23話 翔太はコーヒーを淹れる

 いつもより寒い朝、リビングでテレビを付けるとスーツのお姉さんがニコニコしながら言った。


『本州全域に寒波が到来し、夕方から雪が降る予報です。ホワイト・クリスマスになりますね』


 僕がいた街ではほとんど雪が降らない。去年、初めてこっちに来た時に吹雪いていて驚いたぐらいだった。


 積もったら大智君は喜ぶだろうな。走り回り、服や靴をぬらしても笑っているはず。どこまでも続く田んぼは真っ白で、僕たちは雪を投げ合う。そんな景色を想像しただけで、なんだかうれしくなった。


 突っ立ったままテレビをみていると、後ろからパンの焼ける匂いが漂ってくる。つられて振り返ると、朝ごはんを並べ終えた幸二さんと目が合った。


「できたぞ」

「今日は早いね」


 学校に行く時間にしては早い。不思議に思いながらもテレビを消してテーブルにつく。いつも通り半熟のベーコンエッグに真っ赤なトマトが添えられていたけど、幸二さんのお皿にある卵は黄身が割れてお皿中に広がっていた。


「失敗した?」


 珍しいなと思ってたずねると、幸二さんは苦笑いする。


「うまくフライパンからはがせなかった。しかし、これはこれで有りだ」


 そう言って食パンをちぎり、黄身を吸わせて食べていた。なんだかおいしそうに見えたから真似したくなる。箸で黄身を割って同じようにしてみた。トロリとした黄身とベーコンの油を吸ったパンはいつもよりおいしい気がする。


「これはこれで有りだね」

「真似しなくてもいいんだぞ」

「言葉? 食べ方?」

「両方だ」


 幸二さんは笑い、僕も笑う。真似したんじゃなくて、自然と笑顔になった。


 またパンに黄身をつけたり、ベーコンを乗せたりしながら静かでのんびりした朝の時間がすぎる。食べ終えて野菜ジュースを飲んでいると、幸二さんは言いにくそうに口を開いた。


「すまない。ホームパーティに行けなくなった。大智の父には連絡してあるから、ひとりで行ってくれるか?」


 少し驚いたけど、きっと大切な用ができたんだろう。


「仕事?」

「違う。坂木にトラブルがあった。だから行ってやりたい」

「大丈夫? 僕にできる事はない?」


 いつもより真剣な雰囲気に飲まれて拳を握りしめた。ひとみさんにはたくさん助けてもらっているし、何かできればと思う。だけど幸二さんは、心配するな、と立ち上がった。そして手が僕の頭に置かれる。


「パーティ、楽しみにしていただろ。坂木は俺に任せて行ってこい」


 その手がとても大きく感じた。いつも仕事でキーボードを触っている指が髪をかき回す。お母さんがなでてくれる優しい感じじゃなくて、前後に動くたび頭が引っ張られるような力強さがあった。でも、なぜか、安心できる。


 きっとお父さんの手も同じなんだと思った。


「わかった。がんばってきてね。僕は幸二さんの分まで楽しんでくるから」


 そう言うと、手が離れた。見下ろしている幸二さんはお父さんじゃない。もう少しだけ続けていてもらいたい気持ちを振り払いたくて頭を振った。


 うん。もう平気。それより大切な事を聞かないと。


「いつ行くの?」

「もう少ししたら出る。遠いからな」

「え! ちょっと待ってて!」


 返事を待たずに立ち上がる。スリッパをパタパタ鳴らしながらリビングを飛び出し、きしむ廊下を走り、自分の部屋に駆け込んだ。勉強机に置いてある箱を抱えて、また戻る。


 僕の両手の中にある緑で包装された箱。それを見ても幸二さんは何か分かっていないみたいだった。


 押し付けるようにつきだす。


「クリスマス・プレゼント」


 幸二さんは受けとってくれた。


「俺にか?」


 喜んでもらえるかドキドキしながらうなずく。


「うん。開けてみて」


 僕の髪をかき混ぜていた指は金色のリボンを外し、丁寧に包装紙をはがしていった。蓋を取り、箱の中に固定するための厚紙を取り除いていく。その間、僕も動けない。見ているだけで、こんなに緊張するなんて思わなかった。


