第9話~科学者は哲学の夢を見るか~おもうこと

<21>



 常夜ともしれぬ星光が天窓からほのかまろく楕円を描き、部屋の絨毯に微笑み落ちていた。

 そのさやかな光からは逸れた部屋の隅で、彼女はちょうど、部屋に入る際真っ先に目にする壁に作りつけられた強大にして古めかしい本棚の一つに背を預け、虚ろな眼差しで床の絨毯の先、階段の下、暗闇の中僅かに反射するドアの留め金らしきものを見るとも無し眺めやっている。

 背には本。そして左肩を持たせかけるもこれまた強大な別の本棚。二つの本棚の行き当たる角となる部分にうずくまり、ソフィレーナは夢とうつつの狭間を危うげに行き来していた。


 左手に位置する本棚の上では、盛んに何やら物を引っ掻き回す音が響いている。


「…………」

 夢の側へと片足を踏み込みながら、彼女は未だ所有権を獲得したノートを離さずに胸元へと押し付け、両の手をかぎ爪状にして口許へと寄せていた。触れるか否かの距離で大切に押し包み、切り傷による痛みに掻き消されないよう、緩やかで大人しい灰髪、それを幾度も撫で辿った時のこそばゆい感触をこそ鮮明に、記憶に焼き付けようとしている。

 散々な話の後、呆れて見捨てたふりをした助手と、その様に拗ねて俯き、斜め下手を苦々しく眇め見る知恵者という情けない構図、それら一連の記憶を再生させ、指先に残るざんしに意識を向けるたび、彼女のうちには口惜しさにも似た悔恨が渦巻いた。

 抱き寄せればよかった、と。

 散々な話をして、ある意味本当の弱さをさらけ出しただろうケルッツアに、ソフィレーナが唯一ほどこせたのは、その垂れる頭を撫でいとしむ行為だけ。


 ママなら。


 限界値などとっくの昔に飛び越えて、暴走爆走する思考に彼女はただほんろうされている。

 星星のほのか優しげな光の中、静ひつで清浄な空気は、いっそ真昼の陽光降り注ぐ教会のそれに似ているのではないか。先ほどの光景が頭の中で再生されるだに、彼女の思考もぐるりと堂々巡りを繰り返して、一つの結論を導き出していた。

 加護を請うものと、与える聖職者のそれに。

 学者と、シスター。


 ママならきっと、軽く抱き寄せた筈だ。


 抱き寄せれば、抱きしめればよかった。


 そんな、常日頃ならば思わぬ杞憂にすら心を砕き、否、つらつらと思い浮かべ、彼女はそっと息を吐く。

 がさ、ごそ、と、ロフトの上では相変わらず、知恵者が、己のベッドを片付けているらしい音が断続的に響いていた。

「………・・・」

 床に雑魚寝でいいと言ったのに、と、その音をどこか不満げに聞いていると、突然上から知恵者の使っているらしい布団が落ちてきて、音を辺りに振りまいた。

 しかし、それですら、空ろに眦を開く助手の、栗色の髪は揺らしこそすれ、その心に、ましてその眉を歪ませる事すらなく。

 そんな助手の態度に気付けるはずも無く、それは僕が使うから、と知恵者の声は彼女にかけられたが、同意も否定も返さず返せず、それとは無関係に、ひとつ、ソフィレーナは瞬きをした。

 取り消された言葉。

 先程の愛撫の時、唐突に彼の言い出したそれが彼女の頭の中に響き渡る。その音程、その間隔は、もっと前の助手の記憶にも酷似を見出す事が出来た。大声で喚きたてた彼女は、忘れてなど居なかった、否、忘れる事など無いコーヒー入りのポットを盾に知恵者の発言から逃げおおせ。

呆れる彼に、言い募った言葉は。


『…こういうのは、初めの一歩が肝心なんです。…四日間の飲まず食わず…あれ、私にも責任あると思いまして…。

 …これからは帰る前にポットに何か用意しときますから、ちゃんと飲んでくださいよ? それから食べ物も、何か置いときますから』

 わざと澄まして答えた声に、けれど、重なるのは酷く硬い声。


『…これからは?』


 思えばここから知恵者の様子が変わった気がする。

 ソフィレーナはともすれば落ちそうになる首と意識を保たせ、舟をこぎ始めたことには自覚無く、思考を更に巡らせていった。


『…ねえ…? ソフィーレンス君………君は』


 二度問いかけられて、二度ともかき消されてしまった、あの言葉の先は。


 ねえ、その先は、なに……?



 なん……続・・・・・・の・・・・・・・・・・・?




