エンド・イヤー
29話 俺からは話せない
玄関を開けると乾燥した冷気が頬を刺す。昼前なのに厳しい寒さで眉をひそめそうになったが、白い息を吐く若い郵便配達員を思うと敬意を払うべきだ。
ドアホン越しに伝えられていた通り、運転免許証を提示する。俺が
本人限定受取郵便がどんなものなのか気になっていたが、郵便の種類を示す印が押してあるだけ。手紙そのものは簡素な茶封筒だった。
封筒を受け取り、免許証を財布にしまう。
目的を果たした若者はペコリと頭を下げて、彼以上の歴史を持っていそうな自転車にまたがった。
幼さが残る顔立ちからすると、おそらく年賀状配達の臨時アルバイトだろう。重そうなペダルを踏み込み、田舎道を去っていった。
彼のようなアルバイトが、年賀状を送る文化の根強さを証明している。どんなにネットワークが発達してもアナログなコミュニケーションが勝る事もあるらしい。確かに受信メールをクリックして開くのと年賀状の束を指でめくるのを比べたら、風情があるのは後者だ。
これを送ってきた
封筒自体が雄弁なのに中身が空なのか疑うほど薄くて軽いのが異質に思える。それだけに中身が気になるが、確認は後回しにする事にした。
俺は玄関を閉め、書斎に封筒を置いてからリビングに戻る。外と違って暖かい部屋だというのに
ここまでだらしない姿を見せられるなら、ソファをどかしてまでして炬燵を導入するのではなかった。そう感じたせいかリビングの隅に追いやられたシングルソファが寂しそうに見える。
「冬休みの宿題はどうした?」
「今日の分は終わらせたよ」
「それならいい。あと炬燵に潜りこむな。体調を崩すぞ」
「こうしてると気持ちいいのに」
「そうか。どうやら炬燵を片付ける必要があるな」
買ったばかりの炬燵がなくなるのを阻止すべく、翔太は座って背筋を伸ばす。その姿勢はテレビに映る若い僧のようだった。彼はインタビューに答えながら鐘楼に向かう。
ゴーンという重い音を響かせるのをながめていた翔太の目は好奇心に満ちていた。
「明日は除夜の鐘だね」
「そうだな。近くの寺でもやるぞ」
「去年、鳴っているのが聞こえたよ。お寺が近いの?」
翔太が住んでいたところは大都会だ。寺はあるだろうが珍しいのだろう。テレビの中で鐘をつく僧に好奇の目を向けていた。
「近いといえば近いな。歩いて行ける。やってみたいか?」
「うん。だけど鳴らさせてくれるの?」
「そこは並ぶだけで鐘がつける。そのかわり寒いぞ」
「平気だよ!」
翔太は気温など障害にならないとばかりに目をかがやかせている。寒さを我慢してまで行きたくないと考える俺とは大違いだ。
これが子供と大人の違いなのだと思う。俺も翔太ぐらいの歳の頃はそうだった。楽しみのためには寒くても気にならなかった気がする。
子供の頃、両親に連れられて鐘をつきに行った事は今でも思い出せた。
深夜に起きているどころか外出しているのが特別だと思えたし、境内に
それを体験させてやりたくて提案してみたら、想定以上の反応を見せた。
目をかがやかせながらタブレットに指を走らせている。何をしているのかと思えば、除夜の鐘について調べていた。
「百八回も鳴らすんだ! でも百人以上並んでいたら順番が回ってこないね」
「安心しろ。その寺ではもっと鳴らすはずだ」
「たくさん鳴らしてもいいんだ。じゃあ早く行けば二回できるかな?」
欲張りな願望を聞かされて吹き出しそうになる。その願いが
それから明日の計画を話し合っている途中で翔太は立ち上がった。なんでも級友と集まってサッカーをする約束をしていたのを思い出したらしい。
慌ただしく準備をした翔太はサッカーボールを抱えて言った。
「明日の話の続きは帰ってからしようね」
「ああ。サッカー頑張れよ」
「うん。行ってきます」
玄関を飛び出ていく翔太を見送った。そして俺は書斎に向かう。田上からの手紙を確かめるために。
暖房をつけていない書斎は体の芯まで凍えそうだ。それでも部屋にとどまり封筒を開く。中身は二つに折りたたまれたメモ用紙で、そこには11桁の数字が書かれているだけだった。
