マザー

13話 ひとみは留守を預かります

 マンションのエレベーターを降りると、ひんやりした風に髪が揺らされ首をすくめた。


 外廊下は解放感あるけど冬がつらいのよね。あと、大雨の時も。


 パンプスのかかとが鳴る音に追いたてられて足早に部屋に逃げ込んだ。


「ただいまーと」


 当たり前だけど室内は暗くて返事はない。手探りで明かりを付け、狭いキッチンを通り抜けて居住スペースに入る。ここがリビングであり、寝室でもある私の居場所だ。在宅で仕事することもあるから書斎も兼用か。


 背負っているカバンをフローリングの床に置くと肩が楽になった。在宅勤務用のノートPCは重い。家のPCを使わせてくれたら楽なんだけどセキュリティの問題が、と言われると従うしかなかった。


 一息つく間も与えられずに、スーツの内ポケットでスマホが震え始める。発信者を確認して通話アイコンにタッチ。


「久しぶりだね。お母さん。何かあった?」

『ひとみの声が聞きたかったの。お仕事はどう? 忙しくない? 無理したら駄目よ』


 母の言葉は細かく分解されて音声データになり、私のスマホに再構成される。感情はデータ化されないが、その声は優しく安心できるものだった。

 

「大丈夫よ。子供じゃないんだし、うまくやってる」

『本当に?』

「うそついてどうするのよ」


 心配性だなあ、と笑うと、母も同じ笑い方をする。性格は全然違うけど、こういうところは同じだ。


『それならいいけど。ところで年末は帰って来られるの?』

「まだ十月よ。気が早すぎない?」

『だって、何年も帰ってこないから』


 髪をまとめていたゴムを外してベッドに腰を下ろす。昼間は暑かったらしく、残っている熱が腰に伝わってきた。


「仕事が忙しいし無理かな」

『そんな事言ってるけど、そっちにい人でもいるんじゃないの?』

「そんなんじゃないってば」


 そう言いつつも幸二こうじさんの顔が脳裏をちらつく。何で好きなのかは自分でもわからない。


 よく助けてくれるけど優しいのとは違う気がする。仕事を円滑に進めるために必要だからやっているのだろう。最近は他人との間にある壁が低くなったけど、気になる存在になったのはもっと前からだ。


 責任感が強いから? ポジティブなところ? 大人の余裕? それらは尊敬だよなあ。


 寝転がって天井をながめながら考える。


 バーベキューの時、縁側でお酒を飲んでいた時は暖かい気持ちになった。この人の隣にいたいと思った。その感情は本物だと信じたい。結局のところ決めたら走りたくなる性分なのよね。単純だわ、とため息をついた。


『ひとみ。聞いているの?』


 どうやら聞き漏らしていたらしい。モゾモゾと動いてうつ伏せになった。


「ごめんなさい。何?」

『だから、お父さんが心配してるって話よ。あなた、全然話さないから』


 父の話題になって眉間にしわが寄る。きっとトラブルが起きた時の幸二さんみたいな顔をしているだろう。


「あの人が心配してるはずがないじゃない。気にしてるのは世間体でしょ。女は仕事なんてしてないで家庭を守れって考えてるのはわかってるわよ」

『お父さんはひとみの心配しているだけじゃない。そんなふうに言ったら駄目よ』

『じゃあ、お母さんはどうなの? あの人の言いなりになってて幸せ? 私はそんなのは嫌』


 スマホからは何も聞こえない。音声だけ伝えるはずの機械が受信しているのは悲しいという気持ちだった。


「ごめんなさい。忙しいから切るね」

『ひとみ――』

『また電話する』


 いたたまれもなくなり通話終了のアイコンを押して、ベッドに顔をうずめた。


 あんな事言うつもりはなかったのに。父の話になるといつもこうだ。あの人は私と直接話さない。母を通して言ってくるのが気に入らないからといって、八つ当たりするなんて最低だ。


