若さを手にした賢者様とわすれな姫の物語

境美和

第1話~科学者は哲学の夢を見るか~彼と彼女のあれこれ

 石畳の階段を軽快に上ってゆく音は、広い塔内にわんわんと響いている。

 国立図書館を下から上へと一心不乱に駆け上ってゆくその少女、否、女性の姿は、真昼の陽光にも、まして室内にて文献を閲覧している利用者の目にも映る事は無かった。どの階でも、一様に静かな空間に響く音に皆一時耳を貸し、しかし直ぐに己の関心事へと意識を没頭させていく。

 しかし建物を管理する側の人間の中には、彼女の姿が鮮やかに想像できるのか、貸し出しのカウンターの中に腰掛け、或いは本棚の整理の為高い三脚に足をかけて、僅か笑いの形を口元に当てた手の下に浮かべてみる者も少なくなかった。

 また、必死になって最上階へと駆け上っていっているのだろう。

 彼女の同僚の一人は思う。

 可哀想に。美しいと褒められたであろう栗色の、今はうなじまで見えるほどに切り込み、部分によっては刈り込まれた御髪を毎度のことながら振り乱して。痩せ気味だった小さな体躯には、この頃では逞しい筋肉がつきはじめているとか。今年で二十二。十九の時からそろ三年。

 よくもつものだ。

 他人事、とばかり事務員は首を振り、響いていた音もついに消えうせる。

 代わりに、何か巨大な扉を押し開ける様な重苦しい音が一つ、幽か天井から聞こえてきた。



 白く塗られた鉄の扉をやっとの思いで閉めて、彼女はそのまましばしその扉に寄りかかると、白いワイシャツに包まれた両肩をせわしなく上下させ、息を整えるよう荒く深呼吸を繰り返した。ぜい、ぜい、という気管から漏れる嫌な音は、しかし彼女の入った国立図書館の最上階、禁書の類のある書庫の薄暗い空間に大して響きはしない。

「…ァ…」

 何事か呟こうと動かされた口はろくだ音を発する事無く。しかし、やけに据わった目で滴り落ちる汗もそのままに、本棚の奥に覗く前方、巨大すぎて白い光しか感じ取れない窓辺りへと向かって、彼女は口を開けた。

「ケルッツア!

 ケルッツア・ド・ディス・ファーン!?

 ワイズレッテッティス・リンズ・ケルッツア・ド・ディス・ファーン!!」

 がなり声とも呼べる音が乱暴に辺りに響き渡り。

「何処にいるんですかケルッツア・ド・ディス・ファーン! ここにいるのは分かってるんですよディス・ファーン! ケルッツア・ド・ディス・ファーン!? 聞こえているなら…」

 あちこちの方向を向きながら怒りにたぎっては、声を限りに怒鳴る彼女の、スラックスと同色、茶系統のベストが軽く引かれる。

 「……下階に聞こえるよ? ソフィーレンス君」

 彼女がその方向へと首を転じると、そこには黒のスラックス、ラフな白い上着の上に黒く丈の長いコートを羽織ったよわい十三に満たない背格好の、灰色の短髪と褐色の肌を有した少年が、おっとりと、しかし賢そうに灰色の三白眼を細めて彼女を見ていた。

 「ケルッ」

 そのお目当ての人物に一瞬彼女は声を詰らせ、世にも恐ろしい顔で彼に向かって言葉を吐き出す。

「私はソフィレーナですケルッツア・ド・ディス・ファーン!!

 ッお昼ですよ! とっとと食堂に…」

 しかし、彼女のがなるような声を物ともせず、考え込むしぐさをしだした彼は、ふうむ、と悠長に構えてゆっくりと結論を出した。

「腹の虫が喚かないからねぇ……折角だけどソフィーレンス君。僕は昼食を摂らない事にするよ」

 その、余りにも暢気な上司とも呼べる立場の者の言葉に、毎度毎度の事ながら、彼女は頭を抱え、搾り出すようにこう答える。

 「摂らないっ……て・・・・放っといたら動けなくなるまで摂らないでしょう!? あなたは!!!」

 


<2>



「なんと言うか、よくもつわねぇソフィレーナ」

 はい、と。給仕室の机にだらしなく突っ伏した彼女の近くに、ことん、とカップが置かれた。ソフィレーナが無言で顔を上げると、そこにはセミロングの金髪をお団子に結って端を少し垂らした釣り目美人、同僚のレティシアが呆れたように、しかしどこか心配の色を滲ませて机に腰掛け、その緑色の瞳で彼女を見下ろしている。

 無言のままカップを引き寄せ机にあごを付けた状態でソフィレーナがカップの中身に口を付けようとすると、こら、とその人物は彼女からカップを取り上げ。

「お嬢さまお嬢さま? まあまあ礼儀を習わなかったのかしらね。ダリル家の美しい姫君?」

 カップの中のココアを零さないように掲げながら、小鳥のさえずりの様に高く澄んだ声で、オペラッタ『ダリル姫』の中の、召使の歌を謡い始める。

「! それ厭!」

 その歌にソフィレーナは酷く眉を寄せて飛び起き、やめてよぅ、と、気弱に抗議の声を寄せた。

「それはママに当てた歌。私は美しくなんかありませんよーっだ」

 返してもらったカップに口をつけ、レティシアのいじわるぅ、とごねて又背を丸めたソフィレーナに、まあ、シスター・マリアーナに比べりゃ落ちるけどね、とレティシアは鼻で笑う。

