第8話~科学者は哲学の夢を見るか~恥晒しには、ほうようを。

メサイ ラ ロシャ メ ライ メ トスハ,メア イメ サビジ ロティ スゥ イ コ・ロウ.

相手の鍵の開いた時は、お前も無条件で鍵を開けよ。


テ・ロウ メ アイ レフ ラファイマ テ・ロウ.

等価は等価によって返される。


ルシス メ ラファイマ ルシス.

恩には恩で。


ダシス メ ラファイマ テ・ダシス.

屈辱には等価の屈辱で。


スゥ メ イニャ “クォル” イ ファレ.

それが、礼儀であり、“誇り”だ。




<20>



 疲れたような眼差しで座り込む知恵者の正面で、その助手は顔を固まらせていた。

 この国で、崩れ、は、酷い侮蔑と嘲りが篭められた忌み語だと、彼は知っているのだろう。驚愕に見開かれた助手の目の中で苦く笑って、更に顔を崩している。

「学者崩れ。天才崩れ。…まあ、よく言われたよ。でも仕方が無い。そう言われる土台があった。

 …僕はこの国の生まれじゃあ無いし、ユニヴァーシティ入学は殆ど……騎士団破り同然だったから、異例で入った手前、妬みも嫉みも買っていて。ついでに、期待されても仕方の無い立場…試験で…そこの並み居る十人のプロフェッサーを毎年負かして大学主席だったからね……。

 今思うと、全員負かす事も」

 呆れたような知恵者の声に、しかし話を割って助手が飛びついた。

「ち、…ちょっと待って下さい…。あなた、確か…ユニヴァーシティ・ディム・ゲールッセッテ出てるでしょう?

 毎年全員負かした…て、あの、……プロフェッサー・ディム・ゲール………を?」

 先ほどとは又違った驚きを湛えた助手の顔に、知恵者は僅か照れたように頷く。

「………」


 テェレル、マーロルサース両館長合わせ、この知恵者は、彼女の友人から言わせれば、こんな、でも、この国最高峰の学力を誇るユニヴァーシティ・ディム・ゲールッセッテの卒業者である。

 そこでは定期、十人のプロフェッサーが選出されるが、その地位は不動のものではなく、プロフェッサー内で半期に一度催される試験の合格者上位十人だけが、プロフェッサー・ディム・ゲールとしての称号を受けられる。プロフェッサー・ディム・ゲールは春と秋で顔ぶれが全員違うなどと言う事がごく当たり前の称号なのである。

 勿論、通常なれば主席とはいえ、学生とは問題のレベルが違う。到底敵う相手では無い。

 それを毎年負かした、と、事も無げに言う知恵者を改めてバケモノ、と見、頭を抱える彼女に、バツの悪そうな顔で知恵者はもごもごと続けた。

 「だ、だって勝てなきゃ単位も昇級認定も全部ぱあにするって言われたんだ。

 ……まあ、六人負かせば合格判定は出たのだけど…簡単だったから…その…」

 声の掠れは一体何を意味するのか。この男の簡単、は恐らくちっとも簡単ではない。ゲールッセッテで十の席を勝ち取ったプロフェッサーは、その威厳と誇りにかけて学生一人を潰しに、この場合は追い出しに掛かり、見事毎年返り討ちにあっていたのだろう。

 受けて立つ方も受けて立つ方なら、向かう方も向かう方だ、と、こめかみの痛さを指でほぐしつつ、少しだけ、彼女は当時のプロフェッサー陣に同情した。

 ケルッツアの声は、更に掠れて、僅か不満の様相を呈し続けられる。

「…そんな経歴もあって…。卒業するまでは良かった…。

 羨望も、嫉妬心も空耳と同じだからね。大して苦にもなかなかったし。」


 否、全く眼中に無かった、の間違いでしょう。あなた。


 不謹慎にもそんな事を思い、つくづくと、人の意見に左右されないその性格に目を向け、彼女は二年前の冬、ちょっとした事でこの知恵者の機嫌を損ねた、その時に、第六図書館館長、ラナシルア・ド・パートマンドに言われた言葉を思い出した。


『あいあいソフィレーナ姫。御仁を怒らせたのだとな?

 ……そう、終末みたいな顔をする事かね?

