第4話~科学者は哲学の夢を見るか~オペラと星屑によせて

<12>



 『女王の庭』オペラ座はしばしの休憩に入っていた。

 今までステージ以外は全ての照明の落とされていた劇場部は、明るい暖色の灯りに煌々と照らされている。

 ステージ部分のどんちょうは開く気配無く、緋色の布の張られた造りの良い客席には人がごった返し。飲み物を片手に歩き回る紳士、おめかしをした淑女達は口許を隠して談笑に花を咲かせ、皆一様に和気あいあいとした、妙に落ち着く活気がそこにはあった。

 貴賓席の全てにも、今緋色のカーテンが降ろされており、すっかり公の場に姿を現さなくなったマダム・ダリル、彼女と、次期ダリル家当主、ソフィレーナの二番手の姉、サラフィーネの為に用意された一角も例外に洩れず、今は分厚いカーテンばかりが客席に顔を見せ。

 その様を残念そうに見上げる者も多かったが、前半喜劇版『ダリル姫』を見終えた観客は、各々が好きな時間を過ごし、後半メインイベント、悲劇版『ダリル姫』を心待ちにしている。


 そんな雑と込み合うオペラ座三階お手洗い近く、劇場部と同じく落ち着いた色彩でまとめられた通路の壁にへばり付いて、現在レティシアは固まっていた。

 眼前には、豪奢な造りの、しかし明らかにカーテンと丸解りのレールの付いた布を仲良く一枚で被ったドレスの女が三人、逃がすまいと突破口を塞いで立っており、彼女の紅をひいた口許を片方歪ませるには十分な効力を持っている。

 神の助けか悪魔のいたずらか、現在その通路には不思議なほど人通り無く、彼女の痴態を目撃出来たものはこの、三つの頭の持ち主達だけではある。とはいえ。


 早く、この場から逃げたい…。


 絶対に関わり会いたくない、というレティシアの人として至極真っ当切実な願いもなんのその。


「あの…」


 無情にも、三人の女は三重唱のように声を発した。


「国立図書館のお人、ですか?」

 メゾソプラノ、ピアニシモの声で右端の女が一歩彼女に近寄る。

「そちらにお勤めの、ダリルの末姫君様に、お届け物を頼まれては頂けますまいか」

 続いて左端の女は、女としては幾許か低い、落ち着いたアルトで歩を踏み出した。

「私達はダリル家縁の者です。秘密裏に、と、言い付かっております故、私達が届ける事は出来ません」

 真ん中、何処かで聞いた事のあるかもしれない済んだ声音はソプラノの響き。

 あんたたちだれ、とレティシアが口を挟む間も無く。

「だからお願い、出来ませんか?」

 メゾソプラノとソプラノがはもり、

「いかがだろうか」

 アルトが続いて、ここでやっと沈黙。


「い、いい、です、けど…」


 恐る恐る了承すると、

「まあ! 良かった! …? あら…やだ…」

 メゾソプラノの女が陣形を崩して飛び上がり、その勢いに、マ! 、と叫んで真ん中の女が驚いてカーテンのしわからも分かる程はっきりと口許を押さえ、左手の女が彼女達を小声で叱咤。

「…失礼つかまつりました。では、こちらのお届け物を…」

 叱咤した女は次いで、カーテンの隙間から白いレースの手袋をした手を覗かせ、レティシアに小さな金色の小箱を差し出している。

「は、はぁ…」

 やはり恐る恐る彼女が受け取ると、三人の女は揃ったように一斉に引き下がり、違う事無く腰を折って。

「ありがとうございます」

 アルトとソプラノは見事に重なり。


「本当に。…感謝、致します…。国立図書館のお人…」


 ワンテンポ遅れてメゾソプラノは、一際丁寧にもう一度、お辞儀をした。



「…な、んだったの…今のトリオは…」

 いつの間にか囲まれて、又いつの間にか消え去っていた怪しい女三人組に己の目を疑いながら、レティシアは手の中の金色の小箱に目を移す。金色、金細工の小さな箱は、これまた飴細工の様な繊細なリボンでしっかりと結ばれている。

「…………。」

 元々、人の荷物を盗み見る悪趣味さはレティシアには無かったが、不信感一杯の三人に渡されたせいもあってか、申し訳程度、僅かに揺すると固形物の音。

「・・・・・・・・・・・・」

 恐らくダリル家縁、と言うのは嘘では無いだろうけど。

 そのリボンの結び目に蝋で押された友人の家の紋章を認めて、レティシアはかかとを打ち鳴らした。紋章に刻印されるダリル家の象徴花、オペラ『ダリル姫』での冠としても使われるロームエッダの白いそれは、公の式典での厳粛さを薄れさせている。

