第1話 消失したもの
記憶には7つのエラーが存在する。物忘れ、不注意、妨害、混乱、暗示、書き換え、付きまといの7つである。シャクターによるとこれは情報量に圧倒されないようにするための脳の機能であり、決して病気ではない。これは「忘れる」という記憶システムなのだー
日差しが照り付けるようなビル街の気温は春の陽気とは言い難い苦しさを運んでいた。そんな不快感とは一線を画すような不快感ーいやまた別の不快感ともいえるだろうがーを惜しげもなく見せつける、妖艶な少女が一人、ソファーに自らの存在を誇示するかの如く座っていた。
そしてその彼女の片割れといえば、齷齪とお茶を準備している最中であり、その姿はまるで、横暴な主人に強制的に働かされるメイドー男ではあるのだがーそのものであった。
「で、結局どうゆう依頼ですの?先ほどの話では全く理解ができないのですが」
妖艶な少女ー朱ーはただでさえ、赤く光らせている目をさらに鋭く光らせ、正面にいる男に向かって、その針を突き刺していた。
男はと言えば蛇に睨まれた鼠のように縮こまり、喉は締め上げられ、声も出ない様子だった。
「そんなに怒っても依頼人さんが困るだけだよ。もう一度話を聞けばわかるかもでしょ。僕はあんまり聞いてないわけだしお客さんからのイメージも大事なんだから。。。あ、お茶でも飲んでください。」
先ほどお茶を用意していた少年ー蒼ーが帰ってきて、ご立腹の女王を慰めようとしていた。この少年もまた少女のように浮世離れした風貌を纏っており、まさに王子というのがふさわしいような少年であった。彼らの関係と言えば差し詰め双子と呼ばれる存在である。
そんな彼らは今年の4月からこの場所に探偵事務所を構えている。そして幾分か年齢の下の少女に凄まれている男がこの事務所初めての依頼人である、齋藤という人物なのだ。
「もう一度聞かせてください。齋藤さん」蒼の呼びかけに、身震いをした齋藤は、まるで石化が解かれた後のように、焦点が定まっていないような虚ろな目のまま、ぽつぽつと事のあらましを話始めた。
「あれは、いつの晩のことでしょうか。先週のことです。いつも通り夜道を家へまっすぐ帰っている途中のことです。それは一瞬でした。何かが横を駆け抜けたのです。何かです。何か。これには全く見当は付きませんが、その直後何か大切なものをなくしたことに気付いたんです。何をなくしたのかはわかりません。でも大切なものです。鞄の中も当然探しました。でもないんです。というかそもそも鞄の中には行きに入れたものしか入ってませんでしたが。。。それでも大切なものを無くしたという焦燥感だけが残ってどうしようもないときに、下の喫茶店の店長さんがここを紹介してくれたんです。「ここならあなたの探し物もわかるし、きっと見つかる」といって。」
部屋は台風が去ったようなささやかな平穏を保ち、その一抹は困惑すらも超越した何かが彼らの心中を染め上げた。だれも口を開くことなく、ただ時間だけが人の間を縫って進んでいた。このままではいけないと思った蒼は錯乱した中でも、ただのモノローグのように口火を切っていた。
「なくすのは物だけじゃない」
「どうゆうことなの」朱は相変わらず不機嫌そうではあるが、蒼のモノローグに対しては少し冷静な様子で詳しい話を求めた。
「いや、別に大したことじゃなんだけど、失くしたのは物つまり物質だとは限らないんじゃないかなって、例えば何かの夢だったり、そういうものとかだったりしないかなって思っただけ」
少し不安そうな顔をしながら、曖昧な表現でたどたどしくも言語化された思想を話す蒼と少し不服そうではあるが、一応は納得したような表情を見せる朱ではあったが、当の依頼人と言えば、ただでさえ青ざめている顔をさらに上から青を塗りたくり、まるで廃墟に佇む亡霊のような顔を見せていた。
「もしかして思い当たる節でもあるんですか?」齋藤の表情に何かを感じた蒼は齋藤に対して質問を投げかけた。しかし当の齋藤はと言えば
「いえ、特には...これまでの人生に夢や希望を持ったことはないとは言いませんが、それを失くしたなんて言うのは少し,,,」と言いづらそうに濁しながら蒼の質問にこたえた。
そして齋藤の緊張感は絶頂に達していたのだろう。その後は一言も話せなかったので、朱もあきれてしまい、蒼も少し申し訳なさそうに「今日のところはお開きにして、また後日、落ち着いてからお話しましょう。このままじゃ何を失くしたのかもわかりませんし。」といってその日は解散をした。
