し〜、ちょん、つー、とん

 

 終業の鐘が鳴り、開放感からぐっと伸びをしたくなる。窓の外はまだ明るく、空が黄色を帯びてきたくらい。先生が出ていくと、放課後に心躍らせるクラスメイトの和気藹々とした声が、教室内に充満する。


 俺は、帰宅しようか、と立ち上がりかけたが、何となくもう少し惚けていたい気分で、頬杖ついて窓の外を眺める。


 今日の午後はずっと美鶴のことで頭が一杯だった。


 女の子からの告白。それもあんなに可愛い子からだ。


 俺は何で断ってしまったのだろうか。正直言うと、美鶴と付き合うことに不満はない、どころか、こっちからお願いしたいくらいだ。あんなに可愛い子と付き合えれば、学生生活がカラフルに色づくに違いない。それに、クラスメイトの反応を思い出す。昼休みの後、葵美鶴と仲が良いのを羨ましがる羨望の眼差しを、男女問わず向けられていた。これが、彼氏彼女の仲になれば、見下されることはなくなり、下北を見返すことだってできるだろう。


 でも、それはなんか違うんだよなあ。


 好きでもないのに付き合うことは美鶴に悪い。そんな拒否感は勿論のこと、俺個人的にもそんな見返し方はしたくなかった。


 ただ、その理由はわからない。見返すという目的を達成するのに方法なんて関係ない、そう思うけれど、違和感がこびりついて離れないのだ。


 何でだろうなぁ。


 そんなことを考えていると、刺々しい声をかけられた。声の方に顔を向けると、そこには下北がいた。


「ねえ、あんた。私の代わりに掃除しといてよ」


「はあ?」


 思わずそう言った。


 話しかけないで、と言った翌日だろう。普通、声をかけるのも躊躇うんじゃないのか。


「はあって何? あんた、葵さんに話しかけられたからって調子乗ってんじゃないの?」


「いや、別に」


「どうせお金でも貢いだんでしょ。そうじゃないと、葵さんがあんたみたいな陰キャを相手にするわけないもんねえ」


「違うよ。元々知り合いだったから話しかけてくれただけ」


「何その澄ました感じ、イラつくんだけど。あんたみたいな陰キャがそんな口利かないで」


 じゃあ何と言えば良かったのか、そんなことを考えると、何だかこの時間が凄く不毛に思えてきた。俺は立ち上がり、リュックを手に取る。


「ちょっと待ちなさい!」


「掃除はしない。俺は帰るから」


 そう言うと、リュックを掴まれる。


「マジでキモい! 偉ぶってさ!」


「離してくれない?」


 下北にキッと睨まれる。反抗する奴隷に向けるような憎悪の籠もった瞳。長く一緒にいた子供の頃でも、こんな目を向けられたことがなかった。ああもう、本当にダメなんだ。そんなことはとっくにわかっていたが、それでもそう思わされるような目つきだった。


 どうしようもなく大切だった幼馴染みに、どうしてこんな目を向けられなければいけないんだろうか。


 そう思った時だった。


「高梨くん、ちょっといいかな?」


 俺も下北も声の聞こえた方を見る。


「な、七海さん」


 先に声を出したのは下北だった。


 七海さんは、乳酸菌飲料のCMのような爽やかな笑顔を浮かべてる。


「ごめんね、下北さん。ちょっと高梨くんに用があるんだ」


 下北は頬をひきつらせ、苦々しい顔に変わる。


「え、ええと……」


「何か高梨くんに用事でもある?」


「……ないです」


「そっか、それなら良かった!」


 七海さんが手を引いてきた。俺はつまずきながら、ついていく。


 ふと、後ろを振り返ると、悔しげにこちらを見る下北の顔が目に入った。


 さっき感じた違和感を再び覚えた。『これじゃない』そんな思いが胸の内に渦巻く。


 教室を出ると、七海さんは手を離し、振り返らずに前を歩いていく。


 もしかして、助けてくれたのだろうか。いや、助ける意図があろうがなかろうが、助かったことには違いない。そう思って、声をかける。


「七海さん、助かったよ。ありがとう」


「ううん。用事があるのは本当だし。図書室までついてきてくれる?」


 七海さんは、振り返らないままそう言った。


「え、わかったけど」


「そう、良かった! ありがとう!」


 俺は少し足を早めて、七海さんの横に並んで歩く。すると、ふと、思い出した。


 どうして七海さんは昨日逃げたのだろう。


 今日一日、美鶴のことで頭が一杯、一杯だったけれど、七海さんといる今。気になっていたことが急に蘇ってきた。


 助けてくれたこと、用事を頼まれているところを鑑みるに、どうやら嫌われはないみたいだけど、よくわからない。


 直接聞いてみるか、と声をかけようと七海さんを見る。


 七海さんの横顔は綺麗だった。窓から差し込む夕日に照らされて、どこか物憂げな感じ。日暮れに咲く夕顔のような美しさがあって、話しかけるのが躊躇われた。


 図書室に着くと、七海さんに先導されて、一番奥の本棚まで歩いた。前後ろ、両方の棚にはぎっしりと分厚い本が詰まっていて、空気が薄いような気がする。棚から圧迫感を覚えて、二人だけ閉じ込められた密室のように感じた。


「七海さん、用って?」


 どことなく気まずくて、俺は声を出した。すると、七海さんは、し〜、と人差し指を桜色の唇にあてた。そして、その人差し指を、ちょん、と俺のへその少し上に突きつけてきた。


 こそばゆい感覚に心臓が跳ねて、声が出る。


「ちょっ!? 七海さん!?」


 そんな俺の声を無視して、七海さんは、つー、と人差し指で撫であげ、胸骨のところで止めた。そして、とん、とそこを人差し指で突っついてきた。


「あの女、だれ?」


 七海さんは、どこか怖い笑顔でそう尋ねてきた。

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