 恐らく使用人、まさか、いかに変わり者でも主人連中が直接届けに出る訳はないし…。とレティシアは女三人組の正体を位置づけて。


「・・・・・・・・・ソフィー?」


 脱力した。





<13>



 解剖話から時を経た今、幾つか流れる星を数え、後ろの知恵者と天文に関する雑談等をして、ソフィレーナは流星群を待っていた。

 散々思考をかき乱す高潮感も波を過ぎたか、未だ普段よりは早い脈拍を感知しながらも、彼女は比較的落ち着つきを取り戻している。

 実際、天文学の第一人者から聴く講義は今までちらと興味の無かった世界へ、いとも簡単に彼女を誘った。

 今は敷いた毛布の上に頭を突合せ、寝転がって星を眺めて。

「こういう観測ではね、四人居ると便利なんだ…ほら、今は二人でそれぞれ一方向を見ているだろう? これを四人で、頭をつき合わせて十字状に寝ながらやる。

 流星は何処から流れ出すか解らないからね、分担を決めて四方を観察しあうんだ…」

   響く知恵者の声はやはり楽しそう。

 穏やかな夜風と、星の瞬きに、だから、だろうか。彼女はオペラ座の友人の事を思い、家族を思い、母親の言葉を思い出した。


『…レーナちゃん、凄く嬉しそうに帰って来た。こんなに綺麗な髪よりも、もっと素敵な事があったのね?

 …安心したわ…。始めは少し、心配だったのだけど…。


 ドクター・ワイズさん? …ママね、シスターとして、教会に勤めていた事があったでしょう? …この学者さんに、ロザリオをかけてあげた事があるの。神様の加護が欲しいって。うんとうんと背が高くて、膝をついて屈んでもらったのよ? ……良い人だと思った。


 ……だから、きっとレーナちゃんも………大丈夫、ね…。』


 彼女が長い栗色の髪をばっさりと切り落としたのは寒い冬の晩。家族も使用人も皆一様に騒然とする中、母は、末の娘を自分の膝に招き、無残に切り落とされた髪を整えて、そう笑っていた。暖炉の赤い光を横手に浴びて、やんわりと微笑むマリアーナの姿は、娘であるソフィレーナから見ても神聖で美しい。


 優しい紫水晶に、淡い栗色のけぶる瞳。


 ソフィレーナが母から貰ったものは、その背の小ささと髪質、そしてこの色彩の瞳だった。同じ瞳なのに、ずっと綺麗だ、と。時折母の瞳に見とれながら彼女は思う。

 母親に魅了された者は数多い。王家の女性郡の中でも群を抜いての民衆、貴族間での人気に、大作家メラニウスがこの国に古くから伝わる、戦火にほんろうされた美しき姫君の伝承を、悲劇オペラとして書き起こす際本人了承の元彼女を主人公に描いた事は誰もが知っている話。

 過去に、母親と、この学者は会っている。思った途端、重くも軽くも無く声は出た。

「……そういえば、今年はママも来るのに…本当に行かなくて良かったんですか? オペラッタ」


 ママに、会いたかったんじゃありませんか………?


 蟠る本心に、ソフィレーナは痛みを感じて、比べた自分を恥じた。一体何と答えて欲しかったのか。

 ケルッツアの返答は。

「へえ? マダム・ダリルも来るのか…じゃあ観客数は凄い事になっているだろうね?」

 感心したようなのんきな声。一瞬唖然とした彼女は、そのまま赤くなった目許を隠すようにそっと髪を乱してオペラの話題へと話を摩り替える。

 声が弾んで、現金だとは思いながらも。

「ええ、行かない人いないんじゃないかってくらい…しかも、今年は『ダリル姫』の喜劇と、悲劇もやるらしいから………。ティー、ティアレーヌはママに本当にそっくりだし、妹の私がいうのも変ですけど、演技も上手いから見ごたえあったのに…」

