最低!!

 

 青い空、白い雲。なんて稚拙な表現が、適切なんじゃないか、と思えるような空が目の前に広がっている。夏入りたての風が肌を撫でた。髪が靡いたり物が飛ぶほどではなく、扇風機の弱程度の強さでいい感じに涼しい。照り返る灰色のタイルは熱そうだが、今腰を下ろしている場所は入り口側で影になっている場所。伝わる熱はちょうどいい暖かさだ。


 昼休みの屋上。学校随一の青春スポットには、俺と葵さんの二人だけが座っていた。


 至近距離の葵さんの顔が目に入る。あどけなさと色っぽさが混ざった小悪魔的な顔つき、見る物全てを吸い込みそうな瞳、グロスで濡れた艶やかな唇。ウェーブ掛かった綺麗な髪からは、甘い木苺のような香りが漂ってきて鼓動が早くなる。


 いや、こんな可愛い子まじで知らないんだけど。ここに来るまでも、来てからも思い出そうとしているけど、全くと言ってわからない。


「頑張って作ったんだ」


 そう言って葵さんは弁当の包みを開いた。中から出てきたのは、保冷剤と重箱。手際良く、たんたん、と重ねていた弁当箱が並べられ、豪華なおかずが露わになる。色とりどりの野菜、卵焼き、唐揚げ、ハンバーグ、牛、蟹、伊勢海老……。


 き、気合、入りすぎてはいませんでしょうか。


「どう? 再会を祝してちょっと豪華にしてみたんだけど?」


 可愛らしく小首を傾げて尋ねてきた。


「う、うん。凄く美味しそう」


 葵さんは「よかった!」と無垢に笑う。


 気まずい。罪悪感が凄い。再会を祝ってこんな豪華な弁当を作ってくれたわけだけど、俺は初めましてで全く覚えていない。葵さんが再会を異常に喜んでいることがわかる分、申し訳なさと気まずさで冷や汗が出てきた。


「高良、てーだして」


 反射的に手を出すと、ウェットティッシュで包まれる。不織布ごしに細く柔らかい指の感触が伝わってきて、胸がどきりと跳ねる。


「何食べたい?」


「え、ああ卵焼き」


「卵焼きはダメ」


「じゃ、じゃあブロッコリー」


「それもダメ」


「ハンバーグで」


 そう言うと、葵さんは嬉しそうに頷いた。そして、箸でハンバーグを掴み、俺の口の前で止めた。


「高良、あ〜ん」


「ええ……」


「あ〜ん」


「いや……」


「あ〜ん」


 圧力に屈して口を開ける。すると、口の端に当てられ、ソースをべちゃりとつけられた。そのあと、押し込むように口のなかにハンバーグを入れられる。


「もぅ、高良。ちゃんと口あけなきゃダメだよ」


 葵さんはそう言って、嬉しそうにウェットティッシュで口元を拭いてきた。


 ハンバーグを咀嚼するが、味がしない。冷や汗が余計冷たくなったように感じる。


 逆の立場になって考える。自分のことを知らないと気づかずに『あ〜ん』までする、しかもわざと口の端にソースをつけて拭く……想像すると寒気がした。間違えて知らない人に、おつかれ〜、と言ってしまう、そんな恥ずかしさのおよそ百倍。相手に何て思われたか、と気になって一週間は、夜、悶え苦しむだろう。


 ダメだ。葵さんのためにも、誰か知らない、なんて絶対に言えない。もう引けないとこまで来ちゃってる気がする。友達になるならない、とかそっちのけで、思い出さなきゃ人間として終わってるような気さえする。


 な、何か、手がかりを掴まないと。


「お、美味しい、凄い料理が上手だね。もしかして実家が料亭とか?」


「何その褒め方〜。普通の家だって高良は知ってるじゃん」


「だ、だよな〜。で、でもこのお弁当、ちょっと高かったんじゃない? もしかしてお金持……」


「高良はそんなこと気にしなくていいの。むしろ、高良に稼がせて貰ってるって言っても過言じゃないんだから」


 俺が? 葵さんを稼がせている? 何? 何で?


「あの時、高良に可愛いって言ってもらわなかったら、未だに自信がなかったと思う。高良の言葉が嬉しくて頑張り続けて、今では売れるくらい可愛くできるようになったし」


 可愛い、売れる、高価なお弁当を作れる財力……ぱ、パパ活?。


 どういうことが過去にあったのかわからないが、俺は葵さんに可愛いと言ったようだ。そして、それに自信をつけて容姿を磨いた葵さんは、現在パパ活に勤しんでいる。つまり、パパ活するようになった元凶は俺。


「あの、その、ごめん」


「え? 何で謝った?」


「いやいやいや、別に否定するわけじゃないんだ。ただ、その、歪めてしまったのが俺なら申し訳ないなって。うん、葵さんが良いと思ってるなら、良いと思うよ」


「何言ってるの高良?」


「ごめん、何でもない」


 葵さんは首を傾げた。頭の上に?が浮かんでいるように見える。変なフォローをしてしまったので、わからないのならわからない方が都合がいい。


「てかさぁ」


 葵さんは、手を地面につき乗り出すようにして、ぐいっと顔を近づけてきた。透明感のある白い頬には、ほんのりと紅みが差している。溢れんばかりの綺麗な瞳にはしっかりと俺が映っている。


