第2話~科学者は哲学の夢を見るか~夜のしじまに

<8>



 白く塗られた鉄の扉が閉まる音。独特の調子を奏でるその音がケルッツアの耳に届いたのは、夕闇から藍へと空も地も染め替えられた国立図書館最上階、自身の私室から、照明の明るい禁書の類のある一角へと出た時。

 次いで、微かに響く軽い足音に、一拍跳ね上がる鼓動に驚いたか、左胸の辺りに手をあてたかと思うと、頚動脈を触って彼は、不可解そうに首を傾げた。

 何故か先程の、もう既に帰ってしまったグルラドルンの言葉が頭の中で回り始める。

『可愛いこだもんねー? 構って欲しくなるんだよねー?』

 散々人をからかって、随分と楽しげに帰って行った友人の影響がまだ抜けない。知恵者は僅か眉を顰め、煩い拍を無視してそのまま思考の海へと沈んだ。

 まあ、確かに可愛いと呼ばれる類の顔と、背の低さだろう。

 天井を見上げる。

 けれど、それよりも。


 彼女は大変計算が速く、常にこまこまと動き回っているという印象が拭えない。

 任せた仕事はきっちりこなすし、間違えても直ぐ直す。

 怒るととってもおっかないけど、何故か不思議と嫌でない。

 世話を焼かれても煩くない、むしろ焼いてくれないと物足りない。

 意外と力持ち、一度見た物は忘れない。

 疲れた時は猫のように伸びているけれど、文句は言っても手は止めない。

 結構手が飛ぶ足が飛ぶ、でもうっとうしくない。

 実は菌類に目がない。

 時々、研究者顔負けの目をする。

 笑った顔には心拍数が上がる。

 頭の配線を調べてみたい。

 でもなんだか勿体無い。


 自身の思いつく事柄を頭の中に思い浮かべて。

 彼女と話しているのは楽しい、と床に敷かれた絨毯に目を落とし。

「有能だし、楽しいし…? 」

 抱えた書類を持ち直して嘆息。

「助手として、申し分ないから…か?」

 だから、彼女が来ると、嬉しくなって? 心拍数が上がるのだろうか。

 呟いたと同時に、横手から聴きなれた声がかかる。

「お待たせしました、ケルッツア・ド・ディス・ファーン。言われた通り毛布と厚手のコートを持参し…

 …どうしたんですか?」

 止まったように俯いていたケルッツアに、随分とゆっくり振り向かれ、彼女は怪訝そうに、肩に担ぎ上げた毛布に横から頭を埋める様にして首を傾げた。

「ソフィーレンス君・・・」


ソウカ、タブン・・・


 浮いて頼りない音程。目の色も不思議とぼやけ、焦点は果たして合っているのか。

 只ならぬ彼の様子に、思わずポットを下に置き、その手でソフィレーナは彼の額の熱を測ろうと。

 けれど。


ソフィーレンスクンハ、フシギナンダ。


「…ああ、ちゃんと厚手の物を用意してきたね? …じゃあ…。

 ……取りあえずは、ちょっとした用をやって貰う事にしよう」

 まるで今、ねじ巻き作業が終わった人形さながらに、ケルッツアは彼女を見つめておっとりと、しかし賢そうに小首を傾げた。

「?」

 未だ怪訝そうな彼女を置いて、そして既に彼は目的地へと歩き出している。

 ケルッツアの様子が可笑しい事に何事かと初めは構えていた彼女も、彼の普段通りのさまに、次第と。

「そうだ、ケルッツア・ド・ディス・ファーン。テェレル館長から書類預かってきてるんです、よっ、と!」

 禁書庫の未収納分三箱の最後の本を棚に押し込み終えて、ソフィレーナは直ぐ近くで、証明の明かりの届かない一角、ランプで視界を広げて何やら探しているケルッツアへと声をかけた。

 中腰の体勢から、彼は彼女に目をくれる。

「…書類? それは…まさか結構分厚い、恒例の…?」

 何とも形容しがたい目を向けて、上体を起こした知恵者に、助手は渡された厚さ五センチ位の紙の束をぱらぱら捲り、彼の言わんとする事を肯定する。

「ご明察。半期『仮定図書一覧表』、第二館内分です。今、下で大々的に未処理分整理やってるでしょう?

 ………ケルッツア・ド・ディス・ファーン。

 いい加減、観念、してくださいね?

 きッちり! 目を通して、棚ごとに、判子押して…。

 あ・な・た・のッ! お仕事ですよ? 総館長?」

 今回は逃げたらタダじゃあ置かない、と去年、一昨年の記憶をバックににっこり微笑む彼女を見、ケルッツアは瞬きを一つ。

「ねえ? 親愛なるプロフェッサー?

 …隠し部屋の場所、思い浮かべるの、止めて頂けません?」

 察しの良い有能な助手の言葉に臍を噛んだ。


そ…ソフィーレンス君は………やっぱり不思議……。

 


 



 何で判ったかなぁ。そんな心の声まで聞こえてきそうな知恵者を見、ソフィレーナは小さく息をつく。見ていると予想通り片手が後頭部に持っていかれ、僅かに掻いている。その内ため息が出る、と思ったら、深く息を吐き、肩を落として前かがみになる動作が彼女の目の前でなされた。

 一体いつから自分は、彼の行動パターンを読めるようになったのか。

 朝は朝一の船で着く時間帯から、夜は船着場の最終便に間に合うまで。その他調査研究旅行では常に一緒、他の階に借り出される事はあっても、顔を合わせない日は実はない。

 そんな時間を三年近く過ごしているからだろうか、計算を違えた、というだけでどれ程の不摂生を彼がしているのか何となく判る、という事実に、ソフィレーナは僅か自分に呆れを感じる。

 当のケルッツアは今、再びランプを片手に同じ場所を探り始めていた。

 ”ソフィーレンス”に許された、間近で見る、という行為。

 頬の辺りに熱を感じる前に、頭を切り替えるべく、彼女は己の手の中に残ったサリウルから頼まれた物に軽く目を通しはじめる。

 びっちりと打ち込まれた数値と論文は、よくまとまっていて、可笑しな計算間違いも理論展開も見当たらない。見やすく整理されたそれは、けれど、彼女からしてみれば随分と面白みに欠けた。

 内容が拙い訳じゃあない、そう判断を下しつつも、ソフィレーナは今度は紙面から目だけでケルッツアの様子を盗み見て。

息をのむ。

 たたずむ彼はただ、首を反って天井を見上げていた。目許は前髪と、黒い衣装の腰から伸びた、頭にかけ垂らしている飾りの布に隠れて窺うことは出来ない。

 それは彼女にしてみれば、救いだった。

 覗く口元は時折言葉らしき形を作るが音は聴こえず。

 ランプを持たない側の手は、腰についた銀の紋章をしきりにもてあそんでいる。

 それら全てが、ワイズレッテッティス・リンズ・ケルッツア・ド・ディス・ファーンという科学者が、思考を理論化する時の癖。

 この癖が現れた時の月一報告論文は面白い。それこそ、今手に持っているものと比べるのは可哀想になる位に。

 頬が紅潮する、耳が疼く、鼓動がやけに煩い。

 苦しくなる息を飲み込んで、ソフィレーナは一歩、彼へと近付いた。一歩。そしてもう一歩。

 足場を確かめるようにゆっくりと、けれども確実に。近寄った助手は、ケルッツアの手から今にも落ちそうなランプの柄に手を伸ばす。アーチを描く鉄の細いそれに横手からそっと触って、僅かに持ち、その体勢のまま慎重に上へと持ち上げてゆく。彼の皮膚と鉄が離れた刹那、痙攣のように指先が反応しただけで、鉤形に垂れ下がった指に意志の動きは無い。

 顔を見ると、まだ思考の彼方のものを引き寄せ、体系付けている最中だった。

 ソフィレーナは、自分のズボンのポケットから小さなメモ帳と、ペンを取り出し、メモ帳の白紙の部分を出した状態で開いた手に握らせる。

 と。今度は強い反応でペンとメモ帳は奪われた。

 紋章を弄っていた手でペンを持つと彼は自動書記のように手元も見ずに、なにやら数行書き込み始め。

 その書き込みも終わって。

「お帰りなさい、ケルッツア・ド・ディス・ファーン」

 ケルッツアは既に普段の状態で、ただいま帰ってきたよ、とおどけてソフィレーナを見返している。

 これだけで、何処にもケチの付けようの無い論文を書き上げるのだから恐ろしい。

 助手は胸中で舌を巻いている。

 『蔓植物の観察記録』

 何をトチ狂ったか、報告論文でいつぞやこの知恵者はそんな物を書いた事がある。恐らく、本人としてみれば軽い遊びのつもりで提出したそれは、しかし学会の記録に未だ残るほど精密で笑い飛ばせば即笑った側の無能さを曝け出す、とんでもない物だった。


けれどまだ、まだ大丈夫。


 ソフィレーナは未だ微かに残る早鐘の余韻を内に抱きながら平静を装って、サリウルから頼まれていた論文をケルッツアへと差し出した。

「で、こちら…サリウル・ド・ガロウザ君、覚えています?

 彼の論文の下書きです」

 一つ瞬きをしてケルッツアは、ああ、と受け取る。

「サリウル君…。あの強かな子だね。

 …どれどれ」

 渡された論文の表紙は捲り上げられ、素早い動きで目は文字を追っていく。しかし、その動きは直ぐに止まった。

「これ、君はどうだった?」

 真っ直ぐに彼女を見る目は厳しい。

 彼の手の中で、三分の一にすら届かない枚数で止められたままの論文をちらり、と見やって、次いで目を瞑ると、可もなく、不可もなく、と、彼女は返した。

「良くまとまっているとは思います…でも」

 彼女の継いだ言葉に、彼も全く同じ言葉を沿わせる。

「面白みにかける」

 重なる響きに驚いたソフィレーナは思わず目を開け。

 天と地が判らなくなる。

 可笑しな声がでなかっだけ、まだマシだろう。

 直ぐ近くの本棚にそっと寄りかかるようにして、ソフィレーナは細く息を吐き出す。妙な浮遊感と背の辺りの痺れは、悪寒かそれとも愉悦か。

 ぞくぞくと足の爪先から駆け上がってきては、地に立つ為の力を奪い去ろうとする何かに、彼女は己のうかつさを呪った。だから、目を瞑ったのだ。そのまま開けてはいけなかった。

 そんな彼女には気付かずに、論文をページ飛ばして読みながらケルッツアは言葉を続ける。

「…つまらない訳じゃあない…でも、陳腐。…彼が」


 その、今している目が、いけない。

 普段は灰色に近い色を、深い漆黒に染め上げ。知性の瞳は今底なしの様に奥へと広がっている。光は鋭角に宿り、そこにもはや、普段の温厚な知恵者は存在しない。

 ケルッツア・ド・ディス・ファーンの時折見せる、あくなき学者としての目。

 それにソフィレーナはどうしようもなく惹かれる。と同時に。

 恐怖している。


この人はバケモノだ。


 ソフィレーナは。

 強大なバケモノの傍にいて、獲物を解す姿を見ている。

 獲物が、綺麗に、綺麗に解体されていく様を、畏怖と、憧憬でもって見ている。

 この人はその手際が誰よりも素晴らしいから。


科学の神が、いるのなら。

 その神に愛されている人。彼の前では全ての事柄が跪き、おのずと全てを曝け出す。

 科学と結婚した人間。記憶より、地位より、名誉より、そして何より己の体よりも、思考の劣化、それだけを厭って、文献を漁り


…異世界への旅券を、手にした人。


 どくり、と一際大きく彼女の脈がしなった。


も、し。


 もし。


その目が、もしこちらに向けられたら?

傍で見ている、こちらを振り向いたら?


 それは恐ろしい恐怖と甘美な陶酔を彼女にもたらした。


きっと。


 左胸が、胴が脈打ち酷く痛む。両の首筋、頭にかけて筋肉の収縮する痛みが鮮烈。


きっと、私という存在は耐えられない。


 伸びてくるその手に抗う暇もなく、思考すら麻痺して。

 静かに、確実に。


綺麗に、綺麗に解体される。


ちり一つ残らなくなるまで解し尽くされる。


 ありえないことだ、と。彼女はその事を十二分に判っている。

 そうでなければ、己の両親はココに来ることを許してくれなかった。


 『断わる!