 演出家も結構有名な人じゃなかったかしら、と付け加えた頃には、心は母親の事から離れていた。

「…ふぅん? 二十年振りに悲劇側が解禁されるというのは知っていたけど…。

 …ソフィーレンス君こそ良かったのかね? お姉さんが主役だったろう? 演技も上手いなら尚更…」

 彼の心配げな声に、彼女は夜空に向けて微笑む。

「良いんですよ。家族には欠席伝えてありますし。

 ……私はあの話、悲劇も、喜劇も好きじゃあなくて…。

 ああいうのよりは、自宅に篭ってサンプルの御機嫌とりしてた方が楽しいというか…」

 清清しく明るいソフィレーナの声に、しかし返された声はしょぼくれていた。

「じゃあ、こういう観測会も、余り…」

 この言葉に、助手は目くするしかない。何故そうなるのか、と多少慌てながらも否定を返す。

「? …いいえ? …こんなに暗い所で星見るなんて無かったですもん。

 …流れるのは知ってたんです。

 …でも、王都じゃあ数は限られるし…。正直、こんな綺麗だとは思ってませんでしたから…」


 凄く有意義ですよ?


 とくり、と。知れず、ケルッツアは自身の脈拍数値が乱れた事に驚いた。手首の脈を測り、やはり普段より早い事を確認しながら、湧き上がる愉悦に気付く事無く緩んだ口許から出た声は。

「…そうなの? オペラッタぐらいは、王主催なんだから…街の灯りを全部消すとか、やらないものなのかね?」

 そこはかとなく嬉しそうな調子に残念そうな声が返る。

「どうしても主要な所は消せませんもの。…こんなに暗くはなりません」

 ここで知恵者の声は何処か浮かれた響きから一転、疑問へと変わった。

「…? じゃあ、あの、劇中での流星群を使った、…?」

 その問いに、ソフィレーナは瞑った目を開けると、学校の図書館で読んだ本の記憶を呼び起こす。  切り取られた連写のパーツ、脳裏で映像が動き出し、取り出されるページ。

「…おお、流れゆく幾千の星よ。美しく煌く輝きの命よ。空に消えうる幸福の只中の物よ。

 我はお前たちの喜びにかけて願おう。

 美しきこのきらめきを。天より遣わされた星よりなお美しき人を。

 この天使をどうかわが腕の檻へと閉じ込めたまえ。

 …ですか? …喜劇側は、これを短くしてありましたけど………」

 過去の頁を一字一句違う事無く平坦に読み上げて、ソフィレーナは僅か頭を動かすと、毛布に埋もれたケルッツアの灰色の髪を見遣った。

 悲劇ではお涙頂戴、終盤死地へと赴く男が、喜劇では笑い所、ダリル姫に思いを寄せるどうしようもない貴族が、情緒たっぷりに歌い上げる有名なオペラッタの棒読みに、ケルッツアは特に思う事無く。

「うん、そんな感じの。…悲劇ではそんなに長いのか…。

 その台詞の為に、毎年毎年態々この日を選んでいるのに…ほとんど見えないのは…」

 本末転倒、そこまで言わせる事無く、ソフィレーナは澄まして答えた。

「…メインは『ダリル姫』ですからその方が良いんですよ。どっち側も星より貴女の方が美しいって事ですもの。

 …でも、喜劇にも本物使ってた所為で上演がいっつも深夜なのって、ちょっと迷惑ですよね…今年は悲劇がメインだから、そっちに使うらしいけど……感謝祭じゃないんだし」

 何とも演出家泣かせの非難をそれとなく聴き、僅かな希望を込めて知恵者は。


「……国立図書館のダリル」

「しつこいですよ? まださっきの解剖話根にもってるんですか?」


 遊び心の言い回しは、しかし彼女のお気に召さないらしい。非難ではないと否定しつつ、言葉が続けられる。

「あ、否…ソフィーレンス君は僕と同じで、そういう事に余り興味はないんだ? 」

 やけに弾む声音で問う彼に、ソフィレーナは驚いた。

「………ケルッツア・ド・ディス・ファーンもそうだったんですか? 私はてっきり…」

 外出許可が下りないものと…。のみ込まれた言葉の代わり、彼の声が続く。

「招待状はね、毎年来るから行けないって訳じゃあないのだけれど…どうも、好かなくて…」

 音、歌…駄目でね。どうも…。苦笑に同意を返しながらも、ソフィレーナは酷く寂しい何かを感じた。

「…毎年、ここで?」

 滑りでた言葉には知れず気づかいの響き。発した途端彼女は後悔したが、その声音に引き出された彼の言葉には、遠く茫洋とした深い何かがある。

「…この日じゃなくても…何もない時は、一人で星を見ている事が多いな…偶に友人と観測会になる事もあるけど…ここで…こうして、星を眺めて…色々な事を考える…

 色んな………そう、研究の事とか、哲学みたいな事…とか」


「…てつ、がく…?」


 ただ、降り下りる夜露のような静かな響きに聴き入っていた彼女は、突如現れた言葉に緩く高潮してゆく自身を感じて、息をついた。


『ソフィー…? ソフィレーナと言うの? …』


 過去に流れた音程。良くも悪くも彼女を縛る声を思い出して更に鼓動が早まる。忘れるという事が無い頭は、その時の彼の様子も、声も、そして自分の受けた衝撃も全て色あせる事無く覚えている。