 じんわり手のひらが湿っていくのを感じていると、鈍く光る銀色の筒が取り出される。幸二さんは筒についたハンドルを回しながら言った。


「コーヒー・ミルか」

「自分でくとおいしいんだよね。コーヒー豆も入っているよ」


 幸二さんが食器棚を見たから僕もそっちに顔を向けた。そこにしまったままになっているのは壊れて使えない古いコーヒー・ミル。寂しそうに見えたから、思い切って聞いてみた。


「いらなかった、かな」


 だけど幸二さんは手の中にある筒をそっとなでる。


「少し驚いただけだ。それにしても……うれしいものだな。翔太、ありがとう」

「ついでだけどね」


 まっすぐ見つめられて、そんな事を言われると少し照れくさい。目をそらして強がってしまう。喜んでくれて良かった、とか言えばいいのになんでだろう?


 幸二さんは何も言わずに微笑んでいるけど本番はここからだ。僕は手を差し出す。


「貸して。今から作ってあげる」

「できるのか?」

「うん。コーヒーのお店で教えてもらったから」

「そうか。メジャースプーンやドリッパーは食器棚にある。お湯は俺に任してくれ」


 やり方を思い返しながらコーヒー豆の袋にハサミを入れた。幸二さんが飲んでいる時とは少し違うコーヒーの香り。それを感じているだけで大人になった気がした。


 でも、メジャースプーンを持ったまま動けなくなる。そういえば幸二さんがどのぐらいの量を使うのかわからない。どうしようか迷ったけど振り返った。


「スプーン何杯使うの?」


 幸二さんは知らない事を笑う人じゃないし、失敗しても怒らない。大事なのは失敗を繰り返さない事。僕が今まで見てきた幸二さんはそういう人だ。だから安心して聞けた。そして返ってきた言葉は思った通りの優しい言葉。


「そうだな。スプーン一杯と半分。いや、二杯で頼む」

「うん」


 僕はミルの蓋を開けて、言われた通りに豆を流し入れる。金属の筒の中でガラガラと鳴っていた。しっかり蓋を閉めてハンドルを握る。それは思ったより固くて苦労していると、力んで震える手に幸二さんの手が重なった。温かい熱と頼もしい力が伝わってきて、ハンドルはなめらかに回りだす。豆が砕ける振動がくすぐったかった。


「粉にするのって大変なんだね」

「ああ。だけど挽きたては香りが良いらしい」

「そうなの?」

「さあな。俺に違いはわからないが、そう言う人は多い」


 じゃあ、どうして自分でやるんだろう? 初めから粉を買ってきた方が楽なのに。そうたずねたら、意外な答えが返ってきた。


「もちろん楽しいからさ。豆が砕ける感触、音、香り、それらに包まれながら、緩やかに流れる時間の中で色々な事に思いをはせる。人生の楽しみ方と同じだ」

「えっと、よくわからない」


 正直に言ったら、幸二さんはフッと笑う。


「その内、わかるようになるさ」


 僕たちはミルを挟んでハンドルを回し続け、幸二さんの話も続く。


「俺の父も休みの日にこうやって豆を挽いていた。全く料理をしない人なのに、何でこれだけは自分でやるのか不思議に思ったものだ」

「もしかして、食器棚の壊れているミルって、幸二さんのお父さんの?」

「そうだ。子供の時はわからなかったが、きっと父も同じ思いでハンドルを握っていたと思う。コーヒーを飲むためだけではなく、楽しむために。俺も翔太みたいに、父と一緒にやってみれば良かった」


 そうすれば失敗しなかったかもな、と幸二さんはつぶやく。だけど、その話を聞いてもやっぱりわからなかった。そう思うのは、僕がまだ子供で、まだ何も知らないから。きっと大変な事もたくさん越えてきたんだ。ミルから顔を上げると幸二さんがすぐそこにいる。とても大きいと思うのは僕が小さいからだけじゃないだ。いつか、同じぐらい大きくなりたい。そう思った時、ハンドルが軽くなった。


