第21話 雑草の一人や二人、居ても居なくても変わらないのよ。

 あの日から、僕の身に起きた変化といえば、まあ大した変化ではないけれど、強いて言うならネガティヴになった気がする。ありとあらゆる自信が尽く打ち砕かれたというか、まあ生まれてこの方、自信なんて付きようもない人生を送ってきたので、剥がれ落ちてしかるべき虚勢が全部剥がれただけのような気もするんだけれど。


 井の中の蛙大海を知らずというが、それにしても僕の井はいくらなんでも小さすぎたから、例えるならお猪口の中のメダカが茶碗に引っ越したとか、そんな取るに足らないことに過ぎない。


 夏希、木之本さん、兄分の三人は、今から一年前、幻の辻斬り丼が木之本さんの味蕾みまいを襲撃して以来、比喩でも何でもなく毎日西武食堂で話しているらしい。


 かくいう僕も、気付けば次の日も、その次の日も西武食堂へ足を運んでいた。一日目は兄分の辻斬り丼をご馳走になるためだったが、二日目からはどうしてだったか覚えていない。つまるところ、僕はみんなの顔を見たいだけだった。でもあれこれ口実をつけないと、僕がみんなに会うのははばかられる気がした。みんなと対等に話すなんて、あってはならないことだと思った。だって僕にはなんの取り柄もないのだから。


「はいよ、いっちょあがりってもんだい」


 その日の昼下がり、兄分が厨房から大ぶりな椀を抱えてやってきた。食堂を切り盛りしている一人の女性とかなり懇意な間柄のようで、頼み込むと厨房にも入れてもらえるそうだ。いくらなんでも懇意すぎる気もするが、それは兄分の人柄が為せる技なのだろう。


 コトンとテーブルに一杯の丼が置かれる。器の倍の高さまで盛られたチキンカツには充分なインパクトがあるが、真に注視すべきはその下に隠れたレモンの海である。器八分目あたりまで並々と注がれたレモンには、おそらく僕の間脳視床下部あたりが拒絶しているだろう。


 予想を超える刺激臭に若干の戸惑いを隠しきれない僕に、兄分は「早う食え、ほれほれ」と催促する。


「い、いただきます」

「おう、食ってみな、


 ……この場合、本当に飛んでしまう可能性があるのであまり笑える冗談ではない。木之本さんという儚い犠牲者を偲びつつ、僕はレモンの大海に沈んでいるカツを箸でつまみあげ、すっかり黄色く変色した衣を口に運んだ。


 揚げ物特有のサクッ、サクッ、という小気味良い音はしない。しっとりを超えてびっちょりといったところである。が、しかし。その生理的嫌悪感を引き出している暴力的酸味が、不思議と暴力的旨味へと昇華されている、ような……。


「……これ思ったより、っていうか、すげー美味いぞ」

「おおっ! 分かってんじゃねえか、てめえはだと思ってたぜ!」


問題のレモン果汁はただ味覚を殺すためだけにかけられたとしか思えない強烈さだが、慣れてしまえば、なかなかどうして悪くない。


 やはり僕らは兄弟だから趣味嗜好まで合うのだと誇りたくなったが、ひとつ、またひとつと、びっちょりカツを消費していくうちに、どうやらそういう訳でもないらしいことに気がついた。


「この味、家の味に似ているかもしれない」

「家の味? なんだそりゃ」

さちっていう人の味にすごく似ているんだ」

「ああ、またそいつか。俺が言うのもなんだけど、そいつはたぶん、変人ってやつだぜ」

「……変人か。ふはは、そうだね、その通りだ」


 変人。その言葉に僕はすっかり納得してしまった。夏希も兄分も木之本さんも、みんな一癖も二癖もある人だけれど、変人っぷりにかけては幸がぶっちぎりの優勝だ。アイツの所作ひとつひとつに感じる僅かな違和感は、そうか、変人なんて簡単な言葉で表現できるものだったのか。


 僕はいつしかすっかり夢中になっていて、気付けば椀はあっという間に底を見せていた。テーブルに肘をついて身体を預けていた兄分が、目を細くして僕を観察している。


「美味そうに食いやがるなてめえは」

「ああ、美味しかったよ。とても」

「ガハハ、そいつぁよかった!」


 豪快に笑い飛ばす兄分に、まるで本当のお兄ちゃんみたいだなと僕は思う。そのまま二人で話し込んでいるとすっかり日が落ちてしまったので、僕らは帰り支度を始めた。「レモンの匂いでバカが伝染る」と言って食堂から避難していた夏希と木之本さんと合流し、僕は家路に着く。


 西部大学の正門あたりまでやってきて、兄分が何かを思い出したように口を開いた。


「あ、わりぃ。俺忘れ物したから先帰っといてくれ」


両手を顔の前で合わせている。僕らがそれを謝罪の意思表示だと理解すると同時に、兄分はきびすを返してそそくさと行ってしまった。


「忘れ物パターンは通算二百回目だね。梓、今日は記念すべき日だよ」

「ナツ、まさか毎日数えているっていうの?」

「あったりまえじゃん。こんなバカ様々のイベントは他にないよ」


若干の物悲しさに包まれている僕とは対照的に、彼女らは平然としていた。忘れ物が二百回目? すこぶる理解に苦しむ話だ。


「おい、意味わかんねーぞおまえら。兄分が毎日のように忘れ物をして大学に戻るっていうのか」

「全くもってその通りだよー遠矢くん。我らが兄分様は、それはもう稀代の大バカ野郎なので、実に一年もの間毎日欠かさず忘れ物をするのですよ」

「はあ? そんな訳ねーだろ。そんなの兄分が嘘を言っているに決まっているじゃないか」


 そこまで言ってから、僕はハッとした。


「いや、兄分が僕らに嘘をつくなんてありえない……から、やっぱり毎日忘れ物をしているに過ぎないんだ。たしかに兄分はその、ちょっとだけバカかもしれないから」

「土方君が嘘をついているに決まっているでしょう」


木之本さんが僕の希望的推測をぴしゃりと一刀両断した。ではそんなみえみえな嘘を兄分がついているというのか? 


「忘れ物したーとか、ちょっとトイレ行ってくるから先帰ってろーなんて言って、未だに翔と帰ったことないんだよね。まあ、あんなバカでも秘密のひとつやふたつ抱えているってことなんじゃない?」

「で、でもそれって……」


哀しく、ないのだろうか。一年も共に過ごしている仲間に、毎日嘘をつかれるなんて。


「バカね。私たちはそんなことで仲間外れにするほど子供じゃないし、そんなことを追及するほど仲良しこよしじゃないわ。雑草の一人や二人、居ても居なくても変わらないのよ」


木之本さんが髪を耳にかけながら淀みなく言った。それは常に冷淡な彼女の、分かりづらいけれど紛うことなき友情の言葉だった。


 会う約束なんてしていないけれど、勝手に食堂に足を運んでみれば、みんなも勝手に食堂に居る。「アンタはお呼びじゃない」、「雑草を愛でる趣味はない」、バカだの雑草だのやいやい罵り合っていると、日が暮れる。日が暮れると、「さようなら」とか、「また明日」の代わりに小さな嘘を口にする。毎日、毎日。学校という箱庭の中でしか成立しない、歪だけれど確かな友情の形。


 僕はなぜか、嬉しくなって言った。


「おまえらってさ、なんつーか、すげー良い奴だよな」

「だからそういうのがイタいって言ってんの。なんで分からないかなー遠矢くんは」


夏希がうげぇといった風に僕を蔑んだ。そんな彼女をみて僕はますます上機嫌になるので、木之本さんも一緒になって僕を気味悪がるのだった。

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