第3話
母に職場ではどのような立場なのか、つまり有り体に言えばどのくらい偉いのか聞くと「ただのパートにそんなのある訳ねーじゃん」と言われた。
同感だ。それで店長との仲をと聞くと「仲良くないよ。店長はテキトー過ぎて嫌いだ」だそうだ。
母曰く、店長が適当でお人好しだから面接無しで雇ってくれたんだろうとのことだ。
店長の適当具合は僕も知るところだ。
この前などには「私、これ好きなんだ」というふざけた理由で某チョコ卵大量発注して副店長にこっぴどく叱られていた。
店長が職員が足りているのも知らずに僕を雇ったとしてもおかしくはない。
しかし前述の通り、副店長が店長の適当の抑止力なっているのも僕の知るところで、僕を雇うのを副店長が止めるはずとも考えたがきっと副店長が知らぬところで店長は僕を雇ったのだろう。
それで店長が勝手に雇ってしまった手前、副店長はクビに出来なくなってしまったのだろう。
そう僕は勝手に合点した。
そしてつい先日のことだ。
まず僕含む学生は何のためにアルバイトするのかと言えばお金のためである。
これは別に僕個人の意見ではなく我が慕情の先輩も同意してくれた。
そんな話の流れで自然に時給の話になった。
僕のアルバイト先では昇給制度がある。
つまり余程のことが無ければ長く働けば働くほど時給が増えていくわけだ。
僕は唖然、愕然、騒然とした。
アグレッシブに言えば度肝を抜かれた。
当然先輩の時給は僕より高くなければならない。
しかし、低かったのだ。先輩の時給は僕のものよりも。
先輩の尊厳ためどのくらいかというのは伏せるが圧倒的だった。
おおよそ同じ職場とは思えない。
ここでようやく気づいた。このスーパーの時給設定がおかしいのだと思っていた。
だが実際は九百五十円、つまりは僕の時給だけがおかしかったのだ。
無論、先輩には申し訳なさすぎてこのことは口が裂けようとも言えなかった。
知らぬが仏というのもある。
先輩にとっての知らぬが仏は僕の時給ということだ。
よって知らぬが仏先輩には事情を聞くことは甚だ憚られた。
職場がぎくしゃくしても嫌なので上司に聞くのではなくまずは母親に話を聞かねばと決心した。
今はそんな決心のあとのいつも通りの値引き作業である。
「やぁ、ご苦労さん」
声が背後から聞こえた。
「お疲れ様です。美咲さん」
「ホントだよ、ホントに」
少しぶすっとしている。いつものことだ。
今日も例に漏れずワイシャツ、ジャケット、ジーンズの三種の神器を身に纏っていて、北の顔でかでかと書かれた大きめの変なリュックを背負っていた。
長い黒髪に似合う。シンプルイズベスト、美人が引き立つ。僕の高嶺の意中の相手だ。
美咲さんは商品を物色し始める。
値引きしながら僕は聞こうと思っていたことをちょうどいいと聞く。
「美咲さん、挨拶ってあるじゃないですか」
「ぶっきらぼうに何だよ」
「いえ、挨拶って面倒だと前々から思っていたんです」
「それは挨拶をしなさいという教師や親に対する思春期的反抗かな?因みに私はそうだった」
美咲さんは目をキラキラさせながら、同士見つけたりといった顔をしている。
「違います」
「何だよ、ぬか喜びさせてくれるな」
「知りませんよ。ともかく美咲さんって出勤したらなんて挨拶します?」
「お早う御座いますだけど」
「朝に出勤するんですからそうですよね。でも僕は学生なので夕方に出勤です。なのに偶に出勤するとお早う御座いますって言われるんですよ」
「別にいいじゃない」
「いつでもお早う御座いますで統一されているなら文句は言いませんけどある人は
「何が問題なのか見えないんだけど」
「つまりお疲れ様は別としても、時間帯によって変わる挨拶の感覚は人によってまちまちです。それで自分の思っている挨拶と違うのをされると少し気持ち悪い言うか何というか」
「それは少しわかるな。今日はって言われてもうそんな時間なのかって思って時計を見ると全然ってことはまぁまぁある。少年は十一時の挨拶、お早う、今日は、どっち?」
「僕は...」
言いかけて気がついた。この問題、一切の答えがないのだ。言うなれば某里と某山の論争のような。
文脈から美咲さんが十一時を朝と昼どちらに捉えているかは汲み取れる。