 うと、うと、と。本格的に彼女の思考も世界も揺れてまどろみ、閉じられてゆく。

 その、暗くなる視界の中で、ふいに、先ほど落ちてきた黒い塊が揺らめいた。

「・・・・・・・・・・・・」

 眠さとだるさに動かない四肢を、それでも動かして。



 手を、伸ばした、さき。





 とぷん、と、意識は闇へ落ちる。


 





<22>



 比較的重みのあるものが軽く柔らかいものに受け止められるような音を聞いて、ケルッツアは顔を上げた。木製作りのロフト、天窓に近い位置から、部屋の方へと顔を向ける。

 暴走気味の思考は、片付けの遂行中に何処かへ消えうせ、無駄に母国語を思い出す事もなくなって久しい。顔を上げた時も、既に常に使っている言語が彼の頭をよぎった。

 彼の背後には、先ほど乱暴に蹴り飛ばした青い上下一式布団の代わりに、先ず彼の生涯では一度も寝た事無いだろう手触りの上等な布団が用意されている。その周りは小奇麗に整理され、普段のロフトの状況はとりあえずなりを潜めていた。

「……ふむ」

 微か響いた音に何か思い当たる節でもあったか、彼が時計を確認すれば明け方四時十五分前。

 整えた本類一式、今の今までロフトを占領していたそれらをおもむろに抱え持つと、知恵者はロフト脇の扉、開け放しておいた通路を通って、薄暗い階段を訳も無く部屋へと下りていった。視界を遮る黒い壁、もといドアのノブを力技で捻り、僅か蹴り飛ばせはあっけなく開く。

 部屋の様子を眺めるでもなく、今まで助手のうずくまり、否、へたり込み直していた箇所に目をやれば。


「…………」


 先に荷を降ろしてしまおうと、彼は部屋の中央に位置する長机へと近づいた。

 その端、長年借りたままだった正式な国立図書館書庫書籍の小さな塔の横に、もう少し高い塔を置く。

「――――」

 手ぶらになった彼は、何故か一度深く呼吸をすると、改めて彼女に向き直り。

 助手は、案の定潰れていた。

 その無心に眠る無防備な顔を、しかし半分埋めているのは。


 …………。フォルソフォ……。よりにもよって……ああ、もう…………!


 思わず又母国語を思い出しながら、彼は軽く息を吐き、頭をかいた。

 確かに、絨毯ではあんな音はしない。少し考えれば、否、全く考えずとも分かりそうなものを見落とした失態にやはり彼は自身の疲れを認識、からく笑う。

 普段は一等奇麗な栗色の短髪を僅かに乱し、力の抜けきった肢体を預ける物体は、彼の先ほど蹴り飛ばしロフトから落とした衛生上余り、どころかかなり宜しくないと思われる布団一式。 

 元々空気もそれほど入っておらず柔らかくも無く、その上万年床宜しく敷きっぱなしだったそれは、きっとどこかしらに彼女の大好きな胞子の根がちらほらどころか確実に根付いていると思われる代物だった。

「……・・・・・・・・・・・・」


 サンプルの臭いに惹きつけられ、た?


 何とも名状しがたい感情に押されながら、知恵者はしかし現状を打破するべく彼女の両肩口に手をかけた。眠っている者特有の暖かさを掌に感じ、それを掴んである程度まで力を加えてやると後はその力の流れるまま肢体は仰向けになる。

 己のものに比べれば格段に白く細い喉元、急所を仰け反りさらけ出して、それでも助手の髪こそ乱れ、顔に全く変化は無かった。

「……」

 もう一つ息を吐き、覚醒の可能性を完全に捨てきった知恵者がふと、視線を止めた先には、物々交換の約束をしたばかりのノート。

 彼女の腕に後生大事そうに抱え込まれ胸元に寄せられて、古ぼけた汚らしいそれは場違いにも存在している。その光景に、今度こそ彼は困ったように、或いは驚いたように眉を寄せ、鼓動の急き立つ音を意識せずにはいられなかった。


「ラァ…? ラァ エイサウン アイ スゥウ ?」


 何でそんなことしてるの……? 思わず母国語を口に出し、その事に気付くと慌てて口元を押さえて。それでも変わることの無いそれに、次第困り果てて頭を掻く。

 とうとう、気恥ずかしさに根負けしたか、眠りづらいだろうという理由を半ば盾として汚らしいノートの角をそっと引っ張ると、途端、強い力で元に戻されてしまった。

 何度やっても同じ結果。終いには。

 「…ん………ぅん!」

 何処か甘ったるい、鼻にかかったような声音で強く否定されてしまう。その上、ころり、と又彼女はうつ伏せてノートをかばうような体制をとると、全く起きる気配すらなく相変わらず眠りこけている。

