第3話~科学者は哲学の夢を見るか~星闇の中で


<10>



 王都を西へと貫く石畳の巨大な街道は、夜の闇に負けじと一際煌びやかに終着点である王都最上級の『女王の庭』オペラ座への道のりを照らし出していた。

 街道沿いを僅か外れた市民道、露天の賑わいには目もくれず、ゆったりとした薄紅色のドレスの裾を豪快にさばきながら、黒い表紙の名簿を片手に先を急ぐレティシアの後を、大柄なタキシードを着込んだテェレルが頭の後ろで腕を組んで歩いてゆく。

 「たーっ! ヒール高! 歩きずら! メトラ広場がこんなに遠く感じるなんて誤算だったわ!! ああもう時間が無い~ッ!!!」

 これだから正装は嫌いよッ!!

 殺気立って前を歩いてゆく己の部下の姿を人事の様に眺めながら、テェレルは空を見上げた。

 やはり、星はまばらにしか見えない。今頃図書館に残った二人は何をしているだろう、と。

 ふと思ったと同時に、夕闇に紛れた船の上での騒動が彼の頭を過ぎ去る。

 はて。

 自分の認識とは随分かけ離れた質問を繰り出した彼女に、だから彼は特に考えもせず。

「でもさ。キミはダリル嬢の味方じゃなかったの?」


 突然後ろから掛かった声に、レティシアは危うく石畳に躓きそうになった。


 文化活性化活動の一環として、文学にたずさわるもの全てに、王主催でのオペラ招待券が渡されるという企みが実施されてから、今年で実に百五十年経が経とうとしている。

 国立図書館でも、普段冷やかし程度で参加を決める者達がほとんどのこの団体恒例行事は、今年は幾つかの条件が重なって参加者の数が只者ではなくなった為、幹事達の苦労は通常の倍と化した。

 その一人、オペラッタ大好き! という理由から、AからGまでの幹事、その一人に立候補したレティシアは、船から下りた後、家へ帰って早めに支度を済ませ、副幹事であるテェレルと共に自身の纏めるBパートの参加者達の待つ合流場所へと向かっている。

 突如、後ろから掛けられた声に思わず高いヒールを石畳の合間に取られかけたレティシアがテェレルを振り返ったのは、合流場所にあと僅か、という、人通りもまばらな街の一角での事だった。

「い、きなり何の話…テェレル館長…」

 綺麗に纏め上げた髪をいささか乱して、随分と不安定な姿勢で振り向いたレティシアを見、また見切り発車の事を言ったのだと認識したテェレルは何時ものように軽く謝って、彼女に手を伸ばした。

 口は休めず。

「さっきの船の話。…でさ、キミはダリル嬢のミカタ、って訳ではないの?」

 まばらと言えど人通りのある市民道のど真ん中で、突如随分と前の記憶をほじくり返され、レティシアは綺麗に整えた顔をあほの様に緩ませながら差しのべられた手に手を置いた。姿勢を整え、ヒールの無事を確認し、

 このヒールじゃなかったらその腹へこませちゃるわこのブダ!

 等と不穏な事をぼうぜんと目の前にある彼のお腹に思って、思考を正常に戻す。

「…別に、別にソフィーが良いなら良いんです…

 …でも………」

 そっと街道の端の方へと避け、露天にも掛からない場所でレティシアがテェレルを見返すと、気付いた彼は人を避けて近寄ってくる。

 取り出した鏡で軽く乱れた髪形を直すレティシアへ、懐から銀時計を取り出して、時間を確認しながら彼は続けた。

「ふむ…なんだまだ時間あるじゃない…。

 じゃあ、ドクター・ワイズが気に入らないんだ?」

 途端、判りやすい反応が返る。

「プロフェッサーはいいいいぃいひと! ですから、そんな事アリマッセンッ!!

