4.

「おやおや、ずいぶん遅いお客人だなと思えば、あなた方でしたか」

 明かりの漏れる腰高障子の前に、意外な人物が待っていた。

 奇遇にも、金助親方とは寧が昼間に道を尋ねた老翁の優し気な方だったのだ。

「また、世話になる」

 キリが軽く頭を下げた。

「なんだ、あんた方は顔見知りかい。じゃあ、後のことは任せていいやな」

 丁名主の下男は口早にそう言うと、さっさと来た道を帰っていった。

「お互い名乗るのは初めてでございますね、私は石呉丁の顔役をやっております、金助と申します」

「キリだ」

 綿入れを着込んだ金助の視線がキリの背後にいた寧に移るが、寧はそっぽを向いたまま名乗ろうとしない。

「藤花寧人……じゃないな。寧だ」

 代わりにキリが、ついさっき聞き知った寧の本名を告げた。

 寧の失礼にも金助は慈眼を崩さず、一つ二つ頷いた。

「キリどのに藤花さまですな、お疲れでしょう、まずは長屋にご案内しますでな」

 金助老人はそう言うと、長屋がひしめく辻を奥の方へと手燭一本で歩いていった。提灯も持っていないということは、目的の長屋はすぐそこなのだろう。案の定、半丁も歩かない内に金助老人は長屋の一部屋の前で足を止めた。

 先程、金助老人と待ち合わせた二階建ての表店ほどではないが、しっかりした造作の割長屋だ。間口二間(約三・六メートル)奥行四間(約七・二メートル)、手前に囲炉裏の切られた板の間があり、奥には障子で仕切った畳敷きの奥間まである。土間には使い古された竃も据えられて自炊も出来るようになっていた。水瓶には真新しい水が張られている。今さっき用意したということはないであろうから、時節柄、いつでも入居できるように支度されていた部屋の一つなのだろう。

 それにしても、浪人を一時的に寝泊まりさせるには少々まともすぎる部屋だ。

「厠と井戸は長屋の真ん中にあります。食事は自前でお願いしておりますで。この家作には他に一軒、穢物斬り様が逗留なされておりますが、他は職人衆の一家がおりますので夜間はお静かに願います」

 金助とキリは部屋を手燭の明かりで一回りし、土間に戻った。寧は入り口で向かいの部屋の明かりを見るともなしに見ていた。

 興味深いのは他の地域ではお目にかからない石積みの腰壁だ。漆喰で固めた腰壁の内側に柱を立て、板壁は腰壁と柱に挟む形で立てている。おかげで底冷えする季節でも足元が冷え込まないし、防火にも役立っていた。石切が特産だけあって、この町の住居はどこもこの石壁があった。

 本来であれば身持ちのしっかりした職人一家や、大店の番頭さんが住まうような格の高い家作だ。箪笥や長持ちなどの指物が据え付けられているのもその為だろう。

「穢物狩りさんたちにはこうした空き家を仮屋に使ってもらっているのですよ。キリどのは随分大柄だが、この部屋なら夫婦でも余裕があるでしょうて」

「そうだな」

 金助の言葉には明らかな勘違いが含まれていたのだが、キリは些細なことだと気にも留めず、寧はそもそも心ここにあらずで聞いていなかった。

「それでは、何か不都合があれば先程の表店にお声掛け下さいな」

「ああ、待ってくれ」

 踵を返しかけた金助をキリが呼び止める。金助は首を回してキリを見た。

「出来れば、食う物を用意してもらいたい」

 そう言ってキリは背後の寧を一瞥する。金助は気落ちした寧の様子を察して大きく一つ頷いた。頷くのは彼の癖なのだろう。

「でしたら、うちにお寄りください。残り物でよければ温めますよ」

「助かる」

「空きっ腹は気の毒ですからな」

 キリは寧の荷物と朱塗りの槍を暗い長屋に放り込んで身軽になった。

 そうしてキリとキリに手を引かれた寧は金助に誘われ、元来た道を戻り金助夫婦の表店に邪魔することとなった。

 金助は長屋の大家だけでなく石を使った小物屋も営んでおり、住居の一階部分は客あしらいの板の間、細工物を作る作業場、在庫をしまっておく物置になっており、二人の居住空間は殆ど二階にあった。

 二階に案内されたキリと寧はそこで金助の妻、タメと引き合わされ、金助と同じく福々としてのんびり屋な妻女はキリと寧が腹を空かせていると金助に言われるや否や、すぐさま一階の台所まで食事を用意しに降りていった。年の頃は金助よりもだいぶ若く見える五十の半ばほどだろうか。まだ枯れ切っていない証拠に階段を降りる足元はしっかりしている。

 半畳ほどもある大きな箱火鉢がでんと居座る畳の間で、キリと寧と金助はタメが食事を持ってくるのを待った。

 ふと、珍しくキリが自ら口を開いた。

「金助さん、親方と呼ばれてたが何の親方なんだ」

「ああ、親方というのはね、正しくは元親方なんですよ。若い時分はこの石呉丁で石工方の頭領をしてましてね、それで皆から親方なんて呼ばれてた名残なんですよ」

「そうか、てっきりその歳でまだ石工をやっているのかと」

「ははは、流石にこの歳であんな重たいものを持とうなんて思いませんよ。今は見よう見まねの手遊び石細工で、ひねもす遊んでおりますよ」

「それで店まで出しているのか」

「せっかく作ったものですからね、誰かに使ってもらいたくてねぇ、恥ずかしながら商いの真似事なんてさせてもらっているんです」

 そうこうしていると、タメが階下から二つの足付き膳を重ねて持って上がってきた。

「こんなものしかありませんが……」

 タメが断りをいれた膳には丼飯と根菜の煮付に山菜の味噌汁、それと椀に山盛りの古漬けが乗っていた。味噌汁と煮付は温め直したばかりで白い湯気が立ち、空腹を刺激する香りを立てていた。

「御馳走だ。有難く頂く」

 両手を合わせて食べ物に感謝すると、キリは黙々と食事に没入していった。

 しかし、キリの健啖の横で寧は膳を前に動こうとしない。タメが心配そうに、俯いた寧の顔を覗き込んだ。

「嫌いなものでもあったかね、それとも腹が痛いかい?」

「……いや、その……あまり腹が減っていないだけだ」

 心底から優しく接してくれるタメの好意に、寧もさすがに無視はできなかった。弱々しくそう答えるが、すぐにまた黙ってしまう。

 なおも心配そうにする妻女へ、金助は大丈夫だというようにその背中を軽く叩いた。妻女も金助を信頼してか、愁眉を開いておっとりとした面持ちに戻っていく。長い時間が作る温かな信頼関係だ。

 寧が居心地悪そうに視線を逸らし、耐えかねたように立ち上がる。

「すまない、気分がすぐれないから先に休ませてもらう」

 逃げるように階段を降りていった。

 三人はしばらくのあいだ寧が消えた上り口を何とも言えぬ空気に浸って見ていたが、その空気を吹き飛ばすように金助が声を上げた。

「タメや、藤花さまのお膳はおにぎりにでもしてキリどのに預けなさい」

「ああ、そうですね、そうしましょう」

 名案だとばかりに肯って、タメは早速とりかかろうとお膳を手に階下へ降りていった。

「ところでキリどの、この町自慢の石切神楽はもう見なさったろうね」

 その隙間を埋めるように、金助が話を切り出した。

「……石切神楽?」

 聞いた覚えのない言葉にキリが金助を見遣る。

「ええ、ええ、町に入ってすぐの大門広場でやっていたでしょう」

「あそこでは、切り出した石を加工する石工しか見なかった」

「この町ではそれを石切神楽と呼ぶんですよ」

「……ただの石切作業をか」

「外から見たらそうかもしれませんがね、私たちにとっちゃ、石切は山の神様に感謝を捧げる儀式なんですよ。石切は過酷な仕事です。怪我なんてしょっちゅう、場合によっちゃ人死にも出ます。ですがそういうのは、お山が人間を叱っているようなものなんですよ。そういうことをしちゃいけないよ、危ないよってね。間違ったやり方をすればお山が叱って下さる。お山のお叱りがなきゃ、私たちはとうにこの地に住めなくなっていたでしょうよ。お山は私たちを見守っていて下さる。私たちはそのお山の恵みで命を繋ぐ。感謝してもしきれないというものです」