僕の答えはその反対だ。
明確な答えのない問題に違う答えを出そうとするものが二人。
これから起こるのは落とし所のない論争である。
僕は一呼吸置いた。
「美咲さん。答えが出ない問題もあると思うんです」
「君が問題提起してきたんじゃないか」
美咲さんはまぁどうでもいいけどと言って済ましてくれた。
争いを未然に防いだ僕は満足に今日の仕事を終えた。
●
バイトが終わり、僕は裏口からスーパーから出る。
少し薄暗く雨が降っていた。霧雨よりは少し強いくらいのうざったい雨。さっきまでは降っていなかったのに、僕は傘を持っていない。
秋真っ只中なのだが雨で一瞥窺い知れなかった。
「少年!」
裏口の庇の下でどうしようかとうごうごしていた僕を呼ぶのは美咲さんだった。
少し先の歩道に傘を差して立っていた。
「どうだい?相合い傘」
意中の人との相合い傘に目が、...もとい僕には傘がない。
そう、あらゆる意味で断る理由がなかった。
●
「原付は?」と聞くと「雨が降ると思ったから置いてきた。
「濡れるのはどうしても嫌なんだよね」ということらしい。
それで甘えさせて貰って家まで送って貰うことにした。
というのが建前で実際はこの程度の雨、自転車で打たれながら帰ってもよかったのだが願っても無い意中の相手との相合い傘イベント逃すわけにはいかない。
明日は休日で学校がないのでスーパーに置きっぱなしでも困らない。
「よく傘持ってましたね。天気予報でも雨が降るなんて言ってませんでしたよ」
今は美咲さんが傘を持ってくれている。
相手の傘であっても傘を持ってあげるというのが紳士なのだろうか。
「持ちます」と言うと「いいよ」と流された。
問いの答えが返ってきて、
「社会人だからね、折り畳み傘のひとつやふたつ常備しているさ。あとは女の勘でわかるものさ」
女の勘の万能さを思い知ると同時に美咲さん社会人であるのも再確認した。
確かにそのリュックにならいくつでも傘が入りそうだと思った。今日はスーパーで買った荷物もその中に入っているのだろう。
いつもリュックを持てばいいのにとも思ったがそれでは一緒に帰る必要が無くなってしまうのに気づいて聞くのはやめた。
そしてリュックは傘からはみ出し少し濡れているのに気づいた。
本末転倒というやつか。
いや僕がいるせいか。
「すみません。入れて貰って、リュック濡れてますよ」
「こういうときは“ありがとう”と言うべきだよ少年。それとリュックは濡れても別にいい」
あくまで濡れて嫌なのは自分だけらしい。
「あ、肩大丈夫ですか?」
「問題ない。私側に少し寄せているからね」
僕の肩が濡れているからもしや、と聞いたのだが。
成る程。折り畳み傘のサイズのせいではなかったようだ。傘を渡さなかったのもそのせいだろうか。
「そうだ、少年。ご飯食べる?」
あまりに唐突に聞くので僕は無闇におどおどした。
すると美咲さんは笑い出した。
「くふっ、私だって急に“少年。コマンタレブ?”なんて言わないよ?」
「そんな聞き間違いしませんよ...」
僕は呆れた感じで言った。
美咲さんの冗談ではなく、自分の冗談で笑っている美咲さんに対して呆れてだ。
ひとしきり笑い終えて、
「それで、どうだい。腹のほうは」
「食事まで含めて冗談だと思ってました。喜んで」
「そこまではしないよ。それで何が食べたい?奢りだ」
「牛丼が食べたいです」
「それでいいけど、女性と食事でそれはないよ」
「ここら辺、あそこの牛丼屋くらいしかないでじゃないですか。」
「それもそうだね」
沈黙で牛丼に決まった。進む方向の並びに牛丼屋はあるので特に方向転換は無かった。
会話は続く。
「女性を誘うときは普通、どこなんですか?」
「レストランとかじゃないかな?」
なぜ疑問形なのかは先日のことがあったので聞かなかった。
「それじゃあ美咲さんを誘うときは?」
「居酒屋」
「わかりました」
恋というのは許すことだと誰かが言った。
他人の煙草の匂いが嫌でも好きな人のものなら心地いいと感じるような。
だから好きな人に「どこに行きたいですか」と聞いて「居酒屋」と即答されても幻滅してはいけないということだ。
そんなことをしている暇があるなら黙ってロイヤルバードにでも連れて行けというものだ。