 「…………アラズ、っと、…分かったよ…」

 彼はそのノートの存在にも結局折れ、ともかく助手を運ぶ事に専念すべく、散々迷った挙句に助手をもう一度あお向けにさせ、その肩甲骨と膝の辺りにそれぞれ己の腕を回し敷いて一気に持ち上げた。

 くてん、と首をまた仰け反らす、その体勢を何とか直し、ふにゃふにゃと頼りない四肢を支え。

 僅かにふらついた足元を叱咤し、よりしっかりと彼女を抱き寄せれば、腑抜けた助手の頭が彼の黒いコート、肩口に寄りかかる。その事により更に鮮明に、その四肢の柔らかさ、温かさ、ふわり、とほのかに香るいい匂いまで、全て、彼は鮮烈に思い知る事となった。

 唯一の救いは胴、胸の周り辺りにもう一枚制服とは違う硬いベストらしきものを着込んでいるらしく感触が不自然に硬い、その事だけだった。

 抱えなおせば更に密着。まして持ち上げる膝の辺りはやや太ももに近い。感触は推して知るべしである。


「ッ……」


 些か動揺して彼女の名、否、失礼なあだ名を呼びそうになり、そこで知恵者は苦虫を噛み潰したような哀しげな顔で、あどけない寝顔を見つめた。


 ………アメロメーニャ…… ソフィーレンス…・・・・・ムウン・・・・・・・。

 ・・・・・・ソフィレーナ…


 ああ、やっぱり君は、……どこからどう見ても、女の人だ………


 腕の中ですやすやと眠る助手の、その母親譲りだろう長い睫の先、頬に落ちかかる影のまろやかさを見つめ、静かに歩き出す。その顔は僅かに苦みを押し隠し、笑みを作り出していた。

 ゆったりと歩く道すがら、己の助手を男性のように呼ぶようになった、その経緯をケルッツアはどこか上の空で思い出す。 確か、と、開け放したロフトへの扉の前で一度立ち止まって、本棚整理だった、とまた歩きだし。

 助手と比べれば格段に落ちる記憶の中を、それでもさらって。


 確か、二年前。迂闊にも背のない彼女に高い箇所の本を整理するように言いつけた自分は、そのまま暫し別の用件で席を外していたが、ふと、何か用事を、おそらくは文献を取りに禁書庫へと立ち寄った。

 その時、三脚の上で可能な限りの背伸びをして、震える腕を必死に伸ばし、軽く跳ねる助手の後姿を目撃。

 その時の助手の格好も、全く今と同じ服装、即ちYシャツにベストとズボン。靴はやや大きめの革靴で髪は項の良く見えるほどに短く切り落とされた短髪というそれ。

 己の助手は女性だという事は重々承知していたが、否、だからこそかもしれない。

 ふと。

 女性なのに男性みたいな格好だな、と。

 そう思った途端、要でもない事に思考が割かれた。


 ソフィレーナなら…この国ではソフィーラント? ソフィーランス…うーん……座りが良くないかな…レーナ…レント…レンス…。レンス? …そうだ!


『危ないよ、ソフィーレンス君』


 三脚に手をかけながらそう呼びかけると、怪訝そうな顔で見返してくる助手の。


『……そふぃーれんす?』


 その場面だけは何故か厭に鮮明に覚えている、彼はそんな事をひとりごちながら、用意した蒲団を少し迷った後に足ではぐり、そっと膝をつくと、腕の中の身を横たえた。横たえられた身は、蒲団に緩やかに沈み、半ば埋もれて寝息を立てている。土足はさすがにまずかろうと、靴は脱がせてロフトに揃え置き。

 その肩までしっかり上掛けを被せると、もう彼女の姿は本当に、蒲団に埋もれて過ぎてよく分からなくなった。

 “ソフィーレンス”は、ちょっとした遊びのつもりで、その場限り、その時だけそう呼んだら後は、頑張ってソフィレーナ、さん、ないし、君等と呼ぼうと、どこかでは思っていたのかもしれない。

