第5話~科学者は哲学の夢を見るか~記憶のおり

<14>



 ウィークラッチ島、夜中一時と少し。

 さて、おかしなことになった。と、ソフィレーナは内心頭を抱え込んでいた。

 国立図書館最上階禁書庫、照明の落とされたその場所を覚束ない灯りを先頭に、動く虚像は大小二つ。知恵者と助手の列は、闇の中をにぎやかに進んでゆく。

 橙の灯りに照らし出される微かな視覚情報を、持ち運ぶ箱三箱にさえぎられつつ読み取りながら知り尽くした禁書庫の姿と重ね合わせ、ソフィレーナはケルッツアの後に続いていた。

 右に、左に、くねくねと無駄に折り曲がる事約十分程度。助手の密かな不安も知らず、意気揚々と引きずられる黒く長いコートの端が止まり、微かな金属の触れ合う音と、軋む扉が開いたそこから先。


 彼女の知らない空間が広がっている。


「ここ、禁書庫じゃ、無いですね…」

 彼女は務めて冷静な声を出した。視界に知らない文字列。掠れ見たそれは、恐らく流民の使う言語、ムータ語の亜種かもしれない。

「うん? 貴重で…滅多にお目にかかれない書籍がある所、かな」

 返る声は些か浮かれ気味。彼女が必要最低限の視野でも判ったのは、左右に本棚の列が恐らく一列ずつ、丁度彼等の立つ直線、綺麗に等間隔で道を空けて配置されている事と、この本の回廊が、己の立つ位置から後ろにも、同じ様に広がっているという事だった。

 くぐって来た扉は、今は右手に位置している。

「・・・・・・・・・」

 無言の助手を置いて、ケルッツアは先へと歩を進めていた。

 続きながら。禁書庫の時とは反対に、なるべく周りを見ないよう視野を狭める意図と、単なる呆れの具現化とで、彼女は虚ろに、おへその辺りに視線を落とした。


 一体、この、国立図書館という空間は謎が多い。


 少し貴重な書籍の類の在る所であり、国立と付くからには、国からの補助で成り立っている。しかし、王都ではなく、西の最果て、寂れた孤島にあるのは正直使い勝手が悪い。天候の良い日はまだしも、海の荒れた時などは緊急で休館になる国立図書館など科学大国としてはいかがな物か、とは専らの噂である。

 おまけに、結界のお陰でそれが発動している間は外界と中は全くの音信不通。開発チームとはいえ、ここの結界はもともと在った遺跡のシステムを安定させ発動時刻をコントロールしただけに過ぎなかった、という事実。

 つまりこの島は、以前はいつ何時音信不通になるか判らない、とんでも空間だったのである。

 本来はとてもではないが住めた所ではないのだが、しかしなぜか一人、必ず誰かが最上階に住み続けて今の知恵者の代でもう五〇代を越しているのは不思議を通り越して呆れる。

 それらが、歴代の知恵者達が、総じて変わり者、変人、と呼ばれる理由であり、この島、ひいては国立図書館という塔が、別名『あぶれ者の塔』だの『変人達の巣窟』だの呼ばれていた由縁でもあり。


 図書館内のシステムも変わっている。何故か知恵者の住む最上階禁書庫でも一定の手続きをすれは三日だけ貸し出しが可能となる他、本には有害な筈の巨大な窓が日当たり良く付いている等、最も、地下に本当の持ち出し厳禁、禁書庫が広がっている事は、実は国立図書館に勤めれば誰もが知っている事ではあったが、塔のあちこちに隠し部屋めいた空間が広がっている事までは、正直、歴代の知恵者と、助手しか知らない事らしい。うわさ程度には流れるが。


 そんな謎だらけの国立図書館。最上階スペースに目をやれば、この変な空間の他に研究部屋が二つ、物置五つ、何処かに彼の私室が在るらしい事と、キッチン意外の生活必需物、シャワーまで付いている事までは、助手の知る所であった。