「そうでしょうとも」

 しかし、何故か威張った調子で返された返事にも覇気は無かった。いつもならばもっと豪快に減っていくはずのココアの量。その様子にレティシアは、はじめこそ自身の被れているオペラッタ口調で振舞っていたが、その冗談にも乗ってこない彼女を本気で心配し始め。

「まぁーあ我らが国立図書館のダリル姫は、随分と元気が無いです事! ……つかさ、本当にソフィー元気ないわね? …大丈夫?」

 芝居がかった動作のまま目を覗き込んでくるレティシアに、ソフィレーナは放心したかのようにぼう、と空を見つめながらココアを舐めるのみ。

「レティー……今日は…今日はねぇ……。ほんとうに、本当にきつかったのよ…………。

 一階の書庫の整理して……その足で…あれ、ドクター・? ……プロフェッサー・? 

 ………何でもいいけど、あの最上階に棲み付いてらっしゃる……名声高き、あんのワイズレッテッティス・リンズ・ケルッツア・ド・ディス・ファーンサ・マッ! を小脇に抱えて、地下の食堂まで連れて行って……一時間かけて、ご飯食べさせて・・・・・・。…またあの天辺…もとの部屋に戻して…。

 ふふ、言葉で言うのは簡単だわ……そうよね。簡単な事なのよね…。

 じゃあ私、どうしてこんなに疲れてるのかしら………………」

 今にもその口につけたカップの端からココアが零れ出そうな虚ろさで、ソフィレーナは笑っている。

「…まあ……確かに………」

 レティシアの口角が、片方だけひくり、と歪んだ。

「…あのッ……テェレル第二図書館長様は…ま・た! 貯めこんだ書籍の整理を言いつけて下さるし……………。

 まぁ、それはいつもの事だから…良いのよ…。

 …………………………でも…。

 でも…でも・・・ねぇレティー…………………あのくそぼけどアホケルッツ…っ」

 思わず口を滑らせたソフィレーナは、ごほん、とカップを口から離して声の調子を整える。

「……もとい、プロフェッサー・ワイズったら、四日も…」

 レティシアの眼窩に、彼女の声と重なるように、今日、昼に目撃した光景が流れ過ぎて行く。

 そう、あの光景を見たのは昼下がり。膨れたお腹を持て余しつつ、悦に入っている時だった。


『そ、ソフィーレンス君…無理強いという言葉を…』

『うるっさいですよケルッツア・ド・ディス・ファーン! 聞けば四日も飲まず食わずだそうじゃないですか! 

 さあッ! 死にたくなかったら大人しく口閉じる!!』

 たまたま、業務者専用の石階段の隅で休んでいたレティシアは、上から突如降ってきたやけに上ずった子供の声と、高音ながらどすの利いた女の声のやり取りに何か悪い予感を感じ、本能的に壁際へとへばり付いていた。

 途端、物凄い速さで階段を駆け下りる音が彼女に近づいてくる。そして、眼前を過ぎ去って行ったものは、鬼のような形相の同僚と、その脇に乱雑に抱えられ振り落とされないように彼女のベストに死にそうな顔でしがみ付く黒い物体、もとい、図書館随一の、否、この国随一の知恵者の姿。

 その後も、レティシアは、自身は目撃してこそいないものの、今ココアを舐めている同僚と、この国随一の知恵者が色々と大変だった、という事を、ソフィレーナ以外の同僚から聞き及んでいた。


「ともかく…気力勝負よ…」

 疲れた吐息と共に落とされた当事者の声に、彼女はやっと現実へと復帰。

「…ねえ……ソフィレーナ…」

 だから、友達思いのレティシアとしてみれば、この言葉は至極当然に口を突いて出る。


「助手、やめちゃば?」


「私にだってその役回ってきたけど三日でやめたわ…。プロフェッサー・ワイズはとても、ええ、とても性格のお宜しい人だけどっていうか、だから? あの不摂生と変な頑固さはちょっと考え物よ……。

