15話 ひとみは怒ってます

 翔太君との生活は何も問題がなく、あっという間に最後の夜をむかえた。


 思ってたより楽しかったし気疲れもしていない。在宅勤務で時間的に余裕があったからだと思うけど、それだけじゃないだろう。


 リビングにある一人用のソファに身を預けて小説を読んでいたが、違う事を考えているせいか全然頭に入って来ず、本を閉じて袖机に置いた。


 楽だったのは翔太君が近くにいるからで、出社していたらこうはいかなかっだろう。働きに出て子供の世話までするのは大変に違いない。翔太君のお母さんもそうだったのだろうか?


 そう考えているとパジャマ姿の翔太君がリビングに来た。


「ひとみさん、そろそろ寝るね」

「おやすみなさい。寒くなってきたからちゃんと布団に入って寝るのよ」

「うん。おやすみなさい」


 スリッパのパタパタ鳴る音が行ってしまうとリビングは静寂に満たさる。いい位置を探して身じろぎすると、きしむ音が大きく聞こえた。


 たった数日、一緒に生活してわかったのは、翔太君は大人びている。母と離れて暮らすという特殊な環境がそうさせた? 違うわね。変わらざるを得なかったのか。


 バーベキューの時、水鉄砲を持って走り回っていた子供らしい姿と、家出騒ぎの時に見せた非常時でも落ち着いている姿。両極端な顔を見せているのは大人になろうと背伸びしているのからかもしれない。


 頑張るのはいい事だけど、疲れて足を止めてしまわないか心配になる。でも大丈夫か。幸二さんはちゃんと見てる。幸二さんといえば、結合試験は問題なく進んでいるのかな? 何も連絡ないけど。


 思考は翔太君から幸二さんへ移り、両親とどうやって向き合うかの悩みに変わる。結論が出せなくて諦めた時にはかなりの時間が過ぎていた。


 家の外からは虫の鳴き声が聞こえていたが、車のエンジン音が混じる。それはゆっくり近づいて、庭の砂利を踏む音が追加される。エンジンは止まり、ドアが開けられて、閉じたのがわかった。


 こんな時間に誰だろう? ソファから立ち上がり、壁に付けられたドアホン親機の前に立つと、間延びしたチャイムが鳴って外の映像が映し出された。


 薄暗い玄関前にいるのはスーツを着た女性。立ち姿、髪、化粧、全てにおいて隙がない。それは解像度の低いモニタでもよくわかった。


 深呼吸してから通話ボタンを押す。


「どちら様ですか?」


 彼女は一瞬だけ驚いたように眉を上げたが、すぐに冷静さを取り戻す。


『翔太の母よ。あなたこそ、誰? 幸二に話があるのだけど』

「家主は不在です。私は留守を預かる坂木と申します。今、開けますのでお待ちください」


 この人が幸二さんと翔太君を捨てた人。冷静に話せるだろうかと思いながら、パジャマの上にパーカーを羽織って玄関に向かった。


 リビングに案内すると、彼女は勝手知ったる部屋を進む。奥にある楕円だえんのダイニングテーブルを囲む椅子に腰を下ろし、黄色い紙袋をテーブルに置いた。


「これはお土産。幸二が好きなのよ。三人で食べて」

「ありがとうございます。こんな格好ですみません。何か飲まれますか?」

「じゃあコーヒーをお願い。キリマンジャロよね。だったら豆は三カップ、水は四杯分にしてちょうだい。あなたも飲むならだけど」

「わかりました」


 キッチンで用意している間、彼女は黙って頬杖ほおづえをついていた。コーヒーメーカーにセットするのが終わるのを待っていたかのように、相変わらず孤独を楽しんでいるようね、と言った。見つめているのは大型テレビの正面にある革張りのソファ。一人で完結している配置だからそう見えるのだろう。