 私室。


『まさか…目的地は、あなたのお部屋、とか?』


 探検じみた運搬業務開始直後に遡る記憶。ソフィレーナにとって、他人の私室とは、苦い思い出と認識を抱えた禁断の場所でしかない。危険因子は早めに回避しておきたい、と、私室の話題が出た時点で、そんな彼女は確認を怠らなかった。


『ふむ? ソフィーレンス君。書籍の運搬業務だよ? ……書庫に決まっている』


 返った言葉に僅かな安堵と、それでも拭い去れない不安。頭を切り替える様にこの秘密空間がいつから存在するのか、と、あらぬ事に思考を飛ばし、それも飽きた頃、今少し今後にとって有用な事を、ソフィレーナはケルッツアのコートへとぶつけた。

「じゃあ…隠し部屋の一つ?」

 歩が止まりかけ、進む知恵者から声は返らない。分かり易い反応に、この辺り一帯が雲隠れスポット、と認識しながら、ソフィレーナは軽く首を傾げる。僅かその背に近付き、そっと。

「良いんですか? …隠れる場所、無くなっちゃいますよ?」

 少々意地悪く囁くと、案の定恨めしそうな視線が向けられた。

「……いじわる…。…いいよ、別に。……他にもまだある。」

 嘯くように口を尖らせてそっぽを向いた、その顔に。

 なぜだろう、彼女はその頬の形に途轍もない憎らしさを感じる。


「ケルッツア・ド・ディス・ファーン? 今年は逃げる前に、問答無用で椅子に縛り付けますから。」


 地の底からのような声が後ろで響き、途端知恵者は目を丸くした。

「そ、それは幾らなんでも人道に反して」

 慌てて振り向く彼に、にっこりと微笑むソフィレーナの頭の中では、今、さっき渡した『仮定図書一覧表』の事務整理にまつわる忌々しい思い出が上映されている。

 心は正に、この上司に対する可愛さなど何処吹く風、余りに余りまくった憎さだけが百万倍。

「何を仰るんです? この助手めが付きっ切りでお世話させて頂きますよ?

 素敵でしょう?

 あなたはただ手を動かしているだけですもの。

 私が付きっ切りで書類を運んだり食事を運んだり書類を運んだり書類を運んだり書類を運んだり…書類を運んだり?」

 矢継ぎ早にまくし立てるソフィレーナは、しかし、これで知恵者が潔く折れて謝ってくれたなら、これ以上虐めようとは思っていなかった。

 が。

「…それは、拷問と言うのではないの…? 」


 この言葉に、切れた。


「いやだ、プロフェッサー・ワイズレッテッティス。


 ……・・・・・・・・ソフィーレンスは拷問を受けたと?」


 箱の塔から半分覗く助手の顔は、ランプの光を受けて陰影が濃い。

 しまった、と知恵者が取り繕うも時既に遅く、助手は、世にもおっかない顔で知恵者ににじり寄った。美しいとは言えないものの、無駄に左右対称、整った顔のつくりが恐怖を煽る。

「ええ、そりゃあね? 確っかに拷問でしたよ? 親・愛・なる賢者様は雲隠れなさって?

 後に残った、机がすッッぽり! 隠れる位の書類の山に埋もれてッ!!! 逃げる事も許されずにまだ運ばれてくる各館からの書類と顔を突き合わせて!

 泣きながら!!! パソコン打って!

 判子押して…! 本当、揃いも揃った全館分、よくも溜めましたねあれだけ?

 …ふふ、う、ふふふふふふふ・・・・・・・・・・・・・・・・・しかも提出期限は全て明日…。

 拷問でしたよ。

 私何か悪い事しました?

 どうーせ聴こえてらっしゃったんでしょう? 惨めに響き渡る助手の泣き声ッ!! 思わず恥も外聞も忘れて夕日と書類にまみれながら今後の人生にまで思考を廻らせちゃったじゃないですかッ!! 

