17話 いいから薬を飲め

 翌日、目覚めの遅かった俺は客間に来ていた。


 布団に潜り込み罰の悪そうな顔を半分以上隠した坂木の傍らに、あぐらをかいている。二人とも口を開かないまま時間だけが過ぎ、ピピピと電子音が鳴った。


 手を差し出すと、坂木は布団の中でもぞもぞ動き、俺の手に体温計を置く。その白い計測機器はとても熱く感じた。


「全然大丈夫です」

「37度を越えているな」

「その体温計の温度変換マップがおかしいんじゃないですか?」

「他所のソフトに言いがかりをつけると自分のソフトも同じ目にあうぞ」


 坂木はうなり、また布団の中に隠れる。


 今朝、翔太に起こされた時は焦りを覚えた。坂木が病気だと駆け込んできたら驚きもする。少し熱があるが本人は元気そうだし心配しなくてもよさそうだが。


「薬を飲んでしばらく休むといい。幸い明日は日曜日だしな」

「本当に大丈夫なんですよ」

「少しは俺の言う事を聞け。これでも心配しているんだ。いいから大人しくしていろ」


 坂木を黙らせて客間を出た。キッチンの引き戸にある風邪薬の錠剤と冷蔵庫のポカリを持ってきて畳に置いた。


 それを見て坂木の眉が寄る。


「どうしろと?」

「飲めばいいだろう。すぐによくなる」

「そうじゃなくて、食後に服用するもんじゃないんですか?」

「俺は気にして飲んだ事はない。気になるなら先に朝食にしよう。何がいい?」


 坂木は、なんでもいいです、と言ったあとにポツリと訂正した。


「やっぱり、おかゆがいいです」


 おかゆか。作った経験はないがそう難しいものでもないだろう。ただ時間はかかりそうだ。


「少し待たせると思うが、いいのか?」

「はい。風邪と言ったらおかゆですよね。あと、生姜湯もいいなあ。ハチミツたっぷり入れて」


 好物を思い浮かべているのか目尻が下がり始めた。しかし、その期待には応えられない。


「生姜はチューブのしかないしハチミツもない」

「じゃあ、おかゆだけでいいです」

「わかった。できるまで寝ていろ」

「はい」


 坂木は静かに目を閉じた。話している時は気づかなかったが、息が荒い。軽い口調で心配かけまいとしていたのだろう。


 そもそも負担をかけたのは俺なのだから、遠慮する必要がないというのに。


 なるべく音をたてずに、客間を出た。


 リビングに行くと、ソファに座っていた翔太が立ち上がる。


「ひとみさん、大丈夫?」

「ただの風邪だ。少し寝ていれば良くなる。少し遅くなったが朝食にしよう」


 俺は坂木用に米を洗い、鍋に火をかける。味付けが塩だけでは物足りないだろうと粉末の和風出汁も入れた。


 そのあとでフライパンにベーコンと卵を焼く。こっちは俺たちのだ。


 翔太はトースターに食パンをセットしてから俺の隣に立つ。


「ひとみさん、僕と一緒にいて疲れたのかな?」


 あまりにも心配そうな声で聞いてくるので、柔らかい髪をかき混ぜながら答えた。


「お前のせいじゃないさ」

「本当に?」

「ああ」


 誰のせいかといえば俺のせいだろう。しかし、それを伝えると翔太は自分のせいと受けとめるかもしれないと思い、話を変えた。


「田上から聞いたが、翔太はよく風邪をひいたらしいな。病気の時、田上もつらそうにしていたか?」

「ううん。いつも通りだったよ。家にはいてくれたけど」


 本当はつらかったはずだ。翔太の事はもちろん、自分の事もだ。仕事を休まなければならないのを苦痛に感じていないはずがない。


「田上はわかっている。弱っている時についていてくれる人もつらそうにされると余計に気持ちが落ち込むものだと。だから翔太はいつも通りにしていればいい」


 翔太が納得したのかわからないが、トースターがパンの焼き上がりを知らせてくれて離れた。


 俺も卵を皿に移してダイニングに行く。


 二人して黙々と食事を進めていたら翔太が口を開いた。


「ご飯食べたら出かけてきていい? 買いたいものがあるんだ」

「ああ。金は大丈夫か?」

「うん。お小遣いあるから」


 翔太はサニーサイドアップをかきこみ、野菜ジュースで飲み込んでいた。何を買うのか知らないが、病人のいる家にいるより外に出ている方がいいだろう。


 平らげた皿をシンクに持っていき、バタバタと自分の部屋に行ってしまった。そして玄関が開く音が聞こえ、いってきます、と元気のいい声が届く。


 何か思い付いたらしいが、気にしなくてもいいだろう。きっと悪い事じゃない。すぐにわかるだろうから楽しみにしておくとしよう。


 俺も食事を終え、鍋の様子を見ながら洗いものをすます。ほどよく柔らかくなったおかゆに溶き卵を流し入れて塩をひとつまみ。我ながらよくできた。


 器に移して客間に向かう。


 相変わらず坂木のいる部屋を開けるのはためらう。声をかけるべきだろうが、眠っていたら邪魔をする事になる。どうすべきか考えていると、中から呼ばれた。


「入っても大丈夫ですよ」


 なぜわかったのか疑問に思いながら襖を開ける。


「よくわかるな」

「この家の廊下はきしむ音が大きいからすぐわかりますよ。よっこいしょっと」


 起き上がろうとしている背中を支えた。パジャマ越しに熱の高さが伝わってくる。それと同時にピクリと震えたのがわかった。