 他にも、国立図書館の仕事なんて腐るほどあるし、追い出されるわけじゃあないんだから…プロフェッサーは、辞めた子を根に持つ人じゃあ一応ないし…」

 しかし、彼女が良かれと呟きだした言葉が、にわかに給仕室の空気を変えた事にレティシアは気づかない。


 ソフィレーナは持っていたカップをぐっと掴み、残りのココアを一気に喉に流し込むと、ありがとう、と、レティシアに笑いかけた。

「愚痴ったら少し元気出た。…午後の仕事頑張って!」

 そういって急に元気良く振舞い始めたソフィレーナを、彼女はしばらく見つめていたが、まあ、あんたがいいならいいんだけどね、と軽く肩をすくめてみせる。

「ソフィー、今日はうち帰るの?」

 軽く伸びをしたレティシアの言葉に、ううん、とソフィレーナは首を振る。

「今日も星の観測会。当分帰れそうも無いから、もうお泊りセット持ってきちゃってるのよ」

 さて、張り切っていきますか! 気合と共に給仕室を出て行く小さな彼女の背を、無理しないでよ、というレティシアの声がそっと追いかけた。




<3>



 彼自身に悪気はない。そして、特に意図した物があったわけでもなかった。

 あやふやだった文献を、さあ片付けようとふと見渡してみたら、そんな本が三百冊を超えていたという、ただそれだけの話である。

 しかし彼は今、非常に困っていた。

 冊数など問題ではない。

 国立図書館最上部、彼の生活するそこに高く聳え立つ幾千という本棚、その数からしてみれば微々たる物である三つの本棚上段部に、彼の目指す隙間がある。

 見上げると首の痛くなる高さは、彼専用に作られた三脚を使っても到底届きそうに無く、増して今彼は彼の助手によって、彼自身が四日間、正確には、四日と一食分怠った飲食物を摂らされたばかり。

 痛みを通し越して最早吐き気に近い感覚を全身に纏わりつかせながら、ワイズレッテッティス・リンズ・ケルッツア・ド・ディス・ファーンその人は、先ほど自身の身に起こった悲劇だろうか、或いは喜劇だろうか、判断に困る出来事に軽く息をつき、見上げても詮無い高さの本棚を眺めやっている。

 大分回復はしているが、胃が重い。ああ、時間が惜しい。

 惜しいけれど。

 極端な満腹感は、思考を鈍らせていけない。

 等と、言えばやはり助手の叱咤が飛ぶのだろうが、さすがに、三食一気に摂るより、別けて摂った方が効率的と、彼は思いこそすれ連れ出された食堂片隅、テーブルの向かいにどん、と座っていた助手に結局最後まで言い出す事が出来なかった。

 彼の記憶を辿ること、二時間と四十五分前。

 薄暗く、簡素にして広い石造りの関係者専用食堂一角。目の前の大皿に積み上げられたナポリタンスパゲッティの塔と、ボールいっぱいの添え付けサラダ、同じくボールに盛られたコンソメスープ。その先には、ケルッツアに比べれば遥かに量の少ない、同じ献立にフォークを突き立てるソフィーレンスの姿。

 客は時間帯が大幅にずれた為か、彼らの他に見つける事は出来ない。


『ソフィーレンス君……いくらライディアズ女史の料理が美味しいからといって…僕はいたって普通の食事量しか摂れない体であって』

『ええ知ってますよプロフェッサー・ワイズ。ですからこれは食べ貯めなんです。あなたは次いつ食べようと思うか判りませんでしょう? ねえ? 強情なるプロフェッサー?』


 階段を最上階から最下階まで、目を回すかのような速度で駆け下りた時の鬼のような形相もそのままに、口元ばかり笑みを張り付かせ微笑む彼の助手は、そう言い切ると、だん、と顔に似合った音を立てて自分のサラダの中のプチトマトにフォークを突き刺した。

『お、お言葉だがね…僕は駱駝や野リスの様な身体機能を持ち合わせてはいないゆえ…如何考えても……食べ貯めは機能的に無理ではないかな……? それに前々からプロフェッサーの称号では呼んでくれるなと』

 その剣幕に圧され気味に、しかし反論するところは反論しつつケルッツアが言葉を言い切るのを待たずして、落とすような彼女の声がその場に響き渡る。


『プロフェッサー・ワイズ? 「はい、あーん」をしてでも食べさせますからね。最後まで』


 その様に、流石に耐えかねたのかそれとも漸く諦めの胸中に達したのか、彼は重い息を吐き出し目の前の料理と眼前の助手の怖さに、降参、と目を閉じた。

『…最後に、一つ宜しいかね……図書館勤めのダリル姫』

 常日頃穏健である知恵者の口から、ささやかな皮肉が紡がれる。

『……何ですか? 往生際の悪いプロフェッサー・ワイズレッテッティス?』

 同じく、その助手からも皮肉が返ってきた。


『僕の選択権は…』

『好物でしたでしょう? この組み合わせ』

『…否、僕はだねソフィーレンス君、好きは好きでもトマト味の』

『ナポリタンスパゲッティもトマト味ですわね? プロフェッサー・ワイズレッテッティス? 』

『……………………』

『…………ピーマン除けない。 』

『……………』

『……タマネギ除けない!』

『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・』

『膨れっ面もしないッ!