 何でそこまで追い詰められなきゃならないんです!?

 よぉぉおおっッッく聴いてくださいプロフェッサー。あなたの優秀な助手はね? 三度目の轍は踏みませんの。で・す・か・らッ! 薄情な上司へのささやかな復讐として、


 椅子に縛り付けるっ位、…可愛いものでしょう?」


 昼間、知恵者の目の前にどん、と座った時の恐ろしさをもう一度。ソフィレーナは箱に遮られた視界の端から、今度はケルッツアに、妙に気迫のこもった涙交じりの微笑みを向けている。

 彼の顔は蒼白である。

「・・・・・・・・・……。は、半分は…消化する…。」

 渋々、といった調子で悲愴的に返った答えに、しかし助手は納得しない。

「…はんぶん、って…。あ、のね…ッ? そもそも、あれ、全ッッッ部!!!

 貴方のッ! お・仕・事・ッでしょうッ?!?!?!!!」



 こんな会話をしつつも、二段下がって三段上がり、五段下がって、更に八段下がり、二段上がって五段下がり、等と細かなアップダウンを繰り返して、彼等は今一枚のドアの前に立っていた。


『書庫に決まって…』


 確認は取った。ここは彼の私室ではない。

 運搬業務を始めてからずっと付きまとう、むずむずした変な予感に、ソフィレーナは一つ小さく息を吐き出した。

 だいじょうぶ。大丈夫。書庫。書庫だから。

「…随分と…変わった場所にある、書庫、です、ね?」

 声にはついつい確認の響き。

 先程の一悶着は助手の密かな不安の裏返しだったなど、知恵者は気付くわけもなく。

「どうしたの。…書庫だといっているのに………。ああ、少し待って…確か…」

 返る声ののん気さに、内心ソフィレーナは酷く怯えていた。知恵者は彼女の目の端で、じゃらり、と鍵の束をもてあそび、中から一つ、銅製のそれを選んで彼女に背を向ける。その背が、ふいに記憶の中の幼い姉の背と重なって、ソフィレーナは今度こそ息を殺した。


 違う。


 知れず首が振られ、足が竦む。


 ちがう。だってここは。


 記憶はあせる事無く。


「ああ、これだこれだ…。と、はい…どうぞ?」

 沈みかけた己に掛けられる声。現実では、鍵の開く微かな金属の音と共に、ケルッツアが振り向いて笑っている。

「ッ! …」

 動揺を押し隠し、無理にでも意識を引きずり上げて、ソフィレーナは深呼吸の代わりに、荷物を持ち直した。視界の半ばに見える、彼によって大きく開けられたドアの先、その暗闇へと。

 足が震える。

 大丈夫。だってここは。


「…。お邪魔します…。って、・・・変な言い方しないで下さいよ……、書庫なんでしょう?

 まるで」

 軽口の心算で発した言葉は、結局詰まって上手く殺す事は出来なかった。


 後ろから、心底楽しそうな声。

「…階段には気をつけて。…ほら、立ち止まらない」

 悪戯に成功した子供の様な調子で、彼は彼女の背を押して、部屋の中へと急かしている。


「…ここ…ッ」


 その背に触れる彼の手に。声に。

 存在自体に。

 ソフィレーナは堪らない苛立ちと困惑を覚え、ぐ、と奥歯を噛み殺した。


 書庫だって…言った…ッ!


 騙されたという怒りと、意地を張って教えておかなかった己のしくじりとの後悔がないまぜになり、彼女の鼓動を急き立てる。体中の産毛が総毛立つ感覚、拍の嫌な音。早鐘は酷い緊張の現われで、この場合は恐怖の具現でしかなく。


 星屑の下で覚えた甘いものなどではない。そんな物ではなかった。


 よろこぶと、思ったの、だろう。


 確かに、普通ならば喜ばせるイベントになり得るのかもしれない、と、漠然と、彼女は頭の何処かでそう思う。

 いたずらに成功した子供は、心底嬉しそうな気配で後ろに控えている。

 つん、と鼻の奥が痛む。声が掠れる。閉じた視界に一瞬見た残像が、なぜ、消えてくれない。


 消えるわけが無い。一度見た、ものは、私は。


 私は。


 このひとは、やっぱり残酷。


 ソフィレーナは俯いて前髪で目元を隠した。自分の足が止まったのは、部屋を入って直ぐ、僅かにある階段のせいではない。


 なんて…解るわけがない…。


 苦しみなど、他人に解る筈がない。それは当たり前だ。と、心の何処かで冷静な自分がささやく。もともと気付かれぬようふるまっていたのだから、 むしろ気付かれていたら困る、と。

 忘れられない苦しさ。忘却の無い思考。それに伴う弊害なんて普通は知らない。

 見た物が、あせる事もなく、ずっと記憶に残り続ける恐怖。絶対の、記憶媒体のような自分。

 そんな己に迂闊にプライベートスペースを見せる知恵者は正直な所、彼女にとっては複雑な存在だった。

 こんな子供じみた知恵者でも、やはり心の底から尊敬していればこそ。このいたずらを彼の失態としか取れない己に、彼女はやり切れないものを感じる。

 けれど、それも詮無いのだ、とソフィレーナは諦めて息をついた。

 解るわけが無い。解かっていたら困る。


 だから、詮無い。


 それでも。それでも本当は。


 ケルッツアの声は身勝手に続けられる。

「ね? 書庫だったろう? …まあ、私物も混在しているから、貸出し無効書籍専門書庫かな。

   …箱はそこのテーブルに置いて。中身を棚に並べて貰おうと思ってね。分類順序は第五図書館と同じ。君の判断で何処に入れるか決めてくれて構わない。そこの三脚で届く範囲で…


 って…。ソフィーレンス君? 目を開けたまえ」


 無神経な声は至極無責任な事をのたまって、やがて彼女のすぐ隣で呆れている。

 或いは、己を普通の人間として扱ってくれる彼に、自分は普通では無いのだ、と切り出す事が哀しいのかもしれない。

 無自覚に心をえぐる、優しいバケモノに向けて、彼女は堪らないものを抑えた息に乗せ、そっと切り出した。

「い、やだ…ケルッツア・ド・ディス・ファーン…? それは、出来ません…。私が…」

 深呼吸。声の震えが浅ましく愚かしい。

 息を呑み、平静に。

「私が…見たもの全部覚えちゃう事知ってらっしゃるでしょう…? 一度見ると…本当に何も…。


 …・・・…忘れる事が出来ないんです…………。


 …き、機密事項、とか、個人の秘密とか……全部、…ずっと覚えられている事になるんですよ…?

 しゃ、写真と同じです…。私は…見たら、やり直しが利かないんですってば…。

 …でも、安心してください? …。ここはまだ、天井しか見て無い、から…」

 嘘だった。

 彼女は彼の私室を、その天窓からの星灯りに照らし出された青い空間を、ほぼ真正面から見ている。けれど、その事だけはどうしても、ソフィレーナはケルッツアに告げられない。

 写真に撮るという事と、己が見るという事は、彼女の中ではほぼイコールで結ばれる事。

 背に置かれているてのひらは、今もなお仄かに温みを伝えている。その温かみが温かければ温かいほど、心地よいほど、いつ、その手が離れてゆくかと、ソフィレーナの中で恐怖は募っていった。

 知恵者はいまだ横にいる。その事に救われると同時、自分の顔に注がれている視線の色が、ただ、怖い。


 侮蔑か、同情か。


 ケルッツアからの返答は無く。彼女は、くじけそうになる己を奮い立たせ。

「…机には、置けます。…何か置いてあるなら退けてください。…・・・・・・・・・・そこまで、です。

 後は、申し訳ありませんが、私には処理、ッ・・・・・・・・・・・・・・っ出来ま、せん………」

 言葉の最後で息が詰まり、悔しさで、とうとう持つ箱へと額を押し付けて、更に俯くと、ソフィレーナは顔を隠した。涙だけは、辛うじて耐えたせいだろうか。鼻の奥の痛みと耳鳴りが煩い。


 ごめんなさい。


 ごめんなさい、とは、心の中で呟きながら。

 だから。


「…何をいっているの。

 君は、僕の助手だろう? …これからは、ここの整理もやるんだよ?」


 さも当然と要求を押し付ける言葉にソフィレーナは驚き、反射目を開けた。

 幸いにも視界は箱と足元とで覆われていて、直ぐにきつく目を瞑った為彼の個人スペースをもう一度侵すような真似はせずに済んだが、その声の普通さに、想像出来る表情に、苛立ちが募る。


 人が…ッ…・…どんな、きもち、で…!


 恐らく事の重大さを分かっていない顔つき、呆れすら混ざったようなケルッツアを叱咤する声は、どうしてだろう、怒りとは反対に、酷く情けなかった。


「そ、そんなの…横暴もいい所じゃないですか…。それに、困るのはあなたなんですよ…?」


 泣き付いているような、懇願の響き。発してしまったと同時、彼女は己への憤りに唇を噛む。望む事は、ここからの撤退の筈だ、と。早くこの身勝手で、無神経な要望から解放されたい。のに。

 なのに。本当は。


 ほんとうは。



 そんな自分が、惨めで情けなく、消えてしまいたい、と願う彼女の背に、けれどやはり、てのひらの温かさは消えない。

 黙り込むソフィレーナの横で、先程に比べれば随分と真面目な声が、強く。


「…死んだ書物と、僕の私物しか無い場所だ。機密事項も、君に洩れて困るものも無い。…問題なんてないだろう?


 …大丈夫。目を開けてごらん?」


 背のてのひらが、一度、そっと僅かに摩るような動きに変わり、直ぐに元の位置へと戻った。響いて聴こえた声は優しく、添えられたてのひら以上の温かみがある。

 知恵者としてみれは、事実を述べただけに過ぎない言葉でも、彼女の耳には優しかった。

 同情、という思考が一瞬、ソフィレーナの頭の中に浮かんだが。

 あるいはそれでも構わない。

 計算だろうが、何だろうが。もう。

 錯覚でも、解って貰えた様な、包まれるような、そんな心地に押されて。

 恐る恐る、ソフィレーナは瞼を持ち上げる。

 「………」

 視界一杯の箱の壁から、徐々に顔を傾けて、叱られて元気のない子供の様な調子、そっと窺うように、視界の色を、星明かりに、青く沈ませていった。

「ようこそ、僕の部屋へ」

 言われた途端、抑えきれずに世界が滲み。

「ッ」

 又箱に押し付けて俯いてしまった助手の肩は、小刻みに震えている。

 その、栗色の髪に静かに手を遣って。ぽんぽん、と弾むように撫でてから、ケルッツアは屈み込んでこうささやいた。


「…僕には、君に知られて困る事なんて、本当に一つと無い。

 君はここの資金運用にだって目を通しているだろう? 所蔵されている書籍も、未登録分以外は全部知ってる。…とても助かっているんだよ? …それに、一度見て忘れないなら、下手に散らかる心配が無さそうだ。

 …結構な事じゃないか」


 未だ床から先、顔を上げない助手の手から箱を受け取って、階段を上り、その先、大きな木製の机へと荷を降ろしてしばし。

 ケルッツアの後ろ、小さく鼻をすする音と、くぐもった声がかけられた。

「…………………。並べ…方は、第五図書館の通り、でしたね…」

 未だ目元を前髪で隠したまま、部屋の階段を上ってくる彼女を。

「そう。お願いね。ソフィーレンス君」

 迎える知恵者は、とかく嬉しそう。

 





<15>



 部屋の南側、ベッドと思しき本棚の上に作りつけられたスペースの壁、綺麗に切り取られた丸い窓からの星明りを靴のつま先の辺りに受けながら、ソフィレーナは数冊の本と、背表紙に張るラベルを手に、大きな三脚、上から二段目の位置に腰掛けていた。

 視界の真ん中、差し込む星明りは月のそれのように判然と明るく床にまどろみ落ちている。

 その形に時折目を移している所為だろうか、彼女がラベルに書き込みをいれて本に貼る作業に要している時間は、通常の何倍も遅かった。

 緩慢とも呼べるその速度に、しかし先程から窓に背を、そして彼女に背を向ける形で、三箱の置かれた大きな机の斜め壁より、小さなパソコンの乗った机をランプの灯り頼りに片付けているらしいこの部屋の所有者からは、何の苦情も出ていない。

 所か、ソフィレーナがちらりと見やれば、自分の作業速度に合わせて動いている事が窺える。

「………」

 己の助手に関しては仕事速度重視、彼がいかに研究に打ち込める環境を作れるのか、を一番に考えている知恵者としては先ずあり得ない待遇に、正直破格だ反則だと何処かで強く感じながらも、その特別を問い質す気力ですら、今の彼女には無かった。

 自分がラベルをシール台から剥がす音と、己の呼吸の音。本を棚に入れる時の微かなそれに、合わさるように物が静かにぶつかって立てる音、木の引き出しの軋みだけが、青白い空間に時折響いては、直ぐに消えてゆく。

 静かだった。

 その静寂に押されて、先程開きかけた記憶の蓋が音も無く、開いてゆく。


 その時の自分は、ただ知りたかっただけだった。姉が、毎日楽しそうにその部屋へと消えて行く姿を何度も見ていたし、時に姉の友人が入っては出てくる姿は、子供なりに興味のある事だったように思う。だから、その背に自分は。


『ティーちゃん。ソフィーも入れて?』


 丸い窓を真正面に捕らえてぼんやりと窓の外、星明りで青藍に染まる夜空の瞬きを見つめる、その視界の上掛けの様に記憶は鮮烈に頭のどこかで。


『だ、駄目ッッ!! ソフィーったら見たもの全部覚えちゃうでしょ!?!!


 き、気持ち悪いもん!! 』


 振り向いた姉の顔は、普段己に見せている優しいそれではなかった。


『そふぃー…は、きもち・・・っ…悪、い…?』


 視界が歪む残像が、思い出すたび付きまとう。己はあの時も泣いていたのだ。おうむ返しに問う幼い自分が、そして彼女はいまだに許せない。

 思えば、ダリル家の広い屋敷の中、抱え働く使用人が己に向ける視線は、何時もどこか冷たく余所余所しかった。幼く残酷な自分は、彼らが己から視線を外す度に何が隠されているのか、と興味をそそられたものだが、その好奇心で得た情報は、己が気持ち悪がられているというものだけ。その事を知った時の自分の目は、やはり涙で視界を霞ませていた。


 理不尽だ、酷い等と、周囲に対して、強い反感の意を持って。


 けれど、何も理不尽ではなかったし、仕方の無い事だと、後に彼女は自分を恥じている。姉の一見で泣きつかれた母親は、この時さぞや迷惑で、困惑しただろうと思うと情けなかった。その後謝りに来た姉や、己の気持ち悪さを思わず口に出してしまった時の使用人の、その気まずそうな顔も、彼女は好きではなかった。


 何より、そんな顔をさせてしまう自分が、かもしれない。


 何も理不尽では無い。姉や、使用人達が己を気持ち悪がる理由は納得のいくものだった。実際、気持ち悪がる使用人だって悪気があってやっている者は少なく、確かに優しい時も同時に記憶にある。上辺だけでなく、その優しさが本心に変わる時も又、確かに。

 仕方の無い事と、結局彼女はそう結論付けていた。

 誰だって隠したい秘密はある。誰だってプライベートを写真に撮られたら嫌な物だろう。堂々と幾度も考察した結句は仕方が無い、という自分の頭に対する諦めだった。


 私は何でも覚えてしまうから。

 私は何でも忘れる事がないのだから。

 絶対の記憶媒体に写し撮られる恐怖もまた、解らないではない。


 ならば忘れる事があるよう、血が出るまで壁に頭をぶつけてみたが、やはり己の頭は何も忘れてくれなかった。ならば何も見ぬよう目隠しをしたまま生活し始めたら途端、母親や姉、兄に怒られ、終いには泣かれて困った。

 けれど、己の行為はどんどんと激しくなってゆくばかり。

 とうとう一度きり、己の目を潰そうとしたら、母親に頬を叩かれた事がある。

 常に笑顔を湛えている母にしては珍しく、顔を赤くして眉を吊り上げた泣き顔だった。


『そんな事しなくていい…! そんな事しなくていいのッ!』


 低く怒鳴っているのに、駄々を捏ねる様な泣き声で抱き締められた腕の中は、今でも思い出すたび熱く、苦しく、なのに不思議と心地よくて、涙が止まらなかった。それで、今まで己のやってきた事が自虐であると知り、馬鹿な事だとそれきり、ぴたりと止めたけれど。

 けれど内に残った諦めだけは消えなかった。

 もう決して、行動に移しはしないものの、自分は、目や耳を潰してしまわない限り人に無害ではいられないのだと、やはり心の何処かでは思っている。

 特に、私室というものは彼女の中では絶対の禁忌。


 なのに。

 だのに。


 ああもう…何て反則…。


 ずるい、ずるい、ずるい…。


 私室に入れる、入れてくれると言う事。それが彼女にとってどれだけ大きな意味を持つか、知恵者は知らない。知っている訳がない。


 だというのに。


 自分は今、どんな顔をしているだろう?

 泣いた後の浮腫んだ心地で、ソフィレーナは、すん、と一つ鼻をすすった。目元が僅かに痛みを訴え、触ると微妙に指の腹が沁みる。その指先を頬に沿って降ろせば赤赤とした熱と、指の冷たさを鮮明に。

 降ろして。乾いた唇には洩れた息に湿った熱さ、涙の気配が未だ残っている。

 やはり、泣いていたのだ。

 どこか人事の様に認識し、鼻の奥に痛みが無いことに意識を向け。痛みは無いが僅かに詰まって息がし辛い、ともう一度軽くすすって、それでも治らない事に諦め、代わりとばかり口から一つ、妙に苦しい息を吐き出した。


 私室は、私室はだめ…。


 指は己の頚動脈に下ろされる。指の腹の下、薄い皮膚の中、脈打つ血管の速さを感じれば、胸の早鐘とこめかみの痛さが蘇って強烈。

 緊張している。

 それはそうだ、と得心はいったが、どくり、どくり、と心臓が血液と酸素を送り出す度、彼女の内では緩く甘い衝撃が襲い来ていた。

 そのどこか甘い疼きを認知する度に、今度は、膝を抱え込んで丸まってしまいたい衝動を感じ、どうして良いか判らずに、逃げる為思考を巡らす。


 信頼されている、と言う事。彼にとってはそれだけ。


 そう、思うのに。

 それでも心の内から甘く痺れて、胸が詰まって、仕方が無かった。


 やや乱暴に腰掛けた足をぶらぶらとさせる。目の前の光に照らされて、薄い己の影が乱暴に動いた。足先は僅かに痺れて感覚が遠い。少し冷えた、とまだ脚を揺すりながら彼女はそんな事を思う。


 この知恵者の信頼を勝ち得た、と。つまりはそういう事だ。


 そう無理にでも納得して、勢い良く、本を棚へと押し込んだついでに。

「…終わりましたよ? ケルッツア・ド・ディス・ファーン」

 優しい静寂に、終止符を打った。


「所で…。ここって歴代の知恵者の私室でもあるんですか?」

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