「すまない。触れるべきではなかったな」

「平気です。ちょっと驚いただけなんで。それより、幸二さんは自分から人に触れる事しない人でしたよね」

「そんな事はないだろう」

「ありますよ。部下になってから一回も見ていませんし」


 そう言われても自覚がない。いや、ついさっき、翔太の頭をなでてやったばかりだ。そう言いながら、卵がゆを手渡した。


 坂木は両手で器を包み、熱を感じているように見える。目を閉じて香りを楽しみ、俺を見た。


「たぶん、翔太君に向き合った時からじゃないですか? 前に蕎麦そばをご馳走ちそうしてもらった時、私の手を押し戻しましたよね。五年も一緒にいて、触れたのはあれが初めてですよ」

「そうなのか?」

「はい。驚いたんでよく覚えています。きっと今までは無意識の内に避けてたんですよね。触れるというか、人と関わろうとするのを」


 ありそうな話だ。それも変わった証なのだろう。


「触れるのすら避けている自覚はなかった。しかし自然に手が出たという事は、俺が変わったんだろうな」


 それにしても坂木はよく見ている。驚かされる事ばかりだ。感心している俺を尻目に、卵がゆをスプーンですくい、息をかけて冷ましている。かすかに出汁の香りを感じた。


「さっきの背中が二回目ですけどね。あ、これ、おいしい」

「口に合ってよかった」

「看病してもらっている補正込みですけどね。でもありがとうございます。こういうの憧れだったんですよ」


 坂木は器に目を落としたまま、ゆっくり口に運んでいる。背中を丸めて大事に抱えながら食べている姿は寂しげに見えた。


「親に作ってもらわなかったのか?」

「母にはありますけどね」


 やがて食べ終わり、坂木は横になった。いたずらっぽい目を俺に向けて、手を布団から出す。


「おいしい卵がゆのお礼に手を握ってあげましょうか?」

「遠慮しておく」


 坂木はほほ笑みながら手を引っ込めた。


「じゃあ、替わりに私の話をしますね」


 食ったら薬を飲んで寝てしまえとは言えない。聞いてほしいのだろうと思ったからだ。


「私、父と仲が悪いんです。というか一方的に嫌ってました。家の事も私の事も母に丸投げで、仕事と世間体が全てって感じです」


 俺の相づちを待たずに坂木の話は続く。その目はぼんやりしていて、何も見ていない。


「だから理想の父親像を作っていたんです。つらい時は気づいてくれて、困っていたら助けてくれて、何も言わなくてもわかってくれる人。他にも色々あるんですが、最近ひとつ条件が増えました」

「どんな条件だ?」

「縁側に並んで、安心してお酒が飲める人です。私、幸二さんの事好きだったんですよ」


 坂木は首を巡らせて俺を見た。


「でも勘違いでした。私は幸二さんに父親を求めていたみたいです」


 坂木の目には俺を通して父親が映っていたのだろう。


「そんな事だろうと思っていた」


 きっと翔太に親身になっていたのも、父親にしてもらいたかった願望からだろう。そう考えると辻褄つじつまがあう。


 それに、俺は人から好意を向けられる人間じゃないのはよくわかっているつもりだ。


 坂木が父親を求めているなら、その役割を果たそう。今まで受けた恩を返すには小さすぎるほどだ。いつまでもとはいかないが、せめて実の父親とのわだかまりが溶けるまでは。


 そう方針を固めたが、話には続きがあるらしく、坂木は口を開きかける。その時、玄関が勢いよく開かれる音が聞こえた。バタバタと足音が近づいてくる。襖をスッと開いたのは翔太だった。


「ひとみさん! ミカンの缶詰め買ってきたよ!」


 息を切らせて缶詰めを掲げる翔太だったが、俺は静かにたしなめる。


「人の部屋を開ける時はノックしろと言ったはずだ。それと病人の前では静かに――」

「もう!  せっかく買ってきてくれたのにそれはないですよ。減点です、減点」


 坂木は俺をにらみ、翔太を招き入れる。缶詰めを受け取って、うれしそうにしていた。


「翔太君、ありがとう。風邪にはミカンの缶詰めだって言ってたもんね」


 そういえば運動会で言っていたのを思い出した。それを坂木にも話していたという事はよほど大きな存在なんだろう。気遣えた事を先にほめるべきだったかと思っていると、缶詰めが俺に回ってきた。


「せっかくだから三人で食べましょうよ。私ひとりじゃ食べきれません」

「そうだな。翔太は坂木と一緒にいてやってくれ」


 俺は立ち上がり、キッチンに向かった。細かい模様の入ったガラスの器に入れると、より鮮やかに見え、それだけで疲れが消えそうに感じる。


 そのあと食べたミカンは爽やかな甘さがあった。しかし坂木が言いかけた言葉が何だったのか気になり、気分は複雑なままだった。




【次回予告】


 田上と翔太の関係に坂木を巻き込んでしまった事を気に病む幸二は、何事もなかったかのように振る舞う坂木の真意を測れずにいた。そんな時にスマホが振動を始める。それは翔太の担任からの電話だった。


 次回

『お前らの存在が重すぎて俺のタスクが破綻する』

<エマージェンシー・コール>

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