分は、どこを探しても、もう一点もない。薄く目を開くと、夜の空は、淡い雲に隠れた鈍色。大きいままで、高いままで、あの日から変わらない、遠い空だった。私は笑い、歌った。きっと声にはなっていなかった。ギターだってもう、とっくの昔に錆びきっていたんだ。凍える風に混じっていく空気。懐かしいあの白い街の言葉。確かに歌ってたよ、今も。

 ララが見ていた。覗き込む透明な目は、あるはずのない星を映す。お前だって、人間じゃない。笑えよ。笑っていいんだよ。私はずっと、こいつは自分のつまらない脆い感情が生み出した空想なんだと思っていた。たぶんそれは正解だ。けど、もし、そうじゃなかったとしたら。私は左手を動かして、そっと撫でた。ごめんな、もっと歌いたかったよな。

 星一つないあの空に天国があったとしても、ここからじゃいつまでたっても届かない。降り落ちる雪は歌わない。握り締めた夢の一片。私は結局、目を閉じる。



「ばいばい、なしえる……」

 白い羽根が、ひらひらと砂の中に落ちる。

「ララちゃんは、うたうから……みんな、わらって……」

 ララは歩く。決まっていた道のように、その足は自然と公園の外へ動く。ララは胸の発条を巻く。

「やっぱり……すきだ、な、うたうの……」

 何回も。何百回も。ララは歌う。

 ふと、人形が立ち止まる。そのプラスチックの右腕がごとんと落ちた。指は、ピースサインを作っている。左腕は、元からない。ナイロンの髪の毛と、二つの青いビー玉の目。濡れたぼろぼろのドレスと細い脚。全てが光を失っている三十センチのララちゃん人形を、街灯と月光がスポットライトのように照らす。

「コンニちハ、ララちャンダヨー」

 家の灯りもとっくに消えた真夜中だった。人ひとり通らない路地は沈黙に沈む。甲高いノイズと、発条の巻き戻ってゆく音が聞こえる。

「ララチャン、うたウノだいスキなんダァ――イクヨー、キいテクダサイ」

 人形がある歌を奏で始めた。機械にレコードされた、街頭で流れることも少なくなってきた、十二月の歌。不協和音は、次々に暗闇に浮かんでは、誰に届くこともなく、降り止まぬ雪と共に消える。

 人形は歌う。発条が全て戻ってしまうまで、赤く染まった路上で、一人で歌う。泣きはらしたような、無機質な音をかき鳴らしながら、一人で歌う。人々の笑顔も、誰かの夢も、大好きな想いも、ごちゃ混ぜにして、いつまでも歌う。

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Clamor! 泥飛行機 @mud-plane

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