0話 別離は一方的に
二人を迎え入れてから季節はめぐり、夏になろうとしていた。
開け放たれた窓から入ってくる風がカーテンを揺らし、書斎の空気を入れ替えてくれる。仕事を進めるにはとても静かで良い夜だ。聞こえるのは虫の声を除けばPCの操作音ぐらい。俺の指がキーボードを走り、マウスをクリックする。他人の存在が感じられず、世界にひとりしかいないように感じた。そして精神は研ぎ澄まされて、深く、とても深く集中していく。
そんな充実した時間は扉をノックする音によって唐突に終わった。
「幸二、今いい?」
この声は田上か。もっとも書斎に訪れるのは彼女しかいないが。
うちに来て半年の間に張りのある声を出すようになったと思いつつ、強張った首の筋をもみほぐしながら返事をした。
「問題ない。こっちにはいつ来た?」
息子と生活していた土地で再就職を果たし、そっちにいる事が多い田上が週の半ばに来るとは思ってもみなかった。
夜半すぎだというのに彼女はスーツで身を包み、カップを二つ持っていた。そのひとつをテーブルに置く。
「ついさっきよ。コーヒー
「ああ」
カップを口に寄せる。いつもの香りだったが、淹れ方は田上の好みではない。いつもエスプレッソ並みに濃厚な淹れ方をしていたはずだが、これは俺好みだった。
「濃いのが好きじゃなかったか?」
「幸二の豆しか残ってないのよ。粗挽きならこの淹れ方しかないわ。どう?」
「うまい。俺の好みを覚えていたとは思わなかった」
「半年も一緒に暮らしてたら、ね」
そう言って、田上もカップに口をつけた。はじめの頃は俺が淹れたコーヒーを飲むと眉間に縦じわをつくっていたが、今の表情は柔らかい。
「慣れると悪くないわ」
「そうか」
そして俺たちは黙って味わう。同時に本題がくるのを待った。
眠れなくなるのを嫌う田上が夜中にコーヒーを持ってくるのは理由があるはずだ。しかし何も言わずにカップの中を見つめている。
長いようで短い時間が経過し、彼女は顔を上げた。
「あの子とはうまくやれてる?」
「翔太か。必要な事は言ってくるから問題ない。それにこちらの小学校でもうまくやっているそうだ」
「それは本人から?」
「いや、担任からだ。この手の判断は客観的でないと意味がないからな」
PCを操作し、教師とやりとりしているメールを表示させる。
田上はモニタをのぞき込んで納得したようだった。そして視線を俺に移す。その目は正面から俺を捉え、決断した者特有の力強さがあった。
「幸二、あの子を頼むわね」
何について言っているのかは顔を見れば把握できた。
「行くのか」
「ええ。再就職はできた。仕事内容も収入も問題なし。あとは実績を作れば職場で無理を通せるようになるわ。あの子の割り込みがあっても揺るがない立場を作らないと」
短期的に見れば翔太と暮らすために翔太と離れる選択は矛盾しているが、長期的には正しい。現に田上は自信に満ちている。それは仕事に対する誇りからくるものだろう。俺たちが再会した夜とは別人に見えた。それだけ仕事が彼女にとって大きな存在だといえる。仕事に打ち込む事で自分を保ち、子育てとバランスをとっているのか。
これは一人で生きてきた俺の想像でしかなかったが、田上という人間が見えた気がした。高校時代の顔ではなく、息子を持つ母として行き方。
それを取り戻すための計画は順調に進行し、次のフェーズに進む。
「翔太には話したのか?」
「いいえ。もう寝ている時間だから話してないわ。これを渡してあげて。読めば理解してくれるから」
田上はスーツの内ポケットから茶封筒を取り出し、テーブルに置く。
別れの言葉が記してあるには、あまりにも薄い封筒だ。小学生三年生が納得できるとは思えない。手紙で済ますしか方法がないのではなく、向き合あう事から逃げているのではないかと思えた。しかし、それは俺が口出しする事ではない。二人の問題だ。
田上はもう一通を取り出す。そちらはむき出しのまま折りたたまれている書類で、緑色の文字が透けて見えた。
「離婚届は出しておくわ」
「田上が翔太を引き取る時に出すはず計画だったはずだ。籍を残しておくことで保険とする。そう結論つけた」
「そうだけど、今出したいの。失敗してもまた幸二を頼ればいいという逃げ道を残しておきたくないから」