「どうして、昔みたいに呼んでくれないの?」


 ねだるような甘い声を聞いて、唾を呑み込む。


 ま、まずい。知らないってバレる。か、考えろ。


 名前を聞いてピンとこなかった時点で、おそらくあだ名で呼んでいた可能性が高い。葵、あおい、ぶるー。


「ブルー」


「は?」


 一瞬で葵さん目から光が消える。みる物全てを塗りつぶしそうな真っ暗闇の瞳に、がくがくと震える。


「ブ、ブルーの空が綺麗だなぁ」


 葵さんは息をついた。


「もぉ、びっくりしちゃったじゃん。そうだよね、戦隊モノじゃないんだから、色で人のこと呼ぶわけないよね」


「あ、当たり前だよ。まさかそんな」


「じゃあ改めて。高良、昔みたいに呼んで」


 冷や汗が止まらない。間違えたら死が待っているような気さえする。


「い、いやあ。昔みたいに呼ぶなんて恥ずかしいよ、葵さんじゃダメ?」


「ダメ。私だって高良って呼ぶの恥ずかしいんだから。フェアじゃないよ」


 もじもじとそう言った葵さんに、逃げの一手が躱される。もう、焦りと恐怖でまともな思考ができない。


「で、でもさ、俺たちも新たに出会ったわけじゃん、そ、そう! 自己紹介しよう! 高梨高良です! 昔みたいに高良って呼んでね!」


「葵美鶴です! 昔みたいに……って、高良。何て呼ばれてたか言わせようとしてない?」


 また目が闇になってる。


「ていうか、新たに出会ったって何? 再会って意味だよね? 昔みたいに呼ぶのが恥ずかしいっていうのも、逃げてるようにしか思えない。自己紹介も何? 不自然すぎて意味がわからない」


 怖い怖い怖い。


「もしかしてさぁ、高良。私のこと覚えてない?」


 ダメだ、もうこれ以上は誤魔化しきれない。


「いや、そんなこと……はい。すみません、覚えてません」


 もはやここまでか、とぎゅっと目を瞑る。


「そっか〜。覚えてなかったかぁ」


 予想とは異なる反応に目を開ける。葵さんは晴れやかな顔でいた。


「もう、覚えてないなら覚えてないって、そう言ってくれたらよかったのに」


「あ、ああうん、ごめん」


「いいよ、いいよ。てか、こっちこそゴメンね。知らない女にここまでされて、怖かったでしょ?」


「いやいや、そんなことないよ」


「それなら良かった。そっか〜高良は私のこと覚えてなかったかぁ〜。そりゃ、私が高良のおかげって言ったのもわからないわけだ。あ、でも、だったら何で謝ったん?」


 凄く気安い空気。知ってるフリが許された今、何でも言えそうな気がする。


「昔、可愛いって言ったことがさ、今葵さんがパパ活してることに繋がってるって思ったら、何だか申し訳なくなってさ。でも、俺は葵さんがいいと思ってるならいいと思うよ、応援してる」


「あはは! 何それ面白い! いや本当、面白すぎて涙出てきた」


 葵さんは「さてと」と立ち上がり、起きたばかりの猫みたいに伸びをする。


「死のう」


 突如、外へ向かって歩き出した葵さんにつかみかかる。


「ちょいちょいちょいちょい!! 危ない、危ない、危ない!!!」


「死ぬ!! 死んでやる!!」


 目をぐるぐるにして暴れる葵さんを必死に抑える。


「待って、待って!! 考え直して!!」


「無理! もう死ぬしかない!! 初恋の相手に再会して、運命だ、なんて思っちゃうくらい、ずっと昔の想い出を大切にしててたのに、覚えられてすらいないなんて哀れすぎるよ!! その上、『何か知らねえ女が、うっきうきでお弁当作ってきた上、あ〜んまでしてきて、くそ怖い』って思われたんだよ!」


「だ、大丈夫!! 哀れかどうかと言えば、哀れだけど、くそ怖いとは思ってないから!」


「挙げ句の果てに、好きな人にパパ活してると思われて、その上応援されるの無理すぎるでしょ!!」


「それはごめん」


「謝らないでよ゛お゛」


 座り込み、しくしく、と泣き出した葵さんと、記憶の中の少年が重なる。


『こんな絵描くとか、きっしょ』『や〜い、下手くそ』『絵ばっか描いててだっせえ』


 男の子に囲まれて泣いていた姿。プリントに描いた絵を馬鹿にされ、泣いていたみつるの姿に。


「思い出したよ、みつる」


 みつるは泣き顔を上げた。


「覚えてんならぁ、最初から言ってよぉ」


「ごめん、泣き顔を見て思い出した」


「最低!!」

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