後日、依頼人は再び、この氷の女王と忙しなく働く温厚なメイドのいる事務所に訪れていた。彼の顔は以前よりも少し落ち着き、すこし朱色も戻ってきているようだった。
しかし、蒼が「それで何か思い出せましたか?」と率直に聞いては見たものの齋藤はただはにかむだけであった。
「これは可能性のお話です。別に気取らなくても結構です。だけど聞いていただきたい。」蒼は沈黙を破るかの如く、その張りのある美しい声を飾り気もない空間に響かせた
「まぁ、急に何よ。何か思い当たることでもあるの?」朱は自分も知りえない可能性に、自分ではなく、蒼に気付いたという事実に困惑しながらも、その答えを聞きたいという二律背反のような境地に陥ってはいたが、やはり知りたいという欲に任せ、話を促した。
ここで一つ言っておきたいのだが、彼らは特段、不仲というわけではない、家族構成こそ複雑ではあるが、唯一無二の血縁であることは間違いない事実であり、互いの欠点を笑い飛ばせるくらいには昵懇の仲であるのは間違いないことだ。ただ謎解きという事象に対しては各々が少し気を張っており、またそれだけ自信と責任を保持しているという表象が彼らのこの態度であり、見掛け上の関係性なのである。
「前も言ったと思いますが、失くすものと言えばモノだけではないと思うんですよ。それが記憶や関係性だって、僕らもずっと昔失くしたモノがありますし、まぁそれはいいんですけど、僕が言いたいことはそういった関係性や記憶をなくしたのではないかというです。齋藤さん、率直に聞かせていただきますが、もしかして今まで記憶喪失しなったことはありませんか?」
蒼は自身の鬱積をここで吐き出すかの如く、思想の内側をこの齋藤という木石のような男に曝け出した。しかし当の斎藤は、どちらとも謂わない表情を見せながら いやその返答を拒絶したがっているような趣のまるで鏡を前にした人間のような表情をしていた。
「記憶というのは決して無くなるということはありません、それが長期記憶の中に内蔵されてれば。しかしその記憶というのは決して記憶した状態と同じではありません。また簡単に取り出せるものではありません。長年使ってはいないが、捨ててはいないモノは押入れの奥底に、そして取り出してみれば当時の輪郭だけ残しながら、褪せている。記憶もそれらと同じです。しかし、その記憶はひょんなことから蘇ります。あの時、刹那的に思い出し、刹那的に忘却した。ということは考えられませんか。」
蒼はまるで自身の考えを他人に押し付ける、自白強要をする強情な警察官のように齋藤に詰め寄ったが、齋藤は先ほどよりは些か困惑しているようではあるが、顔の大半は先ほどと何ら変わっていない。
朱と言えば、「またそれか」と言いたげな、どこか嘲笑したように蒼の話を聞いていた。
部屋は不穏な安寧を鏡で映し出したような空気に包まれていた。齋藤も前回とはまるで人が変わったかのように、泰然としており、一方蒼はと言えば、何も話さない齋藤を前に怪訝な顔をせざるを得なかった。そんな何も進展を起こさなかった時間も絶えず河川のように流れている。ふと齋藤は一抹の独白を始めていた。
「僕には妻がいたのですよ。ただそれだけなのです。」
そんな一言をカセットテープが入ったラジカセのように話したかと思えば、急に生気を取り戻され擬人化した彼は、少しばかりもたつきながら、「もう少し思い出してから来ることにします。」と言うのが早いか、神妙な顔つきをした女王と、一面に囚われた愚かな小間使いの間を縫って去って行ってしまった。
その夜と言えば、宴の刹那的な狂騒の後にやってくる相対性を持ち合わせた静寂が彼らの頭を掠めていた。
「そんなに沈んでどうしたんだい?」
今や双子の親代わりになっている紫苑はさも心配を顔に塗りたくっていた。一方の双子と言えば対象的な様を見せていた。
「お兄様、蒼は己の過信が過ぎたばっかりにその洟を圧し折られたのですよ。」
「うるさいな。朱だって何にも手立てはないんだろう?それなら僕と一緒じゃないか。」
そう荊の応酬が一旦始まってしまえば、バルカンのような二人の欝憤はサライェボの悲劇が大戦を開戦させたように痴話とは言い難い見苦しい醜態を発現させた。この醜態と言えば、まるで白鳥に囲まれた家鴨のように、日々の秀麗の影を見せつけた。
―
「その辺にいとかないか。蒼も朱も。」
