シック

16話 話を聞け

 長く短い出張が終わり、俺は深夜の高速で車を走らせていた。等間隔にあるオレンジの道路照明を通りすぎるたびに車内は明るくなり、そして暗くなる。


 当初はもう一泊して帰るつもりだった。しかし予定していた試験が順調に終わり、気が抜けたせいか早く帰りたいと思った。


 最寄りのインターが近づき、速度を落として出口車線をゆっくり回った。ETCレーンのバーが上がり、田舎と都市を結ぶ幹線道路にでる。


 赤信号で足止めされている間に、ネクタイを緩めてボタンをひとつ外す。青に変わった信号がいつも以上に明るく見えた。きっと俺の車しか走っていないからだろう。


 窓を全開にしてアクセルを踏むと風が車内をかき回す。


 俺はこの時間が好きだった。世界にたったひとりになれた気がする。そこは他人という不確定要素が存在しない、完全な世界だ。


 風に乱された髪をかき上げながら思う。そう。好きだった。過去形だ。今はさほど好きじゃない。誰かと共に過ごしたいと思うのは俺が変わった証拠だろう。でなければ深夜に車を走らせたりしない。


 市街地を抜けて広域農道に入る。月灯りでぼんやり見える田畑の中を滑るように走った。時折ある信号は全て黄色の点滅で帰りを妨げるものはいない。


 俺は変わった。なぜだ?


 思い浮かぶのは翔太しょうた坂木さかきの顔。二人から教わった事は多い。


 別にコミュニケーションが嫌いでも苦手でもなかった。ただ、ひとりの時間の方が好ましい。その考えが壁を作っているのも知っていた。むしろ好都合だと考えていたぐらいだ。


 それは田上たのうえと再会してからも変わっていない。家に招き入れたのは借りを返したかったからだ。


 きっと翔太はそれを感じていたのだろう。俺が打算的な考えで動いていたのを。だから心を開かなかった。あの部屋の扉のように。俺はリコーダーが聞こえるまでそれすら気づかなかった。正確にいえば、気づいたのは坂木だ。彼女が背中を押してくれなければ今でも扉は閉ざされたままだっただろう。


 あの暑い夏の日を思い出す。


 あの日、開けたのは俺の扉でもあった。


 ひとりきりだった俺の世界に翔太が入り、今では坂木もいる。深夜の広域農道並みに暗かった世界が二人によって明るく、にぎやかになった。きっとこれからもっと明るくなるだろう。


 そのまま風とエンジンの音だけ聞きながら車を走らせる。二人にただいまと言うために。


 家にたどり着いて車を降り、荷物を抱える。砂利を踏んで玄関に向かう途中でリビングに灯りが点いているのに気がついた。


 ふくらはぎに疲れを感じながら足を進め、玄関の鍵を開ける。暗い廊下をきしませリビングのドアを開けた。背を向けたシングルソファがある。そこの肘置きに坂木の腕が見えた。


「まだ起きてたのか」


 声をかけたが返事はない。まさか、こんなところで寝てしまったのか?


 正面に立ってため息をつく。肌寒いというのにパジャマ姿で寝息を立てていた。坂木にあてがった客間まで運んでやろうかと思ったが、起こしてしまいそうで止めた。


 仕方なしに客間に毛布を取りにいく。その行為も他人の部屋に無断で立ち入るのと同じ罪悪感を覚えたほどだ。翔太の部屋に入るのは何も感じない。その違いを考えながらリビングに戻り、なるべくそっと毛布を掛けた。


 これでいい。さっきよりマシなはずだ。安心したのもつかの間、坂木のまぶたがゆっくり上がる。焦点が定まらない瞳がさ迷い、俺をとらえた。


幸二こうじさん? いつ帰ってきたんですか」

「今だ。寝るなら部屋に行け。風邪をひくぞ」


 坂木は毛布をたぐり寄せて鼻から下を隠した。


「それって家が一番安心できるからですか?」

「それもあるが、お前たちが心配だった。問題なかったか?」

「はい」


 トラベルバッグから包装された箱を取り出し、坂木に見せた。


「世話になった。改めて礼をするが、とりあえず土産だ。うまいぞ」


 俺が好きな焼き菓子だが、坂木の顔は暗い。大きな目がすっと細まる。毛布の下で何か言ったのはわかったが聞き取れなかった。


「顔を出せ。何を言っているのかわからん」

「嫌です。私、化粧していないんですよ」

「もう見ているから気にするな」

「そういうとこですよ! だいたい帰ってくるならちゃんと連絡してください!」


 怒りに満ちた目を向けられて困惑した。寝起きで機嫌が悪いのかもしれないが、それだけではなさそうだ。


「悪かった。それより、何かあったのか?」

「……何もないって言っているじゃないですか」


 ぼそぼそと否定しているが、明らかに様子がおかしい。手掛かりがないか見回して、ダイニングテーブルに紙袋があるのを見つけた。それは俺の土産と同じデザインで、黄色のヒヨコが描かれている。


 こっちでは買えないものが、ここにある。それは誰かが持ってきたという事だ。そして、これを土産にするやつはひとりしか心当たりがない。


「田上が来たのか。その様子では色々聞いたみたいだが、あいつにはあいつの信念がある。理解してやってくれ」

「いやです。私が怒っているのはそれだけじゃありませんし」

「それなら何に腹を立てている?」

「全部ですよ!」


 坂木は立ち上がり、俺をにらみつける。毛布が足元に落ち、握られた拳は震えていた。


「翔太君を捨てたあの人も! わけのわからないやり方で引き取った幸二さんも! つらいのは翔太君なのに自分の事ばかり考えてる私にもです!」


 坂木の怒りは理解できる。理解できるようになった。それだけに何も言えなかった。そんな俺に坂木は詰め寄る。


「何とか言ったらどうですか」

「それが最善と信じての行動だ。しかし――」

「もういいです!」


 最後まで言わせてもらえず、坂木は毛布を抱えてリビングを出た。暗い廊下を追いかける。


「待て」

「待ちません」


 坂木は客間に入りふすま閉める。二人の間が隔てられる寸前に手をかけた。


「話を最後まで聞け」

「嫌です。言われた通り布団で寝るんで手を離してください」


 昔の俺なら離しただろう。必要以上の干渉は害にしかならないと考えていたからだ。しかし今は違う。


 俺は力ずくで襖を開けた。


 坂木はたじろぎながら下がる。


「な、なんですか」

「少しでいい。話を聞いてくれないか?」


 しばらくにらまれていたが、俺が引き下がらないとわかり、大きくため息をつかれた。


「わかりました。でも先に着替えをすませてからにしてください。スーツのままじゃ疲れも取れないでしょうし」

「俺はこのままでも――」

「私が着替えたいんですよ! リビングで待っててください!」


 そのまま客間から押し出された。仕方なしに着替え、荷物を置きに書斎に寄る。


 トラベルバッグからノートPCを出してキーボードの横に置いた。洗濯物は、明日でいいか。


 コルクボードから出張のメモをはがしていると、写真の位置が変わっているのに気づいた。コンビニ前で翔太とアイスを食べている写真。田上から送られてきたものだ。おそらく俺たちの様子を見にきたのだろう。写真を撮れる距離まで近づいておきながら会わずに去る。それが翔太との決別のように思えて写真を隠していたが、坂木はその存在に気づいたらしい。