 貴方は一体何歳ですかッッ!!!』


 結局、スープはなんとか消化したものの、固形物であるナポリタンスパゲッティは残り三分の一で彼の手が止まった為、宣言通り「はい、あーん」で残りを食べさせられ、どうしても入らなかった野菜サラダはといえば、見るに見かねたライディアズ女史の提案で野菜ドリンクと化した。

 スープ三食分と、スパゲッティ三食分を収めた胃で、そのドリンクを舐めるように消化した結果、食事に掛かった時間は一時間と十五分。

 流石に帰りは脇に抱えられるでなく、かといって歩く気力もなく、ソフィレーナに背負われて自身の生活スペースへと戻ったのは、彼の記憶を辿る二十分前。

 背負われながら、助手が呟いていた事をケルッツアは覚えている。


『今回はちょっと酷かったかとも思いましたけど、こうでもしなきゃ不摂生常習犯のケルッツア・ド・ディス・ファーンは判ってくださらないでしょう……?

 人間飲み食いなしで、星の演算を片手間に紙の上で成せるのは、三日までが限度なんです』


 その言葉に、つまり昨日弾き出した演算に間違いがあった事を知ったケルッツアは、朧な意識の中でどれ位間違えていたか聞くと、ケアレスミス十箇所で二桁違いという答えが返ってきた。

 やたらとぼう、としていた時間が長かったり、酷く動きたくなかったりという、心当たりはある。

 そして、好んで陽に当たるお気に入りのソファーに、毛布を掛けられて寝かされていた彼の記憶は、冒頭の本棚整理へと繋がってゆく。


 不摂生は限度三日、そんな事を頭の隅で考えていると、ふと、重い鉄の扉が開けられる音が彼の耳に届いた。

 広く薄暗い国立図書館最上階のほこりを吸った絨毯に、ゆったりとした歩調が僅か交じり、微かに、呼称を呼ぶ声がする。

 その声に、ケルッツアは意外そうに目を丸くして、声のした方へと歩き、笑った。

 「…やあ…グラン…! 久しぶりだなぁ!」




<4>




「ソフィレーナさんって、今年で三年目になるんスよね」

 ドクター・ワイズの助手暦、と、未整理、未登録の箱に埋もれて、床にへたり込んで本の整理に追われているソフィレーナに掛けられた声と影は、心底好奇心と興味を含んでいた。

 見上げるとそこには彼女より二つ後輩の少年が、詰まれた箱の向こうの高い三脚の上からソフィレーナを覗き込んでいる。

「そうだけど、ロウツィーダ・ド・シルエル君。さっき渡した箱二つ分の整理終わったの?」

 しゃがみ込んだ膝を本に埋もれさせながら、手を止め、驚いた顔で上を見上げたソフィレーナに、終わっている訳ない。等と暢気にロウツィーダど呼ばれた少年は両手と首を振った。

「や、あれココの上階から下階の分まで詰め込まれてるとか範囲幅広すぎっすよ! …まあ明日に回してもいっかなーなんて」

 陽気にけたけたと笑う声を耳の端っこに追いやりつつ、ソフィレーナは、明日はこいつに三箱渡してやろう、と硬く心に決めて自身の作業へと戻る。

「あ、ソフィレーナさん怒りましたぁ? 

 …そういえば、この間ドクター・ワイズ初めて見たんスけど、先輩と背あんまり変わんないんスね…つかあのヒト一体何歳なんすかねえ、あれでもすっごい賞どっかんどっかん取ってるし、王子さんたちの教育係もやってたっつうし

 …つかセンパイ。あの今日、先輩がドクター・ワイズを小脇に抱えて階段駆け下りてきたって、食堂勤めのゲルゴースっつう図体のでかいのに聞いたんすけど、先輩って結構」

 ソフィレーナは、ロウツィーダの実の無いお喋りを聞き流しつつ、お喋りを止めない後輩が明日に回した仕事と全く同じ事、第二図書館分の追加書籍として第二図書館長が適当に詰め込んだ分野もデタラメの箱からまた一冊本を取り出すとラベルを作成し貼り付けては本来収蔵されるべき館の荷箱に入れる事を数度繰り返したが、耐えかねたように口火を。

 と、別の声にロウツィーダへの抗議を取りやめた。

「ソフィレーナ先輩は怪力ですよ、ロウツィーダ先輩。向こうでオペラッタの券配ってんですけど、先輩方、行かなくて宜しいですか?」

 ロウツィーダよりやや高音質な男の声は、続けざまソフィレーナを探している。彼女は、何? と、その高音質な声に答えた。

「あたしはオペラッタ行かないからいいんだけど……誰?  …サリウル・ド・ガロウザ君? それとも」

 サリウルと呼ばれた少年の立つ位置、丁度横手にある箱の棟の中からくぐもって尚高い女性の声がする。聞いたサリウルは首を傾げて苦笑した。

「ハイ、サリウルです流石は先輩。

 で。ええと…ドクター・ワイズにこの間のお礼と、それからこの考えで大丈夫か、最終的なアドバイスをお願いしようかと、先ずは先輩にお伺いを…」

 自身の手にレポートを携えて。今は箱の積み上げられた一角、その先に埋もれているソフィレーナに、出られます? と気弱な声をかけた。

 その声に喚起されたかのように、今まで黙っていたロウツィーダの顔がぱっと上がる。

 「あ、そうそう! そうなんすよソフィレーナ先輩。先輩の救助依頼をテェレル館長から言い遣ってたんす!

