通報しようかと思ったけど、しなくて良かった


 居間に降りるまでもなく、俺は気づいていた。あまりにもいい香りに腹の虫が鳴ったからだ。


 4人がけのテーブルには、所狭しと料理が並んでいる。白身魚の西京焼きに、ネギがちょこんと浮いた味噌汁。大根おろしが添えられた出し巻き卵、ほうれん草のお浸し、椎茸と里芋の煮物には花形のにんじんとスナップえんどうが添えられている。さらには、茶碗蒸し、ざく切り生姜の生姜焼きや、炭の焦げ跡がついた焼きエビなんかもある。まるで馬鹿と来たバイキングってくらい豪華な朝食が用意されていた。


「座って、高良。はい、ご飯」


 俺が椅子に座ると、美鶴が茶碗を机に置いた。ちょうどいいくらいにふっくらした白米、つやつやに煌き、ほかほかと甘い湯気が立っている。普通の炊き方ではこうはならないだろう。


 美鶴は台所に戻って、じゃーじゃーと洗い物をしはじめた。俺は、目の前に座って、黙々と朝食を頬張っている、白髪を茶髪に染めている祖母、美智子に話しかける。


「婆ちゃん。これ、美鶴に作ってもらったんだよなぁ」


「私にこれが作れると思っているのかい?」


「そうだよなあ」


 祖母美智子は63歳で3年前に仕事を辞めたばかり。祖父が亡くなるまでは家事を祖父に頼りっきりのキャリアウーマンだったため、料理はお世辞にも上手くない。朝食といえばトースト、夕食は俺が作るか惣菜、という食生活を送っているので、美鶴が作ったことは明らかだった。


「朝、ゴミ出しみたいに荷物抱えて、家の前をうろうろしてる美鶴ちゃんを見かけた時、通報しようかと思ったけど、しなくてよかったわ」


「それは本当によかった」


「ええ。それに声もかけて良かった、美鶴ちゃん、帰ろうとしてたんだから」


「それまた良かった」


 良かった。朝から押しかけるかどうか、むしろ押しかけてはいけない、と迷うくらいの良識が美鶴にあって良かった。


「高良は食べないのかい?」


 婆ちゃんは一向に料理に箸をつけない俺にそう言った。


「婆ちゃんは気軽に食べすぎなんだよ。これだけ豪華な食事を作ってもらったんだ。お金とか手間とか……」


「おばあさんから、お金は頂いちゃったから、気にせず高良は食べて」


 そこまで言ったところで、キッチンにいる美鶴に口を挟まれる。


 婆ちゃんの顔を見ると、こくりと頷いた。


「材料費だけね。お金払おうとすると美鶴ちゃんが拒みに拒むんだから骨が折れたわ。本当は倍払うから毎日作って欲しいくらいなんだけど」


「全然ただで、毎日、いくらでも作りますよ」


「ダメです」


 俺がそう言うと、婆ちゃんからじとっとした目を向けられる。


「美鶴に負担かけちゃダメだから」


「せっかくこんなに可愛い女の子が作ってくれるというのに、ほんと高良はダメな子だねえ」


「人間としてはダメじゃないと思うんだけど?」


「男としてダメって言ってるんだよ」


「美鶴に負担をかけるくらいなら、男としてダメでもいいよ」


「美鶴ちゃん、こんなこと言ってるけど、どう思う?」


 ばあちゃんが美鶴の方を向いたので、俺もつられて見る。美鶴は照れたように俯いて、こめかみを人差し指で掻いていた。


「あ、あはは。高良にご飯作れたら嬉しいんだけど、気遣われるのも嬉しいっていうか」


 そんな反応されると照れてしまう。


「ま、まあとにもかくにも、今日はありがとう。いただきます」


 この件についてこれ以上話題を続けづらく、俺はそう言って逃げた。婆ちゃんの「男としてダメだねえ」の言葉を無視して箸を伸ばす。


 最初に手をつけたのは西京焼き。みりんと酒の抜けるような風味が口いっぱいに広がり、白身魚の旨味と調味料の甘味が混ざり合って頬が落ちそうになる。煮物を口に入れる。甘塩っぱさがちょうど良く素材の味が際立っていて美味い。ほうれん草のお浸しは、良い後味だけを残して溶けていく。生姜焼きは、ざくざく食感の生姜に本物感があって爽やか、豚がこってりとしている筈なのにそんなことはなく、むしろあっさりとしている。次は何に手を伸ばそうかと思った時には、白米がもうなくなっていた。


「高良、おかわりいる?」


 気づけば美鶴が婆ちゃんの隣に座っていた。俺は空になった茶碗を見る。


 い、言いづらい。美鶴に料理を作らなくていい、と言っておきながら、おかわりなんて言えない。


 少しの間葛藤したのち、声を出した。


「……おかわり、お願いします」


「はい! めしあがれ!」


 美鶴は俺からお茶碗を受け取り、キッチンへ歩いていく。美鶴のウェーブがかったふわふわのツインテールが、嬉しそうにぴょこぴょこ跳ねているようにみえた。

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