20話 父親だと言われても

 一晩明けても翔太は塞ぎこんでいた。黙々と朝食を食べ、小さい声で行ってきますと言い、ランドセルを背負う。


 その姿は打ち解ける前と同じだ。必要な事だけ話し、目を合わさない。椅子をずらす音、ドアを開く音、わずかな動作の音が静まり返った家に響く。以前では当たり前だった生活音の大きさに違和感を覚えた。


 それよりも翔太だ。どうにかして心のもやを晴らしてやりたい。大智が心配していると伝えてみようか? 口を開きかけたが止めた。きっと表情は和らぎ、今までのように笑顔を見せるだろう。しかし、それは自発的なものではない。心配させまいと振る舞おうとするだけだ。


 結局、ランドセルを背負う後ろ姿を見送るしかできない。玄関が閉まる音を聞きながら、俺は席を立った。家にひとり残されて書斎のドアを開ける。


 トラブルを抱えたままでは集中して働けないが、それでも仕事は待ってくれない。PCを起動し、頭を切り替えるべく深呼吸する。しかし昼を回っても大して進捗はなかった。


 おくれを取り戻そうと、昼休憩を無視して作業を続け、モニタに顔を寄せる。視界のほとんどを仕様やソースコードが占めていても、頭のリソースは翔太の件に大部分が割り振られていた。

 

 以前の俺はこうではなかったが、この変化を受け入れた今は文句を言うつもりはない。しかし早めに解決したかった。長く続けば俺にとっても、翔太にとっても、良い状態とは言えない。


 そんな時、キーボード脇にあるスマホが震えた。大智からとわかり通話モードにする。

 

「何かわかったか?」

『出るの早! それがさ。翔太が突然つかみかかってきたとしか言わないんだよ』

「そうか」


 その話は学年主任の安田が言っていた内容と合致する。しかし翔太は理由があったとしても刹那的に動くやつじゃない。余程の事があったはずだ。相手が同じ内容を繰り返しているのは、本当にそれだけなのかもしれない。それでも何か隠している気がした。


 俺が黙っていると、スピーカーから気遣う声が聞こえる。


『なあ。もう一度聞いてみようか?』

「いや。大丈夫だ。あとは何とかする。手間を取らせて悪かった」

『何とかするって、どうする気だよ』

「うまくやるさ。今度、改めて礼をさせてくれ」


 通話を切り、目を閉じてワーキングチェアによりかかった。トラブルの中心にいる二人はどちらも口を閉ざしている。下校時間の下駄箱という目撃者の多い中でもめた原因はなんだろうか?


 ソフトなら異常時の状態を記録しておく仕掛けを組み込んでおくから調査しやすいが、人間関係ではそうも言ってられない。


 ……いや、目撃者が多いなら片っ端から当たればいいだけだ。


 スマホを操作し発信する。目的の相手はすぐに出てくれた。


勇人ゆうと。久しぶりだな。今、大丈夫か?」

『お前から電話してくるなんて珍しい。娘と遊ぶ約束してるから飲みには行けないぞ』


 秋の運動会で再開した勇人の声は明るい。明るいのは勇人だけではなく、子供特有の高い笑い声やドタドタと走り回る音も聞こえた。


「そういえば飲みに誘えと言っていたな。それより聞きたい事がある。確か、娘は二年生だったな」


 俺の問いに子供の声が重なる。スマホを持っているであろう父親より大きな声で、ゆうとー、ゆうとー、と繰り返し呼んでいた。


「悪い。休みの日は娘が放してくれなくてな」


 見なくてもわかる。目尻を下げているに違いない。


「良かったな。どうせ今の内だけだから堪能しておくといい」


 冗談を言うと勇人も笑った。父親が電話中でもべったりくっついているらしく、一生懸命名前を呼んでいる。


 それが気になって尋ねた。


「名前で呼ばせているのか?」

『ずっとパパだったんだけどな。昨日から急に名前呼びさ。これはこれで悪くない。そういえば弥生の子が喧嘩してたんだってな。娘が見ていたらしい』

「それだ。その件で電話した。……なぜ、お前の娘が翔太を知っている?」

『そりゃあ、運動会の写真が貼ってあるからな。自分でも良い絵が撮れたと思うぞ』


 リビングに飾ってある写真を思い出す。リレーでバトンを託す翔太と大智が写されている思い出。あれを送ってくれたのは勇人だった。きっと勇人の娘は見覚えがある翔太が喧嘩していたので気になったのだろう。