 そうさな、気にするな。ディス・ファーンは良くも悪くも自分勝手だ。気が済めば又彼奴から話しかけて来ようさ。

 ……彼奴は、彼奴によって統率されているのだし』


 給仕室の一角で、当時の自分はそんなに思いつめた顔をしていたのか。話しかけてきた彼は、思えばプロフェッサー・ディム・ゲールの座に二年君臨し続けた過去を持っていた、と。その事が、ソフィレーナに静かな苦笑を誘わせる。



 知恵者は、知恵者によって統率される。



 そう現実へ意識を戻すと、目の前の彼は俯いていた。

 その仕草によって浮き彫りにされるのは、静ひつに天窓からの明かりだけを受け入れ、床へと落としている部屋の空間。ランプの灯り、穏やかな橙の無い青白い中で、逆光に上手く隠れた知恵者の表情は窺い知れない。

 様子の変わったケルッツアに、ソフィレーナは口を開く事が出来なかった。

「・・・・・・・・・?」

 彼女の内に、不安ばかりが募り、募って。


「さて、どう……話したものかな…。

 卒業して、一年、二年……位だったと思う……。僕は、何かを考え切れなくなっていたのだよ」


 暫く、一切の音というものを忘れた空間に突如落とされた息は、いつにない重さと悲しみを隠しきれずに響く。

 彼女の見守るその中で、知恵者は僅かに顔をあげ、あぐらの斜め下手に視線を固定していた。

「…考え切れない……って?」

 不安げな声で助手が問うと、途端頭に手が置かれ、そっと俯かされ。

 置かれた手はくしゃくしゃと、彼女の栗色、僅かに艶の無い髪を撫で、柔らかな短髪に埋もれてゆく。

「………・・・・・・君は、いいこだね。」

 響いた声は酷く掠れていて、知恵者の照れを良く表していた。

 頭を撫でるそれに不快を得る事も無く、彼の手付きは乱暴さとは無縁だったが、それでも彼女の体は、非難されたように縮こまってゆく。

「………脈絡が、ありません……」

 栗色の前髪の隙間から聞こえた声は小さく、泣き出す寸前の様に、彼と彼女の耳に届いた。

 途端彼女は益々縮こまり、彼は静かに笑んで、更に俯いてしまった小さな頭を撫でている。

「意味なんて、無くったっていいんだ……。良いじゃないか、・・・頭ぐらい撫でさせてよ………。

 ……酷く恥ずかしい事なんだから。


 本当に。恥が服を着て歩いていたようなものだった……。

 僕は…その時の自分が許せなくて…・・・・・・・・・・・・・首を掻っ切ろうと思った事が何度とある。

 今でも、時々はなるけれど……あれ程の酷いスランプはないよ……。


 脳髄を叩き出したくなる。」


 下がった声のトーンは冷たく、研ぎ澄まされた刃物に似ていた。

 誇張表現で無い事は、助手の耳にも明らか。

「…………そんな事されたら……、私あなたに逢えない……」

 ぽつり、とソフィレーナの口から、悲壮な呟きが小さく落ち、その音は彼女の意図と反してケルッツアの意識を掠り様、夜の闇へと消えてゆく。

「うん…。そうだね…。


 ……だけど、その位酷かった。」


 彼に見えない所、俯かれた唇はノートの影で噛まれた。

 優しい手付きで髪を弄んでいた指先は、今まで掻き回していた栗色の髪をゆっくりと整えてゆく。

 こそばゆさに彼女は時々体を揺すったが、むげにその手から逃げる事はせず、彼自身も時折手を止めるものの、窺うようにまた行為を続けていた。

 全て整え終えたのだろう、ゆっくりと無骨な、焼けた色の手は止まり頭から外されてゆく。

 同時に。



「思考の渦に沈む事は…楽しい事だろう?

 でも、結論がでなければガラクタになる。全部。」



 声は落ちる。柔らかな声音は、言葉の最後に冷たく落とされた。

 「そんな事…!」

 反射顔を上げた彼女の顔を見つめる灰色の瞳には、言い知れない冷たい光が内に向けて宿っている。

「いいや、なる。…それは誰かがどうこうじゃなく僕が納得した上での事だ。」

 厳しい口調で落とし切る知恵者に、彼女は言葉を見つけられない。


『君と同じでぼろぼろだった、とある学者崩れの話だ』


 同時に、一等初めに切り出された言葉が、唐突に彼女の頭に蘇った。

 思えば、知恵者は己の納得の元に生きている。

 その彼が積極的に崩れ、という言葉を使うのは、そう、納得したから、してしまったから、なのだ、と。そう察した途端、本当に、彼女に紡げる言葉は、無くなってしまった。

「……………」

 無言で、ただ己を不安げに窺う助手に苦笑して、もう少し柔らかな笑みを浮かべると、知恵者は僅か怒っていた肩を弛緩させる。

「そのノートには、支離滅裂な事しか書かれていなくて、結論が無いんだ。

 結論がね、出せなくなった。

 だから、考え切れない。…考えても考えても、橋を架ける事が出来ないんだ。残るのはガラクタばかり。それは、もうどうにも出来なくて………

 僕はそれに限界を感じていた。終わりだと思った。

 そうしたら、……怖くてね…。

 他の者なら、多分あんな時……クスリだとか、タバコだとかに逃げるんだろう。

 名前は言えないけど……あそこの出の……そういう学者を、何人と知っているし……クスリに関しては、そんな話も、……こんなへんぴな場所に、まで……その、…君も、気をつけて。

 でも。でも僕はそんなまやかしじゃあどうしても足りなかった。まやかしだと分かっていたし、これ以上、自分の脳を劣化させたくなかった。


 そんな、無い物ねだりの馬鹿に異世界の話は……何物にも変えがたく、魅力的だったのさ。」


 言い草は人事の様に。

 又、今度は小さい子を労るような手付きで頭を撫でられながら、大人しくソフィレーナは丸まっていた。胸の鼓動は相変わらず忙しなく、けれどもどこか呆れと、哀しみを宿して廻る。

 子ども扱いは嫌だといえば、恐らくは苦笑が返されるのだろう。この行為は、彼女に施される形で、彼が彼自身をなだめているのだと。或いは、このひとこそ、頭を撫でてもらいたいのかもしれない。

 それでも無情にノートへと掛けられたまま動かない手の代わり、彼女は僅か睫を伏せて、彼の世界へと、意識を移していった。

 静ひつ。静寂。ただ、髪を撫でる温もりだけが酷く鮮明。

 ソフィレーナは密かに思う。

 異世界に行って記憶を失い、若返って、即座解剖された学者は都市伝説並の信憑性で知られている話だが、その可能性を信じ実行する者等、一体どれ程の確率で現れるだろうか。

 馬鹿か、途方も無い自信家のどちらか。では、知恵者はどちらに類されるというのだろう。

 論文の突飛さ。突飛と突飛を結んで納得させるだけの論と証拠を出し、誰にも反論できなくさせてしまう。それが出来るのは彼女の知る限り、今髪を撫でている手の持ち主だけだった。

 けれど、突飛と突飛を結び付けられない、それがこの学者には脳髄を叩き出す程の羞恥らしい。

 裏を返せば、この学者は、それが出来て当たり前の世界に居たという事になる。

 一度はその世界から転落した。けれど、異世界に行ったという事は。


 その世界を捨て切れなかった、このひとはきっと、弱いのだろう。


 過去の知恵者の凄さよりも、その弱さに、より強く、彼女の胸は締めつけられた。

 彼の言葉は続けられる。

「そいつは……居ても立ってもいられなくて…それでね、暴挙に出たんだ。」

 掠れて響くそれは、けれど続けられた。聞いて欲しいのだろうと、彼女は彼の言葉、その先に意識を向ける。

 まだ視線は許されなかった。

 だから彼女は、彼の弱さについては口をつぐむ事にした。求められているものはそれ以上でも、それ以下でもない筈だ、と、壊れた頭の何処かで計算を働かせる。


 それに。


 頭を撫でる手の、指の感触は、時折髪先までも労る様に微かに触れていった。緩慢に、悲しそうに。恥じたように、その当時を思い出している間のように彼女へと伝わって、彼女の内に消え失せる事もなく。

 このひとは、自我の意識が強くあるひとだ。

 だから。


 きっと恥というのは、その弱さ、にも。


 「それが、王……ご友人への謁見? 」

 心の中の判然としない気持ちを誤魔化す為、彼の暴挙、で思い当たる台詞を思い出すと、僅かな推論も混ぜながら、ソフィレーナは話の先を促した。


『そう。エルグ…エメラルグラーレン王の前で。異世界に行く前に、サインした』


 タール、マルス、グラン、シルド、メルザ、そしてケルズ。詰まる所、名前を元に三音に縮めた呼び名は、知恵者とその学友、殊更仲が良く、今でも交流のある人達に共通するものだった。その特色に当てはめるなら、この国の王もまた、ゲールッセッテの仲の良かった友人という事になる。

 この事は、彼女にとっては少し複雑だった。

 王、とは、彼女にとっては遠い親戚、そう祖母の妹君の儲けた二番目の姫君の旦那さんにあたる人だったが、彼女はその人を全く知らない。皇家と王家、ダリル家とリザ家の直系は公の式典でも、一部以外は顔を隠す事が常識となっているので、見る機会も無く、また、親戚として会った事も全く。

 自分以外の家族は面識があるらしいが、と王の事を考えるとき特有の、酷く覚めた心地を何処かで抱きながら、彼女は頭を撫でられるその感覚に心を向けている。

 ダリル家直系の娘の中で唯一、王の家臣から外された存在の彼女には、王は届くことの無い、どうでも良い人のうちの一人。

 その人の親しい友人の内のひとりが、知恵者だ、と思うと、どこか落ち着かない。

 知恵者は助手のそんな心の機微を読み取る事もなく、彼女の思惑通り話を進めはじめた。

「え? …ああ、そうかさっきの…。うん。……友達だ。

 奴に……若返りたいって言ったら、猛反対されてね。友達は…メルザにも…シルド、シルヴァルドにですら、止められたな。それでも譲らなかったら、……奴らに揃って条件を出された。

 全部のんだら行っても良いって………絶対のまないと思ったんだろう。

 でも、ねぇ。異世界に行って帰ってきた男の記述を見つけていたから、かな。

 本当に、止まれなかったんだ」

 「…………」


 又勝手に沈みそうになる己のうちを、彼女はあえて無視した。

 自嘲の混じる昔語りには、けれど助手としてみれば決定的に何かが抜けている。話を聞くに、彼の友人たちは、彼が行ける、という前提で話を進めていたらしい事が、少なくとも知恵者の口ぶりから彼女に伝わってきた。

 オーパーツ技術は、オーパーツ遺跡を元に開発されている。

 そして、現在オーパーツ遺跡研究で判明している決定的な事象に、どの遺跡にも、コンピューターでいう所のパスワードらしきものがあり、更に操るコードの解析をしなければその遺跡から開発のヒントを得ることが出来ないというものがあった。

 おまけに遺跡の用途は種々様々だが、ややこしい事に同じ働きを持った遺跡同士でもコードが全く重ならない、所か、今までコードの重なった遺跡等発見されていない。

 遺跡使用にはコード解析が必須。そして、移転技術を持った遺跡は、彼の発見したものと、それより前、即解剖の運命を辿った不運の学者、ジャスティ・ド・ラモーゼアの発見した遺跡の二所しか確認されておらず。

 実際には、彼がそう受け取っただけで、彼の友人達はこの話をしたのかもしれない。しかし彼女は聞かずにおれなかった。

「遺跡の…解明をしたでしょう? 勝算は…あったの?」

 勝率、可能性の話は、先ず出そうなものの筆頭核だ、と問いかける助手に、知恵者は思い出したように手を止めると、急に気の抜けた声で答える。

「ん……。その遺跡、この国に来る前に一晩寝泊りしていた場所でね。

 その時に、見たことの無い模様が壁に並んでいたから、興味本位でメモしておいたんだ。で、そのメモと、ドクター・ジャスティのノートの…文字じゃなくて、配列が……なんとなくだけど、似ているような気がして。コードの解析自体は、結構あっさり出来た」

 運が味方したんだ、と陽気に言い放つ彼は、ソフィレーナが見ると笑っていた。

 運で、オーパーツ技術開発チームが悪戦苦闘しているコード解析が出来て堪るか、と助手は呆れながら、どこかやり切れない物を感じる。

 見られている事に気づいたか、知恵者はしかし今度は彼女の視線を封じる事無く、ただ話しにくそうに口をもごもごさせていた。

 そこに、先程までの暗さは見受けられない。

 それは、まるで彼の暗い恥の終わりを表わしているようで。


「それで……ウチのママにロザリオ貰って、異世界へ?」

 助手が、一際調子付いた声でわざと明るく問いかけると明るい返事が返ってくる。

「そうそう。遺跡ひとつ壊してね。……失敗したら帰ってくるつもりなんてこれっぽっちも無かった。……だから、流星群の時言ったのは」

 彼女の頭から手を外し、いたずらを得意げになって打ち明ける知恵者は本当に子供の様、悪気など感じていないようだったが、彼女の頭の中では、異世界旅行と、遺体譲渡契約の話、星の下で響いた彼の声が甦っていた。


『体だけで能力伴わないなら、即解剖台送りだって事を失念していた』


「……嘘つき。」

 助手の口をついて出た言葉はきつく、少々どすが効いている。しかし、軽く睨まれる視線もなんのその。ケルッツアはあっさり認めると、昔の面白い話を聞かせるような調子で続けた。

「うん。解剖なんて堪ったもんじゃないだろう?


 あっちでも、失敗したら容赦なく殺して貰うっていう話で術をかけてもらったんだ。」


 ひどく軽い言葉に、けれど彼女のうちは星空観測の、背合わせで聞いた言葉の最後を思い出し、強く締め付けられる。


『…もっとも、思考できないなら潔く死んだ方がマシだけれどね…』


 脈流が忙しなく早鐘に急き立てられていた。

 危うく漏らしそうになった息の詰まる音を上手く飲み込んで、けれど僅かな体の強張りだけは隠す事が出来ずに。彼の言葉、そこから見え隠れする彼の本心、知の意味を重く受け止めている。


 このひとにとって、生きると考える、は同義なのだ、と。


 ではこのひとは。





 考えられなくなったら、死、を?





 その先の答えから、ソフィレーナは静かに視線を外した。

 この思考は、彼女も気づかない程の影を、身に落として。



 彼女がその事実にほんろうされ、密かに恐れている間中、そんな事は知る由も無く、彼はのん気に話を続けていた。

 「術は二人がかりでやるものだったらしいのだけど、そしたらねぇ、出てきたのが六歳位の双子の男の子で、失敗したらかけた相手が死ぬ、ってね、もう、わんわん泣かれて。……って、ソフィーレンス君? どうしたね? 頭痛?」

 ここにきて、様子を見かねたらしいケルッツアは、俯いて頭を抱えていた己の助手を覗き込んだ。

 栗色の下、酷く青ざめた顔は泣き腫らした眼の腫れやその先の神経質そうな光を宿す瞳とともに彼を直視している。

 しかし彼女の恨めしそうな視線も気にせず、寝不足もここまでくると凄い、等と、知恵者はその顔をまじまじと観察しはじめ。

 己の思考と、彼の思考との温度差に理不尽なものを感じながら、その八つ当たりもこめて、ソフィレーナは彼の心配に調子を合わせて答えた。

「……ええ、こめかみの辺りが。

 ねえ、いとも聡明でいらっしゃる賢者様?」

 体力と気力、共に消耗しきった人間の声は迫力に欠けたが、言い回しが皮肉めいている。

「む。……何か? 皇家の」

 敏感にその機微を読み取って、知恵者もまた、言葉面ばかり格式高く問い返した。

 途端。


「ちったぁ迷惑考えてください。 なにが散々ってここが散々。

 恥晒しもいいところ。いたいけな子供まで泣かせて……」


 普段より五割減の迫力で彼女は彼を責め立てた。

 その声のしおらしさを気に掛けつつも、知恵者はいつもの調子、言い訳を助手に訴える。

「だ、だから、散々な話って言ったじゃないか……。

 その当時は、その、それが一番術がかけやすいだろうと」

 声は微かに掠れて、ばつの悪そうな様子。そんな彼に、トドメ、とばかり返る声は、静かながらも的確だった。

「大人だってかけづらいでしょうよ、それは。……乱暴に言うなら人殺し依頼ですもの」

 元気が無いながらも押える所は押えた彼女の発言に、ああ、そうだとも、と開き直って、知恵者は話を先へと進めた。

「いいんだよ。暴露。散々な話だもの。

 で、…先に行くよ? あんまり彼らが泣いて……四日ぐらい足止めを食らって。もう、僕の顔を見ただけで泣くようになってしまって……・・・・・・・・・困った末に、貰ったロザリオをあげたんだ。


 持ってれば絶対失敗しないって言い添えて」


 注がれる視線の痛さを開き直りで返して、知恵者はやけくそに胸を張って威張って見せた。

 助手は呆れ果てたとばかり、ため息を重たげに一つ。視線を逸らす。

「それは…………ゴセイコウオメデトウドザイマス。

 成功しなかったら、一生恨まれたでしょうね、きっと。」

 皮肉たっぷり、澄ましてそっぽをむいたまま視界を閉じてしまった彼女の様子に、流石に開き直りも疲弊したとばかり、ケルッツアは眉を歪めた。

 「……ソフィーレンス君? 少し意地が悪過ぎやしないかい?

