第4話 つまり、青年はたった今世界に誕生したのです。
青年は十年間、昏睡状態だった。
そう告げられてなお、青年が動揺することはありません。二人は、ただ静寂を見守ることに専念しています。一方は神妙な面持ちで、もう一方は空虚の霊に取り憑かれたように。
時計の針の音がやたらと煩く、主張するように鳴り響きます。だって、その時計が老爺以外の者に時を知らせるのは、実に十年ぶりのことだったのかもしれませんから。いつもより煩く、そしていつもより何十倍ものろまに響いているその音をかき消したのは、青年ではなく老爺でした。
「……驚きのあまり、声が出ないのも無理はなかろう。しかし、現実なのじゃ。あの戦争は、お前さんから時間を、寿命そのものを奪っていきおった」
老爺は、それは悔しそうに言いました。
――――青年は応えません。
「さきほど遠矢といったが、あれはわしが名付けたのじゃ。気に食わんかったら、すまんのう」
愁いを湛えたその声色で、ゆっくりと語りかける老爺。
――――青年は応えません。
「わしは
老爺はカカッと笑います。
――――青年は応えません。
「戦争は終わった。だが、お前さんは孤独に戦い続けたのじゃ。……よくぞ、目覚めたのう。本当に、よく頑張った」
――――青年は応えません。
――――青年は応えません。
「……さ、さて。今日はゆっくり休むのじゃ。やはり疲れておるのじゃろう。……だから」
――――青年は応えません。
――――青年は応えません。
――――青年は応えません。
――――青年は応えません。青年は応えません。青年は応えません。青年は応えません。青年は応えません。青年は応えません。青年は、
「だから――――」
……オカシイ。何かが決定的にオカシイ。そう、老爺は思ったのでしょう。
疲労困憊、なんて言葉はあまりにも青年とかけ離れている。ならばもっと別の感情、例えば驚愕だとか、戦慄だとか、いや違う。青年はもはやそんな次元ではない。青年は、感情というものを抱くほど高度な次元に存在していない。
それ以前に、青年は自分の話を聞いていたのだろうか。
話を聞いても応えないのではなく、スープを与えても飲まないのではなく、知らない。
スープを与えられるということを、スープを飲むということを、そもそもスープというものを、概念的に、観念的に…………知らない?
「と、遠矢ッ! お前さん、戦争のことを覚えておるか? あの惨劇をッ! あの地獄をッ!」
――――青年は、
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――応えません。
「頼む、少しでいいんだ。応えてくれ……遠矢よ…………」
老爺はようやく気付きました。青年の前にそびえている壁の高さを。残酷すぎる現実を。
十年間、昏睡状態だった青年。彼が目覚めたとき、彼は記憶の全てを失っていました。自分が何者であったのかも、世界に何が起こっていたのかも。スープを飲むことを忘れ、老爺が口にしている言葉という概念を忘れていました。彼は今日、人生を再び歩み始めたのではなく、人生が今日、再び歩み始めたのです。
つまり、青年はたった今世界に誕生したのです。
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