第38話 本当のキモチ。

 一方————男湯。


「ブハッ……ブクブクブクブク……」


 俺は薄い塀一枚を隔てた女湯から聞こえるあまりにも扇情的な旋律に聞き惚れ、湯船に沈んでゆく真っ最中だった。


 イチャコラしやがってぇ……向こうはヘヴンか? ユートピアか?


 そこには世界で一番美しい百合の花が咲いているのかぁぁぁぁ!?


 そういうのも、いいと思います。


 普段はそのおっぱい意外にエロとは縁遠い姫咲の声だからこそ、興奮もひと塩。


「我が人生に一片の悔いなし……」


 親指を立て、熱い湯船の底へ落ちてゆく。


 ありがとう。

 これが俺の人生最初で最後の、最愛奏へ送る感謝である。


 あ〜りがとうございまぁす!


「ブクブクブクブク……————ブホォ!?」


 美女が手招きする三途の川を最高の気分で渡ろうとした寸前、頭を引っ張られて現実へ戻ってくる。


「なーにしてんのさ。ほんとに死ぬよ?」

「いいんだ……覗きはできなかったけど、これはこれで。俺は幸せだったとみんなには伝えてくれ」

「伝えないよ……」


 シュンは呆れた顔で苦笑した。

 こいつはさっきの甘美な声を聞いてなんとも思わないのか?

 

「オマエ……枯れてるな……」

「枯れてないよ!?」


 叫ぶと、シュンは女湯へ声が届くことを意識してか、取り繕うように咳払いする。


「僕だって女の子は好きだけど、学園の子はそんなふうに見れないかなぁ」


 湯船に浸かり直して、小さく呟く。


 つまり、学園外の女性と関わる機会がイケメン様にはあると?