『…いい名だ。…哲学と…』


 ソフィレーナのぎくりとした声を特に気にする事なく、ケルッツアは爆弾を。


「うん…とりとめも無いことを考える…。哲学は、好きだ」

「……っ」


 その言葉だけで、彼女は何も言えなくなる。こういう時、ソフィレーナは密かに彼を恨み、あるいは、憎んだ。哲学が好きだという彼は、散々馬鹿にされた、自身の名前の由来を、家族以外で初めて。

 だから。


「…ソフィー、なんて…詭弁、家の、へ理屈屋、じゃ、ないですか…」


 頭の何処かは己のずるさを非難している。けれど、痺れた思考は彼女の理性を支配下に置いて、計算高く、あざとく、言葉が欲しいと喚いていた。哲学、フィロソフィー、ソフィスト、そのどれでもない言葉を使って、錯覚でも構わない、と。そんな己を浅ましく思いながらも、絡まる声はこぼれ。

 ケルッツアは言葉を紡ぐ。約束されたような物。彼からは。


「僕はそうは思わないけど…ソフィーは素敵だよ?」


 思った以上の言葉の破壊力に、己で仕掛けた事ながら思考が止まった。

「す、すて、き・・・?」

 おうむ返しに問う声ですらどもる彼女の気も知らず、知恵者は爆弾をもう一つ。


「すてき。…そうだな、不思議で…


 丁度、君にみたいに」

「こここここコーヒーッッッ!!!!! そうですよ、飲まなきゃ冷めちゃいますね!! ポットの存在忘れてましたッ!!!

 けるっ! ケルッツア!! ド!!! ディス・ファーンも飲みますね?! 飲んでくださいッ!!

