第6話 これが、外の世界……。

 爺ちゃんの家は山の奥深くにある。扉を開いた僕の目に飛び込んできたのは、静かな森の世界だった。


「これが、外の世界……」


 僕は呆然と立ち尽くす他なかった。眼前には見渡す限りの木々と草花がある。見上げれば一途に高くて澄んだ青空がある。目を閉じれば肌を撫でる穏やかな風がある。耳をすませばどこからか聞こえる小鳥の声がある。


 ……ああ、世界はなんと美しいのだろう。いつも窓から見ていた世界が、この先に限りなく広がっているのだ。こんなに心躍ることはない。


雄大な世界に圧倒される度、自分が生きていることを実感できる気がした。そうだ、自然が生きているように、僕はここで生きているんだ。


――――山を下り始めて一時間はたっただろうか。散歩は気持ちいいものだな、と思った。どうして爺ちゃんはこんな山の中に暮らしているんだろう、そういう取り留めの無いことを考える。


考え事があぶくのように浮かんでは消えていく、そんな寂寥感せきりょうかんに似た何かが、しかしそれすらも泡のようにぼやけていて、今は、それが無性に心地いい。まだ道は続いている。まだ散歩は終わりそうにない。とめどない思考の世界に、僕は再び溺れていく……。


今回の散歩の目的地は、西部大学という西オーガット一番の大学だ。オーガット、というのはこの国の名前らしい。


この国では西オーガット、東オーガットという風に、東西で区別される。なんでも、十年前に軍部が東西に分断されるきっかけとなった大事件が起きたらしい。そのせいでオーガットは西軍、東軍という二つの陣営に分かれて約一年争い続けたという。それが、この国に生きるものなら知らない者はいない、三千年戦争。西暦三千年に勃発したから三千年戦争、だそうだ。今から十年前の話である。


 ではどうして軍部が二つに分断されているのに、国は分裂しなかったのか、と爺ちゃんに聞いたことがある。すると爺ちゃんは、なんとも歯切れが悪そうに答えた。終戦時に東西が和睦したから、と。


西部大学は、そんな西オーガット中央に位置する広大な大学だ。オーガット復興の目玉政策として建てられたという。


別名、門戸もんこなき学び舎と呼ばれるこの大学は、一般的な大学と比べてかなり特殊である。


 まず、西部大学に所属する学生は存在しない。そもそも、大学入試という制度がないのだ。お金のない学生に慮っているのであろう少額の一日分の入場料さえ払えば、後は誰でも好きなだけ講義を受講できる。それも国が誇る超一流教授たちの超一流講義を。入学試験もなければ卒業証書も存在しない、ただ純粋に学に志す若者にオーガット一番の教育を提供する国営桃源郷、それが西部大学……と爺ちゃんが言っていた。


もちろん、僕が大学の講義なんか一つも理解できっこないのは重々承知である。今日の僕の目的地は、超一流講義が行われる講義室ではない。学内にある超一流食堂、西部食堂だ。


 ランチ目的で大学に行くなんて冷やかしもいいところだけれど、風のうわさで耳にした、西部食堂にまつわる都市伝説がどうしても気になるのだ(風のうわさ、といっても僕の人間関係は家族含めて、というか家族だけだし、それもたった二人である。ちなみに歳の近い方から聞いた)。


なんでも西部食堂には、気まぐれに厨房に現れては、学生にたった一杯のカツ丼を提供する店員がいるらしい。年に数回ほどしか出会えないというその希少性から、付いた異名は超非常勤婆ちゃん。


悪趣味にも、そのカツ丼には黄色い海ができるほどの多量の檸檬汁がかけられているという。異様な丼に好奇心を抱いたが最後、ごく一部の猛者つわものを除き、ほとんどの学生が、強烈な酸味に耐えきれず泡を吹いて倒れてしまう。そんな奇々怪々な丼を、学生はと畏怖しているらしい。


一部の学生にカルト的人気を誇る幻の丼、辻斬り丼。その響きにはなんだかそそられるものがあった。


僕は生まれてこのかたさちの手料理しか食べたことがないが、たぶん、さちの料理はかなり美味しい。


ここで断言しておきたいのは、彼女の料理に飽き飽きしてしまったから、都市伝説紛いのゲテモノ料理を食べたくなったのではないということである。多様な料理を食してこそ、さちの料理の本当の良さが再発見できるというものだろう。


更に一時間後、僕はようやく山を下り、秋羅原あきらはら、町に出た。


「カギカッコで埋め尽くされた文章を小説とは言わない」とかなんとかドヤ顔で語っている人間がいれば、僕は全力で軽蔑するだろうけれど、僕のように山を下っているばかりでは、人と会話する機会もない。カギカッコも隅で寂しそうにお山座りしていることだろう。


 だがここには人がいる。新たな出会いが、数奇な運命が、町には無数に転がっているのだ。……というのが、僕のシティに対するイメージである。


 僕は頬を両手でぺちんと叩き、始まりの町へと足を踏み入れた。

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