美咲さんは「二十歳になったら一緒に行こうか」と言ってくれた。
「そのときは僕から誘います」
そう言っておいた。
●
そうこうする内に牛丼屋につき、注文する。
無論、テイクアウトではない。
美咲さんが並を頼んだので僕も並を頼もうとすると「奢りだからってここで遠慮するのは男子学生の名折れじゃないか」と言うので特盛りを頼んでやった。
適当な席に向かい合って座る。
「味噌汁も頼めばよかったね」
「そうですね」
「特盛りを頼んでおいて図々しいな」
「図々しさだけが僕の取り柄ですから」
「そーかい、水取ってくるよ」
「僕が行きますよ」
席を立ち、水を汲んだコップをふたつ持って戻ってくると流石早い、うまい、安いだ。
既に席には牛丼が置かれていた。
コップを片方を美咲さんに渡して座る。
代わりだ、という風に美咲さんに箸を渡される。
「いただきます」
僕は手を合わせて言う。
「人と食べるときってなんとなく言っちゃうよね、いただきますって」
「僕がいつもは言ってないみたいに言わないでください」
「いつも言ってるのかい?」
「育ちがいいので」
「そうかい、いただきますを言えるって取り柄もあるじゃないか」
「馬鹿にしてますね」
「ふふふ」
なんて可愛く笑いやがる。多分僕はこの人の笑顔を見るために生まれてきたのだと確信した。
「それじゃ、私も。いただきます」
そう言うと美咲さんは徐に紅生姜の入ったプラスチック容器の蓋を開き紅生姜を丼へ運ぶ。
ゆったりと、しかし確実に牛丼の牛の部分を赤く染め上げていく。
そして最終的には牛丼の見る影もなく、紅生姜の海、紅生姜丼へと生まれ変わっていた。
「...美咲さん、それは何ですか」
「牛丼だけど」
「いえ、その紅生姜です」
「え?」
「量おかしくないですか?」
美咲さんは深い、深い溜息を吐いた。
「他人の食べ方に文句言うのは無粋だよ」
「すみません」
怒られてしまった。美咲さんはガッと紅生姜丼をかっこむ。そして食べながら講釈する。
「牛丼というのは紅生姜の薬味なんだよ」
「違います」
「よく考えてみ給え。牛丼は単体でもそれなりに旨いが紅生姜はどうだい。そんなに旨くない。豚汁の一味だって刺身の山葵だってそれ単体じゃ微妙だ」
「そりゃ薬味ですからね」
「それが間違いなんだよ、少年。薬味は食べ物をもっと美味しく頂くために使うものだ。豚汁も刺身もそれだけでそもそも旨いんだ。なのになぜ、そんなに美味しくない一味や山葵を足すのか。そんなに美味しくない一味らを美味しくするためだ」
ここで美咲さんは水を一口飲んだ。
「ふぅ、つまり紅生姜をのせた牛丼の紅生姜と牛丼、どちらが旨くなったのかと聞かれればそもそもそんなに美味しくないものが旨くなっているのだから紅生姜に軍配が挙がるだろう。よって牛丼が薬味なわけで牛丼は紅生姜を美味しく食べるための存在なんだよ」
「それで納得は無理ですよ」
僕は一蹴した。黙って聞いていたがそろそろ牛丼が冷めると思ったので箸を持ち直し食事の態勢に入る。
「まてまて、食ってみなさい。一口でいい」
美咲さんは自分の丼を差し出す。
僕は深い、深い溜息を吐いて渋々丼を受け取る。不味いことはないだろうと思いながらも恐る恐る口に運ぶ。
「こっ、これは」
筆舌に尽くしがたいなどどんな時分に使うのだろうかと思いながらも一応脳に仕舞っておいてよかった。
この時のためだったのだろう。
食わず嫌いをしている者共、食えば解る。
せめてこの一言だけ記しておく。
●
店を出ると雨はもう上がっていた。
そして既に真っ暗だった。
「いい食べっぷりだったよ、少年」
やけに満足げに言う。恐らく紅生姜同士を増やせたことによるものだろう。
「それじゃ帰るか」
「家まで送ります」
いつもの帰路に就く。
僕は美咲さんの幸せ理論を思い出していた。
僕の残りの時間を全て使っていいからこの美咲さんとの幸せな時間が続けばいいのにと思っていた。
「美咲さん」
「なんだい」
「僕は今、幸せです」
「当然だ、牛丼、紅生姜丼にはそういう効能がある」
話はかみ合わなかった。
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