21話 居てもいいかと言われても
勇人との電話が終わったすぐあと、玄関の開く音が聞こえた。かすかに、ただいま、という声が届く。
俺は立ち上がり、ちらりとモニタに目を向けた。今日の進捗は思わしくない。しかし今は翔太との話を優先すべきだ。仕事は夜にやればいい。
書斎のドアを開けると、薄暗い廊下の向こうに翔太の姿が見えた。待ち受けていると思われたのか足が止まる。小さい両手がランドセルのベルトを握りしめていた。
「おかえり」
「ただいま」
その言葉から緊張が感じ取れる。わずかに肩をふるわせたのがわかった。
俺は努めて軽い声を出す。
「少し話さないか?」
「うん」
肩と同じく、その声も震えている。そうさせているのは俺だ。この数日間、俺から投げかけた言葉はひとつしかない。喧嘩の原因を教えてくれ、だけだ。それでは身構えられても仕方ない。
俺だってそうだったじゃないか。子供の頃、友達と喧嘩して傷だらけで帰ってきた時だ。縁側で父と向き合って座らされた。俺に厳しい目を向けるが、目を合わせたくなくて母の小さい畑を見ていたものだった。そして言われた言葉は鮮明に思い出せる。
『喧嘩の原因は何だ? 怒らないから正直に言いなさい』
俺も同じ事を言おうとしていた。怒らないからと。その通りになったためしはない。だからその言葉は言いたくなかった。
どう切り出すか考えながら、ダイニングテーブルを挟んで顔を合わせる。翔太の拳はテーブルの上で握りしめられ、視線は交わらない。これから起こる事に耐えようとしているのがわかる。追い詰めるつもりはないというのにだ。
少しでも和らげられないかと、なるべく落ち着いた声で語りかける。
「俺のために怒ってくれたんだな」
翔太は顔を上げた。
「なんで知っているの?」
「見ていた子供の話が聞けた。俺を名前で呼ぶ事でからかわれたと。その上で教えてほしい。なぜ、つかみかかるほど許せなかった?」
答えは沈黙。これは失敗だったらしい。殻に籠ろうとするのが伝わってきて、ストレートすぎたと反省する。
「すまない。聞き方が悪かった。正直な気持ちが知りたい。怒らないから――」
思わず父と同じ聞き方をしてしまい、苦笑いする。おかしなタイミングで笑う俺を見て、翔太は不思議そうな表情を浮かべた。
「父を思い出しただけだ。怒らないからと言われて毎回怒られていたんだ」
「幸二さんも喧嘩したの?」
「喧嘩ぐらいするさ。殴り合いになった事もある。だから喧嘩するなとは言わない。自分ができなかった事を要求するつもりはない」
「でも、僕が喧嘩したせいで幸二さんに迷惑かけたよ」
やはり翔太は俺に負担をかけるのを極度に恐れている。心に傷を抱えていた。何に? 大体の想像はつく。その原因を解消するには真意を知る必要があった。そのためには話してもらうしかない。
俺に聞く資格があるのか? その思いが浮かび、振り払う。何もしないよりずっといい。
「気にしなくていい。この程度の事は最初から織り込み済みだ。……また言い方が悪かったな。翔太の力になってやりたい。悩みがあるなら話してくれ」
半年前の俺が聞いたら驚くだろうが、これが今の本心だ。俺は翔太と家族でありたいと思っている。たとえ、短い間だけだとしても。
「そんなつらそうな顔は見たくないんだ」
答えはない。室内は静寂で包まれ、壁時計の針を刻む音だけが異常に大きく聞こえた。このまま永遠に続きそうな沈黙だったが、ポツリ、ポツリと話してくれる。
「……最初は本当のお父さんじゃないから、名前でしか呼んじゃいけないと思ってたんだ。でも幸二さんと仲良くなって、毎日楽しくなって、そういう事を忘れていたんだと思う」
翔太は自分の思いを一生懸命組み立てて、伝えようとしてくれている。俺は最後まで聞きとげたいと思った。
「たぶん、あの子は僕と大智君の話を聞いていたんじゃないかな。二人で幸二さんの話をしていたんだ。そうしたら、帰りの下駄箱で言われた。本物の父ちゃんじゃないから名前で呼んでいるんだろ、って。そうしたら、すごく頭にきて、あんな事になっちゃった。迷惑かけてごめんなさい」
翔太はテーブルに頭がつくほど下げる。自分の気持ちをうまく説明できないと思われるが、それでも思いの丈を話してくれた。それは蓋をしてしまいたい気持ちのはず。自分で解決できない問題など目をそむけ、見て見ぬ振りをするしかない。直視させた事が申し訳なくもあり、話してくれた事がうれしくもあった。
「迷惑とか言わないでくれ。前にも言ったが、一緒に悩んでやるのが俺の役目だ。だから俺の顔色をうかがうな。こんな事で見捨てたりしない」
翔太はパッと顔を上げる。驚きで大きく目を開いていた。
解決すべきは喧嘩の原因ではない。そうさせた不安を取り除く事だ。きっと今回の件で思い出したのだろう。自分の立場を。実の母親に置いて行かれた事を。俺の気持ちひとつで居場所がなくなるかもしれないと。俺に迷惑をかけた事で捨てられないかとおびえている。
翔太の保護者を引き受けるなんて軽々しく言うべきではなかった。少なくとも今はそう思う。
「田上は翔太を捨てていない。また二人で生活する場を作るために戦っている。それは楽な道ではなく、つらい思いをさせたくなくて連れていけなかっただけだ。田上も、俺も、翔太を足手まといだとは思っていない」
俺は深く頭を下げた。
「俺は翔太を引き受けると提案したが、田上だけではなく翔太にも話すべきだった。そのせいで不安にさせてしまい申し訳なく思う。悪かった」
再び沈黙が訪れる。長く下げていた頭を上げると、翔太の瞳に吸い込まれそうなほど見つめられていた。
「僕はここにいてもいいの?」
「ああ。翔太が望むかぎりな」
ようやく翔太の顔から不安が消えた気がした。体から力が抜け、緊張した空気が晴れていく。
「ありがとう」
その声は小さかったが、はっきり聞こえた。
「礼は不要だ。自分の家に住むのに申請や承諾は必要ない」
「そうかもしれないけど、うれしいんだ。だから、ありがとう」
翔太がここに住みはじめて一年。田上が去って半年。翔太にとって、この家は仮住まいではなく、本当の居場所になる。
数日間続いた問題が終わり、残件があるとすれば提案を口に出せなかった事か。
望むなら父と呼んでもいい。その一言はあまりにも図々しくて言えなかった。
【次回予告】
翔太と幸二は大智の家に招かれる。そこで行われるのは翔太にとって初めてのホームパーティ。クリスマスイブということもあり、翔太はプレゼント選びで頭を悩ませていた。
次回
『お前らの存在が重すぎて俺のタスクが破綻する』
<クリスマス・プレゼント>
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます