第6話~科学者は哲学の夢を見るか~積もってゆくもの

<16>



「そう。…僕は、前の代の助手だった人からここの鍵を受け継いだのだけど。本と組み立て式の本棚、パソコンは持ち込みでも後は添えつけを使っている。

 と。本棚整理ご苦労様。じゃあ…次は・・・・・・・・・・・・・・・・」

 彼女の問いかけに僅か弾んだ調子で答え、体ごと振り向いたケルッツアは、手に持ったランプをゆっくりと高い位置に掲げて見せた。

 途端、知恵者のいる辺り、部屋の奥に温かなオレンジの光が広がっていく。星光の神秘的な空気は掻き消され、仄かな橙に色づいて。

 あるいは、知覚しなければ良かったかもしれない光景が浮かび上がった。


「・・・・・・・・・・・・・・」


 沈黙は互いの共有物。

 雪が融けた地面さながら。煌々と照らし出されるパソコン机の周りは酷い有様だった。ごちゃごちゃに積み重なり延べされた書類と思しき物、その面に両足を埋めて立つ彼の傍、積読の塔だったらしい崩れた書籍が何棟も、ど、と押し寄せている。

「・・・・・な・・に・・やってんですか…・・・・・・・・・。」

 呆れてそれ以上は言えず、口許に手を遣った彼女はしかし、部屋の半分、三脚のある側は綺麗に片付いている事に気付くと軽く目を張った。

 張られた瞳に映り込む知恵者は、気まずそうに斜め下、視線を逸らしている。

 その口が、もごもごと。

「…否、その…。いつもはもう少し、片付いているのだけれど・・・。昼間、ちょっと物を取りに来たら色々・・・・・・・・・崩してしまって…・・・・。・・・・・・時間もなかったし…」

 響いた声は小さく奇妙に掠れ、どこか引き攣れている。本来ならば聴き取り難い筈のその音程は、助手にとっては心地良い微笑みのよう。

 その声と、僅か上目づかいの知恵者に、助手は知れず頬を緩め、ついで、くしゃ、と笑った。


 いい年して…。子供なんだから。


 大げさに一つ息を吐き、振り向いたまま肩を持たせかけると、ギッと三脚の骨を軋ませ、からかう様に左右非対の笑みを浮かべる。

「…仕方ありませんね。片付けさせて頂きましょう…? ドクター?」

 残業分、きっちり働かないと割りにあいませんもの。

 気取って返った声に、助かるよ、と情けなく答えると、知恵者は大げさに紙の面から足を抜き、一歩絨毯の見える床に飛び出した。

 バランスを取る為水平に広げられた両腕は酷く幼稚な影を作り、反動で掲げられたランプが揺れる様と相まって、知恵者を外見然と見せている。


「さすが、僕の助手君」


 うずうずと笑みを押し込めて、様子を窺う顔は正に。


 本当に、子供。


 到底四十過ぎの中年男がする顔ではない。と。彼女は自身に向けられた微かに掠れた声に照れを押し隠すよう眉を顰めた。

「なんとまあ、便利な言葉ですね。全く」

 等と軽く針を刺す気持で呟いた後、天窓の方を向き。後ろではケルッツアが鳩に空気銃を喰らわせた様な顔をしていたが、助手は概ね無視を決め込んでいる。

 どちらとも、子供の戯言じみていた。


 大人なのに。


 そう思うだに、彼女の中でこんな人間を心底尊敬しているという自分への情けなさと。

 舌の奥からじわり、と広がる甘い苦味が鮮明に思い描かれる。


 そう。甘いからこそ苦い。


 甘ったるければ甘ったるいほど、我ままになる。だから苦々しい。

 思考は、頭の何処か、心の片隅で、常に彼女にわだかまっていた。

 あるいは、彼女の生まれた時から。


 ニガイ


 楽しげに笑っていた助手は次第表情を無くし、終には無表情で体を反転させると、三脚から下りる姿勢になった。

 その様を目に留め。

 子供じみた顔を一転、知恵者は厳しい表情で、三脚を下りる彼女の状態を注意深く観察する。

 栗色の前髪を意図してかせずか垂らして目元を隠し、普段も結ばれている事の多い小さな口許は、何かに耐える様硬く、まるで凝っているよう。時折、普段でも話の折、こんな状態の彼女に出くわす事もあったが。

 知恵者は僅か眉を顰めた。

 少し、過ぎる。


「・・・・・・・・・」


 つぶさに観察する彼のその灰を黒く染めた瞳の中で、三脚の両端の桟に両手を掛けて俯き加減に下りる彼女は最後の一歩を地面につけると、僅か止まった。

 顔を上げ、平気な顔をして知恵者と目を合わせる。

「で、何かご要望はおありですか? 無ければ勝手に片付けちゃいますけど。

 …あなた、そういうの煩いんですから・・・・・・・・・… 後で文句言われても困りますよ?」

 苦笑いで近寄ってくる助手の顔色は、けれど彼にはくすんで見えてしょうがない。平均的に健康だと思われる白さの肌も、今夜は血の色を透けさせた様に透明度を増し薄く暗い。

 有体に言えば青白い。

 星明りを背に、ランプの橙を映した紫がかる栗色の瞳に生気も見えず、良く光を弾いて輝いていた短髪にも、僅かだが艶が無く傷んでいる様子。


 彼は急いで時計を確認し、それから一つ、ゆっくり視界を閉じて、開いた。


「ソフィーレンス君」


 硬い響きに、やっと今、焦点を結ぶ彼女の目には、頬にはやはり。

「…………僕はちょっと用があるから、席を外させてもらうよ。

 …書類は必要なら踏んでしまって構わない。書籍類はその辺に積読しておいて。もし余裕があるなら棚に入れておいてもらえると嬉しいけどそこまでは要求しない。…宜しいね?」

 少々早口で言付けると、彼は驚いた表情のソフィレーナに押し付ける様にランプを持たせ、足早に階段を下り、扉の先、闇の中へと消えていった。


「ケルッツア…ド、・ディス・ファー・・・・・・ン?」


 ぼう、とした響きに扉の閉まる音が重なる。

 茶化したのに、酷く手厳しく返されてしまった…。

 思考もはっきりとせず、ゆら、ゆら、不安定な炎同様に、彼女は知れず、心を揺らしていた。

 持たされたランプの柄は、彼女が持った端の部分以外にも熱をはらみ、外気へ晒されている。

 その冷えが惜しく、己の持つ部分以外の温かさを逃がさないよう、触れて、頬にか、頬をか、静かに押し当てた彼女は。

 あの隠し通路に窓はあっただろうか…? 遠ざかる足音に漠然とそんな事を思い、次いで何か硬いものが勢い良く壁に当たる音を聴いた。

「・・・・・・・・・・・・」

 あ、頭ぶつけた。朧に推理を廻らせ、戸口へと向かおうと足を上げて。結局、又元気良く遠ざかってゆく足音を、ただ、彼女は聴いている。視界を閉ざせば、ランプの熱を、そのアルコールの沁みた芯の焼ける匂いを鼻腔に感じる。

 その場に落とされた息の音は、殊更重く響いた。

 片付けをしなければ、と、歩き出すソフィレーナは、けれど別の思考に捕われている。


 先程の視覚情報の片隅で、じ、と注がれていた視線。灰色の目を黒く染め上げて見つめるその顔は酷く固かった。見定められるような、値踏みされるような目を記憶映像の中に見付け出すと、けれど途端、彼女の心拍数が酷く乱れ打ち、思考までも痺れだす。

 胴の中心はほのかな熱を持って疼いている。認知する己の愚かさと、どうしようもない歓喜に彼女の顔は、見る間、泣き笑いの形相に崩れていった。そして彼女は、そんな自分が信じられない。

 サンプルを見る目でも、見定められていても、見つめられる先が彼ならば。

 こんな思考は邪魔とばかり、助手はその思考ごと宵の空気に投げ捨てて、現状を把握する。


 使い物にならない、って…思われたかも…。


 挽回する為にも書類と書籍の腐海の前に膝をつき。良く見ると散乱物には段階があって、折れてグシャグシャになった物が手前に来ている。

 知恵者の先程立っていた場所から奥は、書類が書類として残っており、手前の、所々踏んづけられた、と言うよりは蹴り飛ばされたらしい元・書類ばかり、床との境界線を綺麗に一つ、ほぼ一直線に引いていた。

「………」

 元々は、部屋の大半を占めて散らかっただろう踏みつけられた紙の屑を退けながら無事書類としての機能を果たす物ばかり集め、仕分けしつつ。如何に時間が無かったとはいえ、蹴り飛ばす位なら机に上げておいて欲しかった、と。

 まるで部屋の半分が綺麗なら良いとでも言いたそうな処置の仕方に、ソフィーレンスは軽く息を吐き、一枚、綺麗な書類に手を掛。


「ッ」


 滑った指先に生まれる、疼くような痛みに顔を顰める。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 ああ、うっとうしい!


 先ほどの思考の残骸を、本当は、捨てきれるものでは無い事等百も承知で心中毒づく彼女は、確認するだに痛みが増す事を数秒考えあぐね、降参したように、ポケットに常備の絆創膏を取り出し、ちらり、と手元を目に映す。

 案の定ぷっくりと血の玉が出来上がっている事を確認、紅色に滲む線を指先ごと口に咥えつつ、書類に付けずに済んだ、と。安堵に胸を撫で下ろすと同時、咥内に広がる鉄の匂いに苦々しく顔を歪めた。溜息が幸せを奪うと言うという俗説をふと思い、もう一つ反射溜息をついてから、己の集中力の無さを自嘲する。


 ああ、逆。幸せで無いから溜息をついて、集中力の無さに溜息が出る。


 そんな戯言は心の内、舌の上を蹂躙してゆく匂いを転がすと、より強く、彼女は傷口を吸いあげた。


 苦い。


 思考実験。悲観と楽観とでは、認識力に差が出る。

 同じ被験者でも、悲観状態の時の方が高い認識力を発揮する。

 ぱん、と、頭の何処かで映される映像は、彼女が一ヶ月前、国立図書館五階、深層心理科学分野で得た情報だった。棚の番号や、本の識別番号、題名、作者、ページ数といった今は必要無い情報までも思い出し、睫を伏せて、やり過ごす。

 悲観状態者は、往々にして認識力の高さが窺える。

 例外が一人、等と人事の様に上目遣い、彼女はその実暴れ出す思考を必死でいさめていた。


 苦い。


 あなたがトクベツ扱いなんてするから、余計に知らない事が悔しくなるんじゃないですか。


 『さすが、僕の助手君』


 …煩い。


 咥内に広がる鉄の苦さ。ブラックで飲むコーヒーよりもあるいは苦く感じられ、ソフィレーナは静かに目を瞑った。心臓は酷く痛み、またも滲む涙を眦で耐えて。動く事を前提に彼女はしばし時を止める。

 何処かで救われて、何処かで突き落とされる心地は、諦めの名に似て絶望の色を持つ。

 その癖、理不尽に明るいから手に負えない。


 こんな気持になるのなら。


 言葉は廻り、心の内をえぐりだした。


 こんな気持になるのなら、特別扱いなんてしないで欲しかった。

 こんな気持にさせておいて、届かない時間が存在するなんて。


 ああ、何てエゴ。


 含んで呑み込む紅は苦い。その苦さを体内に返しながら彼女はそっと上を向くと、雨粒を甘んじる様、別の苦さをなだめている。


 「馬鹿ね…私。・・・・・・・・・今更でしょう?」


 けれどももう、全てにおいて手遅れなのだ。    





<17>



 何処からが手遅れでなかったか、それを辿るのは彼女にとっても骨だった。鮮明に思い出す記憶を追体験するだけの気力は、正直今の彼女にはない。

 こんな時、声とその場の短い映像だけを思い出す方法は、まるで、自身が機械にでもなった心地で、頭の中にキーワードを思い浮かべるというものだった。

 つくづく、便利なのか不便なのか解からない頭を持ったものだ、等と書類をかき集めながら彼女は。

 ゆっくりと、目を閉じて。


 キーワードは、“初めの十二週間”


『うちの賢者様をご存知かい。何でも違う民族の生まれで、別の所行ってなぁ…なんとまあ、ちんちゃくなってお帰りになりなすった。

 ・・・・・・・・・・誠凡人たるワシ等にあの方のお考えは解からんが、えらい変わり者でねェ・・・?

 人は良いんだ。ワシ等にも声を掛けてくださるし…ものの道理っちゅうもんも、判っておられる…。

 が、ナァ…。

 中々助手職が決まらんで…。前辞めたもんで五十人目…。今まで持った奴で二週間ッてェンだから…。一体・・・・・・・・・ねェ…。

 ・・・・・・・・・お譲ちゃんも、まァ、その…応援しちょるから…。』


 彼女が助手となって初仕事の朝、定期便を運転する船長、ジェイク・ド・モリシシッカは彼女の肩を叩きながら苦しく笑っていた。


『あ? え? ええ!? だ、ダリル嬢?? ええ? ・・・・・・・・・ああ、そー…うー…。髪ばっさりいっちゃったの…。

 え? いやいや、名前だもんねぇ…。だ、よねぇ…うん・・・・。褒めてたしねぇ・・・・・・・アイツも無責任な事しちゃったなあ…。

 あー…ね・・・・・・・・ううーん…。アイツ…あ、ボク、奴と学校一緒でね? 

 ケルズ…ケルッツア…うちの総館長はさぁ。正真正銘…変わり者なんだ・・・・・・・・・。

 だから、あんまり気にしないで…。助手以外にも…ホラ、仕事沢山あるし! 胃炎にならないうちに、ボクか、三階の館長やってるマルス…マーロルサースにでも言ってよ。配属変えてあげるから』


 彼女が助手となって初仕事の昼、第二館長で総館長の友人だというテェレル・ド・イグラーンは頬を掻いて目元を皺皺にしていた。


『っと。ごめん…自分ドクター・ワイズの顔見た事ないんだ…。確かに…一ヶ月前まで助手やってたけど…殆ど第六図書館職員と変わらない扱いっていうか…。

 意味無かったから、早々に配属変えてもらったの。…だって、任期中、助手らしい仕事一つも言い付かった事無いし…。だったら正式に第六に所属した方がいいかと思ってさ…。

 でさ、今第六と第四に人数の空きがあるんだけど、ダリル嬢、助手を辞めた際には是非! 第六図書館に入ってね? 』


 彼女が助手となって三週間後の夕方、前、前、前、助手であったという第六図書館所属職員、ウィルバード・ド・トーティスは無邪気な笑いと共に、彼女の手を強く握った。


『はあ!? あんたっ…失礼、貴女、まだあんなプロフェッサーの助手続けてたの?! 

 ま、まあ、好き分好きで、いいんだけど・・・・・・。何? 約二ヶ月経った今でも一向に姿すら現さない? 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・こっちから嫌っちゃいなさいよ…そんな奴。』


 彼女が助手となって九週間後の休憩時間、後彼女の友人となる第二図書館所属職員、レティシア・ド・パレッツィアは彼女にココアをおごって憤っていた。


『えっと…単刀直入に言うわね? 総館長はココ、実はいないんじゃないか、って噂なの。だって、だぁれも姿を見ていないのよ?

 え? ああ、テェレル館長と、マーロルサース館長はだって、同期だから…。

 え? 船長さんが話しかけられたって? そりゃ、あたしだって面接ではあったけど。…替え玉の子がいるのよ、きっと。

 だってさ、異世界行って、子供の姿で帰ってくるなんてハナシ、信憑性ある?

 だからね、試練なんじゃないかな…本当はいない総館長をでっちあげて、新人の忍耐力を見る…。

 後は、そうね、…ドクター・ワイズは、ペンネーム…偽名だったりするのかも?

 え? ああ、だから、第二か、第三館長の』


 彼女が助手となって十一週間目の職員専用食堂、噂好きで知られる第四図書館所属職員、メメリスカ・ド・サセサは彼女の耳元で声を潜めて真しやかにこんな説を語り出した。


 そして、助手となって十二週間目の夕方、彼女はとうとう所属変更願いを片手に、最後、と知恵者の住むとされる最上階、白く塗られた鉄の扉を押し開けた。

 朝の挨拶と、帰りの挨拶、毎日欠かさず返答の返らぬ声を響かせてきた空間は、相も変わらず書籍を眠らせ、彼女にとっては余所余所しくそこにある。


『ソフィー? ソフィレーナというの?』


 任期中、一遍足りとてこの音程を聴いた事は無かった事を頭の片隅に思いながら。涙も涸れ果てた、とばかり、彼女はただ、誰もいない最上階の絨毯に足を沈ませていた。

 誰の姿も無い禁書庫。あの漆黒のコートの端を見掛ける事も、灰色の髪を見掛ける事も、足音さえ思い返せは一度と聞いていない。それでも、何時かは姿を現してくれるだろう、と、書置きのメッセージを書いたこともあったけれども、返事が書かれていることもなく。

 一方通行のコミュニケーションは、正直、酷く彼女の精神を蝕んでいた。

 幸い、任期中言い付かった仕事、知恵者宛の仕事も、急ぎのものは処理していたお陰か仕事の腕は各館から高く買われているらしく、変更先の抽選会はさっき終わったばかり。


 そうね、総館長はいないのかもしれないわ。お菓子とか置いとくとちょこっとなくなっている事があったけど、ネズミか何かが食べたのかしら…。だとしたら駆除願いだしておかないと…。

 コーヒーも、分量が減っていた事があったけれど、蒸発していたのね、きっと。


 そうでなければ幽霊が、よっぽどの非情人間だ。変更先のバッジを胸に付けながら、薄暗いその一角に立って、ゆっくりと辺りを見渡した彼女は、一つ、大きく深呼吸をすると、誰にともなく声を。


『・・・・・こんばんは。…君は、第二図書館所属の新人職員の様だけれど、尋ねたい事がある…。

 …僕の助手となった、ソフィレーナ・ド・ダリル女史を何処かで見かけなかったかね…?

 昼から探しているのだけれど、どうも、それらしい女性を見かけなくて…。』


 発しようとした視界の端、前方から、逆光で彼女に近寄ってくるシルエットは、彼女より少し背の高い少年の様だった。

 目と口を開き、茫然自失の彼女の真後ろ、石畳の階段を駆け上がってくる音、次いで、鉄の扉が乱暴に叩かれる音が響き渡る。


『じ、嬢ちゃん! ダリルの嬢ちゃん!! さっきの所属変更願い取り消してくれ!! あの馬鹿穴倉から出てきたらしい! おまけに今嬢ちゃんを探しているんだと!!

 よかったなぁ!! 認められたんだよ!!!』


 くぐもった第三図書館館長のがなる声をどこか遠くに聞きながら。やっと顔が判別出来る近さに立つ知恵者の、驚いたような顔を見つめて彼女は、こう呟いていた。


「……髪を切ったんです…。図書館づとめに、邪魔だと思ったから・・・・・・・・・。

 こんばんは、ドクター・ワイズ…。ワイズレッテッティス・リンズ・ケルッツア・ド・ディス・ファーン…様?

 あなたの助手に任じられました、ソフィレーナ・ド・ダリル…です」


 この時期ならば、まだ、手遅れではなかったのかもしれない。

 回想で、己の呟いた言葉をそっくりそのままなぞって、彼女はそっと視界を戻す。

 あの時は、ただ、嬉しかった。それ以上うれしい事があるなんて、考えてもいなかった。


 なのに。



 ランプの灯りはややかげり、未だ知恵者は戻らない。

 絆創膏だらけの手で分けられ、分類毎に積み上げられた書類は、その分類を表す本を一冊頭に乗せて、部屋の中央木製の長机の上で空になった三つの箱と同様に鎮座している。

 書籍も、その大半は棚へと戻され、どうやら借りたまま返していないらしい正式な国立図書館所蔵書籍は別に机の端に積み上げられていた。

 床に残ったものはぐずぐずになった元・書類と、僅かな積読崩れの塊だけ。

 天窓からの灯りを背に、その様をぼんやりと見、次いで緩慢に視界を閉じると、彼女は長机の横でゆっくりと一つ伸びをした。伸ばされた手には、深いものやら浅いもの等、ここ一年分を作り駄目したかのような切り傷があり、定期的な痛みを訴えている。

 その痛みを心の外に押しやってぼろぼろになった己の両手を下ろすと、目の前で静かに見つめ、ソフィレーナは情けなさに呆れも尽きたとばかり、から笑いを一つ。

 ズボンのポケットに用意されていた絆創膏は二十枚。本、紙を扱う仕事柄、切り傷は日常茶飯事と予備に持っていたそれの残りも尽きて。

 つい先程、薄皮一枚又切った。

「…・・・・・・………。」

 絆創膏の巻かれていない指は皆無。

 掌の横まで生傷の疼く両手は、僅かに動かすだけでも何処かしらが痛む。紅の滲む剥き出しの線も、片手指の数はあり、一番初めに切った右の人指し指、腹先は、血を吸い過ぎてふやけ、親指の腹で傷の周囲を押しても僅かな血液と組織液位しか出てこない。

 ああ、ここの治りが一番遅い、と苦々しく顔を歪めると、傷だらけの両手をそっと口にあて、彼女は軽く息を吹きかけた。

 曲り難くなった指の間接に力を込め、胸に押し付けるよう、強く握りこむ。血が滲むが、それでも構わなかった。

 口の中には未だ、血液の苦さが消えない。

「…………役立たずめ」


 …しっかりしろ。甘えるな。


 そんな事を思いながら。

 その痛さも痒さも疼きも、全てが彼女の内に、元々から在った苦さを加速させてゆく。あるいは、本当の始まりは初めて知恵者との会話が成立した時から、だったのだろう。

 複雑に色を、味を変え、時に混ざり時に薄まり、決してその姿を消す事の無いまま、彼女の内にわだかまり続ける。

 願望。欲望。そして困ったことに、今夜はそのたがが容易に外れそうな気配。

 自覚した途端情けなさが襲い来て、彼女は勢い良く頭を横に振った。過ぎたか、視界が揺れる。

 知恵者は未だ、足音ですら聴こえる事無く。

「このまま朝まで帰らなかったりして…?」

 冗談半分で思った思考に更に彼女は傷つき、それも疲れたか、諦めた様な顔色で、残りの元・書類の残骸と、奥まった箇所に眠っていたらしい積読書類に取り掛かった。

 そもそも、積読の塔はどれ程前からのものなのか、彼女は厭な予感と戦いつつ、作業を進めてゆく。

 厭な予感は、そして彼女の場合厭でも大抵当たる。得てして全く嬉しくない事に、母譲りの変な勘の良さは、当然当たって欲しくない時にも発揮される。

 テストの点が芳しくなかった時や、いい人の皮を被った余り腹の内の美しくない方の笑顔等、時には人の死期まで明確に当たってしまう、等。あなかしこ、あなかしこ。

 この積読の塔は、どうも年代毎に層になっているらしい。総勢十の棟を作っていたらしいそれらは、右からご丁寧に、五年毎のサイクルで古くなっていた。

 幾度か、それは、主に知恵者に関する個人情報が得られると思わしき書籍に出くわす度、彼女は己を理不尽に振り回す鼓動に押された、知識欲という名のエゴを必死で抑えている。

 そう、知りたいだけなのだ。

 それを押さえ込んでいる。

 その代わりに自覚なく指が切れていた、と言い換える事も出来る。


『…僕には、君に知られて困る事なんて、本当に一つと無い。』


 おまけとばかり、先程の知恵者の声を真似て、エゴは理性を取り込もうと躍起になっていた。

 そんな事はない。誰だって人に知られたくないもの位は持っているものだ。

 そう、一方では彼にしては珍しい浅知恵での発言と認識、動きそうになる指先を押さえ、ひたすら仕事を遂行している彼女と、その知恵者の発言を逆手に取り、彼の過去を探ろうと機会を窺う彼女がいる。

 貪欲に、知りたい、知りたい、と暴れ出す醜い化け物を内に飼いながら、私は平気、等と頑丈な檻に閉じ込めてそ知らぬ振りを通している。

 それで、常日頃は何事もなく過ごせるのだが、困った事に今は。

 がちゃり、がちゃり、と酷い金属音が頭の何処かで鳴り響いていた。


 知りたいです。知りたいです。


 金属音は鳴り響く。


 その時代に一緒に居たいなんて言わないから、せめて少しだけでも知りた



 お願いだから…これ以上、揺す振らないで…。



 又一枚、と書類を救出し、彼女はやや乱暴に頭を振った。絨毯に膝を着いた状態で積読の塔だったもの、今は僅か三十㎝程度の高さに減った積読書を、一冊手に取る。

 黒としか識別できない濃い色の表紙は、酷く滑らかに薄い天窓からの光を弾いていた。皮製のそこに掘り込まれた凹凸は、金箔、或いは銀箔特有のやや鋭い反射を彼女に伝えている。

 『深海の青』と読み取る事の出来るその本は、国立図書館第二館内に相応しい内容、海洋学の専門書だった。

又一つ、借りたまま返していないらしい本に溜息をつくと、何とはなしに彼女はその表紙を捲ってみる。

 と。


 ひらり。

 彼女の持っていた本から、何かが舞い落ちた。

 一際白い反射を返し絨毯へと落ち着いたそれを、無意識のうちに追った彼女は、後悔よりも、何よりも。


 床の絨毯の上、表を向けて晒し出されたそれは四角い、色あせた写真だった。

 星灯りに映し出される褪せた色彩の中で、彼女の知らない、否、知人らしき人達の格段に若い姿が映っている。


 大きな大樹を背に、肩を組み合ってふざけている真ん中三人の人物。左端は赤毛、グルラドルン・ド・シェスラット文化長官の面影があり、右端の人物は、第三図書館マーロルサース・ド・リグィア館長に似て、否、だった。

 三人の横や前やらに座っている人物は四人。中腰、マーロルサースに手を伸ばして呆れている亜麻色の長い髪の女性がドクター・ソフィレーナにとっては一応ティーチャー・メトーラルシザ・ド・ゲライアで、煩そうに紙コップらしきものを持って眉を顰めている銀髪の美男子は、ソフィレーナは数回しか会った事はないが、二ヶ月前に名誉章を受賞したドクター・シルヴァルド・ド・メイスンで間違いないだろう。

 その肩に寄り掛かる見事な金髪の男性は彼女には正体が分からなかったが、立っている三人を楽しそうに見上げている線の細い美少年、その少し薄い色の金髪には、余り結び付けたくはないが第二図書館テェレル・ド・イグラーン館長の面影が見出せる。


 そして、中央の人物。

 酒瓶を片手に、馬鹿笑いをして、左右の人物と肩を組みあって今にも倒れそうな不安定な片足立ちの姿勢で、あせた写真の中、灰色と分かる髪の青年は陽気に笑っていた。


 全員頭に、彼女もかつて被ったことのある卒業生独特の黒く四角いハットを被り、同じく黒のローブを纏っている。  ハットの正面部分にはこの国一の学力を誇るとして有名な大学の学花の刺繍が施されており、ローブの左胸にはその花、背にしている大樹と同じ、青味かかった花が飾られていた。


 ユニヴァーシティー・ディム・ゲールッセッテは、知恵者とその友人達の母校。


 大樹の幹と肩を組む男性陣の背は、灰色の髪の青年の背の高さを照明している。何より、この国生まれでも濃い部類に入るマーロルサースの肌より更に濃い褐色の肌は、今のケルッツアと同じだった。


『うんとうんと背が高くて、膝をついて屈んでもらったのよ?』


 響いた声は母の声だった。それを主とした言葉達ではなかった、と承知はしていながらも。

 楽しそうに笑うこの写真中央の青年等、彼女は知らない。公開される知恵者の写真は、全て今の子供の姿のものばかり。

 そして、彼女が知っているのはこの三年間、一向に変わらない彼、だけ。


 がちゃり、と。

 どこかで鍵の外れる音がした。


 二十歳差だもんね。知ってる。

 判っている、わ…………


「…あ…」


 その写真に手を伸ばすと、簡単に絆創膏だらけの指先は青年に届く。震えてゆく指先で取り上げても、当たり前の事だが、青年の笑みに変わりはなかった。

 彼女の世界は、潤んで光が膨張し、物の輪郭を弛ませ、歪ませてゆく。

 それでも、彼女に焼きついた彼の笑みはそれ以上の劣化も、鮮烈さも無く、しかし絶対的に彼女の思考を支配して止まず。

 取り上げた写真を後生大事、胸元に押し付けて視界を閉ざすその頬は、見る間幾筋もの熱を奔流させて涙を落としていった。

 押し付けてもそこに、温もり等あるはずが無い。

 そして、ソフィレーナにはその写真を辿れる思い出等、毛ほども存在し得ない。

 毛ほども。


 空気中に漂う一等小さな粒子の、その一つの質量ほども。


 声、は、不明瞭な息となってしか外気に晒されなかった。

 湧き上がってくるどうしようもない思いは、或いは、欲は、言葉を与えられずに息ばかり、荒く激しくなってゆく。

 「……ぁ……ッ」

 一度、二度。大きく肩が揺れ、それが、契機となった。


 困難な呼吸にあわせ声を漏らず彼女は、やがてむせび、その冷たい絨毯へと崩れ落ちる。

 酷い声を出す代わり、肩を苦しげに揺らして床へと縮こまり。床に額を押し付け声なき声、顔をぐちゃぐちゃにして泣く彼女は、ただ、やり切れなさにむせび泣いていた。

 何が遣る瀬無いのか、何が悔しいのか。

 途方も無い欲は彼女の体を駆け巡り、彼女から正常な思考と、呼吸を奪う。


「…ッツア、ど…ディ・・・・・・ッ・・・ふぁー…ん・・・ッ」


 零れた音は酷く滑稽に、惨めたらしく床の絨毯へと消えていった。


 彼女の知らない時間だった。

 決して届かない、失われた時間の残骸だった。

 大人の姿の知恵者など、否、ケルッツアなど、もうこの世には存在しない。

 けれどせめて、その姿だけでも知りたかった。


 だけど本当は、もっと昔の事も、何もかも、知りたくて知りたくて堪らない・・・・・・・・・・ッ!!!


 優しさだけで、どうして満足が出来ないのだろうか。その醜さを自覚して尚、彼女は持て余す欲に体を焼かれ、のた打ち回っている。


 なんてわがままだろう。


 館長や、彼と同年代の人たちは、大きな背の彼を重ねて今の知恵者を見ている。

 でも、私は今の彼しか知らない。


 それはどうしようもない事だと。

 変えられない事だって。

 知っている。分かっている。けれど、でも、もう。


 助手として買われる度に、或いは、館長たちが昔の話で盛り上がる、それを聞いてしまった時に、笑顔に隠して我侭を押し込めていた、彼女の努力や矜持は、今、この時に剥がれ落ちていた。


 私は・・・・・・・・・あなたのことならなんだって知りたいんです。


 教えてください。その権利を下さい。嫌なら、特別扱いなんてしないで?


 トクベツなら、助手、なら・・・・・・。


 涙と鼻水にむせぶ彼女の耳に、ふと、何か軽い物が幾つか倒れる音が響いたのは。



 神の慈悲か、悪魔の哄笑だったのだろうか。

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