3.

 今は元町である田日良町も、かつては一国の国府であった。

 北の多兼山(おおがねやま)から南の日良台地へと下るなだらかな山裾に位置し、多兼山から採掘される鉄や銀といった豊富な鉱物と石灰石を特産としていた。それらから多くの武器と資金と城を築き上げ、往古は東北に覇を唱える大国にまで登り詰めた時期もあった。

 だが、広がる版図を鉱山だけで支えようと山を切り開き続けた結果、坑夫を守る穢士に負担が集まる。穢士を人として見做さない悪習からそれを顧みることなく、彼らを物のように使い捨てていった。

 穢士がいなくなれば穢物が蔓延る。穢物が増えれば襲われる庶民が増える。庶民が殺されれば国が弱る。そうやって田日良町は因果によりゆっくりと衰退していった。

 衰退し弱り切ったところで、それまで抑圧されていた周辺諸国が牙を剥いた。今もなおだらだらと続く戦国の倣いにより、田日良は地図から名前を消した。

 他国に併呑され、国は滅んでも田日良の町そのものは残った。穢物から人を守る桃橘榊の杜は町を囲う規模になるまで五十年は掛かる。手間を考えれば灰燼に帰するよりも残しておいた方が利口というものだろう。

 特に、田日良町には有用な産物が多い。採り尽くされた今は鉄や銀こそ出ないものの、石灰岩ならば多兼山から文字通り山のように採れる。作事に、農業に、石材は不可欠だ。

 石材に限らず、自然からしか産出されない資源は貴重だ。桃橘榊の外での採集には穢物の脅威が付いて回る。最低限の安全は確保されていなければ、人夫は集まらない。資源が眠っていて、安全な場所なぞ、この世には猫の額ほどしかない。自然産出物はどうしても貴重なのだ。貴重なものには高値が付く。田日良町は大事な金蔓であるが故に他国に狙われ、大事にされ、国が滅びようとも連綿とその土地を維持していた。

 かつての大国を忍ばせる町割りは元町としては広大だ。元は古代の石切り場であった町は山腹から降りる階段のように続き、段ごとに町屋がある程度区分けされている。大門付近の門前丁には商家が立ち並び、その上の中丁や角丁には長屋や家作といった住居、更にその上には石切丁や木工丁といった石工や坑夫の頭分といった職人が住む丁が、そしてかつて城があったもっとも奥まった場所に代官所が、町屋を睥睨するように鎮座している。その奥には切り出した石材や穀物を溜めておく倉場もあった。

 仕事のある場所には人が集まる。街道から外れていても田日良町には定住者が多く、しかも規模が大きいために国府から派遣される代官だけでは手が回らず、それぞれの丁名主が集まって会所を設けて自治のための横の繋がりを作っていた。これならば、代官は名主会所を監督するだけで事が済む。無論、自治は事実上のもので国主がそうせよと命じたものではない。代官所には名主会所からそれなりのものが流れて目こぼしをもらっていた。

 そうした賂を流せるほど、田日良町は金があるのだ。

 金があれば桃橘榊(ときさか)の修繕にも回せる。

 桃橘榊は人が住む土地を穢物から守る結界の役割を持つ、桃と橘と榊の混成林だ。どうしてこの三木がこうした特性を持つのかは未だに謎だが、穢士が穢物の穢に侵されて死ぬことが無いのと同じく、理屈がわからなくとも有用なのだから使うに越したことはない。

 だがもともと歪な植林で形成される桃橘榊は、人間の手が入らなければすぐに規模が縮小していく。元町には出すものが出せずに桃橘榊の修繕が後回しになり、穢物が侵入してくる例すらある。元は他国の土地、政の如何によっては再び他国になるかもしれない土地に手を回せるほど裕福な国は永の乱世にそうはない。どうしたって国府が優先される。

 桃橘榊が十全であることは安全最低条件であり、多くの人が住んでいる証左でもある。人が多ければそれだけ仕事もあるし安心感が違う。人が集まるところに自然と人は集まる。

 こうして田日良町は活況を呈しているのだ。

 桃橘榊を抜けた二人の前に、苔むした巨大な石門が聳え立った。

 もともとここにあった巨大な岩石から削り出したという大門は武骨で、木造の柱と屋根に包まれるように装飾されている。石門の足には大人が通れるほどの穴が刳り貫かれ、『田日良』と大書された巨大な提灯が吊るされており、彫刻と金銀象嵌が六尺近い高張提灯の明かりで生き物のように揺らめき煌いて訪れる者を歓迎していた。