 つか先輩気付いてました?もう五時回っちゃってるんすよ?」

 その声と共に、いつの間にやら周囲を箱の棟で囲って身動きが取れなくなっていたソフィレーナの元へ、梯子とロウツィーダの手が差しのべられた。更に俺も、とサリウル、そして三人を心配して様子を見に来たメルティシアというロウツィーダと同期の女の子の手を借りて、ソフィレーナは見事その場から脱出。


「先輩…えっとぉ……全部の箱の棟がセンパイの肩より下ぐらいなのなんでですかぁ……」

「ああ。ほんっと第二館長も良く貯める方よね。

 それで、仕分けなんだけど、この六棟は済ませたから該当の館に運べるわ。残りはまだ未整理だけど、明日の午後まではかからないと思う」


 そういう事を聞きたいんじゃあない、というメルティシアの呆れた口調にも普通に答え返し、ソフィレーナは脱出を手伝ってくれた後輩三人に感謝を述べた後、大きく伸びを一つ。

「お疲れ様です。先輩」

 三者三様の言葉にお疲れ様、と返しながらはしごを持ち上げると肩に担ぎ、第二図書館の出入り口へときびすを返して。

「げふっ」

 横手から、大きな肉の塊にぶつかられた。彼女の後ろで後輩三人は固まっている。

 彼女にぶつかった塊、もとい、巨体をもてあました男性は、ああわるいわるい、と鷹揚に笑っていた。

「やあダリル嬢、ケルズの所に行きそうだと踏んで、書類を頼もうと思ってね。勢い余ってぶつかっちゃったよ…」

 そう伸ばされた肉団子の様な手に手を乗せながら、ソフィレーナは起き上がり、ぶつけた箇所を軽く払って男を見上げた。

「テェレル第二図書館長…毎度毎度、突っ込んでこないで声を出してくださいとお願いしてるじゃあないですか…

 どうしてココの上司はこう一癖も二癖も…」

 落とした梯子を片手で拾い上げ、又肩に担ぎ上げながらそんなことを愚痴る彼女に、厚さ5センチ程の紙の束を渡しながら、若い頃の習慣がねえ、と指で頬を掻くテェレル・ド・イグラーン第二図書館長はその細っこい目を更に皺皺にして、次いでそういえば、と、唐突に口を尖らせる。

「ねえダリル嬢。結局皆行くのだけれど……。

 確か今年はオペラッタ、君の姉上が主役だよねえ……? 

 やっぱり行かないの? ……身内なのに?」


 その言葉に、ソフィレーナは軽く肩を竦めて、行きません。と、笑った。



<5>



 高い三脚の天辺に脚をかけた、壮年にやや近付いた大柄な男は、困ったように下を見、今にも泣きそうな声で自身の友人へと抗議を申し立てるはめに陥っていた。

 この鬼! と言わんばかりの情け無い顔で、しかし手だけは何とか動かし本棚へと本を納めていく友人を見上げて、当のケルッツアはといえば心底申し訳なさそうに頭を掻きつつも指示の手を休めない。

「すまんなぁ…僕もソフィーレンス君もそこは手が届かなくて…あ、そこ、それは三つ目だ、先に『精神構造の』そう、それを、うん。それで…」

 下で両手を合わせつつも指示を出す己の友人に、グラン、グルラドルン・ド・シェスラット文化庁長官は震える足元を踏ん張り、おっかなびっくりの中腰でどもった声を下にかける。

「き、君は何で三脚新調しないんだ!? 手が届かないって三脚の意味無いじゃん!! 第一このテキスト全部出すときどーしたの!!!!」 

 天井近く、九メートル程の高さで必死に喚きつつも渡された本を棚に納めてゆくグルラドルンの涙ぐましい姿を首を痛くしながら見上げ、その時は第三図書館長が居た、とケルッツアは苦笑した。

「で、奴、マルスは…今は、ロウドンナ諸島に調査旅行中だから呼び出すに呼び出せなくて…  奴程高い背はほら、この図書館にはいないだろ? 

 グラン、本当に狙ったようなタイミングで来るから……つい。」

 口調が学生時代に戻っているケルッツアの返答を耳の端っこで聞きつつ、グルラドルンはつい。じゃない! と怒鳴り返し、それでも次々と棚の中へ本を押し込んでゆく。

「だいたい! だいたいだケルズ!! なんで! な・ん・で! 縮む前の身長に合わせた三脚をまだ使ってる!?!? おかしいだろ!!?!? 効率わるすぎだ!!!! 」

 ぼくまちがってる?!!? 涙声の壮年近い男性の、振り乱した白髪交じりの赤毛を罪悪感に苛まれつつも見、ケルッツアは、やはり指示を止めなかった。

 流石に申し訳ないかと、交換条件を出しつつも。

「ほんとうにすまん! あー…今度…今度天球儀と……秘蔵のネガをやるから…な?」

 苦渋の選択で微笑んだ友人の顔を、霞む目元で見やって、グルラドルンは反論を返す。

「今度っていつだよ!!! 今だ!!!