 飲め。」


 望み、差し向けたもの以上の言葉に、逃げて彼女は跳ね起きた。傍に置いておいたポットをやおらひっ掴むと急いで振り向き、大声で喚きたてる頬は落ちた落日の様に赤い。

「…ソフィーレンス君? 最後が命令調なんだが」

 情けない顔で上体を半分ひねり起こして、彼は彼女を見ている。

 未だ赤い頬を隠すように髪を乱すと、助手はポットを抱き締めて顔を上げた。

「…こういうのは、初めの一歩が肝心なんです。…四日間の飲まず食わず…あれ、私にも責任あると思いまして…。

 …これからは帰る前にポットに何か用意しときますから、ちゃんと飲んでくださいよ? それから食べ物も、何か置いときますから」

 済まして答えた彼女に返る声は、しかし何かを窺うような問い。

「…これからは?」

 受けて助手は表情を弛め、小さく微笑んだ。

「そう。これからは。助手ですもん。不摂生で倒れられたら立場ないじゃないですか…」

 和やかなソフィレーナを見る目は、場に漂う空気の中、異質なほど真摯。

「…ねえ…? ソフィーレンス君………君は」

 知れず両手を夜露の滴る毛布に突いて、彼女に無自覚迫る格好になった彼は口を開き、けれど。

「はい? …あ! …」

 助手の瞳が己を通り越し空へと向けられた事を知って、反射、彼が時計を確認すれば一時。

 目の前のあぜんとした目に映り消える光の流れ。ソフィレーナの声は掠れて、放心している。

「…凄・・・・・・・・・い・・・・」

 やおら立ち上がって、空を眺め見る彼女は、幾千と、流れ落ち行く光の渦に心を奪われていた。

 今にもその軌道を外れ、こちらに落ちて来そうな錯覚。

 闇に流れ、ふっと消えてゆく幾万という光の稜線に、ソフィレーナはただただ圧巻されて立ち尽くす。まるで、星の全てが今流れ落ちているようだ、と。

 そんな彼女の耳は、水底からのように彼の声を伝えた。

「…・・・・・・・・・・・・・始まったんだね…」

 湾曲して聞き取った音に、答えるそれもそぞろ。

「ええ! …こんな…………奇麗…な…」

 声の遠さを己で笑う余裕すらなく、ただ星屑に魅了される彼女に又、ケルッツアの声は響く。

「…レウィナは……とても奇麗だけど…」

 その言葉を皮切りに、空を流れ過ぎていた幾万もの星の光は消え失せていった。比例して、ソフィレーナも現実を取り戻す。興奮も冷め、残るは微かな寂しさ。

「…………とても短い、でしたっけ…。

 そっか……。もう、終わりなんですね?」

 問うと、知恵者も立ち上がり、空を見遣った。

「うん。ほとんど一瞬でピークが過ぎて、後は流れない…

 でも今年は長かったよ、…三十秒持ったもの・・・」

 そして時計を確認し、手に何か書き込んでいる。

 助手は感謝と親愛をこめてケルッツアに声をかけ、見やった所で、彼のまとう雰囲気に首をかしげた。

「でも、とても素敵でしたよ? …ありがとうございました。

 …? ……ケルッツア・ド・ディス・ファーン?」

 知恵者は助手を見る。

「…何かね?」

 姿にも、声の響きにもどこと無く元気が無い。

「…元気ありませんけど…どうかされました?」

 ソフィレーナが内心首を傾げながら聞いても。

「…いや? …そんな事は無いよ? さぁ、戻ろうか…夜風は流石に堪えただろう?」

 やはり獏とした声で否定される。

 挙句逸らされる視線に、彼女が口を開く前に話題は別の物へと移行していた。

「はあ、まあ…」

 曖昧な返事を返しながら、ソフィレーナは僅か前の記憶を漁る。


『…ねえ…? ソフィーレンス君………君は』


 流星群に見とれる間際、やけに硬い声で問いかけられた言葉はそういえば途中で途切れた気がする。彼女がそこまで思い至った矢先、声が掛かった。

「ソフィーレンス君…君、僕のベッドを使ってくれて構わないから…

 今日はもう、ゆっくり休みたまえ…」

 いつの間にか今まで土足で踏みつけていた二人分の毛布と、彼女のコートを肩に担ぎ上げて、知恵者は既に場を移動し始めている。


 あの、…何か、悪い物でも食べました?


 振り返る彼に近付き、荷物をやや強引に引き取ってから、彼女はこれまたあっけらと申し出を断った。

「い、いいですって。…どうせうちのベッドだって使って無いんだし。

 …雑魚寝しますから、あなたこそゆっくり休んでください?」

 今までに無い知恵者の心遣いに動揺する自身は無視して、ソフィレーナはのん気さを装い、屋上から展望部屋へ下りる階段に足をかける。

 事実、お礼だ等と流星群を見せ、ベッド等と言う物に自分を招く彼に、彼女はただただ動揺を隠せない。


 …一体、どうしちゃったんですか…?


 ベッドってそもそも何? 等と混乱をきたしながら、ただひたすらに階段を下ってゆく彼女は。

 当然、後ろに続く、ケルッツアの表情に気付ける訳は無く。



 階段を下り終え、展望部屋へと出たソフィレーナは、一目散に進行方向より斜め前に歩を進めた。部屋の一角にあるパソコンと机大きな椅子、その横の大男が優に眠れる程でかいソファーのあるスペースの壁よりに毛布一式を下ろして、あっけらと声をあげる。

「…じゃあ、私この辺で雑魚寝しますから、あなたは」

 その言葉に、後ろの知恵者は僅か考え込むような仕草をしだした。

「…ふむ、その事なんだけど…」

 紡がれた声にやはり張りは無い。

 本当に具合が悪いのだろうか? いよいよ心配そうに近寄ってくる助手をみつめて、彼はにっこり。


「残業手当分働かないと割に合わないだろう?

 と、言う訳で、本を三箱ばかり運んでくれるかね?」

「…は?」


 おどけて普段の様子に戻ったケルッツアに、ソフィレーナはきょと、とする。

 休めと言ったり急に元の知恵者の調子に戻ったり。彼女は、彼の行動の一貫性を見つけられない。


 一体、何がしたいんです? あなた?


 よっぽど熱を測ろうかと、知恵者に伸ばしかけた手は、結局箱三箱の塔に掛けられて。

「ソフィーレンス君、こっち、こっち」


 ランプを片手に知恵者の手招く方へ、そして彼女は展望部屋の先、禁書庫へ、その闇の中へと消えていった。

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