「そう、なのか」

 今一つ納得のいかない顔でキリがうけあうと、金助は急に話柄を変えてきた。

「何故、穢物騒ぎで物騒なこの時期に、夜を徹して石切を強行していると思いなさるね」

 キリは咀嚼しながらその答えを探し、飲み込んでから思い付いた答えを口にした。

「……そうしなければ、生活する金に困るからか」

「それもあります。ですがそれ以上に、石切神楽はこの町の意地なんです」

「意地、か」

「魂といってもよい。確かに、何処からともなく穢物が現れる町なんて、普通に考えたら住めたもんじゃない。町の辻でばったり穢物と出くわすなんぞ、生きた心地もしませんよ。町を捨てようという話もなかったわけじゃない……ですがねぇ、何百年も前この町がまだ国だった更にそれ以前から、この地の人々はお山の恵みに生かされてきました。町の入り口にある大門は潜りましたか?」

「それは、まあな」

「言い伝えではね、あの大門を潜らない大きさの石は切り出してはいけないんですよ。それをすればお山がお怒りになる、とね。私たちはそうやってお山と共に生き、お山に生かされている。そんな偉大なお山を捨てて逃げることはおろか、その感謝をないがしろにすることも出来なかったんですよ、私たちはね」

「死ぬより神様とやらに見捨てられる方が怖いか……意地で死んでも面白くないだろうに」

 瞼の裏に寧の必死な顔を思い出しながら、キリが言う。

「まったくです。意地は意地ですがやはり穢れて死ぬのは恐ろしい。ですから、あなた方のような穢物斬りを雇って、少しでも被害を減らそうとしているのですよ。命より意地ですが、金よりは命が大事ですからね」

 意地も本音、命大事も本音。その板挟みの末、強引なやり方でも穢物に抗する道を選んだのだと、金助は自慢げに言っていた。

「……穢士はどうした」

「穢士は頼れないのですよ。今、この国は穢士不足で、国府の周りを守るのに手一杯らしくてねぇ……国府としても金蔵の田日良を失いたくない。だから穢物狩りを雇う手伝いはして下さるが、人出だけは回せないと……」

「そうか……」

 近年は穢物の増加が問題視されていた。ここにもその余波がきているのだ。しかしそれはどこの集落でも国でも変わらない。特別な事情でもなかった。

「キリさま、お手数ですがこの折詰をお願いしますね」

 のんびりとした言葉と共にタメが階段を上ってきた。部屋の敷居で端座するとキリの横までいざり寄り、折詰を置いて金助の斜め後ろへ更に移動した。そこが彼女の定位置なのだろう。

 既にキリの膳は米粒一つ残さず平らげられていた。

「さて、爺の御国自慢はこのくらいにしましょうか。キリどのもお疲れでしょう」

「そうだな、腹が一杯になったら眠くなってきた」

「ははは、そりゃあいい、長屋に戻ってゆっくりお休みなさい」

「そうさせてもらう」

 金助の部屋に入った直後くらいに暮三ツ(午後九時)の鐘が鳴っていた。今は暮四ツ(午後十時)直前くらいか。流石のキリにも疲労と満腹が相俟ってかなりの眠気が圧し掛かる。

 折詰を手に金助の店先を抜け、闇の辻を通ってあてがわれた長屋に辿り着く。

 長屋の腰高障子はぴったりと閉じられていた。まさか心張棒がかけられてはいまいかと心配したキリだが、それは杞憂だった。軽い力で戸は静かに空いた。

「……いるのか」

 真っ暗な部屋に尋ねてみるが、返事はない。そうこうしている内に部屋の闇に目が慣れ、奥の畳み部屋に枕屏風が立っているのが見えた。屏風の端から石突が覗いているあたり、寧は屏風の向こうで朱槍を抱えて横になっているのだろう。その手前にはキリの為のものか夜具の用意もある。

 金助の長屋で足の旅塵を洗う濯ぎ水は既に貰っている。キリは無造作に草履を脱ぎ捨て、部屋に上がった。身体は汚れたままだが、この眠気に逆らって綺麗にするのは億劫だった。そのまま敷き布と掻巻の間に潜り込んだところで、これだけは言っておかなければいけないことを思い出した。

「おい――」

「わかっているっ!」

 キリが声を掛けた途端、枕屏風の向こうから涙混じりの金切り声が上がった。

 その勢いにキリが呑まれている間に、姿の見えない寧が捲し立てる。

「自分がどれだけ愚かで無礼で情けないかなんて、言われなくてもわかっている! 丁名主にも貴様にも迷惑をかけた、金助親方と奥方の気遣いにも後足で砂をかけた。わたしは、わたしは……!」

「そうじゃない」

 圧し潰されそうになっていた寧の涙声に、キリがそっと割って入る。

 キリはしばしの間を置いて寧が話を聞く気になるのを待った。洟を啜る音を聞いて、キリは後を続けた。

「おまえを責めるつもりはない。俺は、ただ、謝りたいだけだ」

「……何をだ」

 尋ねる寧に、キリは直接答えず事情から語り始めた。

「おまえの気持ちはわかるつもりだ。俺も仇を追う身だからな……ようやく見つけた仇が人違いであれば、嫌気が差すほど落ち込むのも当然だ。俺も、何度も味わった」

「それと謝罪になんの関係が……」

「落ち込んでやけを起こすのもわかる。それでもあの場は止めなければならなかった。だから謝る」

 枕屏風の向こうで、衣擦れの音がする。

「……なぜ止めた。そこまで言うなら、人違いだからというだけの理由ではあるまい」

 一拍置いて帰ってきた寧の声は、先程よりも近かった。夜具の中でこちらに向き直ったのだろう。

「あの場でおまえが羅切に斬りかかっていれば、おまえは死んでいた」

「……惜しむような命はない」

 複雑な感情を孕んだ声だ。滲むような矜持と、絶望と、諦観とがキリの胸に迫った。

「知っている。俺がお前を死なせたくなかった」

「わたしを、死なせたく……?」

「ああ」

「そう、か……」

「誰だって勘違いはある。おまえは何も悪くないのだから、そう落ち込むな」

「……励ましているのか」

「そのつもりだが」

 それ以上、キリには言うべき言葉はなかった。

 寧も、それっきり黙した。

 肌寒い闇の中に、何とも煮え切らない空気が流れていた。

 その空気を乱したのは、意を決したように活力を取り戻した寧の声だった。

「わたしは、藤花家の長女だ。上には二人の兄が、下には腹違いの弟がいる」

 キリは、何も答えない。答える言葉を持ち合わせていなかったし、答える必要も感じていなかった。

 寧も反応を期待していない様子で語り続けた。

「母は、わたしを産んだ後の肥立ちが悪く、亡くなった。だから、顔も知らぬ。父は多忙な人で、元町と国府を往ったり来たりで滅多に顔を合わせなかった。わたしは、二人の兄上と家中の者に育てられたようなものだ。大兄――一番上の兄上は大度の人で、人に慕われる人柄だった。特にわたしに甘くてな、わたしも大兄によく懐いていた。小兄は自分本位な人で、いつも本を読んでいるか槍の修練をしているような人だった。悪い人ではないのだが、偏狭な所があってとっつきづらかったな」

 寧が言葉を切った。何かを思い出しているような、堪えているような、そんな間を挟んで、続く。

「わたしが十になった年、大兄が亡くなった。流行り病だった。あれだけ元気だった兄が、あんなにあっさりと亡くなった時はとても信じられなかった……わたしはそのくらいの記憶がどうにも曖昧でな、悲しみのあまり放心ばかりしていたらしい。そんなわたしを慰める余裕がある者もなかった。なにせ嫡男が亡くなったのだ、藤花家は悲しむ以前に上を下への大童だ。そうこうしていたら今度は父上も同じ病で身罷られた。こうなってくるともう、悲しみ以上に怒りが湧いてくるものでな。あの頃は八つ当たりのように小兄と槍の打合い稽古に励んでいたものだ」

 懐かしそうな言葉は、物寂しげな響きで彩られている。無理もない。その小兄――藤花勇人ももはやこの世の人ではない。

「当時十七にして、小兄は藤花家当主となった。当主として十七はそれほど驚く若さではない。だからといってその重責に耐えられるかどうかは別物だがな。御家には家臣がいる。当主とはその家臣全ての命を預かる者だ。本来であれば次期党首は大兄が就くはずであった。しかし当主のイロハを教わる間もなく父上も身罷られた。頼れるのは側近の重臣のみ。だが、小兄は己に課した試練を乗り越えていく武人としては優秀だったが、他者に諮り己に組み込むような統率者の器にはなかったのだろうな……次男坊当時、自身に向けていた厳しさがやがて他者にも向けられるようになり、人心は次第に離れていった。今だからこそそう考えられるものだがな、小兄も小兄なりに苦心していたのだろうが、その主従の間隙にあの女狐は付け込んできた」