 って、あと何分!?」

 櫛を仕舞い、帽子を被りなおして、次いで化粧バックを開いて見返してくる彼女は、口紅を手に上司を睨みつけた。

 その勢いに苦笑を漏らし、テェレルはそれでも会話を止めない。

「二十分。

 うわぁ…ケルズも嫌われたなぁ…。でもさ、人柄は認めてるっぽいね」

 ウィークラッチ島の学友に同情を送りつつ、ゆっくり行こうよ、と鷹揚に笑う目の前の上司の、その太ってなければかなり良い顔をしょうがなさそうに見、レティシアは軽くかかとを踏み鳴らす。

「…正味、十五分として…間に合う、か。いいですわ…少し焦ってました。ゆっくり。

 で、さっきの話ですが、まあ…そりゃ…。正真正銘、プロフェッサーはいい人ですよ。

 …でもね、でも」

 鏡を仕舞い、一呼吸置いてから話に乗ってきた彼女の押さえつけられたように歪んだ顔、歯切れの悪さと震えだしている両肩に、とぼけた顔で、テェレルは油を注いた。

「まあ、天然だけど計算高いよね、ケルズって」

 焚き火の火は、一気に。

「そう! テェレル館長! そうなのッ!!! プロフェッサーはどっか打算的なのよッ!

 だからッ! …わたしだって何も男女間の間違いがあるとは思ってませんけど…つかあってたまるかって感じだけどッッ!!

  …男なんて狼! と、嘆くメローニャの代表的な古典もあるじゃないッッッ!!!!!」

 王都の一角、街道を離れた露天の立ち並ぶメトラ広場への市民道の一角で声を荒げた女性に、一瞬賑やかさを切って視線が注がれる。思いの他王都の夜空をとどろかせてしまった声量に本人は慌てて口許を覆い背を向けて、代わりといわんばかりに、太った男がにっこりとその視線に笑い返していた。

 『プロフェッサー』という、実はケルッツアが一番嫌っている呼称でわざと呼ぶ事が常のレティシアを見、テェレルは油を注ぐ言動を軽く反省した後、フォローのように声をかけ。

「うーん…キミはあの子の友達というよりは、あの子の国立図書館版おかーさんみたいだもんねぇ…。かーわいーい愛娘が取られちゃいそうでヤなんだねぇ…シンパイなんだねぇ…」

 テェレル自身には全く悪気の無かったそれは、しかし更に彼女を縮こまらせた。

「…う…………。

 あ、あの子が悪いの! で、でででも本人に内緒にしてくださいよ!?」

 核心を突かれた時の人の反応は様々だが、彼女は大変分かり易く肩をびくつかせ、嫌な汗でも出たか、ハンカチを取り出して顔を拭く仕草をしている。ついで、急いでバックを漁ると時計を取り出し、まだそんなたってない…と悲壮感を漂わせた。

 頬を掻きつつ、そんな部下を見、テェレルは更に、とぼけたように続ける。

「ふぅーん…まあ、いいけどさ…。

 じゃあ、あれ、ロウツィーダ・ド・シルエル? …あの子とケルズと比べたら、どっち許す?」

 振り向いたレティシアは黙り込み、引き合いに出された後輩が聴いたら途端場の情けなさと、うざさを増す事を真顔で言った。

「シルエルが可哀想な結果です。」

 言い切りの形で余韻すら残さない彼女の言い方に、でしょ? とテェレルは笑い

「サリウル・ド・ガロウザとだったら?」

 と肉団子のような指を一本彼女の目の前に立てる。

 思いもよらない人物が出され、彼女の頭の中ではサリウルが笑って首を傾げている。

「は!? …シルエルはバレバレだけど、奴もッ!?」

 彼女の頭の中の彼は、首を振って、滅相も無い、と言っていた。現実目の前にいる上司も又、大柄に首を振り、断定で否定する。

「やー。ぜーっんぜんまーったく! 違うけど。

 …じゃ、有態に言おう。

 ケルズとその他の男ども。…許すのはどっち?」

 ここに来てやっと、この質問が三段式だった事を悟った彼女は、苦々しく顔を渋め、小さく舌打ちをして、それを上司にたしなめられる。オヨメに行けないよ? と顔もしわしわに心配する上司に、心の中で罵詈雑言を吐きつつ、無言だった部下は重々しく口を開いた。