 あと現物のがいい!!! どーせキレイな状態で額に入れてあるんだろ!?!? 写真も五枚ぐらいよこせ!!!!!」

 沢山持ってるだろ!? 言葉の乱暴さに比例するかのように、涙の気配がその声に色濃く反映されていく。作業をやり終え、ほうほうのていで三脚から下りてきたグルラドルンは、三脚の端にへたりこんで天球儀と額入りの写真を抱えたケルッツアを見上げ、げっそりと、一言。

 「…ぜったい、つぎはさんきゃくしんちょう……たのむ・・・・・・とおす

 とおすから・・・・・・うえ……しんせい……たのむ……」

 そのグルラドルンの姿と、マルス、もとい、マーロルサース第三図書館長の嬉々とした笑みとを重ね合わせ、ケルッツアは人知れず溜息をつき、同じ位置に上った友人二人の、全く正反対な反応と、今持っている写真五冊を見て反省とともに頭を掻いた。



 それから五分後の事。暫くは魂の抜けたような顔でだらしなくも床の絨毯に手足を投げ出していたグルラドルンだったが、ケルッツアの持ってきた写真の納まった五つの額を見て魂を取り戻したのだろう、がばり、と起き上がり、さっきの様子とは打って変わって浮かれ調子に額を抱き締め頬擦りしている。

 反対に見つめるケルッツアは浮かない顔で天球儀を回していた。

 生き生きとした声と沈んだ声はどんな奇遇か全く同じ言葉を紡ぎ出し、見事なはもりが生まれる。

「メラーノ彗星にトロナ流星群。トールの皆既日食とテラー星、ソレツナ恒星の赤色巨星…飛び切りのセレクトだ…」

 文句はなかろう、と拗ね気味に聞くケルッツアに、勿論! とグルラドルンは答えた。

 どうにか辞退してもらう事の出来た天球儀を抱き締め、知恵者は駄目押しのように友人に念を押す。

「メラーノは百年に一度! トロナは六十三年周期…テラーなんて次何時見えるか…トールは問題外で?」

「ソレツナはもう確認できず。常識だよケルズ! 墓の中まで持っていくとも!!」

 グルラドルンの申し分ない返答に同意の意志を投げやりに贈って、ケルッツアはもう笑っている。それを見たグルラドルンはやっと友人を訪ねた当初の目的、今夜一夜限り公演のオペラッタへの出席の有無をケルッツアに尋ねるに至った。

 対するケルッツアの返答はにべもない。

「折角だが遠慮しておく。…やりたい事もあるし。何より、僕はそういうものが苦手だという事は知っているだろう? 確かに凄い話だとは……」

 何やらごねて、複雑な顔をする友人の反応をうろんな目で見、ホンモノには敵わない?と、グルラドルンは目元ににんまりとした孤を描いた。

「ホンモノにあった事あるんだもんねーケルズ。確かマリアーナ様シスター時代で? ロザリオ掛けてもらったんだったっけ」

 笑いを含んだ調子で問いかける声に、異世界に行く前にね、と、しかしケルッツアは至って冷静に答え返した。

「流民出の学者風情に良く皇家の姫君が出てきてくれたものだと思ったよ。教会での当番とはいえ、真摯に安否を気遣って加護を授けてくれた。背が届かなかったから彼女の前に膝をついてかがんだけれど」

 天使のようだった。言葉とは裏腹に頬も耳の一つも染めず、淡々と、まるで暗記した数式を口に出すような声で語るケルッツアの調子に、グルラドルンは小さく朴念仁、と毒づき、何やら思案気に、その、遥かな記憶よりも縮んでしまった、今だ見慣れぬ背中を見上げる。

「…そのテンシサマに貰ったロザリオ、異世界に置いてくる? …ちんこい双子の魔術師君たちにあげちゃったんだっけ? あり、えないくらいの朴念仁…その点」

 白々しい声音の友人に悪寒でも感じたか、ここでやっと知恵者の顔が何だか嫌そうに歪んだ。

「…グラン?」

 嫌そうな顔のまま、振り向いて自身の名を呼ぶ嘗ての学友の姿を目の端で捉え、シルドの結婚式も来月だしなあ、と、悦に入ったグルラドルンはにたり、と狐のように笑う。

「やっぱ人間、四十にもなると色々変わるんだ


 その姿でお得なのって、犯罪に見えない事だよね?」




<6>




 コーヒーの香ばしい香りが給仕室に漂っていた。最上階以外は誰もいない館内、傾く日差しの赤が全てを包み、その裏には既に闇が濃くわだかまる。

 今しがた容れたばかりのポットの頭に片手を乗せて、ソフィレーナは一つ、息をついた。机には厚手の毛布とコートがお行儀良くたたまれ、その横に用意された簡単な食品は二人分、荷としてまとめられている。


