美鶴と帰宅2
赤いとも桃色ともつかない夕焼け空。雲は影がついて、紫だったり、オレンジだったり、赤だったり、ピンクだったり、と彩豊に色づいている。飛行機が飛んでいて、橙色のクレヨンの絵を空の色で塗り潰したあとハケで削ったような、そんな傷をつけていた。
河川敷。道路から川へと繋がる土手は、ぬべっとなだらか。雑草が綺麗に刈りそろえられていて、日に枯れて白くなっている。川にはぐにゃぐにゃになった夕日が浮かび上がり、河の動きを絶えず持続させる白波がキラキラに煌めく。
六月の夕方にしては少しだけ寒い。自転車で走っていて、冷たい風がかいた汗をかっさらていくせいだろう。
二人乗りをしてから、俺たちに会話はなかった。だけど、五感全てがうるさかった。
腰からお腹に回された腕は、背中に伝わる柔らかな感触は、カイロを貼り付けたように暖かい。ずっと背中を叩いてくる早い鼓動と自分の心臓の鼓動はうるさい。後ろから漂ってくる女の子甘い香りもずっと続いていて、一生花畑を走ってるようなそんな気さえする。ごくりと飲み込みすぎて唾液の味は忘れた、カラカラになった口の中は、澄んだ空気の味がする。
雰囲気はメロンみたいに甘い。瑞々しくて、ちょっと粘っこくて、爽やかで、ずっと食べていたいような甘さ。
ああ、俺は何をしているんだろう。普通に話せないと、友達になるなんて夢のまた夢だ。
そう思えど、言葉が出てこない。緊張して何を言っていいかわからない。
「あ」
しばらく走ったのち、美鶴は短い声を出した。沈黙が解けて、緊張感が和らぎ、俺はようやく口を開くことができた。
「どうしたの、美鶴?」
「ううん、なんでもない」
俺はゆっくりとブレーキをかけて、少し行ったところで止まり足を地面につける。美鶴が乗っているので、バランスを保つために腕に力をかけたが、それほど重さは腕に乗ってこなかった。
美鶴の方を向く。顔が少し赤くなっている。俺もそうなっているだろう、と思ったが、認め難く、自転車で息が上がったせいにして、平静を装って声を出した。
「気になるって」
「えーっと」
そう考えるそぶりをしながら美鶴は、自転車から降りた。そして俺に顔を向けてくる。
「景色がすごく綺麗だなーって」
いつもの通学路だろう。なんて、俺も言えない。見知らぬ土地の旅行で自然遺産に触れた時みたいな感覚を、今味わっている。とても綺麗で美しくて、気を抜けば心を奪われてしまいそうな、ふっと気づいた時には心を奪われていたような感覚。
「綺麗だな」
「高良も綺麗かぁ」
そう言って嬉しそうに笑った美鶴は、この景色の一部みたいだった。
「ねえ、高良。自転車使っていいから先に帰ってくれない?」
「どうして?」
「うん、高良との帰宅を諦めるのは勿体ないんだけどさ。この景色を描いときたいんだよ、イラストレーターとして」
美鶴の目は夕日に向けられている。その瞳には、どんな景色が映っているのだろう。もしかして俺と同じなのだろうか。
そう思って俺は言った。
「じゃあ、俺は待ってるよ」
「え、何で」
「美鶴のファン一号は俺だから? 一番先に見たいと思うから?」
そう言うと美鶴はくすくすと笑った。
「何それ、どうして疑問形? 全然わかんないし」
「俺もわからないんだよなあ」
実際、よくわからない。美鶴の景色と俺の見る景色が同じなのかを知りたいのか、友達になれてないのに帰ることを拒んだのか、それともこの甘い空気をもう少し味わっていたいのか。
「まあじゃあ見ててよ。ファン一号」
そう言って美鶴はかけていたリュックを前に持ってきた。そしてジッパーを開き、中からレジャーシートを取り出した。
「そんなん、よく持ってたな」
「昨日、屋上でご飯食べた時、地べただったじゃん。だから持ってきといたんだ」
美鶴は土手を少し降りて、レジャーシートを引いて座る。ノートを取り出すと、振り向いてちょいちょいと手招きした。
「ほら、高良。特等席だよ」
普段なら恥ずかしくて拒むだろう。だけど、この甘ったるい空気に酔っているせいか、俺は端っこに自転車を止めて、美鶴の左隣に座った。
鉛筆が線を引くシャッシャという音だけがなる。最初は赤みを帯びていた美鶴の顔から、赤みが消えていく。瞳はノートにだけ向けられていて、周りの音が聞こえてないみたいに集中している。
でも、俺の存在は気づいているみたいで、肩を寄せてくる。それは無意識だろうか、意識的だろうか。おそらく両方、絵の世界に入っていても俺を感じたい、そんな意識が無意識に働いているのだろう。いや、俺が、絵の世界に入っている美鶴を感じたい、そんな意識が無意識に働いているからなのかもしれない。
そう思うと、無性に恥ずかしくなって肩を離す。するとぴたっとくっつけてきたので、俺も寄せた。
この時間をずっと過ごしていたい、そう願えど時は流れる。夕日は沈みかけ、冥色の空が押し寄せてきた。対岸の土手は青と黒と紫がまざったような色の影に塗られ、水面は青に濁る。冷たい風が川へと吹き込んで、湿った土の香りが漂い始めた。
「こんなもんかな」
美鶴はそう言って、大きく伸びをする。そして、俺にノートを見せてきた。
「凄い」
言葉を失って、そんな感想しか出なかった。鉛筆の濃淡で描かれた河川敷の景色は感情を揺さぶられるほど美しかった。
俺の見た景色より綺麗だったけれど、近い景色が描かれている。
心臓がどくどくとなる。
美鶴の顔さえ見られない。
「ねえ、高良」
「な、なに」
「私さ、正直、私だってわかってくれなかったことショックだったんだ。だって私は一目でわかったんだから」
美鶴は「だけど」と続ける。
「今は、いいや、って思える。そりゃ、私にとっての特別な思い出が、高良にとってはそーでもない思い出ってことだから、辛いものがあるけど、それでも、いいや、って思える」
無遠慮に染み込んでくるような声で
「だってさ、今をもっと特別にすればいいだけなんだから」
美鶴はそう言った。
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