「…・・・・・・・・・・・・。

 排泄物味のカレーとカレー味の排泄物、どっち選ぶかという選択肢より答えたくないです。」

 突拍子も無い答え方に、これさえなければ、器量はあるんだけどなぁ、と、テェレルは心中で苦笑し、それでも昔に比べれば言葉を選ぶようになった、と、近所の好で彼女の成長に拍手を送って、慣れたように質問を。

「まあま、それでも選ぶのは?」

 二重に聞かれて、出だしばかりは威勢良く、語尾は消え入りそうな曖昧さでソフィレーナの友人は答えた。

「ソフィーがいいのは………プロフェッサー・ワイズ…だもの…」

 何時もにも増して破顔した上司を苦々しく思いながら、レティシアはやや乱暴にヒールを打ち鳴らす。  脇に構えた時計入りの拳を上司の腹に叩きこんでやりたい、そんな衝動を、時計を軋むほど握りこむ事で堪え、時間が確実に立っている事を確認して、ゆっくりと歩き出した。

 その歩調に合わせる調子で、後ろからも革靴の音と、声がかかる。

「だろうねぇ…。実際、合ってると思うんだ、ボク。


 …同じ感性ってやつで…」


 話半分、集まるはずのメンバーに目を通していた彼女は、付け加えられた言葉に、ワンテンポ遅れて反応する。

「…………同じ感性…?」

 ケープを掛けた肩口から、綺麗な横顔がうろんに覗いた。歩を止めずに上司を振り向いた部下の前ではタイミング悪く男が突っ立っている。

「っと。あぶない。

 …そうそう。ケルズは研究さえしてれば後はどうでもいい人種なのね。基本。妻とか恋人っていう意識が無い。ダリル嬢は一生助手。良くてパートナー…? …でもさ、彼女も」

 寸での所で彼女を避けさせて、何事も無かったようにたたみかける上司に腕を引っ張られつつ、ぼかされた語尾を引き継いで、部下はげっそりと笑った。

「…ああ。そういうこと…。

 エエ…。

 ……あの子も似たような認識で、一生過ごす、わね…多分。

 あの子のウチ、貴族にしては、つか、…あの子末だから結婚押し付けられない、つか・・・…ご両親からして稀に見る半分政略、恋愛結婚の人タチだしって訳でも無いけど…将来は…」

 半分以上独り言と化したレティシアの台詞に、腕を放してからテェレルは質問する

「やっぱ学者?」

 答えて。

「こっそりカビの研究してますし…たぶん。

 どうしよう、ソフィーが図書館辞めて、他機関所属になっても助手としてプロフェッサーに会いに来たら…。

 って通う妻ならぬ通う助手?! ……あの子…」

 暴走する部下の半分独り言をテェレルが引き継ぐ。

「そーなるねぇ。

 ………ダリル嬢は国立図書館顔パスだし、どーせぼくらも受け入れちゃうし」

 一番有力だろうねぇ、と何処か嬉しそうな上司を見、沈痛に顔を歪ませて、レティシアは彼の心中を代弁する形で確認を取った。

「プロフェッサーは喜ぶし?」

 メトラ広場は目と鼻の先、そこから大勢で『女王の庭』オペラ座へと向かっても、時間は優にある。

「うん。なんだ、万々歳じゃない」

 レティシアは今一度、とテェレルを睨みつけ、メトラ広場へと視線を転じた。前方では彼女の視線に気付いたロウツィーダが、友人と共に手を振り、それに触発されたように見覚えのある同僚、無くても胸に国立図書館のバッジをつけた人々が彼女とテェレルを振り返っている。

