第24話 やさしさに包まれたなら(2)



 このレンゲの花はどこで摘んだものだろうか?やはりあのさかいの池の周りの野原だったのだろうか?私の脳裏に春の野原に一人たたずみ明るい日差しの下でレンゲを摘んでいる真希お姉さんの幻像が浮かぶ。



 一度も見たことが無い光景であるはずなのに、それはあまりにも生々しくて、もはや現実には存在しない場所だと言うことさえ忘れてしまいそうになる。



 私はさらに鞄から恭子先生にいただいた夏祭りの伝承の冊子を取り出して開いてみた。小雨の降りしきるテラスで話をした時に、「興味があれば読んでみれば良い」と手渡された物だ。今、恭子先生が携わっている郷土史関連で観光客向けに作られた冊子らしい。



 表紙には白い衣装をまとった少女の姿が描かれている。山から下りてきたかみさまだろう。跪いているのは、かみさまを迎えに行ったという若者だろうか?白い衣装の少女の姿はほっそりとしていて、私は何故か真っ先に「真希お姉さんには似ていないな」と思ってしまった。山のかみさまの話を聞いていたときに無意識に私は真希お姉さんをイメージしていたようだ。



 ……伝承では昔々、この町のあたりに人が住み始めた頃、里は大きな飢饉にみまわれて人々がバタバタと倒れ沢山の人が亡くなっていったのだという。



 万策尽きた人々は山のかみさまに祈りを捧げ、古くから伝わるかみよびの儀式を行ったのだそうだ。そして、その願いに応えて美しい女のかみさまが降りてこられた。かみさまは代償として男衆の中から婿を求められた。



 やがて一人の若者がかみさまに選ばれ婿となり、かみさまは山と里に恵みをもたらしたのだという。そしてかみさまが降りてこられた場所からは豊かな水が湧き出て、里は飢饉から救われた。



 それからもかみさまは山と里に恵みをもたらし続け、里に災いが起こったときも守ってくれたのだと言う。そして、かみさまの婿となった青年が仁礼山家の開祖となった……



 そうした昔話が絵物語になって冊子につづられていた。



 そういえば、昔にもそう言う話は聞いた記憶がある。確かかみさまは犬を家来にしていて、それがこの町のお祭りにも残っている、とか、湧き出た泉から出る水を貯めて作られたのがさかいの池である、とかそういう話だ。



 泉、というのは私の記憶にあるあの湧き水のことだろうか?



 今でも鮮明にあの湧き水で裸の真希お姉さんに水を浴びせて喉を潤したときの記憶が残っている。確かにどこか神聖で浮世離れした感じのする空間であったような気がする。



 それほどに神聖な場所であんなにも淫らなことをしてしまったのだ……という気持ちにもなるけれども、やはりかみさまに近い場所だからこそ、あんな夢のような時間を過ごすことが出来たのかも知れない。



 あの時の裸の真希お姉さんは神々しいほどに美しかった。まるでそこが真希お姉さんの本来の住処であったかのように。



 山のおやしろがあったのも確かあの近く……遠い昔にかみさまが降りてこられたというのもあながち作り話でも無いような気持ちになる。



 冊子の他に恭子先生がワープロで打たれた原稿のコピーもいただいた。いずれ町の伝承として本にされるつもりなのだそうだ。そこにも山のかみさまの伝承が記されていたが、少し冊子に残された昔話とは違う内容のものも含まれていた。



 ”かみよびの祭りに応じて現れたのは、はじめ子牛ほどもある大きな白い犬であったとも言う。その姿の山神はやがて一柱の女神に姿を変え、里人に供物を求めた。その供物が今に残る獣肉と山菜であったと神社に残る最も古い縁起には記されている”



 ”また仁礼山家には異なった口伝もいくつか残っている。曰く。山のかみさまは一柱ではなく三柱の姉妹の神で長姉の神が山の幸をもたらし、真ん中の姉神は仁礼山の祖を婿にとり、末妹の神はうつしよととこよの境で人々を見守っているのだ、と”



 ”長姉神は山の男衆を守り山の恵みを与え、代償として男衆の奉仕を求めた。また、時には目をかけた男衆を眷属とした”



 ”山神の眷属は山犬であった。古くは山で災いが起こったときに山神をなだめるために犬踊りが行われたとも言う。祭りの儀式に残る踊りがその名残であると。しかし、この地域で狼や野獣による被害の記録は残っていないことから、おそらくはこの地域に流れてきた他地域の人々によって伝えられた伝承が混じって居るのでは無いかと思われる”



 善十さんの話にも似たような内容があった気がするし、また少し違うような気もする。あの夏、善十さんが少し踊ってくれた祭りの踊り、あの楽しそうな踊りが犬踊りなのだろうか?でも、かみさまを宥めるための踊りとは思えない楽しそうな踊りだったような気もする。



 私の心はいつしか真希お姉さんと楽しんだあの夏祭りの記憶に飛んでいた。



 電球の優しい明かりに照らされた神社の中、ご神体の犬の仮面。そして浴衣を脱いだ真希お姉さんの白い肌。ああ、あの時も今この部屋に薄く流れている熟した果実のような甘い匂いがたちこめていた。



 匂いには人の記憶を呼び覚ます力があるのだそうだ。ずっと長い間、私の中で眠っていた記憶が次々と思い出されるのも、この屋敷の甘い匂いのせいもあるのかも知れない。

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