 結果は良かったじゃないか。ロザリオあげたお礼で、こっちの世界にも返してもらえたし……その双子は、後から聞いた話ではその術掛けが試験だったらしくてね。受かったって大喜びしていたよ」

 正論を述べているはずの声は、どこか文句を言うときのそれと似通っている。その事には本人も気づいていたが、情けないと思いつつも、目の前の星の光を受けた横顔を見やるとそういうものしか喉が紡いでくれなかった。

 相変わらず、目を瞑った助手の横顔は素っ気なく。

「そう………?

 ………それで、散々な話はおしまい?」

 高く、静かな声音はどこか透き通り、殊更冷たく、彼には聞こえた。

 言葉が響いた、その次の瞬間から、知恵者の中では抑えきれぬ母国語での罵詈雑言が渦巻きだす。


 マニャ! ダレス ダレス メルティ フェイル クッ!

 何て、何て強情な人だろう!


 ザローズ,ダレス ザローズ

 とっても意地悪。


 クォシスッ!

 冷徹だ!


 鼻息荒く怒りに打ち震えるケルッツアと、しかしいつまでたっても合わされる事のない澄ました顔。

 次第知恵者は不貞腐れ、俯くと斜め下手を詰まらなそうに睨みつけた。

 拗ねた行動だと、半ばの自覚もなく。


 スゥ エ・マイサウン フォルソ ダレス………

 そんなに呆れなくたっていいじゃないか……


「そこまで呆れなくったって…。そう。終わりも終わり。

 ッ…………」


 エ・ラズ エオウィ ララジャ……ッ

 隠しておけば良かった……ッ


「・・・やっぱ隠して置けばよか・・・…っ」

 とうとう、心の中を口走り始めた彼は、視界を固定したまま、丁度彼女の向く方とは反対の床へ、その絨毯の模様を睨みつけていた所為だろう己の灰色の髪に何かが触れる、その感触が何であるのかしばらく掴めなかった。

 彼にかけられる静かな声の質は、丸みを帯びて柔らかく、その場に消えてゆく。


「…本当に、散々でしたね……」



 頭を申し訳程度、先ほどの知恵者の、つたない真似事のように触れて撫でてゆくものには。かさかさ、と何かの凹凸があるようだった。何かは明らかに絆創膏で、静かに撫でてゆくそれは助手のぼろぼろになった手以外、彼に思い当たるものはなく。

「っ!」

 思った途端、彼は固まった。

 血流がどんどんとあり得ない速さで速度を増して、耳朶は熱く、かゆくなる。

 喉の奥でつかえる言葉を一度飲み込み、やっと。


 ソフィーレンス ア ソマ…?

 説明を…。


「……行動の、説明を…………。ソフィーレンス君」

 吐き出すそれに冷静さを努めた声は、酷く掠れて、彼自身は聞き取りづらかったが、その事にしくじりを感じるだけの合間は、結局彼にもたらされる事はない。

 言葉の余韻を遮って。

「意味なんて、無くったっていいんでしょう……?


  ………………頭くらい、撫でさせて……」



 その音程は、まるで水面に時折零れ落ちる雫のように、或いは、鍵盤楽器の高く澄んだ音をぽろぽろと弾いた響きのように。

 照れたように、恥ずかしげに消え入る彼女の声に、ケルッツアは大した反応も出来ず、ただ俯いたまま頭を撫でられて、同意はどこかおろそかに、不快等とは無関係な時間を過ごしている。


 彼の頭を撫でる絆創膏だらけの指先は、断続的に、そっと触れては髪を辿り、緩慢に天辺へと戻って、また、その動作を繰り返していた。


 …ア…メローシュ メ …… ソフィレーナ……

「…ねえ…? ソフィーレンス君………君は」


 そっと、その空気を壊すまいと、やがて彼はぽつり、と言葉をかけたが。



「……なぁに……?」



 返った声の柔らかさに、その言葉を取り消した。



 ……ムウン……


「…いいや……。

  ……なんでも無い…………。」

 彼は、そっと目を閉じる。

 髪を撫で行く彼女の指は優しく、まるで包まれているような錯覚をもたらすけれど。

 錯覚は所詮錯覚でしかない、と。


 彼は、その先の言葉を紡ぐ事など出来なかった。


 …ア…? メローシュ メ ………ソフィレーナ 






   メローシュ メ…… エイサウン…… タリタ………

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