田上は真剣だ。これは覚悟を示す儀式なのだろう。甘えは心に隙を作り、ミスの原因となりうる。それは理解できるが正論を言わざるを得ない。
「どんなプロジェクトでも最悪のケースを想定するものだ」
気を悪くしそうなものなのに、田上は笑い飛ばす余裕をみせた。
「歯に衣着せぬ言い方が幸二らしいわね。あの子を押し付けたまま引き取りにこないと
「当然、考慮している」
「それなら出さないでおくわ」
「いや、田上の気がすむようにすればいい」
後押しする俺の言葉で困惑したらしく、田上は眉を寄せた。
「私を信じてくれるの?」
「俺にとって信用とは裏切りも含んでいる。だから信じたからには
「それって信用とは言わないと思うけど。まあいいわ。あとで後悔しても知らないわよ」
田上は離婚届を懐にしまい、言った。
「世話になったわ。……違うわね。あの子をよろしく」
そして田上は背を向けて書斎を出る。それに付き従った。
「これから出るわ。次に来る時は迎えに来る時だと思う」
「だからこんな時間なのにコーヒーか。どうやって移動する?」
「車よ。はじめて運転してこっちに来たけど思ったより遠いわね。新幹線ならすぐなのに」
古くて暗い廊下をギシギシ言わせながら玄関に向かう。その途中で田上の足が止まった。
無言で見つめているのは翔太の部屋。その扉は閉められていて中の様子はうかがい知れず、彼女は指先だけて扉に触れる。ただそれだけで開けもせず、かといって離れもしない。
俺には田上という人間が強く見えていた。ひとりで子を育て、誇りを持って生きている。どうにもならない状況で心が折れても、再び挑む力があると認識していた。
実際、彼女は再出発を果たしている。背筋を伸ばした立ち姿にも、仕事を終えて着替えずそのままであろうスーツにも隙がない。
しかし見の前にいる彼女はとても弱々しく見えた。そう思えるのは背中に残るシワのせいだろうか。長時間の運転で刻まれたように、翔太より仕事を優先する負い目が傷となって心に刻まれているのかもしれない。
動けずにいる田上を見て、口を挟むか迷う。しかし息子に会う会わないは母親が決める事だ。それでも、声をかけずにはいられなかった。
「しばらく会えないなら顔ぐらい見ていったらどうだ」
「……そうね」
そう言って田上はドアノブに手をかける。ただそれだけで扉は開かれない。自信に満ちているはずの背中を丸め、扉に額を押し付ける。聞こえてくるのは荒い呼吸音。そして長く、とても長く息を吐いた。
「やめておくわ」
「いいのか?」
田上は振り返る。
「ええ。私には資格がない。あの子を置いていく私には」
力強い目をしていた。しかし虚勢に思える。スーツのシワを背に隠しても消したわけではないのとおなじように、翔太を残していく苦悩を押し殺しているだけだ。それを思うと何も言えなくなる。
そして田上は去った。彼女自身のために。
翌朝、翔太に母親が家を出た事を伝え、手紙を渡す。取り乱された時に納得させる言葉を用意していたが、
俺には翔太の心境がわからない。悲しみを抑えているのか、向き合ってくれない母親を諦めているのか、想像もつかない思いを抱えているとも考えられる。
そして翔太は頭を下げた。
「これからもよろしくお願いします」
その言葉からこれだけはわかった。
母親が去り、見知らぬ土地で、よく知らない男に育ててもらう。自分が置かれている状況と立場を理解していると。
「こちらこそよろしく頼む」
真剣な思いに真面目に答え、思った。
田上が息子を迎えにくるのはいつになるだろう。半年後か、一年後か。先のわからないその時まで養わなければならない。これは過去の過ちを正すために必要な道だと決意する。
そうして俺は田上の息子との、二人だけの生活をはじめた。
【次回予告】
翔太と暮らして一年がたった年末、のんびりした年末を過ごしていた。そこに届いたのは田上からの手紙。それは二人の生活に終わりが近づいている事を意味している。それを知らされない翔太は除夜の鐘に思いをぶつけようとしていた。
次回
『お前らの存在が重すぎて俺のタスクが破綻する』
<エンド・イヤー>
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