「…複雑…。

 今頃どんな会話してんのかしら………奴と、助手は」

 口の中で言葉を転がして、黒い表紙の名簿を掲げながら集合の声を掛けだすBパートの幹事に、副幹事が最後に一言。

「やー。

 星より君の方が綺麗だよ。ソフィレーナさん

 …とかじゃあ、無いよ、絶対。」




<11>




 考えなかったわけじゃなかった。

 でも…可能性としては、限りなくゼロに近かった…。


 ウィークラッチ島から眺め遣る夜空にも、一片と月の光は無い。

 新月。

 彼女の頭上を覆うのは満天という言葉が馬鹿らしくなる位の、ただ白い、星の絨毯だった。

「………結界結びの赤光…全く無いんですね…」

 国立図書館の最上階の先、塔の大きさに相応しく広い屋上の出入り口から、僅か歩いた場所にたたずんだソフィレーナは、中天を見上げてしばらくの後、静かに呟いた。

 オーパーツ技術をエネルギーとしたものには、必ず出るとされる特色『ルール』があり、当然ここの結界にも、その一つ、頂点に結び目の様な形の赤い光が出る筈だったが、今彼女の目の中にその光は見えない。

 助手の後ろ、己の分の毛布を担いだケルッツアは、綺麗だろう? と、同じく夜空を見上げて満足げに笑っている。

「赤光は、それ自体は如何にも出来ないのだけどデルト光彩で上消し出来るのだよ。

 …………でも、デルトの話は又今度だな。本題に入ろうか…ソフィーレンス君?」

 知恵者は頬に笑みの形を寄せて助手を呼んだが、助手は未だ天を仰いでいた。

 青白い星明りを浴びて、ぼうぜんと天を眺めているソフィレーナに、いたずら心、一歩ずつ距離を縮めてくる彼にも、彼女はしばらく気が付かない。

「………あ、はい? 」

 ようやっと、普通の状態では考えられぬ秒数遅れ、ソフィレーナは目の前のケルッツアを見、けれども直ぐにその先の星空へと、また視野を広めてゆく。右を眺め、流れる動作で中天を見、左へと視線を移動させて。今度は孤を描くように前へと顔を向けて、もう一度、ゆっくりと頭上を眺め。

 普段滅多に見ることの無い、ぽっかりと開けられた口と、見開かれた眦の瞬く回数の少なさに、ケルッツアは至極楽しげに、ソフィーレンス君、と顔をほころばせた。


「こんな物に圧倒されていてはいけないよ…?

 …今から君は、流星群を見るんだから」


 虚ろにしか聴き取れなかった声は、突如現実味を帯びて彼女の意識を引き戻す。

「…え?」

 星を眺めていた驚きとは別の驚きで、ソフィレーナはケルッツアを見返した。勝手に心拍数が上がる。信じられない事を口走る声はやけに判然と、彼女の脳髄を意図も簡単に麻痺させた。

「こういう観測をした事が無い、と言っていただろう? 残業も頑張ってくれたし。


 …………ちょっとした、僕からのお礼」


 さあ、もっとよく見えるところへ行こう。

 屋上より更に高い場に続く簡素な階段に片足を乗せた格好で、いつの間にか助手の分の荷物も担ぎ上げて彼女を見るケルッツアに、ソフィレーナは上手く返事が出来ず、ただ、言葉ばかりが頭に。


 ちょっと…反則じゃあ、ありません…?


 お願いだから、そんな楽しそうにしないでくれ。と、そんな彼女の胸中など何処拭く風。

 結局、現実なのか夢なのか判らない曖昧な足裏の感覚で、ケルッツアの後へと続いて更に高い場所、屋上の一角に上ったソフィレーナは、星明りに慣れた視界の中、馴れた手付きで楽しげに観測の準備を整えてゆく知恵者の後ろ姿に如何していいのか分からなかった。

 頭を緩く振ってわざと髪を乱し、その栗色の柔らかさで目元を隠しても、今回はそう簡単には熱も、自身で感じ取る煩い脈の音も立ち消えてはくれない。かと言って動こうにも、靴の裏と踏みしめるコンクリートも、靴の底と足の裏も接着剤でくっ付けた様に全く動いてはくれなかった。ならば会話を。頭では分かっているのだから声が出ようもの。実質は口を開くその端から何を言いたいのか考えられなくなる始末。