「そうでもないと思いますよ。アニメのディスクもありますし、ソファの隙間にはお菓子か挟まってました。そこは翔太君の場所でもあるんです」


 テレビラックに並ぶのは大量にあるスタートレックのパッケージ。その脇にはガンダムと書かれたロボットアニメが少しある。彼女はちらりと見たが興味なさそうだった。


「それ、幸二のよ」

「ほ、他にもありますよ。ほら」


 モデムやルーターが置かれてる小さな棚を指差す。一番上にあるのは真新しいガラスの写真立て。運動会のリレーを走る翔太君と大智だいち君が写されている。


 歩み寄った彼女は写真立てを手に取り、慈しむように写真の中の翔太君に指をそえていた。その横顔を見て本当に母親なんだと思った。


 しかし、厳しい顔に戻ると写真立てを伏せる。その表情のまま私に向き直った。


「言い忘れてたわ。田上たのうえ弥生やよいよ。それで幸二はいつ帰ってくるの?」

「泊まりの出張なので今日は戻りません」

「とんだ無駄足ね」


 会えないというのに、弥生さんは軽く肩をすくめただけだった。


「急用なら連絡してみたらどうですか? つながるかわかりませんが」

「やめておくわ。連絡先を知らないし」

「え?」

「聞かれなかったから教えてないし、私も必要なかったから」


 離婚した後ならわかるけど、結婚してた時も連絡を取り合っていない? 二人とも何なの? 意味がわからない。戸惑いつつも聞いてみた。


「二人は結婚してたんですよね?」

「翔太の親権を幸二に移すために籍を入れただけよ」

「はい?」

「私は翔太を養うために働く。働くなら誇りを持てる仕事がいい。そうするためには翔太の世話をする時間を使うしかなかった」


 弥生さんは首をかしげて言った。理解できるかしら? と。


「じゃあ、幸二さんとの間に――」


 その先は言ってはいけない。自制心が口を閉ざさせる。それなのに、弥生さんはいとも簡単に続けた。


「愛がない? その通りよ。私たちの間にはそんなものないの」

「翔太君を何だと思ってるんですか」


 冷静を務めたつもりでもとげが混じる。私をいさめるようにコーヒーの優しい香りが漂ってくるが効果はありそうもない。


「私の子供よ」

「だったら一緒にいてあげたらいいじゃないですか! 何で幸二さんに押し付けたんですか!」


 弥生さんは意にも介さず席を立ち、食器棚からコーヒーカップを二つ出す。


「坂木さん。砂糖とミルクは?」

「要りません」


 目の前に湯気を立てるコーヒーカップが置かれた。彼女は席に戻るとコーヒーの香りを楽しんでいるようで目を閉じている。


「良い豆ね」


 ゆっくりまぶたを上げた弥生さんの目はコーヒーの湯気を通して遠くを見つめていた。


「私は翔太を一人で育ててきたの。それなりに大変だったけど何とかやってきたわ」


 静かな声色は私に聞かせるためではなく、過去を振り返っているように感じた。


「私は営業職でね、自分で言うのもなんだけど優秀だと思うわ。仕事が好きだったし、プライドもあった。だから世話をしながらでも頑張れた。でも失ってしまったわ」

「何を失くしたんですか?」

「誇りを持てる仕事よ。翔太がインフルエンザになった時、一週間ほど仕事を休んだの。その時に取れるはずの契約は流れたし、別のプレゼンは失敗。全部、私のせいにされて営業から外されたわ」

「もしかして……翔太君がいなければって……」


 嫌な想像は外れてほしい。そう思ったが、あっさり肯定された。


「そうよ」

「翔太君は悪くないです!」

「そんな事、言われなくてもわかるわ。契約が取れなかったのも私一人のせいじゃない。一人欠けて失敗するような仕事は根本的に問題があるもの。だけど私のせいにされた。この思いはどこにやれば良かったと思う?」

「それは……」


 何も言えずにいる私に弥生さんは笑いかける。でも、とても冷たい笑みに見えた。


「あなたをいじめたいわけじゃないわ。ただ、私がそう思ってしまっただけ。翔太がいなければ、ってね」

「それで幸二さんに、ですか?」

「結果的には、ね。実家に預けるつもりで帰ってきたけど断られて、そんな時に偶然、幸二に出会ったのよ。寒い雪の日だったわ」


 弥生さんは話してくれた。逃げるように家を出た私を両親は許さなかったと。頼れる人がおらず、駅のバス停に座っているだけの二人を幸二さんが招き入れてくれたと。話を聞いた幸二さんが翔太君を引き受けてくれたと。


「おかげで転職できたし、また営業として働いているわ。やっぱり充実した仕事っていいわね。気持ちが病んでた頃がうそみたい」

「経緯はわかりましたけど、幸二さんがよく結婚を了承しましたね」


 もしかして昔の恋心を引きずっているとか? その考えが胸をチクリと刺す。深刻になりそうな私と逆に、弥生さんは笑いをこらえて肩を揺らした。


「結婚すれば親権の移動が容易だと言い出したのは幸二よ。結婚なんて書類上の手続きでしかない、ですって。あの人らしいわ」

「でも、どうして、そんな事を?」

「罪滅ぼしですって」

「罪滅ぼし?」


 私の疑問に弥生さんは首をかしげる。


「坂木さんは聞いてないの?」

「何をですか?」


 彼女は薄く笑っただけで答えてくれなかった。


「それは幸二から教えてもらいなさい。あら、もうこんな時間。すっかり話し込んでしまったわね。そろそろ行くわ」


 弥生さんはコーヒーを飲み干し、席を立つと背伸びをした。


「翔太君には会っていかないんですか?」


 表情が曇ったのを見て、意地悪な事を言ったと思った。もしかすると飄々ひょうひょうとした態度を貫く弥生さんを困らせたかったのかもしれない。そんな自分が嫌になるが、彼女は肩を軽くすくめるだけだった。


「どうせ寝てるしいいわ」

「でも」

「いいのよ。幸二に伝えてくれない? 再就職は順調だって。明日も朝から仕事なのよ」

「わかりました」


 玄関まで見送ると、弥生さんは握手を求めてきた。おずおずと白く冷えた手を握る。手が冷たい人は心が暖かいと聞いた事があるが信憑性が失せた気がした。


「幸二の相手は大変だろうけど頑張って」

「私はそんな関係じゃないです」

「そうなの? あなたのおかげで少しはまともになったと思ったんだけど。前は運動会に行ったりする人じゃなかったわ。じゃあ、幸二をよろしく」


 玄関の戸は締まり、エンジン音が聞こえる。テールランプが磨りガラス越しに流れて消えていった。


 立ち振る舞い、仕事にかける熱意、余裕ある態度。全てにおいて負けた気がして悔しい。それに、結局あの人は私の事を何も聞かなかった。きっと歯牙にもかけられていないのだろう。


 リビングに戻り、飲みかけのカップを持ってシングルソファに深く座った。コーヒーはすでに熱がなく、アイスコーヒーみたいに冷たく感じた。




【次回予告】


 出張から戻った幸二が目にしたものはリビングで寝落ちしている坂木だった。そのせいで坂木は体調を崩し、責任を感じた幸二は看病する。そこで打ち明けられる過去と役割。そして弱った坂木は思いを伝えた。


 次回

『お前らの存在が重すぎて俺のタスクが破綻する』

<シック>

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