 次はドリッパーにフィルターを広げ、粉になった豆を入れる。口が細いポッドでお湯を注ぐと泡立ちながら膨らんだ。湯気と一緒に広がるコーヒーの香りがすごい。一気に注がないように気をつけながら聞いた。


「いつまでお湯を入れたらいい?」

「コーヒーサーバーに目盛りがあるだろう。三杯のところまで頼む。全体にまんべんなく注いでやるといい」

「うん。こんな感じ?」

「うまいぞ」


 注いだお湯はコーヒーになって、サーバーにポツポツ落ちていく。集中していたからすごく疲れた気がするけど、やっとコーヒーができた。


 ふう、と息を吐いて顔を上げると、幸二さんがカップを二つ持ってくる。


「翔太もどうだ? 自分が初めてれたコーヒーがどんな味か気になるだろう?」

「じゃあ、飲む」


 ダイニングに戻って椅子に座る。僕たちの前にあるのはキャンプで使う金属のマグカップ。上手にできたか不安だったけど、幸二さんはためらいなく口を付けた。


「うまいな」

「本当に?」

「ああ。挽きたてだからじゃない。翔太と過ごした時間がそう思わせている気がする」

「また難しい話してるし」


 口をとがらすと幸二さんは笑う。そして飲んでみろと言った。


 カップを両手で持ち、なめてみる。大丈夫そうだからひと口。なんで僕のマグカップに半分も入れなかったのかわかった。


「苦い」

「だろうな。砂糖や牛乳を入れるか? 少しは飲みやすくなるぞ」

「大丈夫」


 コーヒーが飲めたからといって大人に成れるとは思ってない。だけど、美味しいって言ってくれたから最後まで飲みきりたかった。決意を固めて一気に飲み干す。味わう余裕なんてなかった。そんな僕を幸二さんは褒めてくれる。


「すごいぞ。がんばったな」

「ぜんぜん平気だよ」

「少し大人になった翔太にクリスマス・プレゼントだ。開けてみろ」


 幸二さんはカバンから平べったいものを出して、僕に差し出した。きれいにラッピングされたプレゼントはノートぐらいの大きさだけど、それにしては少し重い。言われるままセロハンテープをはがし、包装紙を開いていくと、大きいスマホみたいなのが現れる。


「スマホ?」

「タブレットPCだ。初期セットアップだけしてある」


 それがどういう事なのかわからず首を傾げると、いつものように教えてくれる。


「つまり、生まれたてみたいなものだ。これを使えばだいたいの事はできる。遊び道具にしてもいい。知識を求めてもいい。翔太と一緒に成長させてやってくれ」


 真っ暗な画面に自分の顔が写っている。まだまだ子供の顔だ。


「幸二さんみたいになれる?」

「それは翔太しだいだ。最初はつまずく事も多いだろう」


 きっとたくさん努力しないといけないんだ。そう思うと始める前からくじけそうになる。だけど安心しろ、と言ってくれた。


「楽な道や近道はないが、ゆっくり一歩づづ進めばいい。足が止まったら成りたい自分を思い浮かべろ。そうすれば必ずうまくいく」

「幸二さんもそうやってきたの?」

「俺は、急ぎすぎて失敗もしたし、人を傷つけたりもした。しかし翔太なら大丈夫。俺がついているしな」


 幸安心させようとしてくれるけど、きっと大変なんだ。そして幸二さんは頑張ってきたはず。だったら僕も。


「うん。ありがとう。幸二さんもがんばって。ひとみさんを助けに行くんだよね」

「まずい。忘れていた。翔太こそ急げ。遅刻するぞ」

「あ! もうこんな時間!」


 のんびりした時間はうそのように慌ただしくなり、二人して玄関から飛び出た。車に駆け寄る幸二さんに手を振る。


「いってらっしゃい!」


 車のドアに手をかけていたけど、振り返ってくれる。なんだかとても楽しそうに見えた。


「行ってくる」


 僕たちはそれぞれの道を走る。まだクリスマスイブは始まったばかりだけど、最高の日になると思った。

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