俺はスマホに入力して発信ボタンを押す。冷えきったワーキングチェアに座ると同時に通話状態となった。
『田上です。どちら様でしょうか?』
「幸二だ」
『思ったより早くかけてきたわね。これ、幸二の番号?』
「ああ」
聞き慣れない高いトーンだった声は、相手が俺だとわかるといつもの調子に戻っていた。
『登録しておくわ』
「それで何の話だ?」
『……翔太を引き取るわ』
田上は即答しなかった。それは一秒に満たない時間だったが、不安を抱えているように思える。
「大丈夫なのか?」
『大丈夫って何が? 私の仕事? それとも心構え?』
「両方ともだが、もう一つある。翔太への配慮だ。俺より先に話すべきだろう」
わざわざ本人指定で送ってきたということは、俺たちだけで話をまとめる気でいるからだ。しかし一番の当事者である翔太を外して決めていい話ではない。
それを憂慮したが田上は大きなため息をつく。
『先に翔太に話したところで何も決まっていなかったら混乱させるだけよ。ノープランでプレゼンなんて愚かだわ』
「言いたい事はわかる」
役所や学校でやるべき手続きは多い。手を動かす俺たちが遠く離れているだけに連絡を密に進める必要がある。それは同意するが話を進めていいのだろうか? 翔太にも気持ちを整理する時間が必要なはずだ。
俺の迷いは声に表れていたらしく、田上はきっぱり言った。
『翔太の母親は私。だから私から話す』
「わかった。それで、いつだ?」
『三月の終業式後。区切りとしてはちょうどいいでしょ』
つまり翔太がここを出ていくまで三カ月しかない。それで計画は完遂。田上は仕事と家族の両立を果たし、俺は負い目が帳消しできる。
しかしゴールが見えたというのに気分は良くない。意味もなくマウスに触れるるが、電源が落としてある仕事用PCは反応してくれず答えを示してくれない。頼れるのは自分の経験しかなく、この
いくら
今となっては正しい策だったのかわからない。俺の問題に田上と翔太を巻き込んだ事自体が間違いだったのではないか? 再発防止をするなら誰とも関わらずに生きていくべきではないか? そんな後ろ向きな思考が浮かぶほどだ。すでに後戻りなどできず、悔やむ意味がないというのに。
その迷いを断ち切るように田上は言った。
『年が明けてからそっちに行くわ。せっかく連絡が取れるようになったし、前もって電話するから安心して』
「ああ」
必要な話を終えた俺たちは通話も終えた。
俺と翔太の暮らしが終わるまで、あと三カ月。新しくしたばかりの卓上カレンダーをめくり、三月の最終週に印をつけた。
それまでの期間をどう接するべきかを考えたくて天井を見上げる。手足が冷たくなるまでそうしていたが、答えは見つからなかった。
その思考は夜中になってようやく踏ん切りがつく。
夕方、汗まみれで帰ってきた翔太は俺の後ろをついてまわり、どんな活躍をしたのかを笑顔で報告し続ける。シンクやコンロ、冷蔵庫の間を行き来していても絶え間なく続き、先に着替えてこい、と口を挟む隙がないほどだった。
そのおかげか重かった心が軽くなる。食事を終え、風呂に入り、炬燵でくつろぎだした頃にはいつも通りでいいかと開き直っていた。
気がつけば22時を回り、翔太は眠い目をこすりながらも部屋に戻ろうとしない。
「いくら冬休みだからといって夜更かしは良くないな」
「今日は練習だから」
何の練習なのかわからなかったので説明を求めると、翔太は大真面目に言った。
「除夜の鐘は夜遅いからね。ちゃんと起きていられるようにしておかないと」
気持ちはわからなくもないが、今日夜更かししたら明日に影響しそうだ。しかし頑張ろうとする姿勢は評価してやりたいとも思う。そんな思いがどっちつかずの言葉になって表れた。
「まあ、頑張れ」
「幸二さん、意味ないって思ってるよね」
珍しくすねた振りをする翔太を見て笑ってしまった。
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