『ソフィーレンス君、惑星周期の観測を行いたいんだけれど、しばらく良いかね』


 その言葉に二つ返事で了承したのは、丁度この場所にて一週間ほど前。その日から毎夜、二時間交代で望遠鏡に張り付き、四つの惑星の周期及び軌道を探る日々が続いた事に、ソフィレーナは人知れず肩を回してため息をついた。こきこき、回すと軋む肩が何だか空しい。


『今夜は…なるたけ暖かい装備で来てくれるかな』


 大方、最上階のその先、屋上にでも出るのだろう。

 疲れた顔色で首を回し、そんな事を思いながら大きく伸びをして。

 思考とは裏腹、嫌なわけではなかった。


 どちらかといえば、幸福の只中。


 自覚し、ゆるく笑みを浮かべて、彼女はそっと目を瞑る。

 彼女が良く図書整理に借り出される理由の一つに、書の全ての登録番号、コードを覚えてしまっている、というものがある。一瞬目を通しただけで、その記憶は違われることがない。

 この特異な才能と、回り過ぎる頭、そして、”ソフィレーナ”という名前。その全てによって、ここに来る前までの彼女に居場所はなかった。


 ”ソフィー”とは、ソフィストから取られた名前。屁理屈、詭弁家と言う意味から取られたのだ、とは、陰口の上等文句である。

 能力にしてみても、見た物を忘れないという常人離れしたそれに、家族は優しかったが何より周囲の目は冷たかった。それが、ダリル家という今の王に連なる高貴な家ならば尚更の事。

 学校でも、同年代の女の子が関心を示す物より、図書室にこもって、数学の問題やら科学の事、淑女がするべきでないとされる学者のそれにばかり気を取られる始末。その姿には、教師も、学友も良い顔はせず、結果、ソフィレーナは常に孤独だった。

 見かねた彼女の両親から、この場を紹介された時も、厄介払い、と密かに毒づいたものである。

 それが。

 自分は、何と恵まれた場所にきたのだろう、と、国立図書館に勤めて早三年、ソフィレーナは思う。一日中、本にまみれてドレスの代わりにズボンで館内を駆け巡り、数字と計算、雑用と研究に埋もれ日々を過ごす事、それがソフィレーナ・ド・ダリル、あるいは”ソフィーレンス”と言う人間の幸福。


 「ママに、感謝しないとね…」


 大きく息を吸い込んで、気合を一つ。彼女は用意した荷物を持って給仕室を後にする。



<7>



 夕闇は紫のヴェールを掛けて空を覆っていた。潮風のざらついた匂いは、船着場で今日の最終便に乗り込むレティシアの頬を撫で、闇に光る金の髪を幾筋かなびかせている。風に押されるよう後方を見やって、彼女はその格好のまま、一歩前のテェレルへと声をかけた。

「…おお! 流れゆく幾千の星よ! 我はお前たちの輝きにかけて願う! この美しい人をどうかわが腕の檻へと!! …とまではいいませんけど、・・・オンナノコ口説くのに絶好の機会ですよねぇ? 孤島に朝まで二人きり。

 ………如何なんですか? その辺」

 これから正に見るはずの『ダリル姫』の喜劇の一節に声を乗せて、辛辣に、最後の方はドスを聞かせて問う声に、さあねえ、と、彼女の手をとりつつ、船の甲板に足をかけたテェレルは軽く苦笑する。

「まず、ケルズ、と言う時点で、心配するだけ損だから。あれ? でもそういえば本当に二人きり、って、今日がはじめてだったか…」

 でもケルズだしねぇ、とぼやく巨体を押しのけ、甲板へと足を踏み出したレティシアは不機嫌そうに、なら、いいですケド、と低く嘆息した。

 一瞬彼らの足場は大きく揺れ、汽笛が体を震わすほど近くで鳴ったかと思うと、僅かの助走をつけて、直ぐに船は波の上を軽快に滑り出す。

 あたる潮風に複雑そうに、しかしどこか険を抜いてその長い金髪を押さえていたレティシアに、でもどうだろう、と。無責任な声は、突如、やけに大きな声で続けられた。


「ダリル嬢には、例のアレがあるからさぁ! 内輪で賭けがあったぐらいびっくりしたケルズのくどき文句!」


 睨む部下と睨まれる上司。その間に何時の間にか割って入っていた銀髪の少年は、にこやかに無責任な声を引き継いだ。


「『ソフィー? ソフィーっていうの?』でしたっけ? 俺くっついて欲しい派なんで、むしろドクター・ワイズの甲斐性に期待してるんですよねー!」

 期待!? と二人にも増した大声をあげたのはレティシアで、感心したように頷いているのはテェレル。そのふたりを気にする事無く、サリウルは話を続ける。

「ああ、ソフィレーナ先輩が押し倒しちゃってもいいや…見てるとあの人たちって、くっつかないの可笑しいくらいだと思うんですけど!