 目の前の柔らかそうな塊を見下ろしながら、ケルッツアは苦笑した。

 けれど、余りにむきになって失礼だ、ソフィレーナだ、と喚きたてる助手の態度に、そこまで怒らなくてもいいではないかと。

 懲りた顔に僅か明るい笑みを浮かべて、ため息は吐かずに後頭部ばかり、僅かに掻く。

 結局のところは、てこでも呼び方を変えなかった知恵者と、反発する助手の攻防が半年近く続いたと、国立図書館内で有名にまでなる始末。


 なんて、馬鹿な事をやったものか………。


 身に、腕に残る温もりが徐々に冷えてゆく。

 彼の見つめる先の塊は、酷くゆったりと、緩やかな上下運動を繰り返していた。


 どうみても、場違いだ。


 ケルッツアは思う。最高級蒲団で眠るソフィレーナの姿は、違和感無く受け入れられたが、それが、何故、こんな汚らしい部屋のロフトに出来上がっているのか。急に、申し訳ない気持ちでいっぱいになって、知恵者は静かに横手を、斜め下手を眇め睨んだ。

 その様は彼が心底悔しがる時に出る癖だとは、本人に自覚は無い。

 助手が高級蒲団で眠る事は全くもって間違ってはいない。

恐らくは、この貰い物布団は男性用の配色をほどこしてあるので色は違うだろうが、彼女の実家の私室にはこれと質の似た、否、もっと良いものがベッドないし寝室にはあるだろう。

 何といったってダリル。王族リザ家と共に、皇家として王に仕え、この国を支えている家の間違う事なき直系の姫君。例え、王の家臣から、故は知らぬが出生時より外されているとしても、ダリル家の出であるというだけで、本来ならばこんな所に勤めるはずも無い。いかな知恵者、賢者の権限がそれなりではあるとはいえ、自分は砂漠の民。贅沢など天敵の、半ば乞食のような身で過ごしてきた者。

 勿論その生き方に後悔もしていなければ、それを羞恥とも思ってはいないが。


 本来は間違った組み合わせなのだ、と。ケルッツアはそっと立ち上がろうとして、けれどまだ、ロフトの硬い木の板に膝をついたまま、布団の海から僅かに覗く栗色を見つめていた。


 彼女は、本来ならばこのような布団で眠る身だ。貴族の婚礼適齢期は十代半ばから、二十五にかけてと聞く。年齢が年齢なのだから、一歩、どこかが違い、こんな所に勤めていなければあるいは。



 あるいは誰か、別の人の蒲団に。



 ゆるりと頭を振って、ケルッツアは目を閉じると立ち上がった。心配というならば、そんなものは知恵者としてか、ケルッツアとしてかは定かではないが、まだ彼の胸にはわだかまっている。

 ソフィレーナ・ド・ダリルという人間の学者としての可能性を、能力を、恐らくは一等期待し買っている者は、けれどそれと矛盾した事を心のどこかでは。


 ふと。




『ケルッツア・ド・ディス・ファーン』




 ふと、件の彼女が微笑む、その記憶をケルッツアは思い出した。


 ア?  ソフィレーナ………………。メローシュ メ エイサウン タリタ……?

 ねえ? …ソフィレーナ、さん………。君は、一体いつまで……?


 思考を振り切って、のん気なことを考え、ごまかす。

 比較的怒っている事が多い助手を、しかし思い出す時は笑顔のほうが多い。

 そちらの記憶のほうが鮮烈なのだろうか。そんな事を思いながら、いい加減まとまりのつかなくなった思考を諦め、知恵者はロフトのドアをくぐった。ドアを閉めようとドアノブに手をかけ、後ろ手で閉める。

 その行動のどこに無駄があったのかは定かではないが、何か硬いものの感触を足先に感じ、不審に思って拾い上げると布で巻かれた、何か棒状のものだと知覚出来る。

 階段を下りて部屋へと出、閉めたドアに寄りかかって布の包みを開けば、それは暗がりでも間違う事の無い独特の金細工をほどこされた、美しい柄と鞘のナイフだった。

「こんな所に……!?」

 親に一人前と認められた時に作ってもらえる、生涯最高の贈り物。流民として生きるべき、誇りの体現物を後生大事に抱えて天窓からの星明りに照らせば、はめ込まれた小さなサファイアが煌めく。


 メイディス マザロ ラ クォシス

 蒼き流砂の使途


 メギィメース メ イニャ メイディス マザロ ラ クォシス!

 我は、蒼き流砂の使途だ!


「…………」

 今までの、正体のないようなあやふやな心地から、一気に何かを取り戻したかのようにケルッツアの顔は輝いた。

 が、しかし、その柄は振り回すのには重く、掲げて持っているだけでも今の彼には辛い。

 柄を貰った当時の年齢は、今の、流民としての外見年齢と同じ、十四歳。

 その頃この柄を平気で振り回し、挙句剣舞まで踊れた事に僅かながら落胆して、彼は柄を腰のベルトに差し込んだ。


「…………。体、鍛えなおそ……」





 星光にまみれた知恵者が口に出した言葉は、夜更け近い空気に触れて、密かに消えてゆく。    

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