少し恕の入った濁声が響いた。瞬間、双子は将兵のように動きも発声すらも止めた。すると今度はまるでガブリエルがこの地に降り立ったかのような慈悲の声で紫苑は双子に問いかけた。
「一から話してごらん。何があったのか」
これは記述すべきことは甚だ疑問であるが、この紫苑という男は普段滅多に怒ることはない、ましてや怒髪天を突くほどの怒りは生誕から見せたことはない。その上、飴と鞭の使い方は随一な所があるため質が悪い。そこを熟知しているからこそ、この双子も反抗の意思を抑圧したのである。
「実は、依頼で行き詰ってしまったんだ。」
「依頼というと僕が紹介した彼の依頼かい?」
そう紫苑が言うと蒼はただ水飲み鳥のように頷くだけだった。
「あれは依頼なんて言えますの?本人も知らないものを探すなんて。。。」
というのが早いが朱は食器の残った冷めたスープを一匙喉に流した。
辺りは再び狂乱の後の平穏を残した。
少しの間が空き、朱は微かに眉を引き上げたと思えば呟いていた。
「そういえば齋藤さんは奥様がいたといっていたわね。いるではなく。」
それだけ呟くとまた口を閉ざし、その眼すらも閉ざしてしまった。
夜は彼らの未来を暗示しているのだろうか、その日の月は赤く煌めき、辺りは夜の濃霧が包み込んでいた。
明くる日また齋藤は事務所を訪れた。彼は死刑を待つ罪人かの如く、顔を蒼白に彩り、頬は削れ、その眼は諦念を映し出していた。
そして開口一番「今日は話があります。」といい重い足取りをいつも座る指定席まで伸ばした。
「私も少し思いついたことがありますので、一応先に私からのお話がよろしくて」
いつになく晴れ晴れとしている朱はいつになく丁寧に、いつもの女王ぶりは鳴りを潜め、まるでグリム童話に出てくるかのような少女っぷりを如何なく発揮した。
この対応に齋藤は少しびくつきながらも、「自分も決心してきたのですが、ここまで来て臆してしまっていたので、、、」と言い朱の話を促した。
すると朱はまるで自らをクリスティ(彼女は推理作家であろうというのはここではなしだ)だと言わんばかりの趣で話を始めた。時刻は正午を少し過ぎた伸びやかな昼下がりだったが、この場は正に寒冬の夜のような寒さを感じさせる程であった。
「まず一つ、あなたには奥方がいた。そうでしょう。」
「はい。。。」
齋藤は少し俯きながら、頷いた。
「しかし。あなたはそれを隠そうとした。となると何か疚しい事でもあるのかしら。」
「朱、何がいいたいんだよ。」
「簡単なことよ。蒼。後ろめたい事なんて一つ、齋藤さんは何か「罪」を犯し、奥様と離別した。そんなところでしょ。もっと言えば彼女の事を殺したまであるのかもしれないわね。」
「朱、そんなこと。。。」
「でもこれを否定できるかしら。」
齋藤はただ黙って聞いていた。
「じゃあ失くしたモノってなんなんだよ。」
少し焦燥を見せる蒼は眉目秀麗な顔を歪ませ朱に詰め寄った。
「そこまでは考えてなかったわ。まあでも一つあるとすれば、彼女を傷つけた証拠でも失くしたんじゃない?忘れていたけどずっと持っていたモノ。つまり誰にも見られたくないものじゃない。」
「いや、そんなもの持ち歩かないだろ。」
「あら、そうかしら。誰にも見られたくないが、自分の傍にないと落ち着かないなんて事ざらにあるのではなくて。もし自分の傍になければどこで誰が見ているか分からないでしょ。」
「確かにそうだけれど」
齋藤は憂いな顔をしながらも目は据わり、渦中に飛び込む意を決して話し始めた。
「朱さんの言う通り、僕には妻がいました。そしてその妻はもうこの世にはいません。しかし朱さんが言ったようなことは決してなかったです。いや僕がそう思っているだけかもしれないですが。」
「どうゆうことですか?」
「実は妻は自殺をしたんです。」
「それは。。。」
蒼は勿論の事、此処では朱さえもその瞼を閉ざし、すこし俯かざるを得なかった。
さて、ここで聡明な双子が齋藤の妻が死んだにしろ、そうでないにしろ、齋藤が結婚しているという事実に気付かなかった、否感知しなかったというのは何故であろうか。つまり記憶にはエラーがあったということであろう。
蒼は少し頷いた。それから朱の方を見て、頷いた。
寒さは和らいでいたのだろう、春の息吹が芽吹いたように蒼は咲き乱れた。というのは少し場にそぐわない、強いて云うのならば子葉を出したというのが正しいのかもしれない。
「嘘は良くないですよ。斎藤さん」と蒼は言った。
「嘘は言ってない!」と鳩が豆鉄砲を食ったように齋藤は言った。