 そんな彼女を背に、知恵者はコンクリートの上に二人分の毛布を敷き終えて、外見に似合いの子供然とした顔で彼女を振り返る。

「さあ出来た。…いいよ。おいで? ソフィーレンス君」

 その言葉と、軽く手招きをする手。彼女の、今まで動きもしなかった体が自然とそちらに動き、口も勝手に言葉をつむぎ出した。

「ええ…じゃあ、まあ、遠慮なく」

 手際良いですね、と付け加えれば、慣れてるからね、と明るい返事が返る。知恵者にならって毛布の上に土足で上がりこむと、見届けて彼は背を向けた。

「じゃあ、僕はこちらを観測するから、ソフィーレンス君には反対側をお願いしよう。

 まだ流星群には時間が有るけど、小さいのも結構流れるから、多分飽きはしないと思うよ?」

 そう言ってコートの端を足に掛けて、頭上を眺め出している。

 未だ引かぬ熱を、もう一度、今度はより強めに頭を振って払いのけ、彼の助手は知恵者とは反対側の空を眺めやった。相変わらず今にも落ちて来そうな幾万もの星の光を瞳に映し、天体観測に意識を転換する。

 途中から明らかに人の体温が背中に寄りかかってきたが、僅か動いた後落ち着いたその黒いコートの背を意識の下で感じつつも彼女は無視した。膝を抱え込み、首から、肩口、靴の爪先まで持参した厚手のコートを掛けて暖を取る。

 背中が温かい。これは確かに良い暖の取り方だ……。

 背から、脈の速さが伝わっているだろうなどとは、敢えて思考から外して。

 けれど、如何にも落ち着かず勝手に騒ぎ立てる血流と体温の上昇に、止むに止まれず赤い顔で俯くと、口の中でそっと、言葉を掻き消す。


 だから…

「……………………しらないったら」


 それからは星を見ている振りで、現実様々な事に思考を廻らせ、自身の落ち着きのなさに呆れと理性をぶち込み続けた彼女はふと。

「ねえ、ケルッツア・ド・ディス・ファーン? …遺体の譲渡契約結んでる、って、聞いたんですけど」

 幾つか星が流れ落ちてから少し、そう囁いた。

 夜の気配はそっと防寒用のコートに忍び込み、静かに熱を奪ってゆく。幾度も暖気を逃がさないようコートを引き上げ、星の闇の中、唐突に生れ落ちた声に特に驚くでなく、知恵者は答えた。

「うん。この国の研究者達とね。…結んで…かれこれ二十年と少し経つのかなぁ…」

 彼女の背中合わせの後ろから、僅かに首を傾げる動作と、声の振動が伝わってくる。

「…王の前で、でしたっけ?」

 また一つ拍の数値が上がる気配を矢張り無視して、水を向けるように彼女が続ければ、懐かしさに押されたか知恵者は半ば独り言のように。

「そう。エルグ…エメラルグラーレン王の前で。異世界に行く前に、サインした。

 …若返りなんて無茶をする代わり、生きて戻ったらこの国に一生を捧げることと、サンプルになる事と…。

 実際自分でいうのも可笑しいけれど、僕のこの呪いがかりの体はサンプルとしては申し分ない。

 …解剖組は、この体のどの部分をどのチームが解剖するかで密かに揉めているし…。

 僕も大概抜けていたけれど…まあ、この中に」

 振り向くソフィレーナの視界の中、知恵者が自分の側頭部を差している。

「どこまで知識が詰め込めるか、開いたら、僕のこれはどうなっているかに興味のある連中ばかりだから、そこは救いだったろうな…。寿命を待ってくれるだけ、良心があると言うものだよ。体だけで能力伴わないなら、即解剖台送りだって事を失念していた。