 田上と話し、見える位置に写真を貼り直した。坂木の気持ちがわかった気がする。


 俺と翔太、そして田上は今のいびつな関係をやめるべきだと言いたいのだろう。田上は写真を撮る側ではなく、翔太と一緒に写っているべきだと。


 俺は写真をそのままにし、坂木が待つリビングに行った。


 すでに坂木はダイニングテーブルについている。パーカーとデニムパンツ姿で振り向いた。


「遅かったですね」

「書斎に荷物を置いてきた。それで話だが」

「突っ立ったまま話す気ですか? とりあえず座ってください」


 坂木が椅子を指差すので、大人しく腰を下ろした。田上の土産である黄色い紙袋を横目で見て咳払せきばらいをする。


 いざ話そうとすると緊張する。まだ顧客に無理難題を吹っ掛けられている方が気楽だと思いながら口を開いた。


「田上から何を聞いた?」

「仕事のために翔太君を幸二さんに託した、とだけです。大体、意味がわかりません! 親権を移すためだけに入籍して離婚したって! 馬鹿なんですか!」


 説明するはずが質問攻めにあって思わずのけ反る。


「その時は最善だと判断した。事故や病気の時、親権がないと迅速に対応できないからだ。もちろん俺は監護権だけで財産管理権は田上だ」

「そういう問題じゃないんですよ! お母さんと引き離された翔太君がどんな思いで――」

「待て。最後まで聞いてくれ」


 無理やり割り込んで、ようやく坂木の口が止まった。それでも腕を組んで怒りをあらわにしているのは変わらない。


「しかし今は違う。実行するにしても翔太の意見を聞くべきだった。それですら傷つける事になったとは思うが」

「……わかっているじゃないですか」

「わかるようになったのは翔太と坂木のおかげだ。お前たちが俺を変えた」


 帰路の間、ずっと考えていた結論だ。俺は、俺を変えてくれた二人に礼を言いたい。


「坂木。今まで助けてくれてありがとう」

「な! 何なんですか、急に!」

「感謝を伝えていなかったからな。それと、これからも迷惑をかけると思う。先に謝っておく。すまん」


 俺はまだまだ至らない点があるだろう。きっとそのたびに坂木を怒らせるはずだ。現に目の前で顔を真っ赤にしている。


 それはさておき、まだ説明は終わっていない。俺の考えは話したが田上の問題は残ったままだ。


「それで田上の件だが――」

「いきなり話を変えないでください! 気持ちの切り替えが追い付きませんよ!」

「俺の話はこれ以上ない。今後の対応は後にするとして、先に田上の件だ」

「ああもう、わかりました。話してください」


 とはいえ田上を取り巻く問題は複雑だ。おそらく正解はない。俺が取った方法は間違っていたかもしれないが、そうせざる得なかった田上の心情は理解してもらいたい。


「聞いての通り田上の優先度は仕事だ。思う通りに働けなくて翔太にあたるのを危惧していた」

「本人は邪魔だとはっきり言ってましたけど」

「そう言ってやるな。自分を責めているんだろう」

「よくわかりますね」


 俺も本心を聞いたわけじゃない。思い違いをしている可能性は十分にある。


「そうだと信じたいだけだ。俺にはわからないが、ひとりで子育ては大変だろう」

「幸二さんはやれていますよ」

「俺は家で働けるからな。坂木も助けてくれている。営業職の田上には難しいだろう。誰にも頼られないならなおさらだ」


 まだ納得できていなさそうだったが、言葉を続ける。


「坂木が思うように翔太は俺の元を離れて田上と一緒にいるべきかもしれない。しかし、田上が受け入れられるまで待ってやってくれないか?」

「え? 私、そんな事言ってませんよ」

「違うのか?」

「今は判断できません。いくつも問題が重なり過ぎてて最善策が見えないですし。一度に複数の問題に手を出すのはミスの元だと言ってたのは幸二さんですよね」


 確かに言ったが、それは仕事への心構えだ。人間のトラブルは違う。そう言うと坂木にピシャリと返された。


「普段から仕事の延長みたいな考え方をしている人に言われたくありません。それより、何で私がそう思っていると考えたんですか?」

「書斎の写真を貼り直したのは、写真を撮った田上こそ翔太と一緒にいるべきと考えているからだろう? だから、あの写真を貼り直した。違うのか?」

「写真を撮った人なんて知りませんよ。単に良い写真だと思っただけです。それに、あの人が来たのは今日ですよ。写真に気づいたのはもっと前です」


 考えていた事が何もかも違っていて愕然がくぜんとした。いや、事実を曲解して見ていたせいか。身近にいる坂木の事ですら見誤っているのでは他でも見落としがありそうだ。そう考えていると、坂木は笑った。


「今までデジタルな考え方しかしてこなかった人が、急に心の機微を読もうとしたって駄目ですよ」

「すまない」

「まあ、いいです。悪気がないのはよくわかりました。やり方はほめられませんが」

「そうだな。坂木にも迷惑をかけた」


 坂木は立ち上がり、腕を組んで胸を張った。


「今回はこれで許します。いい大人なんで、まわりを困らせてないでください」

「気をつける」

「じゃあ、私は寒いんで寝ます。まったく幸二さんのせいで体調崩しそうですよ」


 坂木は肩をすくめて腕をさすりながら客間に帰っていく。


 そのあと、疲労した体を引きずりながらベッドに倒れこむ。なぜ、坂木はここまで親身になってくれるのだろうか? 考えようとしたが眠気に勝てなかった。

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