 自己嫌悪を感じながら顔を上げると、メッセージを受信していたのに気づいた。


<佐藤幸二:申し訳ないが明日からよろしく頼む>


 あわてて返事を書き、送信ボタンを押す直前で指が止まる。任せてください、じゃあ味気ない。幸二さんの事だから会話が途切れそうだ。


 打ち直して今度こそ送信。


<坂木ひとみ:どっちをですか?>


 即座にメッセージを受信して画面が流れはじめる。


<佐藤幸二:俺がいない間の作業>

<佐藤幸二:翔太しょうたの世話>

<佐藤幸二:両方ともだ>


 私がとぼけてると思わず、真面目に返信している姿が思い浮かんで笑みがこぼれた。


<坂木ひとみ:わかってますよ>

<坂木ひとみ:冗談です>

<佐藤幸二:そういうのは止めてくれ>

<佐藤幸二:忘れられたかと心配するだろう>


 幸二さんは出張で数日間家を空ける。代わりに私が翔太君と一緒にいると名乗り出た。まだ三年生の子供を何日も一人にするのは心配だ。


<坂木ひとみ:ごめんなさいw>

<坂木ひとみ:本当は私が行きたかったのに幸二さんに横取りされたんで八つ当たりしました>

<佐藤幸二:苦労して組んだシステムを自分で確認したい気持ちはわかる>


 客先で行われるシステム結合試験要員に私は手を上げた。幸二さんも推してくれた。ただ、顧客が良しとしなかった。


 あちらのシステムと私たちが作ったシステムは連動するものだ。少しでも食い違いがあると動かない。顧客もそれがわかっており、初の結合試験で神経質になっていた。だからシステム全体を精通している人に来てもらいたがっており、そんな人は幸二さんしかいない。


<坂木ひとみ:不安な機能がありますが、仕方ないので我慢します>

<佐藤幸二:大きな不具合が見つかったらチーム総出で徹夜対応だけどな>

<坂木ひとみ:冗談ですよね?>


 恐る恐る確認すると、即座にレスポンスがあり、その内容に口をとからせる。


<佐藤幸二:冗談だ>

<坂木ひとみ:本気で心配したじゃないですか!>

<坂木ひとみ:これでもうまく動くかドキドキなんですよ>

<佐藤幸二:安心しろ>


 最後のメッセージはすぐに削除された。代わりに現れた文字を見て、慌てて半身を起こす。


<佐藤幸二:電話してもいいか?>

<坂木ひとみ:はい>


 軽くせき払いをして待つと、スマホが着信を知らせる。通話が始まると幸二さんの声より先に、遠くでグループ・マネージャGMが指示を出しているのが聞こえた。


「もしもし、仕事中ですか?」

『ああ。明日からの準備が終わってない』

「早く帰ってあげてくださいよ。翔太君、寂しがってるんじゃないですかね?」

『連絡したから大丈夫だ。それよりもさっきの話だが、慎重に検証して設計していたんだ。自信を持て』


 その声は力強くて、頑張った甲斐かいがあったと思えた。


「ありがとうございます」

『本当は坂木に行かせてやりたかった』

「幸二さんが行った方がスムーズに進むのに?」

『それでは成長につながらない。仕事への責任感は申し分ないが、顧客への対応にも慣れておくべきだ。心の機微がわかる坂木なら俺より交渉がうまくなるだろう』


 期待してもらってるんだと思うとうれしくなった。型どおりの文章ではなく、生の声がじんわりと染み渡る。


「褒めてもだまされませんよ。私の仕事を増やす気ですよね」


 素直に喜べばいいのに強がってしまうのは悪い癖だ。そんな私を幸二さんは笑う。


『いつも褒めろと言うくせに、いざ褒めるとこれだ。俺の期待を返してくれ』

「いやです。もっとやる気になるように褒めてください」

『試験がうまくいったらな。俺が不在の間、チームの取りまとめは任せる』

「そっちの方が大変じゃないですか!」


 予想外の仕事を任すと言われて、つい大きな声を出してしまった。私に管理なんてできるの? でも幸二さんに期待されているのはわかる。


『そう言うな。いずれやる事になる。今のうちに慣れておけ』

「はい」

『心配するな。坂木ならやれる。それと翔太をよろしく頼む』


 短いやり取りだったがニコニコしている自分に気づく。さっきまでのモヤモヤした気持ちが軽くなった。


「はい。幸二さんも頑張ってください。お疲れさまでした」

『ああ』


 通話を切って、ふう、と息を吐いた。暖かい気持ちの今なら母に謝れるかと思ったが、どうしても通話アイコンが押せなかった。

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