 …最も、思考できないなら潔く死んだ方がマシだけれどね…」

 星空の下の会話に何とも似合わない事柄を淡々と、本心を織り交ぜて常識のように話し終えたケルッツアに返された声も驚きではなく、確認のそれがうかがえる。

「じゃあ、脳も、体もサンプルなら…遺体としてのケルッツア・ド・ディス・ファーンは残らない?」

 立て続け、ソフィレーナが聴くと、

「研究所には残っていると思うよ? …解剖されて、ホルマリン漬けか…若しくは冷凍保存の形で」

 至極真っ当な答えが返ってきた。

 暫しの沈黙。切り出された問いかけは、知恵者の顔を僅か伺い見る形で成される。

「……………あの……私も…申請すれば、髪とか貰えます…?」

 確認する彼女は、何故今こんな事を思うのか分からない。

 そんな事など知る由無く、当のケルッツアの顔には闇の中でも尚分かる喜色が見て取れた。

「え? …ソフィーレンス君もこのサンプルに興味があるの? ……今上げようか? 髪」

 格段に明るさを増した声質と、次いで右ポケット辺りを探る仕草を感じ取って、条件反射、彼女は頭を前から後ろへと思いっきり。


「たわけッ」

「いでっ」


 鈍い音と、合わさっていた背が丸まる気配。

 頭を抱え込み震えるケルッツアに、掛かる言葉は怒気と呆れを含んでいた。

「何おもむろにナイフ取り出そうとしてるんだ! 物騒なッ! …あのね、生きてる間に貰ってどーするんですかっ! んなもんに興味は無いんですっ!

 ……そうじゃ、なくて」

 助手の剣幕に気圧されたか、何とも情け無い声でケルッツアは問う。

「ち、違うのかね…? 頭突きは酷いよソフィーレンス君…い、痛」

 自分の声質が怒気と呆れ以外のものを含み始めた事にも気付かず、要領の悪い声は途切れ途切れ。

「そうじゃなくて私は、ただ!

 ……一応、助手を務めたよしみで……・・・。

 い、遺髪として、すこぅーしだけでも手元に置いとくのも、いいかなぁーっ…てッ!

 ・・・・・それだけです・………・・・・・・・・・。

 …・・・・・サンプル・・・じゃなくて、その、・・・・・・ッ」

 嫌な汗が邪魔だ、と。俯き、そこから一向結論を出さない、否、出せない彼女へと、言葉の先を促す声は幼く、純粋な疑問に満ちている。

 受けてまとまらない思考に更に混乱し、それでも続けようとした彼女は。

「だから・・・…っなんていうんですか? ・・・その・・・・・・…ッ!

 な! な! ななに覗き込んでるんです!? 」

 何時の間にか背を大幅に離してこちらを下から覗き込んでいるケルッツアに気付くと、慌てて仰け反った。

「……要領を得ないソフィーレンス君も珍しいなーと・・・」

 覗き込む形を更に追って、不思議そうにケルッツアは首を傾げている。再熱したのか、それとも更に熱が上がったのか、もはや考えたくないソフィレーナは頭に手を遣り、自身に呆れて目を瞑った。

「……………。もういいです…放っといてくださいよ………。可笑しいのは自覚してますから…」

 声に自棄の響きが隠せない。何とも情けないと眉を歪ませ、のけぞった形を元に戻して、助手は一つ深呼吸。

「…でも、残念だな…」

 無自覚に揺さぶる知恵者に息を忘れる。


「君なら、僕を跡形も無く綺麗に解剖して、解析してくれるだろうから…………惜しくて。

 ……本当に、たずさわる気は無いの?」


 斜め下手を鋭く眇め睨むのは心底悔しがっている時に出る癖。上げられた顔に宿る眼光の鋭さ。自動的に早くなる呼吸も、もはや普段の心拍を忘れるほど高鳴る鼓動も、熱も、ただ、いい加減にしてくれと、半ば泣きたいような気持で斜め横に視界を固定したまま、ソフィレーナは声ばかり素っ気無く続けた。

「・・・なんか、そう言われると意地でもたずさわりたくないですね」

「ええ!?」

 真に受けたケルッツアの声は、駄々を却下された子供そのものだった。もう一度拗ねられても困る、とばかり、ソフィレーナは直ぐに否定を返す。

「冗談です。大体、私は人体には興味ない事しってらっしゃるでしょう?

 …私が興味あるのは、菌とか、胞子とか、キノコ類なんですってば」

 他の分野に手出しする気はありません、と、また別の方向に顎を上げ、ついでに目も瞑ってしまう。

 しかし知恵者は、半分正論、半分こじ付けを披露して、尚も食い下がった。

「…確かに…僕みたいに雑食はお勧めしないけど…じ、じゃあ、長生きの秘密は菌にある…と僕は踏んでるんだが…その関係で、このサンプルにもじつは何がしかの菌が…」

 ソフィレーナは、揺さぶりをかけてくる無自覚な悪魔と、つられて湧き上がる自分の欲望に内心頭を抱えこむ。

 そんっなに、私に解剖して欲しいか?

 胸の中、呆れて呟く声に重なる、真剣で冷たく、しかし奇妙な熱を帯びた本心。


 …して、いいの………?

 いいのなら、わたしは、あなたを


 勝手にまた反応する心拍と体温を放って呆れを装い、助手は、至極真っ当な論理を少々辛辣に、自分の欲に対しても展開する。

「…何です? ケルッツア・ド・ディス・ファーンらしからぬ愚問ですね?

 ない、とは言い切りませんけど、オーパーツ技術…マホウ? ですか? あのエネルギーからそれらしい菌が検出された事無いじゃないですか……。

 ………この島守ってる結界だってその技術で開発されたものだし、開発チームの論文でも、空間と熱量の有無はあっても菌が云々、とは無かったし、聴いた事もありませんし…。

 それに、だったら先ず遺跡探るのが先決でしょう? …見込み限りなく少ないけど。

 そりゃ……貴方がその体で長生き…二百歳とか生きてくれたら考えますよ? ……先ず無理でしょうが」

 諦めてください、と自身にも言い聞かせ、視界にケルッツアを捕えれば案の定。


「………………」

「膨れっ面しても駄目です。」

「………・・・・・・・・」

「キュー、の字書くのもヤメテクダサイ」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「睨んでもだーめー」


 彼の実年齢を知っているなら一体何歳だ、と思うであろう拗ねた仕草をして、本当に気に入らないのだろう、眉を歪め、ケルッツアは悲しそうに下を向いて反論を。

「…二百歳なんて……。もし可能でも、君はじゃあ、それまで生きていてくれるの…?


 …僕なら、君を解体したいと思うのに…」


 やはり何気なく語られた言葉に、今度ばかりはびくり、と大きく反応して、ソフィレーナは喉の奥、絡まって出てこない言葉から、一文字、掠れた音を洩らした。

 「……・・・・・・・・・え?」

 座っているのか立っているのか、いかんせんまつわりつく不思議な高揚感に見開かれた瞳の中では、理想を語るよう空を見上げた格好の、知性の目をしたケルッツアがいる。


 その目が、向けられたら…?


 彼女の視界の真ん中で、心底焦がれたように眦を細めて、バケモノは無邪気に言葉を紡ぎだす。

 「何故見た物を忘れないでいられるのか、とか、主に頭の回線…情報量に関しての限界とか…

 ああ、あくまでも自然死の場合だけだから。生きている間にどうこうは無いよ…?

 勿体無いし。

 そんな顔をしなくても、もしそんなことが起こったら大丈夫。…全部僕一人でやるつもりだ。


 他の連中には触らせない。……君は、不思議だもの」


 幾度も恐怖し、そして焦がれ求めた筈の漆黒に染まった目は酷く優しく、しかし有無を言わせぬ底なしの知識欲を内にわだかまらせてソフィレーナを捕らえる。


 どうして、この人の目にだけは、こんなにも惹かれるの…?