『何があったのか情報がない。見ていたなら教えてくれ」


 目撃者を探して身近なところから当たってみたが、いきなり機会が訪れて身を乗り出す。


『見てたのは俺じゃないぞ』

「わかっている。俺の代わりに聞いてくれないか? 喧嘩と言っても殴り合いではなく、みあっていたらしい。それなら何かしら口論になっていたはずだ」

『わかった。少し待て』


 そのままスマホを構えたまま、しばらく待つ。時折、二人の会話の断片が聞こえるが内容まではわからない。ハンズフリーにすれば楽だったと気づかない程、俺は硬直していた。


『待たせたな。どうやら名前呼びでもめていたらしい。お前、名前で呼ばせているだろ』

「呼ばせてはいない。好きにさせているだけだ」


 そんな俺を勇人はからかう。


『そうか? じゃあ、パパと呼ばせてみろよ』


 翔太にパパと呼ばれるところを想像して、振り払った。それは、どうにも、むずがゆい。


「話をそらすな」

『そらしてないさ。大事な話だ。父と呼ばれたくないと思っているんだろう? 子供はそういうところに敏感だから、呼びたくても呼べないのかもな』

「父親と認められていないだけだろう」


 翔太の意図は本人しかわからないし、その推察に意味はない。また、からかわれているのかと思ったが、返ってきた勇人の声は真剣だった。


『お前、何もわかってないな。目の前にいたら胸倉をつかんでいたぞ』


 高校の文化祭で、勇人に襟をつかまれたのを思い出す。こいつは気のいいやつだが、他人のためになると驚くほどシリアスになる。それは今でも変わっていないらしい。その熱さが電話越しに伝わってくる。


『うちの娘はな。言い争いをしてるのを見て、俺を名前で呼ぼうと思ったんだ。なぜだかわかるか?』

「わかるはずがない」

『一部始終見ていたからだ。名前で呼ぶのが変だと笑われているのを。本当の父親ではないと、からかわれているのを。それを言われた弥生の子が怒ったのもな。血がつながってなくても、手を引いてくれて背中を押してくれる。だから馬鹿にするな、と言っていたらしいぞ』


 思えば、俺の事をどう考えているか知らなかった。考えないようにしていたのだろう。田上のために翔太を引き取ったが、本人からすれば母親を引き離したと思われていてもおかしくない。今まで謝罪した事もなかった。今になって罪悪感が重くのしかかってくる。


 口ごもる俺に勇人ののんびりした声が届く。それは優しい声だった。


『娘が言っていたが、父親のために本気で怒る姿が格好良かったそうだ。それで真似してるんだと』

「俺に父親を名乗る資格はない」

『それを決めるのは幸二じゃないだろ。弥生の子だ。もうとっくに認められてるんだよ。だから胸を張れ』


 勇人は笑いながら言った。その後ろから子供の声が聞こえる。いつまで電話してるの、と機嫌を損ねはじめているのが伝わってきた。


「礼を言う。邪魔したな」

『構わないさ。最後にひとつだけ教えてやる。一生懸命になるのはいい。しかし所詮は子供の喧嘩だろ。そこまで深刻な問題じゃない。もっと肩の力を抜け。子育ての先輩からのアドバイスだ』

「そういうものか?」

『俺が何年、父親をやってると思っているんだ。こういう時にどっしり構えておかないと、子供は不安になるもんだ。お前がつらそうにしてると逆に気を遣われるぞ』


 高校の時、俺は大人として振る舞おうと背伸びをし、勇人は正義感の強い学生だった。そして15年が過ぎた今、本当の大人になっていたのは勇人の方だ。


「家族を持っていると言葉に重みがあるな」

『当たり前だ。尊敬していいぞ』


 勇人は笑い、俺もつられた。


 電話口から子供の声が聞こえる。いつまでも電話していないで、と急かしているのが目に浮かんだ。


「本当に助かった。アドバイスもな」

『いいさ。お前の父親らしいところが見られて良かった。近いうちに飲みに行こう。じゃあな』


 スマホの通話モードがオフになる。ずっと同じ姿勢でいたせいか肩に疲れを感じ、腕をだらりと下ろした。


 俺は翔太の父親であろうとしているのか? そう言われても自覚はない。しかし、できる事はしてやりたいと思った。

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