蒼は「確かに嘘は言ってない」と呟いた。それから「指輪、指輪はどうしたんですか?」と聞いた
「指輪?指輪は…」と齋藤はそこまで言って自分の左手の薬指を見た、当然そこにはあるべき筈の、既婚者ならあるべき筈の指輪はなかった。それを確認した齋藤は慌ててこう言った。
「つまり、なくしたのは指輪だった」
しかし、蒼は憂いた顔のままである。朱は秀麗な様を崩さない。季節は春というよりも秋のようだ。実際は春でも秋でも冬でも無ければ、夏というわけでもなく、まぁやっぱり春なのだが。誰かが言った「大切なものだけど、鞄からも体からもなにも無くなったものはないのでは??」
「無くしたんじゃないんでしょ?亡くしたんだ。亡き者にした。指輪を。いや指輪はそのきっかけというか契機というかその遺物みたいなもの」蒼は物案じたように、そして断罪したようにそう言った。
それから朱が続きを紡いだ。
「なくしたのは記憶。なくしたというのも少し違うわね、無くしたというか改竄した。改竄したというのもやっぱり違うわ、耐え切れなかったっていうのが正しかった。」そして朱は一息ついて続きを話そうとした。その時齋藤は耳を塞ごうとしていた。それはまるで気圧の違いで耳鳴りがした人のようだったが、そこで耳を塞いでいい人間というのは本当に耳が痛い人間だけだ。
「つまり、私達が言いたいことはこういうことよ」
「あなたの奥さんは自殺なんてしていないんでしょ、本当は離婚した。離婚した理由まではわからないけど、私が言ったのとそう変わらないんじゃない?」
齋藤は何も話さない
「確かに、指輪一つでなんのそのとは思われますか?でもそれだけでいいんですよ。それにあの時僕は言いましたよね、記憶なんてようはチョコレートみたいなもので、熱で溶けてしまうのと然程変わらないのですよ」
齋藤は耳から手を外してからこう言った。
「どうでしょう、私は嘘なんて言ってないんですよ。どうしようもないほどに。実際に妻は自殺したんですよ。」
「あなたは読み切った本を売ってしまうタイプですか?」蒼は唐突にそう言った。
「いや、売ったりしないですよ。」
「僕の知り合いに読んだ本をすぐに売ってしまうって子がいるんですよ。なんで?って聞いたら、その子はもう読まないから、だったらお金になった方がいいじゃん。って。でもその子、あんまり本の内容覚えてなかったんですよね」
齋藤は少し困ったように蒼の顔を見た。蒼は齋藤の顔を見ることなく、自分の前のコップの中に映る自分の姿を見ながらこう続けた。
「あなたの誤算は、奥さんと別れてしまったことなんじゃないんですか?物の価値は失ってから気付くと言いますが、あなたはそれを体感してしまった。だからこそ誤魔化すんですよ。指輪も捨てて」
「そもそもですね、自殺の理由は何なんですか?」
蒼はそう聞くと、齋藤は言葉が詰まった。
「分からない、何も分からない、もう何も分からない」齋藤は呻くようにそう言った。その掠れた呻きはどことなくこの部屋に反響し、言霊が漂ってしまった。外ではもう夕日は傾きすぎて橙というより赤というよりもはや青だった。深く黒い蒼。
後日談というのは些か拍子抜けする単語だが後日談は後日談だ。
端的に言えば、齋藤はその日から姿をくらました。つまりこの事務所に姿を現すことはなかった。それに対して双子もその兄も何も言わない、何も行動を移す訳ではない。要するにただの憶測はただの現実であった。そして現実は現実である。理想が理想であるように。
シャクターはこう言った、記憶そのものが不完全である。
「齋藤さんの妻は生きているのでしょうか」
朱はそう言う
その問いに紫苑は「そんなものは重要じゃないでしょ。でも自殺は多分していないと思うよ。自殺しているならやっぱり指輪を無くしたことに気がつく、忘れていたとしても思い出すならあの瞬間だ。彼が言ってたあの瞬間。ならやっぱりおかしい」と言った
「じゃあ結局のところ齋藤さんはどうだったんだろう。」蒼は紫苑にそう言った
そして紫苑はこう言うのだ「結局のところ、これは悲しい物語ではなく、現実的な、よくある物語さ。齋藤さんは、加害者であり、被害者さ。よくある物語だよ」
双葉はいつか花になる 犬歯 @unizonb
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。双葉はいつか花になるの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます