第5話 行ってきます、爺ちゃん。

 三〇一〇年四月十五日。


 まだ早朝だからか、玄関は薄暗くて足先がほんのりと冷たい。


「じゃあ、いってきます。爺ちゃん」

「……ああ、そうかい。さっさと行っちまいな、この親不孝者が」

「えらくぶっきらぼうだなあ。なにも家出するわけじゃないんです。 ただ散歩に行くだけですから」


 ただ散歩に行くだけ。その言葉の重みは、僕と爺ちゃんが誰よりも知っていた。


 僕、火傷遠矢かしょうとおやが目覚めてから、もう四ヶ月がたった。気付けばこの世界には春が巡り、冬は死んだようだった。夏や秋は、まだ知らない。


 四ヶ月前の僕は、言ってみれば赤ちゃんと同じだった。まあその例えをしてしまえば、今の僕は生後四ヶ月で、十二分に現役の赤ちゃんなわけだから、「行ってきます」と言葉を交わすのもおかしな話だけれど。それを可能にしたのは、僕が言うのは変な理由だけれど、でも実際、僕が言うまでもない理由だ。僕は血の滲むような努力をした。人として生きるための、世界を生き抜くための努力だ。


 僕は四ヶ月でありとあらゆることを学んだ。なんというか、ありえないことだと思う。これがドラマや映画なら、全く御都合主義もいいところだろう。でも僕はやった。だって爺ちゃんは僕を十年もの間信じてくれたのだから。十年間目を覚まさなかった僕を、十年間支えてくれたのだから。四ヶ月の努力なんて、たかが知れているのだ。


 少しでも早く普通になりたかった。歩くこと、話すことだけじゃない。瓶の蓋を開けること、靴ひもを結ぶことすら学ぶ必要があった。日常すべてが戦いだった。できることが増えるたびに、できないことの多さを知った。でも僕は負けられなかった。


 全ては爺ちゃんと、彼女のために。


「いってらしゃい、遠矢くん」


 廊下の暗がりから優しい声がする。翡翠ひすい色の髪が腰までかかった十九歳の女性。彼女は僕と同じだ。同じ年齢で、同じ境遇。つまりは十年前、あの戦場で爺ちゃんに拾われたらしいもう一人。最も、彼女は僕のようなではなかったが。


「……さち、いつも言ってるけれど、僕に敬語はやめてくれ」

「あら、いけませんか。 それより遠矢くん、あまり遅くならないでくださいね。ごはん作っておきますから」


佳土幸かつちさち。この三回言うのが難しそうな名前、そしてやたらめったら土が多い名前の彼女は、僕たちの食卓を守ってくれている大切な家族だ。僕も爺ちゃんも、彼女がいなければとっくに飢え死にしているだろう。僕は、彼女に何度も助けられた。


「爺ちゃん、さち。その、なんつーか、さ。今の僕は全部二人のおかげなんだ。僕の全部が、二人でできている。だから、本当に。本当、に……」


途中で、僕の頬に一粒の涙が零れていることに気付いた。それを皮切りに、僕の目から一斉に涙が溢れ出す。拭いても、拭いても、溢れて、溢れて。


「あれ、なんだよこれ。止まんない。止まんないよ。おかしいな、僕、笑っているはずなのに。なんだよ、何も成長してないんだな、僕は」


涙と一緒に、言葉が溢れ出す。


「これじゃあ、これじゃあまるで子供だ。……赤ちゃんと、同じだ」


 嬉しいとか恥ずかしいとか情けないとか、涙にいろんな気持ちが滲んでぐちゃぐちゃだ。この四ヶ月、分からないことは全て分かろうとしてきたけれど、じゃあこの涙は何なのだろう。ひっくと嗚咽してしまうから、考えたくても考えられない。静かな春に僕のしゃくり上げる声が響く。


「まったく、さっさと行ったらどうなんじゃ。ただの散歩にのう」


爺ちゃんは僕の肩に手を置いて言った。涙で爺ちゃんの顔は見えないけれど、その大きくて熱い手のひらが、僕に笑いかけている気がした。


 僕は嗚咽の合間を縫って、赤ん坊のように小さくうなずく。 そして二人の顔を確認することなく後ろを向いた。涙は一向に止む気配がないから、諦めてそのまま扉に手をかける。ゆっくりと、ゆっくりと手をかける。


 「……行ってきます、爺ちゃん」


物語が始まる。そんな予感を胸に秘めながら。

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