 痺れだす思考の片隅、ソフィレーナは漠然と思った。サンプルとして、実験動物として、否、物として自分を見る目。それは本来恐怖と嫌悪の対象でしか無い筈だ、とつい先日の記憶を彼女はほじくり返す。

 先日、この国で解剖組と呼ばれる人体解剖専門機関の面々に会わざるを得なかった折、向けられるその視線に我慢が出来ず、お手洗いで全て戻してしまった事は屈辱としてソフィレーナの記憶の中でも一際鮮やか。

 いつか、いつか学会から締め出してやるッ!

 お手洗いの鏡の前で憎悪に歪めた顔の恐ろしさは自分でも良く覚えている。

 のに。

 「ソフィーレンス君? 」

 知識欲をわだかまらせた両眼は、不思議そうに彼女を捉えて離さない。


 なぜ、この人の目には、恐怖と同列、更に強烈な快楽と恍惚をも感じてしまうのか。

 抗えない。


 否、抗いたくない。


『賢者は、恋人のようにサンプルと親しい…心の底から研究対象を愛し、慈しむのだ…結果、彼らは心を開く…。であるから、これ程の研究結果が得られる…

 …羨ましい事だよ………』


 かつて、彼女がまだ学校に在学していた時、臨時で雇われたモリウスという教師の言っていた言葉が彼女の内に蘇る。

 思考が、巡った。


 じゃあ、私もサンプルになったら愛して貰えるのだろうか…?

 慈しんで、大切に大切にされて…いとおしんでもらえる…?

 でも、私はあなたを。

 あなたのひとみのおくをしりたい。


 オクマデシリタイ…


 その為ならば、わたしは…わたしは・・・

 ってあなた、まさか異世界でその目になんかしこんできたんじゃないでしょうね?!

 紡がれた言葉もやけに鮮明に脳裏に焼きつき、もはや彼女はその言葉に反応しているのかその目に反応したのか、理解できなかった。

 辛うじて、一言。


 「…………発見独り占め?」

 「いや? 誰にも触らせたくないだけだよ?」


 当たり前と言う顔で軽く首まで傾げている知恵者に、現実、ソフィレーナは頭を抱えた。例えブラックホールと同列に置かれているとしても、流石に彼女は無反応ではいられない。

 研究対象として、見られていても。


 私は、一体、この人に…どれだけ魅せられたら気がすむんだ…


 涙の気配と同時、体中が沸騰しそうなほどの高揚と動揺。耳朶はかゆいほどの熱を持ち、耳の奥も、頚動脈も痛い。息が上がらないようゆっくりと呼吸を吐き出しているせいか、体も、そしてなぜか心も苦しかった。

「そ、そんな事、虎視眈々と狙ってたんですか……? …生憎、まーだまだ生きるつもりなんで。

 ・・・毒殺とか毒ガスとか、転落死とか自然死に見せかけてどうこうとか、止めてくださいよ?」

 どもった口に叱咤をかけ、爆弾発言をしたバケモノを軽く睨んでみる。

 知恵者は頬を膨らませた。

「そんな事しないってば…。ソフィーレンス君のいじわるっ」

 頭に手を遣ってかきむしりたい気恥ずかしさと、いい得ぬ愉悦。全てにそっぽを向いて、ソフィレーナは膝をきつく抱え込み丸まると、上目づかいに星を眺め、逃げる。

 「…なぁんとでもっ………星、流れないじゃないですか…」

 彼女の丸まった背中にまた自分の背を寄りかからせ、ケルッツアもつられて天を見上げた。

「否、小さなのは結構流れている…

 最も今やっと十一時を切ったから…本番はこれからだね…」

 疲れたら寝転がってもいい、と、後ろの知恵者は呟いたが、助手の意識にその声は遠く。あまりにも現実離れしていて、正直、明日の天気が心配…。


 槍は無くとも魚位は降るんじゃないだろうか…と、星の渦に沈む頭の片隅で、彼女は漠然と思っている。


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