 たしかにシュンはどちらかと言うとカワイイ寄りの美少年だし、年上からモテるんだろうな……。


 改めて裸のお付き合い(血反吐)をすると、自分との素材の違いに嫉妬を通り越して虚しくなってきた。


「はぁ……」


 ため息を吐いて湯船に浸かり直す。


 俺だって75点の男になったつもりだが、シュンの前ではただの引き立て役だ。


 姫咲の喘ぎを脳内で無限リピートして心を鎮める。いや、昂らせる。


 よし、落ち着いた。


 正常な精神状態です。


「あー、そういえば」

「うん? どうしたの?」

「いや、シュンじゃなくて」


 俺は女湯の方へ顔を向けて、大きめの声量で声をかける。


「おい琥珀ー? いるかー?」

「………………なに」


 しばらくすると返事があった。

 迷惑に思っているのを微塵も隠さないような声音だ。


 琥珀の声は小さいが、他の客もいなくて静かなのでギリギリ聞き取ることができる。


「せんぱい!? なんですか!? 今から女湯来ますか!?」

「そのお誘いは素晴らしいけど捕まるからやめてください。あと先程はありがとうございました。もう十分なので引っ込みやがりください」

「ぶー!」


 最愛の相手をしていると話が進まないのでご退場願う。


「で、琥珀ー? オマエ大丈夫かー?」

「………………なにが」

「いやオマエ、のぼせやすいだろー? ヤバそうだったらみんなに合わせないで早めに上がれよー?」

「…………っ……余計なお世話……!」

「いてっ!?」


 風呂桶が飛んできて脳天にクリーンヒットした。


「何すんだ! 心配してやってんだろ!?」

「うるさい。もう黙って」

「おまえなぁ……!」

「……ふんっ」

「いてっ、いててて、いてぇっつの!!」


 桶やらシャンプーやら何やら飛んできたので諦めて会話を打ち切った。


「はぁーもう、なんなんだよ……」


 昔、琥珀の家族————主に祖母なんかに連れられて銭湯に来ることがあった。


 おばあちゃん子だった琥珀は長風呂の祖母に付き合おうとしてすぐに真っ赤になってのぼせていたのを今でも覚えている。


 よく団扇であおいでやったものだ。


 それを思い出したから言ってみたのだが、ちょっぴり後悔。


 しかし話は聞こえていただろうし、立花先輩や姫咲が気を利かせてくれるだろう。


「はは。ふたりは兄妹みたいだね」

「まぁ、そうだなぁ。生意気すぎて困る」


 俺の言うことなんて何も聞かないのだ。


 離れて、近づいて、また離れて、気まぐれな黒猫は何を考えているかサッパリで。

 琥珀を懐かせていた婆さんには尊敬の念さえ抱く。


「でも琥珀ちゃん、少し変わったよね。学園での様子もだし、スズメの前でも」

「はぁ? 俺の前で?」

「中学では学校で話すこととかまずなかったじゃない。僕は2人がこんなに仲良いなんて知らなかったよ」

「仲良くねえけどな」


 まぁ、たしかに話す機会は格段に増えているかもしれない。

 その度に、分からないことが増えるばかりだが。


「変わろうとしてるんだね、琥珀ちゃん」

「だな」

「偉いね」


 微笑むシュンに頷く。


 たとえば、俺が今更真面目に生きようと思ったって絶対に無理だと思う。

 琥珀は受験を主席で合格してみせたが、今から俺が一念発起してテストで学年一位を目指したとして、できるかと言われたらそれもまず無理。

 そんな根気はない。


 クラスの人気者にだって、なれる条件や適正というものがあるだろう。


 それなのに琥珀はまた、歓迎会でも自分の殻を破ろうと新たな挑戦をしようとしている。


「意外と頑張り屋なんだ。ウチのネコは」

「だからなんだかんだ構っちゃう、と。で、気まぐれに逃げられて今度はスズメが落ち込むんだね」

「いや、なんだそれ。意味わからん。俺はただ振り回されてるだけだ」


 否定すると、シュンはそっかそっかと笑って受け流す。


「あいつも、琥珀ちゃんみたいに————————ればいいのにな……」


「あん? 今なんて言った————」


 シュンの呟きに聞き返そうとした、その時だった。


 ザバッと豪快な音を立てて、中央の湯船が盛り上がってゆく。


「な、なんだなんだ!?」


「ふーーーーっ…………」


 突如湯船の底から姿を現した男————小柄な少年は熱くほてった身体でゆっくりと深呼吸した。


「あ、藍!? おま、なんでここに!? ずっと潜ってたのか!?」


 そう、湯船から現れたのは立花先輩の弟、立花藍だった。


「え……? ああ、天川先輩。よく来るんです、ここ」

「お、おう……そう、だったのか……」


 至極平坦な返しに、逆に面食らってしまう。


 立花先輩に連れられて来た銭湯なのだから、弟が通っていてもさほど不思議はない。


「で、なに……してたんだ……?」


「考えてたんです」


「は?」


「自分のこと」


 お湯の滴る顔で、立花少年————藍は瞳の奥に眠る炎を揺らすようにゆったりと言葉をこぼす。


「僕の、本当のキモチ。僕が、本当はどうしたいのか。僕が、本当は何を求めているのか。どうして、あの人だと思ったのか。ずっと、心のどこかで引っかかってた」


 それは俺の問いに答えているようで、実際のところ自分自身に向けて言っているように見えた。


 そして、その瞳の奥にいるのは俺の幼馴染だ。


 静かに、藍の心が燃ゆる。


「……それは、わかったのか?」


「はい。大丈夫です。今、やっと分かりました。……では、僕はもう行きますね」


「お、おう……気をつけてな。明日の歓迎会も、よろしく……」


 ただならぬ決意を仄めかす藍は迷いのない歩みで脱衣所へと姿を消した。


「はは……貸切じゃなかったみたいだね」

「ああ……そうだな……」


 残された俺たちは呆然と苦笑いを浮かべながら、視線を交わしたのだった。

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