 質実な石門と豪奢な屋形とのちぐはぐな印象が見る者の記憶に強く刻まれる存在感のある門だ。桃橘榊を抜けた訪問者は、まずこの提灯の明かりに出迎えられる。寧人とキリの二人も、歓迎を浴するかのように門前で一度止まってその光を見上げた。ほとんど明かりのない桃橘榊の中を歩いてきた二人には目が眩むような光だった。

 だが、大門の先にはもっと眩い、まさに別世界があった。外の街道には人の姿はほとんど無い。数日、人間とすれ違わないことも珍しくない。桃橘榊の外の世界は本来、獣と穢物の世界なのだ。

 そんな緑と岩だらけの荒涼とした世界を忘れてしまうほどの、賑やかな光景がそこには繰り広げられていた。

「話には聞いていたが、よもやこれほどとは……」

 唖然と呟いた寧人を置いて、キリが歩き出す。丁度、昼夜を問わない石切の真っ最中で、日が落ちてもなお町の隅々まで人の熱気が充満していた。

「ヨットコサァッ!」

「コロが足りねえぞ!」

「カマせもってこい!」

 などと、職工の威勢の良い声が広小路に響いている。

「お二人さんどいたどいた!」

 呆気にとられる二人を押し退けるようにして、四輪の大八車が押し通る。積まれているのは細長く切り出した石材だ。長さはおよそ六尺(百九十八センチメートル)、厚さは一尺(三十三センチメートル)ほどのが十ばかり、白みがかったザラザラした表面をしている。それは荷造りされ桃橘榊にある貯石場で出荷を待たされる石材の山だった。

 大八の前後に男衆が三人ずつ。いずれも捻じり鉢巻き紺の腹掛け褌姿で、手甲と足袋を着けているとはいえこの寒夜に威勢の良い出で立ちだ。重い故、威勢の割にはゆっくりと二人の前を通過しつつ、大門提灯の光の外に消えていった。

 農閑期、田日良町では夜を日に継いで石を切り出す。山の中で切り出された石材は丸太を敷いた広小路を滑り降り、この大門広場で検品・出荷される。新年を迎えるまでの間、この熱気が昼夜問わず続くのだ。

 人いきれ、ざわめき、石がぶつかる音、怒鳴り声、金槌が鑿を打つ音。煌々と照らされた提灯の光と音が溢れんばかりに湧きだす広間に圧倒されつつ、寧人とキリは脇を回って通る。

 ようやくの思いで石畳の広小路に辿り着くが、今度は石材を山から降ろす石遣衆を避けて登らねばならない。

 石切のために通されたこの広小路はその名もずばり『石切広小路』と呼ばれ、普段は町民の生活の大動脈として利用されていた。

「まずは今夜の寝床を探さなくてはな」

 狭い歩道で邪魔にならぬよう菅笠を脱いだ寧人は、背後にそう告げる。が、キリからの返事はない。

 石遣衆は丸太のコロで次々と降りてくる石材が勢いをつけすぎないように受け止める男たちだ。減速の拍子をとる為の石遣歌は、低く静かに唱和しているにもかかわらず腹を押し上げるような迫力があった。

 振り返ると、キリはその石遣の様子に見入っていた。それで真っ直ぐに歩けるのだから大したものだが、今はのんびりと観光している場合ではない。早いところ寝る場所を定めなければ、この喧しい通りで野宿することになる。寧人は少し声を大きくした。

「貴様、この町に伝手はあるか?」

「……伝手?」

 じっくりと寧人の顔を眺めた後、聞き慣れない言葉を聞いたようにキリが首を傾げる。これが童か可憐な女性であれば絵にもなるが、むさ苦しい男では苛立ちしか湧かない。

「泊まりを得るには名主の許しが必要だ。名主に掛け合えば相応の金をとられる。伝手があれば只で泊めてもくれよう」

「宿は、ないのか」

 何処か陶然とした様子で、キリが聞き返す。どうやらキリは人いきれに酔っているようだった。よっぽど、人混みに慣れていないのだろう。

「確かにこれだけ大きな元町であればあるかもしれぬがな、金がかからぬに越したことはない」

 そもそも、もっと規模の小さな元町であれば宿など置かない。置いても誰も泊まらないからだ。穢物が跋扈する外の世界を、悠長に旅する者はいない。皆、目的地を定めた中で計画的に外に出る。

 無計画に外をほっつき歩いているのは、町に住めなくなった碌でなしなのだ。そんな者が宿に泊まる金を持っていることは稀だった。金どころか厄介ごとの方がたくさん持ち合わせているだろう。

「まあ、無いのだな、期待はしていなかったが。となると、名主の家に紹介して貰うか。穢物狩りを雇う話も聞かねばならんしな」

「そうだな」

 キリの返事は上の空もいいところだ。頼りに出来そうにない。

「わたしが独りでなんとかするしかないか……よくまあ、そんな様子でこれまで一人旅をしてこれたものだ」

「そうだな」

「むしろ腹が立つから返事をするな」

 キリは素直に従ったもので、口を閉じた。

「さて、誰かに近くの名主の屋敷をば聞かねば……」

 と、広小路から横道を覗いてみる。

 数に限りなく穢物斬りを雇っているというだけあって、横道には暇を持て余した浪人風の男たちが三々五々、広小路の活気を煩わしそうに眺めている。そうした視線と目を合わせぬように広小路伝いに歩みを進めていくと、一丁(約百メートル)ばかり進んだ横町に二人の老爺の姿を見つけた。

 二人は並んで座っており、通りから見て手前の老爺は小柄で痩せてはいるものの、着ているものにも目元にも福々とした余裕が見られ、人の好さがにじみ出ている。

 奥の老爺は禿げ上がった額に何本も横皺が走る気難しそうな面長の顔立ちで、二人は間に盤を挟んで碁を打っていた。広小路から漏れ入る光に碁盤を眺めれば、趨勢はほとんど黒石の勝ちに傾いている。

「御宿老、ちと物を尋ねたい」

「後にしてくんな」

 けんもほろろに返したのは、気難しそうな奥の老爺だ。こちらを見もしない老爺に寧人はむっとしたが、気を取り直して手前の老爺に顔を向けた。

「名主殿の屋敷を探しておる。穢物狩りを集めていると聞き及んだ次第でな、場所を教えてはくれぬか」

「おやまあ、それは御足労なこって」

 思った通り、手前の老爺は慈心に満ちた声で寧人の旅路を労ってくれた。

「丁名主殿のお屋敷でしたらな、あと一丁ばかり登った右手の小路の奥になりますよ。小間物屋と飯屋が向かい合う小路です。そこを進めば立派な冠木門と丸に石の字の門提灯が見えてきますからな、すぐに見当がつきましょう」

「そうか、丁寧に痛み入る。邪魔したな」

「全くだ」

 気難しそうな老爺のぼやきに後ろ頭を叩かれつつ、次々と石材が降りてくる石遣の様子に没頭するキリを促して歩きだす。

 麓から山の四合目ほどまで縦に長く伸びる町の中程、石呉丁(いしくれちょう)と呼ばれる界隈の奥まったところに、石呉丁の丁名主元兵衛の屋敷はあった。

 人の好さそうな老爺の言う通り、大戸付きの冠木門はとても立派だ。幅三間、高さは一間半もあろうか。分厚い大戸だけでなく、正面右手には臆病窓付きの通用口まで設えられている。平民に許された最大級の門構えは手入れも行き届いており、丁名主の威儀を遺憾なく発揮していた。

 無論、立派なのは門だけではない。丸に石の字の家紋が浮く尺六の門提灯が昼間のように門前を照らし、門から左右に伸びる板壁は細道の向こうの闇まで伸びて敷地の広さを覗わせる。十六夜に浮かぶ屋敷の陰も、広く豪壮な構えに見えた。

「頼もうっ、丁名主殿はおられるか!」

 冠木門の脇には通用口が設けられており、更に通用口の戸には臆病窓が設えられている。その臆病窓が開き、皺くちゃの目元が訪問客の風体を確認した。

「どちらさまかね」

 しわがれた声は老僕のものか。

「こちらで穢物斬りを雇い集めてると聞き及び、我が腕を買って頂きたく参上つかまつった次第。この旨、丁名主殿にお伝え願いたし」

 寧人が用向きを申し立てるも、中から帰ってきたのはしばしの沈黙だった。無視された訳ではないのは見下ろす視線で知れたが、なんの反応もないと何か間違えたのかと不安になる。

「……承知しました、しばしお待ちを」

 ようやくそう返ってきて、寧人は詰めていた息を大きく吐き出した。

 それから一刻(約一時間)ばかりも待たされたろうか……もう何度目か、催促で通用口を叩こうと寧人が動いた時、大戸の向こうで人の気配がした。同時に、門の大戸が軋み声を上げて開く。

 夜間、大戸は防犯の為に閉じられる。それがわざわざ開かれるとしたら、門から出迎えねばならない人物の出入りがある時だ。少なくとも、いち穢物斬りを歓迎して開くことなどありえない。

 小者に左右の大戸を開けさせて、最初に顔を出したのは如何にも使用人といった風情の老僕だ。おそらく、先程応対したのもこの者だろうと寧人が当たりを付けていると、老僕は立ち尽くす二人の方へこせこせとした動きで寄ってきて、

「そこを退いて下さいな、門の前に突っ立っていられると邪魔ですよ」

 と邪険に脇へ追いやった。寧人が口を挟む隙を与えない手際の良さだ。寧人が口を開けたのは、道の暗がりに連れ込まれてからだった。

「一刻も待たせてこの仕打ちは、ちと無礼ではないか」

「無宿人に無礼もへったくれもないでしょうに。間が悪いんですよ、間が」

「間? 一体誰が来ていたと――」

「しっ! 黙って」

 老僕の萎れた掌に顔面を押さえつけられ、寧人が口を噤む。視界も塞がれた寧人の耳に、門の向こうから近付く歓談の声が聞こえた。

「――いやまことに、これで石呉丁、あいや田日良町の住人すべてが枕を高くして眠れるというものです」

 気分の良さそうな声の主がまず門から姿を見せた。恰幅の良い身体に若者が着るような小紋を身に着け、錦の帯に亀の縫い取りも鮮やかな羽織を羽織っている。このいかにも分限者張った薄毛の中年が、丁名主なのだろう。

「あまり買い被られるのもこそばゆいですな。それがしもあくまで穢物斬りの一人、受けた役目を果たすだけにござるよ」

 ゆったりと、だが張りのある声で応じたのは丁名主の後から門を潜った壮年の男だ。

 歳の頃は四十を少し過ぎたくらいか。門提灯の明かりに眩しく輝く金髪は豊かで若々しいが、提灯の光に色付く白皙の目元には歳相応の陰が目立つ。とは言え肌艶は良く、男盛りであることに間違いはない。そして、白い肌に金の髪は彼が寧人と同じ武家の出身であることをあらわしていた。

 整っているのは容貌のみならず、三尺はあろうかという大太刀を小粋に掻い込む佇まいは小気味好く、こざっぱりとした鈍色の着流しに白革の煙草入れと白い鼠の根付、仕立てとしては珍しい革の羽織という出立ちも彼を渋く引き立てた。

「いやぁそんなことはありません。こうしてすぐに町の見廻りにお出かけなさるなど、他の穢物斬りはまず宿だ飯だと、物乞いのように求めることしか頭にありませんからな」

「彼らも生きるのに苦労されているのでしょう、それがしもこの近辺を見廻ればすぐに戻りますよ。ただ、気になる場所があったもので、確認せねば落ち着かないというだけですから」

「その生き様が流石という他ありません」

 興奮した様子の丁名主に対し、穢物斬りは困惑した態でその興奮を宥めている。

 見場も立ち居振る舞いも思慮と分別を感じさせる好人物に思えた。

 おもしろくないのは寧人だ。散々待たされた挙句、その理由がたかが穢物斬り一人の接待だなどと差別されたのだから当然と言えば当然だった。

「何だあれは」

「ご存じないのですか」

 この老僕は妙に早口でもそもそと喋る。その喋り方は蔑むような口調を強調する。

「そんな偉そうな人物には見えんがな。しかも穢物斬りだと言っていたが」

 老僕がやれやれと言った具合に首を振る。いちいち癪に障る爺だ。

「あなたも一度は耳にしたことがあると思いますがね、鬼斬り羅切さまですよ。私もお噂はかねがね耳にしておりましたがね、これほど――」

 老僕の口からその名が出た途端、寧人の気配が変わった。この場でそれに気付いたのはキリだけだった。それまで闇を見透かすように明後日の方向を見遣っていたキリが、寧人を見た。

 眉根を吊り上げ唇を固く横一文字に引き結んだ厳しい顔付きの寧人は、提灯の明かりに照らされた二人を睨み殺すように見つめている。その瞳に、尋常でない光が集まる。

 キリがそう感じた矢先、寧人が動いた。

「――きっといずれかの国の若様がやむを得ぬ事情で諸国行脚の世直し旅に身を投じられ、おをっ!?」

 つらつらと羅切の人柄を語っていた老僕を押し退け、旅荷をかなぐり捨てて得物一本を手に残した寧人が、二人の男を照らす明るみに進み出た。その気配に二人が寧人を振り返る。

 寧人の目に初めて、羅切と呼ばれる壮年の顔全体が飛び込んできた。

 ややこけた頬、尖った顎、切り立った鼻、それぞれの部品は均一で整った顔立ちと呼べるだろう。人好きのする面差しだ。何処か皮肉気な笑みを浮かべた口元とその周りを彩る金色の口髭も、きちんと手入れが行き届いて、旅烏とは思えない清潔感だ。

 そして、切れ長の右眼には縦に一本の傷痕。

 伝聞に見る羅切の特徴はすべて揃っていた。

「ひぃっ?」

 寧人の形相に丁名主が怯み、羅切は丁名主を守るように前に出た。

 しかし元より寧人の狙いは羅切だ。彼女は槍鞘を羅切の目と鼻の先に突きつけた。

「わたしは久留比(くるび)元町が代官、藤花進人(ふじばなしんと)の娘、藤花寧(ねい)! 鬼斬り羅切、貴様は我が藤花家を欺き金子を横領した上、それに気付いた兄、藤花勇人(ゆうと)を返り討ちにした。その悪行、その性根、その罪業、許すまじ! 御国から賜りし仇討免状に於いて、藤花家統領代行藤花寧が成敗いたす! 各々方、見届けられよ!」

 寧人改め寧の切り口上が、暗夜に朗々と木霊する。だがその響きはどうにも空しかった。丁名主と老僕は突然の仇討宣言に泡を喰い、命を狙われた当の本人は困ったように微笑み、キリはのそのそと寧の後についてきた。誰も、寧の言葉を真に受けたようには見えない。

「剣を抜けっ、尋常の勝負だ!」

 怒鳴り、突きつけた槍鞘を脅すように小さく振る。だが、当の羅切は寧の凄みもどこ吹く風、この闖入者にどう対処したものか困った風がありありで、その余裕ある態度がまた寧の神経を逆撫でする。

「娘さん、落ち着いて下され、それがしとそなたが勝負する謂れなどござらぬ」

「先程の口上を聞いていなかったのかっ」

「聞いておった」

「なれば――!」

「なればこそです」

 寧は、羅切から意識を逸らしたつもりはなかった。言い返す言葉に思考を向けたその一瞬裡に、羅切は動いていた。

 動いたと言っても何のことはない、突きつけられていた朱槍の槍鞘を右手で摘まんだだけだ。それだけの事だが、寧は戦慄した。羅切は自分の感覚を上回る速さで動けるのだと思い知らされたからだ。

 刮目し絶句する寧に、羅切は長閑な声で噛んで含めるように言い聞かせた。

「そなたの境遇には同情いたす。女性(にょしょう)の身で仇討旅とは畏れ入った。故にこれを告げるは忍びないが……」

 羅切はそこで一度言葉を切った。寧はすでに羅切の口上に耳を傾けている。それを確認してから、続けた。

「それがしはそなたの仇にはござらぬのだ、故に勝負する謂れもなし」

「そんな……」

 寧の顔から熱病のような赤味が引き、青褪めた絶望の色が刷かれていく。提灯の明かりに照らし出され、その様がありありと見て取れた。

「それがしは寡聞にして久留比元町が何処にあるかも藤花の名も聞いた覚えがない。知らぬ場所に訪れ、知らぬ者を害するなぞ、ただの旅烏に出来る真似ではござらぬ」

「そ、そうですぞ、この御方がそんな悪逆非道を働かれるものか、それどころか夢にも思うまい。あなたの勘違いなのですよ。そもそもあなたが捜す羅切は騙り者でしょう? 似せているのだから似ていて当たり前だ。それをあろうことか本物と取り違えるなど、無礼千万ですぞっ」

 寧の気迫が萎れたことで、息を吹き返した丁名主が鼻息も荒く羅切を擁護する。たった一人、意気地だけで飛び出した寧はその助勢で更に気後れするかに見えたが、

「そんな……そんな……い、言い逃れだ、そんな言い逃れが通用するか!」

 最後の最後で踏ん張った。ありったけの意地を奮い立たせるように髪を振り乱し、叫ぶ。

「わたしは決して忘れた事はないぞ! その顔、その傷、その野太刀! 貴様は紛れもなく我が仇なのだ!」

 まるで駄々をこねる子供のように金切り声を発し、寧が槍を引いた。槍鞘は羅切が摘まんでいた。あっさりと穂先が姿を現し、暗い天を指して立った。手入れの行き届いた直刃が、提灯の明かりに不気味な輝きを湛えている。

「偽物だ本物だとどうして証明できる! どうせ行き場のないこの身なれば、ここで果てるとも構うものか!」

 寧は振り上げた槍に力を籠める。その目には狂気が宿っていた。それまで呑気に構えていた羅切の目にも、似たような光が灯る。

「困りましたな、どうしてもわかってもらえませぬか……」

 口元には相変わらず長閑な笑みを張り付けたまま、妖しい光を灯した双眸が寧を見据える。頭に血が昇った寧はその事にすら気付いていないようだった。

「兄上の仇――っ?」

 振り下ろそうとした槍は、動かなかった。羅切も、動かなかった。いつの間にか寧の背後に動いたキリが、千段巻きを片手で握って止めていた。

「もうやめろ」

 闇の中から這い出すように鬱々と響いたのは、キリの静かな制止だ。

「人違いだと言っている」

「は、離せ!」

 寧が槍を動かそうと力任せに暴れるが、長槍はびくともしない。それどころか、キリが少し槍を持ち上げただけで寧の細い身体はあっさりと宙に浮いた。そのまま荷物のようにしてゆっくりと背後に置くと、キリは羅切と真っ直ぐ向き合って軽く頭を下げた。

「すまない」

「……むしろ礼を言うのはこちらです。無益な争いをせずに済みました」

「離せ、キリ、おまえも斬るぞ!」

 背後で暴れる寧は無視して、キリは丁名主に目を向けた。

「すまない」

 同じ調子で丁名主にも詫びを入れる。

 丁名主は緊迫した空気があっさりと破れたことやキリの怪力を見せつけられて呆気に取られた様子だったが、急に自分にお鉢が回ってきたと気付いて空咳などしつつ居住まいを正した。

「あ、謝って済む問題では――」

「まあまあ丁名主殿、彼女も旅の疲れで気が立っていたのでござろう。誰にも何もなかったのですし、ここは一つ、それがしに免じて……」

「は? はぁ、まあ、羅切様がそうおっしゃるなら……」

 羅切のとりなしに怪訝そうな顔をしつつも、丁名主は寧の詰責を止めた。いつの間にか丁名主の背後に回っていた老僕が「して、こやつらを雇うのですか?」と小声で訊いた。

「雇うわけが――」

「雇っていただくわけにはまいりませぬか」

 あろうことか、またしても羅切が人の良さそうな声でそう助け舟を出した。

 流石に、丁名主も厳しい面持ちで眉根を寄せた。

「……そこまで肩入れなさる謂れをお聞かせ願いたい」

 羅切は丁名主を落ち着かせるように一度二度とおもむろに頷くと、常夜灯の明かりを透かして初老の気難しそうな顔を真っ直ぐに見た。

「御不審に思われるのも当然です。今から訳を話しますが、大した理由ではありません。ただの人情にござる」

「人情、でございますか……?」

 老僕が不思議そうに呟く。

 羅切の口調は人を落ち着かせる何かがあった。丁名主と老僕は耳を傾けるように羅切を見遣り、キリの向こうでは寧がなにごとかぶつぶつとぼやきながら槍を下ろした。彼女を押さえていたキリも腕を下ろす。

 その場が話を聞く空気になったのを確かめて、羅切は続けた。

「ええ、聞けば不憫な話ではありませんか。年頃の娘が御家を背負って兄の仇討ち……己も穢物狩りに身をやつし、穢物狩りが集まるところに向かっては糊口を凌ぎつつ仇探し……ようよう見つけた相手も人違い……気落ちも相当なものでござろうな」

 憐憫に溢れた語り口に、丁名主も老僕も大きく嘆息した。

「この上で稼ぎもなく町を追われれば、路頭に迷うは明白。それはあまりにも不憫だ。それに比ぶれば、それがしの心証なぞ取るに足らぬ。ここにいる三人が彼女への慈悲を思えば、この憐れな娘御の先が繋がるのでござる。であればここは一つ、丁名主どの、襟度を見せて彼らに手を差し伸べてはもらえぬだろうか。それはすなわち、人の情けというものでござろう」

 滔々とした語り口に、丁名主も老僕も感じ入った様子で立ち尽くしていた。

 やがて、丁名主が俯いたまま首を振って呟いた。

「あなたさまはなんと……なんとまあ……このような不埒者にそこまで心を掛けるとは……」

 呟いてから再び絶句し、さっと顔を上げた時には思い切った清々しさを面に漂わせていた。

「わかりました、この石呉丁権左衛門、あなたさまの見上げた心意気に敬意を表し、すべて水に流しましょうぞ」

 肉の弛んだ胸を張る丁名主の後ろで、老僕が拍手を送ってそれを励ました。

「かたじけない」

 羅切が深々と腰を折る。

 その後ろから、ぬぼっとした声が割り込んだ。

「で、宿は紹介してもらえるのか」

 いつの間にか寧の槍を取り上げ彼女の荷物を拾い上げていたキリだ。

「ええ、ええ、紹介しましょうとも。羅切どのに感謝することですぞ」

 どうにも他人事な不埒者に渋面を作りつつも請け合った。

「頼んだ覚えはない……」

 キリの後ろから呪詛のような負け惜しみが漏れる。すっかり悄気返った寧の声だ。

「あなたはまだそんな口を……!」

「まあまあ、丁名主どの」

 丁名主が気色ばむのに、羅切がのんびりと嘴を容れる。

「頼まれた覚えもござらぬ故な、余計なこととは承知しつつも放っておけなんだ。それがしのお節介だ。許せよ」

 これ以上の減らず口を叩くつもりもないらしく、寧はキリの後ろに隠れるようにして口を噤んだ。

「まったく……次平、誰かにこやつらを金助親方の長屋まで案内させなさい」

「かしこまりました」

 次平と呼ばれた老僕が門の中に駆け込むのを見送ってから、キリは羅切に顔を向けた。

「助かった」

「これで同じ仕事に向かう仲間ですね。よしなに願います」

「ああ」

 一つ、ゆったりと頷いた羅切は、そのまま広小路の方へと歩き出して辻の闇へと姿を没した。それと入れ替わるように、次平が中年の下男を二人連れてきた。二人は照明にぶら提灯を提げている。

 次平と下男の一人は丁名主の脇に留まり、一人はさっさとどこかへ駆け出した。金助親方とやらに下宿人が訪れる旨を予め知らせに走ったのだろう。

「雇う上で詳しい話は明日にしますでな、昼前には来なされよ」。

 そう告げる丁名主に、謝罪も含めて軽く頭を下げたキリは、拗ねたように塞ぎ込んだ寧を促した。が、寧は頑として頭を下げようとはしなかった。

 下男は降って沸いた夜の務めが面倒なのか、迷惑そうな面持ちで待っている。手持無沙汰に提灯を揺らしている様は、もたつく二人を非難しているようだ。仕方なく、キリは寧の手を引いて無理矢理に歩き出した。

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