 …実際……こっちとしては才能と能力の桁が違い過ぎて…

 …くっついて、互いに溺れて。体よく潰れあってくれでもしないと追いつかないじゃないか……」

 サリウルは最後の不穏さを上手く風と船音に紛れさせて、甲板で喚く先輩、レティシアを軽くいなしつつ、遠ざかる島を、国立図書館しか主だった建物の無いウィークラッチの孤島を眺めやった。

 ジジ、と、電波のずれる音が彼らの耳につく。相変わらず孤島は然と彼らの目に見えていたが、しかし既に空間は違えられている。

 かつてデラッノという考古学者が発見し、最近ではケルッツアの利用したオーパーツ、希少なその力によって開発された結界は、今日も事無く、ウィークラッチの孤島と、彼と、そして今回はソフィレーナを外界から遮断した。



 昼の白い光が差し込む最上階の絨毯に座り込んで、逆光でも十分苦い顔をしていると分かる友人に、グルラドルンは楽しげに言葉を続ける。

「凄―い猫ッ可愛がりしてるって評判だよ? かれこれ三年だっけ?」

 犯罪、と言う言葉にしばし固まっていたケルッツアは、やっと質問の意図を読み取って、目を見開き、その顔のまま条件反射の様に反論を返した。

「否、ソフィーレンス君は本当に優秀だ。計算も速い、一度見た物は忘れない、頭の回転も速いし機転も利く、粘り強い…僕は彼女の学者としての素質を買っているだけであって…」

 何を必死になっているのか、自身でも分からないまま早口で続けるケルッツアに、かかる声はやはり胡乱さと、揶揄を含んで楽しげ。

「へぇえ? なんかさぁ、用意されたみたいに言葉がでてくるんだね…ごめんケルズ。…それ全部言い訳にしかきこえない。

 能力ったって、初っ端のあれは関係ないよなぁ……。

 …確か初顔合わせの時だったよねぇ…?」

 五つの額を後生大事に抱え込みながら、その額に顎を乗せ、含みのある顔を向けられて、ケルッツアは知れず目をそらした。

「…話がみえない……」

 思ったよりもごねた響きに自身でも驚いたか、言った途端口元に手をあて、そのまま横手を苦々しく眇め見ている。

 その反応に益々気をよくしたグルラドルンは、うそぶくように、先ほどまでは背伸びをすれば直ぐに届いただろう広くでかい天井を眺めやりながら、心底楽しそうに笑った。

「話題になったってハナシ。シルドの事もびっくりしたけど。あの時もびっくりしたんだって。


 …『ソフィー? ソフィレーナというの?』…」


 そして件の台詞を、学友だった時はもう少し低かったケルッツアの、今の少年の声を真似てなぞってみる。

 途端友人の背が益々縮んだ。

「…あれは純粋にいい名前だと…でも本当に良い名じゃないか。僕はただそう思っただけで…」

 天球儀に顔を隠すように縮こまった顔は明らかに焦っている。その焦り具合をやはり自身でも不思議がっているのだろう、覗く表情はなんとも複雑そう。

 楽しがっていたグルラドルンは息をつき、先ほどのような子供じみた顔から一転、幾ばくか年齢を感じさせる顔に戻った。

「ほーら言い訳っぽい。…はじめはそうだとしてもさ…ねぇ?」

 揶揄の響きが無くなった事に恐る恐るグルラドルンを見返す横目は、降参、と語っている。

「…なに…?」

 まだ何かあるのか。言外にそんな意図を含ませて、早くこの話題から離れたそうなケルッツアを、飛び切り子供地味た笑顔で覗き込んで、グルラドルンはとどめを刺した。


「可愛いこだもんねー? 構って欲しくなるんだよねー?

 この朴念仁にもやっと…まあ生きているうちに在るだけ良かったよ……青春! 純情!

 うんうん。いい傾向いい傾向」


 一人頷く学友に、酷く計算のたがえた時のような、それが論文発表の段階で発覚したかのような調子で、ケルッツアは天球儀を抱きしめて、深々と息を吐く。

「……言ってろ…」

 返ってきた声は更に調子がいい。口の中でそんな事、という単語がぐるぐる回っているだけで、結局彼はやけに滲む嫌な汗の正体を掴めないでいる。



 最上階一歩手前の階段の所で、ふと、彼女は、ある言葉を思い出して足を止めた。片手に持ったポットが軽くゆれ、中のコーヒーが音を立てる。

「しらない…。…しーらなーい…」

僅かに頭を振って、又上りだすその頬は、美しく光を弾く栗色の髪の隙間、西から差し込む強い暮れ日の様に赤く、熱を帯びていた。



 大勢の大人に囲まれた、十三に満たないだろう背格好のその少年は、『ソフィレーナ』という名前に反応したか、戸口に佇んでいた彼女に振り向いて瞳を輝かせている。

『ソフィー…? ソフィレーナというの?

 良い名だ…


 哲学という意味だね』


 伝承にある魔術師のような黒い服を引きずって足早に、真っ直ぐに近寄ってくる彼に、ソフィレーナは驚きと、頬の熱さを覚えた。

 ダリル家の三女、彼女が、図書館勤めには必要ない、と、唯一褒められていた自身の長い栗毛の髪をばっさりと切り落としたのは、正にこの日だったと言う。


…だって、名前…。

他人に褒められたの、初めてだったんだもん…。

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