 折角だが、僕は君たちには興味がない!! 』


 温厚と知られるドクター・ワイズが声を荒げて、人体解剖組の誘いを断った事は余りにも有名。


 このバケモノは、人に興味を示さない。人を獲物として見ない。

 だから、こんな僻地に追いやられて尚、人望が厚い。


 人が、寄ってくる。


むしろ、アリエテハナラナイコト。


ああ。けれど


 痺れた思考はただ廻る。現実の音は、水底にいるかのように酷く遠い。


「これを遊び程度で書いたのなら、いい。…けれど

 …発表するのなら…

 …惜しいな。素質はある」


 論文とは別の紙へと走り書きをし始めた、その、目。彼女はそれをただ、食い入るように見つめていた。

 恐れながらも、その深さを測るように。


もし。

もし、その目が振り向いた時。


 言いえぬ紅潮が、静かに、抗いがたく湧き上がってくる。


誰よりも、その瞳の底を知ることができるのだろうか?

その黒に吸い込まれた時、それを取り込む事が、初めて出来るのだろうか。


 論文の添削作業を続けるケルッツアの前で、ソフィレーナは、暴走する自身の内に囚われていた。



まるで、ブラックホール…。


近付いたら最後だと解っているのに、強く惹かれてどうしようもない。

 



<9>




 唐突に場に生まれた音は。

 ペンが床に落ちる、そんな些細なものでしかなかった。


「!」


 しかし、その音だけで彼らには十分だったらしい。

 論文以外の紙に黒々と、最早何と書かれているのか本人ですら判別の難しい文字列を書き込んでいた手を止めケルッツアは。又、本棚に寄りかかってただケルッツアを見つめ、自身の思考の脱線すら気付けず呑み込まれていたソフィレーナは。

 瞬時に、普段の状態へと戻った。

 互いに視線を合わせずとも、同じ早さで瞬きを二つ。

 深く息を吐くと、知恵者は自身の手にある、びっちりと書き込まれた紙切れを数枚見つめて頭を掻いている。

「…………しまった。

 …やってしまったよソフィーレンス君…。これは僕のものではないのだから・・・・・・あー・・・っと、

 ・・・これと、これは、いらない項目だな…」

 自身に呆れ、黒い文字の上から更に幾つかの場所に横線をひきだす彼の様子に、やはり暴走した思考を恥じたか頭に手をやり、そこで改めてその動作に気付いてソフィレーナは目を閉じる。

「…題材、ブラックホールでしたね…興味あるんですか?」

 上げた位置のまま行き場の無くなった手を誤魔化す様に閉じて開くと、そっと背の下の方へと隠すようにしまいこみながら、彼女は己の単純さに呆れた声を出した。

 歯止めも効かずにあらぬ方向へと迷走していた思考に出てきた比喩は、この論文が発端とは思いたくない、が、十中八九そうだろう。今だ鳴り止まぬ鼓は耳の奥で煩い。頬の熱さがどうにも浅ましく、彼女は中々視点を定める事が出来ないでいる。

 返すケルッツアの声にも、自嘲の響きが窺えた。

「…うん。……僕も、研究したくて。

 でも、メルザ、ええと、メトーラルシザに止められていて…。

 何時かは、と機会を窺ってる最中なんだけど、…刺されるのは、余り良い気分じゃあ、ないし………

 上手くやらないと・・・中々ね………。

 そんな鬱憤もあったのかな・・ついつい、持論が出てしまったよ・・・」

 彼女の脅しがあるから、実現させるには、もう少し時間がいる…。

 新たな紙に数行、今度は他人にも分かりやすく書き込みを入れつつ、彼は恥じたときに出る、掠れて心地の良い声で、強かに笑った。


…この人…。


 呆れと共に、又熱が顔を包む。こんな裏事情、聞けるのは私くらいだ、と微かな愉悦が彼女の内に沸きあがり、その想いにますます視線を彷徨わせて、ソフィレーナは窓辺へと目をやった。夜の色、黒鏡と化した硝子ごし、直には見る事の出来ないケルッツアの顔を見つめて言葉を返す。

「…ティーチャー・ゲライアもお気の毒ですね…。

 あの方、ブラックホール解明に一生捧げてらっしゃるから、貴方に獲物横取られまいと必死なんですよ」

 窓辺に目を遣りながら、そう答え返した彼女に、予想外の言葉を聴いた、とばかりケルッツアは目を丸くして情けない顔で反論する。

「よ、横取りってソフィーレンス君?

 …いや、あの、気の毒なのは僕の方だろう? 頚動脈にメス突きつけられたんだよ?」

 同じ窓という鏡の中、一向こちらを向こうとしない己の助手は、実はこっそり照れている、とは彼の思考には上らなかったらしい。

 ソフィレーナは相も変わらず素っ気無く、鏡の中のケルッツアにとぼけて見せる。

「さあどうだろ? 銃じゃなかっただけマシな気もしますが。

 …で、その紙をサリウル君に渡すんですか?」

 やはり彼からしてみれば随分と冷たい声と台詞で、急に振り向いたソフィレーナのその澄ました顔がよっぽど気に入らなかったか、知恵者は何時もにも増して、否、眉を一瞬吊り上げて常に無い怒り様で。


「じゅうっ・・・・ってッそう、だけど………ッ!」


 会話を打ち切る事もせず、剥れてそっぽを向いてしまった。

「…あー…ける、ッツア・ド・ディス・ファーン…?」

 熱も引き始めた助手は調子に乗りすぎたと首を左右交替に傾げ、黒く長いコートの後ろから自分の肩よりは少し高い位置にある彼の肩に手を掛ける。

「…結構、怒ってます? ………賢者様?」

 まだほんのりと赤い顔で、ちょい、と覗き込まれても、頬を膨らまして又別の方向を向いて視線だけ眇めよこしながら知恵者は冷たい。

「さあ…?

 いずれにしろ、貴殿には関係の無い事であろうな、王族に連なりし尊き血脈が一、ダリルの末姫君よ」

 視線の圧力に、ぷく、と頬を膨らませソフィレーナは肩から手を放すと軽く片足で膝をついて屈み、礼を取る形で立ち上がった。

「もう! …栄光、誉れ高き賢者ケルッツア・ド・ディス・ファーン様?

 卑しくも私、ソフィレーナ・ド・ダリル、…ソフィーレンスめは貴方様の助手でございましょう?

 ティーチャー・ゲライアがってのは…冗談ですってば」

 だからそんな事言わないでくださいよ…。

 拗ねた顔でケルッツアのコートの端を持ち上げ、顔の近くに掲げながら、これにキスしちゃいますよ?と引っ張る助手を慌てて振り返って、それでも不服そうな声で彼はいった。

「そ、…それは、主従の誓いでやる事で…


 ………冗談って…………………ほんとう? 」


 声の幼さに、今まで口許近くに寄せていた黒いコートの端をそっと、名残惜しそうに放して、苦笑しながら彼女はうなずく。

「本当」

 サリウルへのアドバイスを受け取りながら、当然でしょう? とソフィレーナが伝えれば、曇った顔は直ぐに晴れた。


そんなに、嫌、でした…?


 むず痒い感覚に、口許が緩んで抑えられなくなる。抑えた口許の手の中で可笑しな笑いを掻き消して、ソフィレーナは軽く首を振り、前髪で目元を隠して落ち着く。

 そんな彼女を尻目に、機嫌を取り戻した、否、より機嫌を良くした知恵者は後ろの助手へと声を掛けた。

「……そっか。

 …と、まだ時間があるようだね…じゃあソフィーレンス君、次は展望部屋に行こう」

 助手の顔の赤さに幸か不幸か気付く事無く、声は冷静に、それ以外は弾みながら目指す展望部屋へと向かう彼に、ソフィレーナは大きく息を吐き出して、その背に続く。

「…はい…で、今日も観測で…」

 追いついた彼女が問いかければ。



「ふふ、データを打ち込むのだよソフィーレンス君。今日は機械に任せるからね」


 展望部屋への扉を押し開けて、ケルッツアは楽しそうに振り返った。

 

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