 寧の声に明らかな侮蔑の色が混じった。

「父は母が亡くなった後も後妻を取ろうとはしなかった。しかしそうなると御家の奥向きに締まりがなくなる。或いは、わたしが寂しがるとでも訴えられたか……正式な後妻としてではなく、妾という形で事実上の奥を迎えた。わたしが六つの頃だ。悪い人ではなかった、と思う。しかしわたしはどうしても彼女を母とは呼べなかった。もっと幼い頃に出会っていれば、前向きな関係も持てたのだろうが……わたしが彼女を一方的に拒絶してな。理由はわたしにもわからん。とにかく、嫌だったんだ……そのせいで、彼女はいつまでも妾のままだった。もしかしたら、それを恨んでいたのかもしれぬな……大兄が亡くなった直後、父は彼女を正式な後妻とした。どんな翻心があったのかは知らん。知りたくもないと思っていた。話を戻すとな、後妻となった彼女は、当主となった小兄から距離を置くようになった家臣を取り込み始めたのだ。変な意味ではないぞ。彼女には父との間に男児を設けていた。しかも大兄、父上と健常であった大人が次々と身罷られた直後だ、小兄にもその奇禍が降りかからぬとは限らない……そんなことを吹聴して己の子、千代丸に家臣の心を移していったのだ。わたしがそれに気付いたのはずっと後のことなんだがな」

 言葉の終わりはどこか自嘲めいた響きがあった。しかし続ける声は屏風越しにも伝わるほどの固さを孕んでいた。

「その小兄も、羅切に殺された。その羅切は、我が家の領地である元町を脅かす穢物を退治するために継母の一派が雇った者だった。しかし事もあろうにあの男は、屋敷の金品を奪い密かに逃亡を企てていた。それに勘付いた小兄だったが、奴の逃亡を阻止しようとして返り討ちにあったのだ……わたしが十五の夏だった」

 沈黙から、複雑な心情が滲み出るかのようだった。その心情のつぶさなところはキリには捉えかねたが、喜色は一切含まれない辛い記憶なのだということは見てきたように伝わった。

「……武家が戦以外で討たれた際、相手が武家や公家であれば御家の世襲はまずまず認められる。しかし相手がそれ以外であった場合、仇討を果たさぬ限りは世襲が認められない。武家御法度の一条だ。そして仇討を為すは次期党首の責務……つまり、長女であるわたしの責務だった。そもそも継母に掌握された藤花家にわたしの居場所はなかった。ほとんど追われるようにしてわたしは仇討の旅に就いたのだ。そうして早三年が過ぎた。旅の中で羅切の影を踏むことは何度もあったが、そのどれもがおまえやあの者のようにわたしが仇と追い求める者とは違った……羅切という穢物斬りの名は、もはや伝説なのだ。誰か個人を示すものではなく、優秀な穢物斬りに贈られる称号のようなもの……世には、羅切の名が多すぎる……わたしは、いつになったら仇討を終えるのだろうな……」

 キリもまた羅切と称される穢物斬りの一人故、安直な気分ではなかった。自分が彼女の気分を重くしているかのような錯覚すら覚えていた。

 寧の問いに、キリは答えるすべを持たない。

「あの男、穢士なのだろうか」

 代わりに、羅切と名乗る壮年の男に関して一つ気付いたことを口にのぼせた。寧の話を聞いているという意思表示として。

「……藪から棒だな」

 こんな身の上話をいきなり聞かされてうまく答えられる人間だとも思っていなかったが、それでもここまで話を変えられると寧としては自分の話を放り出されたような気がして面白くない。

「あいつの得物は見たな」

 面白くはないが、キリの話の行方が気になった。

「それはまあ、五尺(約百五十センチメートル)になんなんとする野太刀が目に入らぬわけもなし……普通に考えて、野太刀であれば穢士ではないな」

 槍や薙刀といった長柄や野太刀や長巻といった大太刀を扱うのは、穢物からなるべく距離をとって戦いたい武家の戦法だ。穢士はむしろ、穢物を懐に誘い込んで確実に屠殺できるよう取り回しの利く小太刀を扱う。穢に耐性があればこそ取れる戦法だ。

「あれは野太刀じゃない。打刀或いは小太刀を二振り収めた仕込み鞘だ」

「……何故、穢物斬りがそんなものを携える」

 寧の声にはありありとした疑念が含まれていた。疑念どころか呆れといった方が正しいか。

「だから不思議なんだ。あんな変わり種をわざわざ拵える理由がわからん」

「貴様の勘違いだろう」

「いや、あの重心はおかしい」

「どうでもいい」

 やけに拘るキリを、寧はぴしゃりと遮る。

 自分の話を打ち切ってまでする話ではなかった。蘇った不愉快が寧に素っ気ない態度を取らせた。

「それよりわたしは疲れた。もう寝る」

「……そうか」

 キリが大人しく引き下がると、闇の中に埃のような静寂が積もり始める。それがキリの意識を覆い隠して眠りの中に埋没させようとした頃、寧の声がわだかまる静寂を吹き飛ばした。

「そういえば、だ」

「なんだ」

 切り出しておいて何やら言い辛そうにまごつく気配の後、思い切ったように寧が続けた。

「先程の『わたしを死なせたくなかった』というのは、その……どういう意味だ」

「どうもこうも、そのままだが」

「そうじゃなくてだな、その理由が聞きたいのだ」

 どこか焦ったような声だ。キリには何を焦るのか見当もつかなかったが、聞かれた以上は素直に答えることにした。

「理由か。はやく宿で休みたかったからだ」

「……は?」

 間抜けな声で問い返され、キリは呑み込みの悪い相手に噛んで含めるよう付け加えた。

「さすがに腹も減っていたし眠かったからな。あそこでおまえに暴れられてあまつさえ死なれたら、宿の話どころではなくなるだろう。だから止めた」

 特に当たり障りのない理由だが、寧は納得も得心も示さなかった。ただ何か、剣呑な気配が屏風の向こうから漂ってくる。

「ああそうか、そうだな、お前はそういう奴なのだな」

 やがて、自分に言い聞かせるようにそう吐き捨てた。

「そうだ、言い忘れるところだった」

 初め、これを伝えようと思って声を掛けたというのに、思わぬ長話になって忘れかけていた話を思い出した。

「寧、明日にでも身濯(みそ)げ」

「……急になんだ」

「左乳房の下側に黒斑があった。穢が溜まっているぞ」

 黒斑とは人体に穢が溜まると浮き上がってくる染みのようなもので、時に痛みを伴うこともある。屏風の向こうから、寧がその辺りをまさぐる気配の後、『痛っ』という小さな悲鳴が聞こえてきた。

 身濯(みそぎ)は巫女の力で身体に溜まった穢を濯ぐことだ。巫女は人の住むところであれば大抵どこにでも一人はいる。穢士と同じ客子ではあるが、容姿端麗な女性である上に穢から直接に人々を救える彼女らは、何処に行っても歓迎される身の上だった。穢士が穢を身に纏っているからと敬遠されるのとは真逆だ。客子の男児と女児では世間での扱いが雲泥の差なのだ。

 事故で寧の着物を切り捨てた際、穢士の並外れた視力は一瞬でその小さな黒斑を見出していた。寧の胸の大きさでは自らその場所を見るのはまず不可能であったから、本格的に痛み出す前に身濯を受けさせようとしたキリの親切心だった。

「金助さんはこの丁の顔役らしいな、彼に聞けば巫女の住処もすぐわかるだろう」

「……そうだな、それにしても貴様、よくよくしっかり見ているものだな。普通こんな場所の黒斑に気付くものではないぞ」

 キリは口を噤んだ。

 返す言葉がなかった。彼女の声が孕む本物の殺気がそうさせたのだ。

 ここにきて流石のキリも、寧が怒っていることに気が付いた。

「……よくわからんが、すまん」

「よくわからんなら謝るな!」

 押し殺した声で叫ぶという器用な真似と共に、屏風が蹴倒されてキリの上に覆い被さった。

「謝罪するならせめて因を解してからにしろっ」

「すまん」

「もういい! 貴様はそのまま寝ろ! もし屏風を除けたら命はないものと思えよ弩助兵衛」

 キリは屏風の下で槍の鞘が払われる音を聞いた。いつでも串刺しに出来るようにとの準備だろう。

 彼女の声に、あながち脅しとも言い切れない凄みを感じたキリは口を閉じることにした。

 穢士は立ったままでも眠れるように訓練している。枕屏風を身体に載せて寝るのは初めてだったが、横になっているだけマシだろうとキリは目を閉じた。

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